にこにことした笑顔で朝の挨拶をしてきた響に、間桐慎二はぎこちない笑みで「おはよ、水谷」と答える。
霊体化しているはずなのに、彼女の背後から凄まじい圧を感じる気がするが、気のせいだろうか。
……いや、きっと気のせいに違いない。
それに──と考えかけたところで首を振って、慎二はここ数日お馴染みになったように自身の部屋へ彼女らを招き入れる。
そうして今日も今日とて魔術講座を受けながら、傍らで実践して。
馴染みきったようにアサシンを残して響がリビングへと向かって昼食の用意をする。
細い糸を針一本分程度に伸ばした魔力をやっとの事で紙に通し、けれど直ぐに霧散したのを感じた慎二はため息を吐き出した。
「…………」
そうして、もう一度集中しようとして、部屋に残されたアサシン……がいるらしい場所をチラリと見て首を振る。
集中が一度切れてしまったからかもう一度という気にはなれず、思考も彼方へと飛んでいく。
耳にこびりつくように残る、声の記憶へと。
「……マトウシンジ。何を休んでいるのですか。我が主に教えを授かりながらも手を休めるとは……主が許しても、私は許しませんよ」
しかしそれは、監視してくるアサシンに遮られる。
嫌そうな顔をした慎二は、ここで文句を言おうものなら暗器が飛んでくるのを身をもって体験しているため大人しくわかっていると頷いて手元に視線を落とす。
そうしてまた集中し出したのを見て、アサシンは仮面の下で眉を寄せていた。
慎二の様子は特別変わっている、というわけでもない。
始めたての時に比べれば寧ろ愚痴は減ったし無意味に怒る事も少なくなってきている。
響がご飯を作るために席を外している間も至極真面目にしているし、多少脅しても響に泣きつく(アサシン視点においては)事もなくなった。
だが、どうにも胸がざわつく。
苛立ちにも似たソレに、どうしても落ち着かない。
(響様……)
不安というにも違う感覚に、つい念話を送ってみるが。
……集中しているのか、その反応はない。
それ自体はよくある事ではある。
けれど今日だけは、今この時だけは、主の無言が気になる。
もう一度呼び掛けてみるが、やはり何の言葉も返ってこない。
納得いかない気持ちを抱きながら暫く待つべきかと黙して、再び慎二の監視を行いだす。
──だから、というべきか。
その言葉はとても唐突で。
何かが起こっているのだと察するには、遅すぎた。
『令呪をもって命じます。ハサン、間桐君を傷つけないでいてね』
聞こえてきた声は淡々と、しかし常の穏やかさを宿していた。
弾かれるように顔を上げて殺気立ったアサシンは、自身の身を縛り付けるような強制力に呻きながらも
「マトウシンジ、貴様は何を知っている」
「は……? な、なんだよ、急に…」
「響様が、貴様を傷つけるなと命じられた。あの人は何の理由もなく、そのような事を命じる事はない。……そして、貴様は朝から集中が乱れている。つまり──何らかの要因くらいは、浮かんでいるのではないですか?」
振り返った慎二の顔色は蒼白に染め上がっていく。
それは、答えのようなものだとアサシンは確信して更に怒気を膨らませた。
「ぼ、僕は……」
真正面からそれを受けて、けれど迷う様子にアサシンの苛立ちは増していく。
この男はやはり嫌いだ。主の手を煩わせているばかりか、主への害を見て見ぬふりをしたのだから。
出来ることなら、今からでも殺してしまいたい。
そう思いつつ、彼女は部屋のドアへと向かい──絞り出すような声に足を止めた。
「お爺様だ……お爺様、が……でも、僕は、知らない……知らない、けど」
地下、という呟いた時には既にその姿は扉の向こうへと消えていた。
呆然とそれを見送った慎二は俯いて、唇を噛む。
