たしかにあの顔はガンダムだ。RZと似ているが、RZよりもシャープな印象を受ける。細長い頭部はTレーダー搭載の印だ。
背部のトランス・エンジンは、並の大きさではない。GPZ900Rと同程度だろう。
それにしても、重武装だ。六基のフィン・ファンネルをマントのように下げているうえに、VPBR(可変出力式ビームライフル)らしき大型のランチャーまで装備している。
「新たなガンダム、か」
「それはまあ、私の個人的な好みが反映されているわね」
女史は取り澄ました顔でそう言った。女史はとにかく自分のガンダムを作りたかったのだ。俺の持ち込んだRZを目の当たりにしてからは特に。
「フレーム・サイズはMとSの中間といったところね。インナーはもちろんサイコ・フレームだけれど、埋め込まれたサイコミュ・チップの密度はRZの倍よ」
どういう意味かを尋ねると、
「機体の各部動作までサイコミュ制御が可能。つまり、ニュータイプでなければ真の実力を発揮できないモビルスーツなのよ」
「ずいぶんと極端なものを作り上げたんだな」
女史はにっこりとうなずいた。
「指一本も動かせないとは言わないけれど、白兵のことも考えたらその方が望ましいわ。高度な柔軟性と敏捷性を実現させるためにアクチュエイターの反応速度を上げて、チャンネル数も今までの四倍に増やしてあるのよ。バックアップの四チャンネルと合わせて、計十六チャンネルで駆動するわ」
それではたしかにサイコミュ制御でなければならないだろうということは、素人の俺でもわかった。通常入力では十二チャンネルあっても使いきれない。逆に考えれば、今までのモビルスーツには無理だった細やかで複雑な動作もできるということだ。それも、思考制御で。
「著しく上昇した反応速度や動作速度に適応した新型の白兵戦動作ソフト『新無念陰流』もインストールしてあるから、だいじょうぶよ」
女史は俺の肩をぽんぽんと叩いた。俺が白兵が得意ではないという事実は、かなり一般的になっていた。弱ったものだ。
「DMXもシリーズ2100のタイプ7をサイコミュ制御できるから、近接空戦性能も向上しているわ。それでもサリーとまともに絡み合うことはお薦めできないけど、このFXはそれ以外の闘い方でサリーを圧倒できるはずよ。Z2型トランス・エンジンはニンジャのZ1型のデチューン版だからはるかに扱いやすいし」
「しかし、ニュータイプだけで闘うわけじゃない」
NTCはそれをやってきた。結果、パイロットの枯渇を招きつつあるという話だ。すると女史はにやっとした。予測済み、と顔に書いてある。
「安心して。ナチュラルのパイロットにもCBR900ファイアーブレードがあるから。ウチじゃなくてBARだけど、ホンダ・エンジンを載せているから強力よ。GPA550AのパイロットのためにはGPX750のタイプFA、戦闘攻撃型ネージュがロールアウトしたわ」
「それは良いニュースだ。ガトー少佐たちも楽になるだろう」
「肝心の装備について簡単に触れておくわ」
女史はふたたびFXを示した。
「固定装備は、あなたの希望に沿って三十ミリ対空機関砲が二門。それとIFG一基。選択装備はまず手持ちのVPBRが一門。VLセイバーが二基。Iシールド一基」
「サイコミュは」
「アクチュエイター・ドライヴ用を除いて三系統四回線で、システムとしては全回線を同時にドライヴ可能。高機動戦闘端末は高出力タイプの四式フィン・ファンネルが最大十二基。これはAファンネルに換装可能。その他にスティンガーを最大六機。他にサイコミュ・コントロールドのVPBRを二門背負えるわ。VPBRについては、ジェネレイターも高出力化しているから、同時に三門をレヴェル5で、最大三連射が可能」
「すごい装備だな。モビルスーツというより、超小型の巡洋艦だ」
「サイコミュについては専門外だからよくわからないところもあるけど、四回線も同時に使える?」
「実際にドライヴできるかどうかというのは個人の資質の問題だね。けれど、Aファンネルは、言ってしまえばサイコミュ・ホーミングの核ミサイルだし、VPBRも母機から離すわけじゃないから、支障はないだろうな」
「そう。安心したわ」
「しかし、これだけの装備なら、四回線を同時に使う前に戦闘は終わるはずだし、そうでなければならない」
サイコミュの話がすむと、ずっと黙っていたディタがふいに尋ねた。
