ちょろいのは気のせいです気のせい。
固く唇を引き結んだハサンを連れて、私は石段に足を乗せていきます。
ここ、柳洞寺には来たことはありません。同級生で生徒会長を務める柳洞一成君がこのお寺の息子さんであることは知っていましたが、それだけです。
まだ山門には距離があるのを足を止めて見上げ、はぁと長い息を吐き出す。
視界に入る空は夕焼けに染まって、赤さを増してきていた。
「響様、足がつらいのでしたら、私がお抱えしますが……」
「え? あぁ、大丈夫だよ。まだまだ長いなぁと思っただけだから」
心配そうなハサンの視線を受け止めて、私は笑みを返します。
彼女は尖った雰囲気のまま再び気配を遮断して私の歩みについてくる。
それを繋がった糸から感じながら振り返ることはせず、止めていた歩みを再開して次の段から次の段へと足を乗せていく。
ただ、一瞬だけ何かが視界の隅を横切った気がして目だけを動かして辺りを確認してみましたが、何もないようです。目の錯覚だったのか、もしくは何か動物でもいたのでしょう。日暮れ時ですし。
ようやく山門まで到着して足を止めると、その奥で影が集まったかと思えば、次の瞬間にはフードを外した状態のキャスターが立っていました。
記録と違わぬ少し尖った耳にまっすぐで綺麗な薄い紫色の髪と瞳。
思わず見惚れてしまった私でしたが、彼女の目が細まったので気を取り直します。
「ようこそ、アサシンのマスター」
「はい、先日ぶりですねキャスター。あ、お菓子をどうぞ。袋のままで申し訳ないですが、それなりの個数入りを買っていますので。お茶請けとしてどうぞマスターさんやお寺の方々と食べてください」
「えっ? え、えぇ……どうも」
差し出した紙袋に一瞬呆気にとられたような顔をしたキャスターでしたが、気を取り直したのかこほん、とひとつ咳払いしてみせた。
そしてついと私の背後を見て山門を指差す。
「アサシン、あなたは
「……マスター」
「大丈夫ですよ、アサシン。キャスターの言うとおりに良い子で見ていてください」
霊体化をといたハサンの、キャスターとはまた違った紫色の髪をよしよしと掻き撫でてあげるとうぅ、と小さく唸りながら「危ないときは令呪を」と念押ししてくる。
うんと頷いて手を離すと渋々といった体でこちらを見たまま後退し、山門を背にして暗器を構えた。
流石にこの状況で武器を下ろせとは私でも言えない。それを理解しているのかキャスターも軽く肩を竦めただけで否やとは唱えなかった。
自身の陣地であるし、マスターを思うのなら致し方なしという様子だ。
「姿が見えなくなるとアサシンが飛んできそうね」
「そうなるでしょうね。あの子は私をよく慕ってくれるものですから」
「……へぇ、そうなの」
どこか羨ましいとも、共感したともとれる声音で頷いたキャスターが、一瞬だけ優しく目を細めて私を見た。
それと同時に、僅かに漂っていた敵意が薄れる。勿論、決して無くなったわけではないのだけど。
「……あなたは本当に、変な子ね」
くすり、と微笑した表情に嘲りの色は見られない。
だから私は苦笑して「そうですか?」と返す。
細めた目のまま頷いたキャスターは緩く頭を振って腕を組んだ。攻撃はしないという意思表示でもあるようです。
「あなた、本当に私が手を下さないと思っているのかしら? だとしたらとても甘いわよ?」
微笑む私に複雑そうに表情を歪めたキャスターは首を捻る。
「何かあればその時はその時ですよ。アサシンもいざというときは助けてくれますし。それにキャスター。興味を持った対象をすぐに殺すのはつまらないでしょう?」
「…………まぁ、それもそうだけれど」
やれやれと言わんばかりに肩を竦め、彼女は垂れてきた横髪をぱさりと後ろに流す。
……それにしてもあれですね。キャスターの佇まいは気品に溢れています。顔立ちも本当に綺麗ですし、アンニュイな表情と服装から感じられるミステリアスさに気圧されてしまいそうです。
まぁ、その在り方はお寺の雰囲気とはちぐはぐではありますが。
「それで? あなた、そんな体でよくアサシンと契約を保てているわね」
「あぁ……やはりあなたの陣地内なだけあって、隠せませんか。……とはいえ、私は一般的な魔術師でも呪術師でもありませんから。だからこうなのだ、としか言えませんね」
じろりと私を睨みつけ、深い溜め息を吐き出して、キャスターは自分の頬に手を当てて何やら思考に耽る様子だ。
