朝だ、と目が覚める。
ぱちりと瞼を開けば、自室の見慣れた天井が視界に入った。
「ん、ぅふぁ……?」
寝惚けたような声がすぐ近くで聞こえて、そちらへと顔を向ければとろりと微睡みに揺れる紫の瞳と視線が交わる。
すりすりと甘えるように肩口に頭をこすりつけ、幸せだというように笑む彼女は共寝して主人に甘える小動物のようだ。
随分と馴染んだ光景ではあったが、微笑ましくてついつい唇を緩めてしまう。
「んん……ん……ぁ……、おはよぅ、ございます、ひびきさま」
ハサンに抱きしめられている片腕はそのままに、空いている方の手を伸ばしてその頭を撫で梳けば、彼女の顔には更に蕩けたような笑みが浮かぶ。
可愛いなと思いながらも「おはよう、ハサン」と返した響は上半身を起こし、まだ鳴っていない目覚まし時計のスイッチを切った。
「ふあ……」
溢れてしまう欠伸を噛み殺して立ち上がれば、すっかり覚醒しきったハサンも起きて寝乱れた布団を直し始めた。
そんな事はしなくてもいいのにとは思うものの好きなようにさせ、響は顔を洗いに洗面所に向かう。
冬の凍えるような冷たい水からぬるま湯へと変わったのを見計らい、顔を洗えば少し体を動かしたのも相まって眠気が吹き飛ぶ。
タオルで顔を拭いつつも鏡を見ると、血色がいいとは言い難い己の顔が映っていた。血が足りてないのかもしれない。
貧血に向いた献立を浮かべながら、響はパパッと手早く身支度を整えて台所に立った。
朝食とお弁当のおかずを作り、そわそわと落ち着きなく手伝える事はないかと様子を窺ってくるハサンへと微笑み、盛り付けを頼む。
途端にぱぁっと顔を輝かせたハサンは一度手袋を引っ張ってからお皿と菜箸をとって響の背後でせかせかと動く。
その気配を感じながら、昨日作りおいていた品も詰め込んで、お弁当の箱に蓋を。
更にそれを布で包んで手提げの小さな鞄に入れて学校の鞄の隣に並べて置く。
「ありがとう、ハサン。それじゃあ食べようか」
盛り付け終わった皿をテーブルに並べたハサンに響がそう言えば、彼女は「はい」とはにかんで椅子を引いた。
お礼を言いつつその席へと座った響に、彼女も向かい側の席へと座る。
そうして主従揃ってご飯を食べながらも、ハサンは学校の鞄を見て少しだけ顔を曇らせた。
「どうかしましたか? ハサン」
その様子に不思議そうに首を傾げたマスターに、その表情は更に暗くなる。
「……本当に、学校へ行くのですか? ランサーの話では二人……いえ、結界を張っているサーヴァントも含めて三人の敵対するマスターがいることになりますが」
行ってほしくないと言いたげな様子に、しかし響は首を振ってやんわりと拒否を示す。
半ば予想していた反応に、しょんぼりと肩を落としたハサンはもそりと卵焼きを口に運んだ。
美味しい。悄気かえった顔に少しだけ明るさが戻る。
「大丈夫ですよ。今日はハサンが付いてきてくれるんですから、尚更ね。帰りの時間にはランサーも合流させてくれる、という話にもなりましたし。キャスターもまだ敵対するつもりはないようですから」
「……そう、ですが……」
「心配してくれてありがとう。──頼りにしてるよ、ハサン」
「……ぅむむむ……響様は狡いです」
拗ねたように唇を尖らせる暗殺者らしからぬ表情をした暗殺者は、微笑みを返されて思わず視線を逸らす。何となく自分が我が儘を言ってしまったように感じて、恥じてしまったのだ。
その様子に微かな笑い声まで溢す主をちらりと窺い見て、ハサンはつられたように少しだけ笑ってしまった。
ハサンは主が──響は、自分の事を理解してくれていると、そう思う。
それに求めるものを聖杯を使わずに与えてくれる主は、得難い存在だ。
同じ空間で同じ物を食べて温かな体温をわけあうように触れられて。
そして、主の力もあるとはいえ、買い物まで共に行う事が出来た。他人とぶつかっても何事もなくて、ああこの人と共にあれば、普通でいられるのだと強く感じた。
だから、という訳では勿論ない。けれどハサンは、この人の為に在りたいと何度となく考える。
きっとそれさえ、彼女には言葉にせずとも伝わってしまっているかもしれないけれど。
「……さて、それではそろそろ出ましょうか。あまり遅く出ると遅刻してしまいますし」
ふと時計を確認し、響は食べ終わって空になった食器を重ねて流し台へと運ぶ。
それに追従したハサンはそのまま響が玄関を出る前に霊体化をした。
「はぁ……今日は少し冷えますね……」
朝の冷えきった空気に吐き出した言葉が白く流れていく。
背後で心配したように大丈夫かと問いかけてくるハサンに、白く霜を纏った道草を踏み締めながら顔を振り向かせて響は微笑む。
「そうやって心配してくれるから、平気だよ」
どこか悪戯っぽいその笑みに、ハサンはやっぱり敵わないと肩を落とす。
でもこんな人だからこそ、この人のために尽くしたいと思ってしまう。それは決して、悪いことではないだろう。
『あ……響様、段差にはお気をつけ下さい』
「うん? ああ、ありがとう」
すっと再び前を見た響は、つい二日ほど前に片足を切断されたとは思えない程しっかりとした足取りで歩いていく。