「パナシェ、このFX、装甲形状を変えられるかしら」
「いきなりカスタマイズするの」
「ええ。深紅はこのモビルスーツに似合わないでしょう」
ディタの言うとおりだった。赤いFXはかなり様にならない。女史の強く主張する「ガンダムの色」というのも、たしかにあるものらしい。
「前に博物館をのぞいたときに良さそうな機体があったんだけど」
「じゃあ、後で教えてちょうだい。シミュレイトしてみるから」
女史はわかった顔でそう応じた。ディタの意見や要求は、当然ながらすぐに通る。もっとも、このくらいのことならディタでなくとも造作無いだろう。
そして、機種転換訓練、開始。
第七戦闘隊ではガーディーとジャン、そして今はここにいないアンサーがCBR900Aを駆り、俺がFX、ディタが百式甲型に乗った。
BARホンダCBR900A『ファイアーブレード』は、当代きっての天才モビルスーツ・エンジニアで女史最大のライヴァル、ラメール・ミュンヒハウツェンが中心となって作り上げたモビルスーツだ。ナチュラル・パイロット専用機だが、補助システムの一環としてサイコ・フレームを導入している。
FX同様、このファイアーブレードもGPX750Bから格段に進歩していたが、それでもサリーとの巴は難しいとわかっていたので、ホンダ・エンジンの強力なパワーを活かして一撃離脱に特化しており、ファースト・ストライクでサリーを完全に吹っ飛ばすため、VPBRが標準装備。一方では新型の白兵動作ソフト『無念陰流』がインストールされて、各部の動作速度も白兵戦性能も飛躍的に向上している。これはFXもそうだが、サリーに圧倒的に勝るスピードとクイックネスを活かして基本はヒット・アンド・アウェイ、隙あらばセイバーの間合いに飛び込むという、対サリー戦術をそのまま形にしたモビルスーツだった。
百式甲型は、グラナダ博物館に陳列されていた大昔の百式とほぼ同型の装甲をFXのインナー・フレームに被せ、さらに悪名高きDMXシリーズ2000を懲りずに搭載してサイコ・フレームに直結してしまったモビルスーツだ。
最低限の装甲しか被っていない――装甲の隙間からインナー・フレームが覗いているところさえある――機体は非常に軽く、巴でもサリーを打ち負かせるものの、ディタ以外にはまず操縦できないと言っていい。カラーリングは当然のエース・カラー、深紅だ。
俺たちはそれぞれのニュー・マシンを駆って、トムが「エアナイツ並」と評したほど厳しい訓練を積み重ね、輸送船団護衛などを行いながら、ビッグEの修理完了に伴う原隊復帰を待った。
幸運なことに、その後二ヶ月半に渡って機動部隊の激突はなく、そして冬の終わりから各国で建造されていた新鋭のオーダシアス級大型攻撃空母が就役を始め、続々とアロハ・ステーションに浮かんだ。そうしたルーキーたちを鍛えるのも俺たちの仕事だった。
果して、FXは素晴らしいモビルスーツだった。
搭乗する度にその思いが強くなった。さすがに女史の魂が込められているだけのことはある。RZでは幾度かがっかりさせられたパワーと加速も本当に素晴らしく、これこそ俺の駆るべきモビルスーツだと言い切ることができた。その分、減速Gも口から内臓が飛び出そうなほどにパワー・アップしていたが。
ただ、本質はそれではなかった。
訓練を重ねてゆくうちに俺はFXを自分の体のように動かすことができるようになり、コクピットに収まったとき、安堵のようなものさえ覚えるようになっていった。こんなことは今まで駆ったどの機体でも有り得なかった。ディタの教えがわかったおかげでもあるだろう。
「闘いは、機で決するもの」
白兵の心得。ディタは、静かにそう言った。
「白兵に難しいことは何もない。必要なときに撃ち、必要なときに躱す。それだけ。大切なのは心の力と速さ。それを生じさせるものは、集中力――すなわち、機」
ディタの言葉は言葉以上のものとなって理解できた。
「単なる反射神経や動作のスピードではなく、相手の行動を読み、精神と肉体の力を、もっとも効果的な一点へと束ねて撃ち込むこと」
常にこういう考え方をしていたディタが、覚醒の前にオール・レンジを凌ぎきったとしても、何ら不思議なことではなかったのだ。
しかし、疑問は残る。
こうした考え方や在り方は覚醒を促す向きへ働くはずだが、ディタの覚醒は、わき目も振らずにヴァレンシアへ突っ込んだそのときまで、兆しさえなかった。