その耳元で嗄れた笑い声が、響く。
これは昨日の、記憶。
祖父の嗤う言葉。
『ここまで孫の面倒を見てもろうたのだ、礼をするとしようかの』
決して何をするとも、どんなものかも言わなかったけれど。
でも、慎二は祖父が恐ろしい人だとわかっていたから。思っているから。知っているから。
だから、きっとそうだと思う。
間桐家の深淵──その真実が脈打つ場所へ。
「僕は……僕、は……ぁ、う……うぅ……僕は……」
喘ぐような掠れた声で、意味のない言葉を繰り返す。
カタカタと震えだしたその姿を見るものも居ない。
間桐慎二はただただ俯いて、掌を握りしめて力なく机を叩いた。
──一方のアサシンは響の気配をたどり、屋敷の奥。
間桐家の修練場を前に足を止めた。
「……あなた方兄妹は、我が主を謀ったのですか、マトウサクラ」
そこに立つ少女の向こうにある扉を確認しつつ、アサシンは怒りを押し殺した低い声で唸る。
所在なく暗い顔で俯いていた桜は、ただ黙してその怒りを受け止めた。
アサシンから微かな毒さえ滲み出る気配に、その視線を遮るようにライダーが実体化して桜とアサシンの間に立ちはだかる。
「……そうではないと、貴女はわかっているでしょう。アサシン」
「そうして庇う、という事は──やはりマスターはマトウシンジではない、というわけですか」
「…………」
「沈黙は肯定と見ます。……いえ、私にはそれはどうだっていい。我が主が、その扉の先にいるな?」
ピリリとした空気が張り詰めていく。
仮面と眼帯に隠れて見えないはずの視線に火花さえ散っているような錯覚さえ覚えるほどだ。
いつ弾けても可笑しくない空気。
しかしそれ以上膨らむことなく霧散した。
どちらともなく一歩引き下がったからだ。
「……どうぞ。サクラを傷つけないのならば、通ればいい」
「……そうですか」
噛み合う視線だけは逸らさずに二人はその言葉を交わして距離を置く。
ライダーは桜を守るように肩を支えて扉から離れ、アサシンは迷いなく扉へと手をかけて。
そうして彼女は、見た。
「響様……!?」
深い空間に蠢く蟲。
大や小と様々な形を、大きさを持つそれらを。
夥しい蟲の山が底にある光景を。
繋がる主との糸から、その山の下に
一気に顔色を変えたアサシンが、大きく一歩を踏み出そうとした瞬間──。
「く、お……! ォォオオ──?!!」
横から、上から、あるいは下から、苦悶する叫びが反響した。
微かな気配に反応し、アサシンが暗器を声に向かって飛ばす。
命中したのか、階段の中程にポトリと塊が落ちて何度か痙攣したようにひくひく、びくびくと黒い色が動く。
その正体を気にすることなくアサシンは身に付けていた礼装を外して、腰を落として一息に主の下へと跳躍する。
殺意を毒に変え。
不安を毒に変え。
苛立ちを毒に変えて。
礼装の下に隠していた
そこに理性はある。
けれど秩序はない。
そこに殺意はある。
けれど殺意はない。
その想いだけを手に、何かを潰しながら飛び込む。
気味の悪い蟲に触れる事など厭わず、唇を引き結びながらも真っ直ぐに。
足の下で蠢く蟲を踏み潰し、山の端から蟲を引き剥がし、毒の効きづらい蟲に惜しみ無い毒を全身から発し、主の名を心中で繰り返しながら手を伸ばす。
主はこんな場所で死んでいい人ではない。
こんな虫けらなぞが汚していい人ではない。
こんな事で傷ついていいわけがない。
こんな、こんな、こんなものに──!
「ふふ」
奪われてなるものかと伸ばした手に、声が響く。
小さな鈴を転がしたような、天井から落ちてきた水滴のような、戯れに耳を撫でるような、微かな笑い声が。
「ふふふ」
指先に、温かいものが当たる。
刹那ハサンの脳裏に短いビジョンが浮かんだ。