柔らかい横顔を斜め後ろから眺めながら、強く拳を握りしめ頑張ろうとハサンは誰知らず頷いた。
そうしていつもの長い道行きを歩ききった響を迎えたのは、如何にも機嫌がいいですといった様子の間桐慎二だった。
偶然昇降口の前で顔を合わせた二人は和やかに挨拶を交わして他の生徒と同じように靴を脱ぐ。
「水谷、お前昨日休みだったらしいけど何かあったわけ?」
「うん、ちょっとね。その感じだと間桐君こそ、昨日は休んだんだね。何か良いことでもあった?」
「フフ……まぁね」
ニヤニヤと笑って頷いた間桐は、しかし何かに気づいたようにフッと表情を無くした。
「──水谷、お前……」
驚いたように目を見開き、靴箱から取り出しかけていた上靴を手から落としてしまった事も気に留めず、彼はじっとただ一点を見つめた。
その視線の先には、同じように上靴を取り出しかけていた響の左手首がある。
そして、その手首から手の甲に向かって伸びる赤い痣が。
「? なに、どうかし……」
どうかしたのか、と問いかけた響だったがその言葉は間桐の行動によって遮られた。
ぐっと引っ張られた左手からぽろりと上靴が落ちて、床に跳ねる。
「ええと……間桐君?」
困ったように落ちた上靴と左手を掴む間桐とを交互に見て、響が首を傾げる。
背後で殺してやりましょうかと低く尋ねてくるアサシンにも困ってしまう。
『……ああ、なるほど。ハサン、授業が始まったら家に戻ってもらってもいいかな?』
『は、はい。それは、問題ありませんが……』
はて、何故こうなったのだろうかと考えて彼女はすぐに問題に気づいた。
持ってきていたと思った礼装を忘れている。
『令呪を隠す礼装を忘れてしまっていたようで……たぶん洗面所に置きっぱなしになってると思うので、頼みます』
『はい。響様……どうしても、殺しちゃダメですか?』
『ふふ、可愛く言ってもだめ』
間髪いれずに引き受けたハサンのねだり声に可愛いなぁと、緊迫した空気に似つかわしくないのんびりとした思考をした響は掴まれる左手はそのままに腰を屈めて右手で上靴を引き寄せた。
踵を踏んでしまうのを右手でそのまま直してからやっと間桐の方を見れば……何やら彼は呆れたような、胡乱げな眼差しでこちらを見ているではないか。
何でそんな顔をされるんだろうか、と自分のとった行動について省みず更に首を傾げた響に、彼は隠さずため息を吐き出した。
それもかなり深いため息を。
「お前、魔術師だったのか」
周囲を憚った小さな呟きを溢す間桐に、しかし彼女はあっさりと首を振って否定した。
「私は多少関わりがあるだけだよ。あぁ……そういえば、間桐君のとこはそうなんだっけ。随分前に聞いた事があったよ」
記憶を引っ張り出して納得したというように何度か頷くその様子に、先程までの機嫌のよさが嘘のように不機嫌さを隠さず眉間に皺を寄せた間桐は、不意に何かに思い至ったように「そうだ」とあくどい笑みを見せた。
「水谷。お前を友人と見込んで、話がある。でも、そうだな……昼休み、弓道場に来いよ。そこで話をしようじゃないか」
「あ、うん、わかった。……いやでも、弓道場って、いいの?」
「フン、いいんだよ別に。僕は副部長だからね」
それは関係ないような、と自信ありげな間桐に突っ込む事も出来ず「そうなんだ」と彼女は流されるまま曖昧に頷いた。その頭には罠かもしれない等という思考はない。
むしろ、それにしても相変わらず彼の機嫌の上下は中々激しい。
あの金色の王様程コロコロと変わる訳ではないが、それでも響は彼のそういうところが嫌いではなかった。王様が近くに居る影響も勿論あるだろうが。
とそのように暢気な思考をしている。
「じゃあ昼はよろしく頼むよ、水谷」
にんまりと笑って、掴んだままの手首を離した慎二に彼女はうんと素直に頷いて、やはり殺そうと提案してくる暗殺者に苦笑を浮かべた。
上靴を履く彼に「先に行くね」と告げてその横を過ぎ、念話を通じて彼の態度にぷりぷりと憤るハサンを彼女は宥める。
自分のために怒ってくれるのは、やはり嬉しいとは思うものの、自分を友人と呼んでくれる存在を害されるのは少し困ってしまう。
ハサンもそれは承知しているのか、一通りの問題点をあげ連ねたら後はすっかりと黙り込んで教室へ入って学友と挨拶を交わす主の姿を少し離れて見つめた。
ノートを借りて「ありがとう」と微笑んだ響は自分の席へとついて、ハサンの立つ場所を見るなり浅く頷いた。
念話をせずとも先程願われた事を行うようにという指示だろう事が伝わる。
教室を見渡し、僅かな間逡巡したハサンはすぐに戻る事と何か少しでも問題があれば令呪を用いて欲しいと残して契約者としての繋がりで辛うじて感じていた気配さえも消して学校を後にした。
響は気配の消えた場所を一瞥し、ノートを机へと広げてひとつ頷く。
とりあえず今日も授業があるものは先に写してしまわなければ、ノートを借りた相手にもとても悪い。
くるりと指先でペンを回して文字を写し出した彼女は、聖杯戦争等という争いの気配等欠片も感じないほどにゆるやかで、穏やかで。
柔らかな雰囲気を纏ったまま、日常という中へと溶け込んでいた。