もしや、ディタは覚醒を望んでいなかったのか。
するとディタはうなずき、俺はふと疑問を感じたことを悔やむこととなった。
ディタは言った。
「わたしはニュータイプを憎んでいたわ。父がその思想に取りつかれて、その挙げ句に討たれてしまったから」
同時に閃くものがあった。
しかし、ああ、なぜわかってしまうのか。人として生きていくうえでは、目を閉じたままでいた方がいいこともある。なのに、どうして。
けれど、もう遅い。完全にわかってしまった。
ディタの見つめる針の先の一点。そこにいるのは、――
「ええ」
ディタはまたうなずいた。厳しい目をして。
「NTC副長、シャトウ・ロートシルト。本当の名はデュボネ・カーン。父を討った男よ。わたしの、父を」
☆
ビッグE乗艦の日が決まった。
でも、迷っている。修理中にみっちりと修行を積んで、足手惑いにならないよう備えはきちっとしたけれど。
「ピッコロでがんばるって手もあるぜ」
原隊復帰一週間前の夜、トクロウさんはふいにそんなことを言った。えっ、と思って見上げると、デュボネ大佐どののように優しい目をしていた。
「嫌なら無理をすることはない。行かなくてすむなら、戦場になんて行かない方がいい」
わかっている。そのとおりだということは。
本当を言うと、宇宙へなんか行きたくない。向こうにいた頃はすこしもそう思わなかったのに。戦場にいるのが当たり前だったのに。
けれど、今は、はっきり言って、怖い。
いつしか膝の上で拳をぎゅっと固めて、うつむいてしまっていた。
怖い。怖い。怖い。
心がうめいている。
こんなに、弱いものだったの。わたしは。わたしの心は。
そんな自分が、いやだ。
いやだけど、怖い。
「ピッコロなら口を利いてやれるよ。レナを筆頭にいい人ばかりだし、今までやってきたこともそのまま活かせる。第一、空母の厨房に詰めるよりずっとマシだ。そこで待つ方がいいんじゃないか」
その言葉にうなずきかけた。
でも。
ぎりぎりのところで、心の底のもうひとりのわたしが烈しくかぶりを振る。
大尉どのを待ち続けることの方が、耐えられない。
大尉どののそばにいたい。もし死ぬこととなっても、その瞬間までそばにいたい。
意を決したのは、この一念だけ。ほんとうに。
決まってしまったら、後は跳ぶだけ。大きく息を吸って、告げた。――跳んでしまえっ。
「乗艦します!」
☆
春、大戦は新たな局面を迎えた。
連邦はついにシルヴァーストーンから手を引いた。戦力を嫌というほど呑まれ、命を吸い尽くされた末に。補給線を断たれ、シルヴァーストーンのうちに孤立してしまった連邦の空間歩兵は、かなりの数が戦死ではなく餓死したと聞いた。
そのように一部ではもはや闘いでさえなくなっていたが、シルヴァーストーンの放棄・撤退は、ネグローニを初めとする地球至上主義者たちに地球圏の制覇を断念させるに十分だった。
その証に、彼らの名目が、変わってきた。
当初、彼らは「地球圏をあるべき姿に戻す」と息巻いていた。
だが、戦況が劣に傾き、シルヴァーストーンを失ってしまうと、一転して「地球を守れ」になった。
いったいどちらが侵略者なのかと呆れてしまったが、ネグローニはトーン・ダウンせず、誇り高きアースノイドたちは本気でそのために闘い、滅びていった。そうではないアースノイドは重力の底であいかわらず縮こまっていた。
我がビッグEが本格的な出撃準備を整えたのは、ちょうどその頃だった。
ここまでずれ込んでしまったのは、修理とともに第二次大改装を行ったためだ。防御力を高めるべくエンクローズド・フライト・デッキを導入したビッグEは、まるで新造艦だった。どこもかしこもピカピカで、初陣を待つ若武者の風情だった。
出撃に際して配置転換があった。
トムはスターバッカーズのリーダーからビッグEの機動航宙戦司令官に昇格し、ガーディーが少佐に昇進した。スターバッカーズを任されたわけだ。ガーディーは、
「フリー・バードのほうが適任ですよ」
などと言ったようだが、面倒を背負い込むのは先任の役目だ。あきらめてもらうこととして、出撃の日じつが決まると、ディタとともに教授を訪ねた。
途中、ディタはいきなり、
「ボスから何か聞いていないかしら」
「トムから、何を」