まだ私の体内ではキャスターの宝具による回線の接続の攻防は続いています。
だからこその異常、というのでしょうか。先程も言ったように私自身一般的な魔術師でも呪術師でもないと自覚していますが、これが逸脱したものだと分かっています。
だけれど私も防衛本能というべきか、咄嗟とはいえ宝具の対応を始めてしまったので今手を抜いてしまうわけにもいかない。
ハサンに悪いな、という気持ちもありますし、契約を失ったら王様の顰蹙を買ってしまいそうですから。
このままそうならなければいいのですが。
「多少隠蔽の術が使えるだけの消極的な娘と判断したのは、やはり間違いだったわね……」
またも溜め息を吐き出して小さな声で何事かを呟くキャスターですが、残念ながら聞き取れませんでした。
なんだろうと首を傾げますが、彼女は「何でもないわ」と首を振ってしまいました。
「そういえばあなたの名前、まだ聞いていなかったわね」
「そうですね。私の名前は水谷響といいます」
思い出したとばかりの言葉に一瞬迷ったものの正直に名乗ることにしました。
古くから名前は存在を定義し縛り付けるものとされているし、言の葉には言霊が宿るものだけど……別に隠し立てることでもなし。
ここには生徒会長も葛木先生もいるのでその二人に聞けばわかることだし、何より彼女なら調べるのも容易でしょう。
ということであっさりと言えば逆に困ったような目で見られました。
「キャスター、あなたは真名を名乗りますか?」
「……名乗って欲しいのかしら?」
困ったような複雑な眼差しは変わらないものの、ニヤリと妖しく笑んだキャスターに私はすぐにいいえと首を振る。
「あなたが名乗りたいとか私が呼んでもいいと思った時で構いません」
「あ、あなたねぇ……」
呆気にとられたように口を開いたキャスターは言葉を続けることなく口を閉じて処置なしとばかりに首を振った。
……な、なんでですか? 別に呆れるほどのことではなかったと思うのですが。
「……メディアよ。覚えておきなさい」
「へっ? あ、はい。メディアさん、ですね。……うん、あなたに合ったよい響きの名前だと思います」
「っ……さ、さっきからあなたって子は本当にもう! なんなの?! 変というにも限度があってよ!?」
頬を赤らめながら頭を抱えて髪を振り乱したキャスターに、ハサンから送られる視線が心なしかじっとりと湿度を持ったものになった気がします。
違います! 浮気じゃないんです! だからそのちょっと刺々しい目は止めましょう?!
なんて焦りで変な念話を送ってしまった私は振り返って両手を合わせ、ペコペコ頭を下げる。
……いや、何故そんなことをしたのかと聞かれたら反射的に、としか言えないのですが。
こほん。数度深呼吸して心を落ち着かせ、改めてキャスターと向かい合います。
彼女も落ち着いたのか少し乱れた髪を手櫛で直し、腕を組み直しました。
……興奮したからかまだ顔は赤めですがそれは突っ込まない方がいいのでしょうね。
「あぁもう、調子が狂う子ね……。いいでしょう。当面の間はあなたとは停戦とします。少なくとも聖杯戦争が始まるまでは、となりますが。……私も色々と事を急きすぎたと思っていましたし」
「いいんですか? それはとても嬉しい言葉です。ありがとうございます、キャスター」
「……お礼を言われるほどのことではないわ」
「いいえ、私の素直な気持ちですから。個人的には無駄に争うよりもゆっくりお茶でも飲める方が嬉しいですし」
にこにこしたままハサンを呼んでも構わないかと尋ねると、彼女は疲れたような顔をして頷いた。
そんなに調子を乱してしまったのだろうかと少しだけ申し訳なく思いつつ、ハサンを振り返って手招きする。
……いかにも不満です、という雰囲気ではありましたが近づいてきたハサンは私の背中にぺっとりひっついて片腕をお腹に回してきました。
すぐに連れて逃げられるように、という意図も感じられます。
「……あなたたちは仲がいいのね」
「そうですねぇ……アサシンはとても可愛くて強いし、いい子ですよ。私の自慢です」
「当然のことです、キャスター。……停戦と言いながらもマスターに手を下そうものなら覚悟をしてください……」
その顔は見えませんが剣呑な声音からハサンは猫のように威嚇をしているのだろう。本当に可愛いことだ。
キャスターは苦笑して「覚えておくわ」と頷いて、右手を差し出してきました。
思わずその顔をじっと見つめてしまうと、彼女は苦笑を崩し、少し首を傾げました。
「よろしく、という意味よ。停戦の約束の締結と捉えてもらえれば結構ね」
「はい。よろしくお願いします、メディアさん」
「えぇ……よろしく、ヒビキ」
ふんわりと浮かんだ微笑は肩の力が抜けていて、完全に敵意は見えない。
願ってもない展開ではありますが、果たして私のどこにそうしてもいいと思えるものがあったのだろうか。
その疑問が顔に浮かんでいたのか、キャスターは呆れ半分といった様子で答えてくれました。
「あなたを構成する体組織は別ですが、あんまりにも無防備なんですもの。警戒すれども気負った様子も臆面もなく笑うものだから……それが敵前ですることか、という呆れ半分。残りはアサシンの献身と、あなたのそれがどうなっているのか気になって、かしら。毒気を抜かれてしまった、というのもあるのかもしれないわね」
最後はやや溜め息交じりに付け足して、納得したかとばかりに私の目を見てきたので軽く頷きを返します。
要は私が変な子という一言につきるのでしょう。そこは否定のしようがないので気にしないでおきましょう。
「それは良かったです。あぁ、流石にそろそろ帰らないと、明日の学校で居眠りしてしまいそうですね。……それでは、メディアさん、私たちはお暇します。近いうちにまた」
「……水谷か」
「伺いま、す? ……アサシン、止まって」
突然背後からかけられた声は聞き覚えがあるものです。
その存在に気づいていたのか私から腕を離して臨戦態勢をとっていたハサンを止めて振り返ります。
「宗一郎様、お帰りなさいませ」
「あぁ、ただいま帰った」
嬉しそうに声を弾ませたキャスターにぴくりとも表情は動かさないまま応じたその人、私の通う高校の教諭の一人、葛木先生は視線を私に合わせたままだ。
夜の帳に覆われた薄暗い世界で月明かりに照らされた姿は、学校で見慣れていた筈なのに幽鬼もかくやというほど静かさで、どこか不気味な気配を感じさせました。
普段からどこか近寄りがたい雰囲気を持っていますが、夜になるとそれが増しているように思えますね。だからといってどうこうなるわけでもありませんけど。
「こんな時間に寺に何か用事か、水谷。それにキャスターと親しいような風情だが」
「あ、はい。キャスターには先日お世話になりまして。その件でお話にきました。……葛木先生は柳洞寺に住まわれているんですね」
「あぁ」
なるほど、という納得と私の一人言のような言葉に頷いた葛木は私の後ろにいるキャスターを見た。
それにやっと知らずのうちに強張った肩から力を抜いて、隣で険しい様子のハサンの手を掴んで指を絡めとります。
「響様……」
「ごめんね、また後で言い訳するから」
「……はい」
握った手のひらから僅かに力が抜けたのを感じ、一先ずハサンが先生にいきなり襲いかかってキャスターとの停戦が無効になるのはさけられたようです。
「葛木先生、キャスターに菓子折を預けていますので、お寺の皆様とどうぞ」
「そうか」
「はい。それではそろそろ帰ります。キャスター、また今度来ますね。葛木先生も、失礼します」
「いつでも歓迎するわ、ヒビキ」
「あぁ、夜道は十分気をつけて帰るように」
「はい」
にこりと二人に笑みを送り、ハサンを引っ張るように山門まで歩いて一度振り返ると、キャスターが葛木の隣に寄り添うように立っていた。
私の視線に気づいた彼女は小さく手を振ってきたので、私も同じように手を振り返します。
長い階段をハサンと手を繋いだままおりていく最中、彼女はひとつ「響様はひどいです」と拗ねたように呟いたきり黙り込みました。
どう言おうか迷ったけれど、仮面を被ったままの顔を覗き見て今何かを言うのはやめることにした。
その代わり考えるのは、帰ったらハサンをどう甘やかそうか、ということです。
うんと構って甘やかして、それから一緒に寝る。
私がもしも戦うことになって敵を殺さなくてはならないとき、彼女にはアサシンだからこそ、正面から戦わせるわけにはいかないと思っていることも伝えるべきですね。
トラウマというわけではありませんが、昔彼の征服王に蹴散らされるアサシンのサーヴァントを見て、やはり無為に死なせるわけにはいかないと感じていたのです。無為に死ぬのは、私も嫌いですし。
それに、最後にはできれば笑いながらお別れをしたいですから。アンデルセンと別れたあの夜のように、ハサンとも笑顔で別れたいものです。