何のことかさっぱりわからず、まともに聞き返すと、前を見ていたディタの目がすうっと動いて俺を捉えた。
「あなたは、宇宙軍参謀本部に招かれていたのよ」
驚いた、という一言では表しきれない。まさに晴天の霹靂だ。思わずスロットルから足を離してしまった。
「いったい何の冗談だ」
「冗談ではないわ。参謀本部はとても熱心だった。行政的なことは何も心配は要らないとまで言っていた。きっとワイコロアや他の会戦の記録を詳細に追った方がいらしたのね」
「俺にはそんな能力はないよ。君もわかっているだろう」
ディタはかぶりを振らずに俺をじっと見た。
「環地球空域で機動部隊を思うがままに動かしてみたくはないかしら」
「考えただけで食欲がなくなる」
「そういうだろうと思っていた」
そう言ったときの目はかすかに楽しそうだった。
「安心して。握りつぶしておいたから」
ディタはさらりと言ってのけ、俺はまた言葉を失ったのだった。
教授は俺たちを歓迎してくれた。その教授に、宇宙に出る前にどうしても聞いておかなければならないことがあった。さっきのディタのようにずばりと尋ねた。
「人はすべてニュータイプになれるのですか」
「もちろんだ」
教授はきっぱり応えた。
「人は必然的にニュータイプとなる」
「どのようにして、ですか」
重力の底の人間までも覚醒させるためには、この大戦以上の規模を持つ闘いがなければならないのでは、という危惧があった。
が、教授は声を挙げて笑い始めた。
「戦に関わらねば目覚めを迎えることができないというのは間違いではないが、本質ではないよ」
俺をまっすぐに見つめる教授の目は、宇宙の深淵のように深かった。
「宇宙に出なければ人類は己を見直すことができなかったが、宇宙に出てまでも人は悪しき循環から抜け出せずにいた。その一方では、革新もひそかに芽吹いていた。これはどういう意味を持つか」
黙して続きを待った。
「人は、革新を迎える。が、何もしなければ、革新を迎える前に間違いなく滅び去る」
それは、ひどくショックな宣告だった。慌てて尋ねた。
「では、そのために一体何をすれば良いと」
「その前に、君たちは此度の大戦の意味を考えたことがあるかね」
思わぬ問いを返されて、かぶりを振った。意味を問う前に、まず目の前の闘いに勝つことを考えていた。ここまで、ずっとだ。
「正直、曖昧な認識しか持っていません。漠然と、スペースノイドの自由のための闘いだと考えていますが」
「その認識は、正しい。スペースノイドは、自由になるべきだ。が、何から自由になるべきだと考えるかね」
「ネグローニの独裁から、でしょうか」
すると教授は子供のように目をきらめかせた。
「この戦は、親離れをしようとする子供と子離れのできない母親との闘いであると同時に、母親から独り立ちしようとする意志と、母親から離れまいとする意志との闘いでもある」
また唖然とさせられた。最初の対話の折に教授の口にした「人類の、母なる地球からの自立」という認識が俺の側でずれていたことに気がついて。人は自立しなければならないのはもちろんだが、その前に、人は自らの意志で地球から離れたがっているのか。
「そのとおり。そして、その流れが、革新へと連なるのだ」
「そうだったのですか」
「人間がどういう生物かを考えてみれば、答は自ずと明らかだ。他の生物と違い、人間は知恵を得た。その知恵が、人にとって自らの生を獲得する唯一の武器だった」
「はい」
「違う言い方をすれば、人は知恵を以って自分に有利な環境を作り出すことにしか生存の道がなかったのだが、そのときより自然は人にとって征服すべき敵となった。大胆に言えば、知恵を得たときより人は自然と共存する術を失い、地球の上で生きられない生物となったのだ」
「地球で、生きられない」
慎重に確かめると、そうだ、と教授は強くうなずいた。
「人間は自然環境を自分に適した形に作り変えなければ生存できない。が、自然は到底人間の相手できる存在ではなく、人は生きようとすればするほど、己の首を絞めることとなった。地球上で生きられないというのは、そういうことだ。自然を作り変えるということは、破壊することでもある。その証に、地球環境を破壊する第一の要因は人間の生存と人口増加だ」
自然を壊さなければ生きていけない。それが、人間。それは、今の地球の有り様を考えるまでもない。
「そうした点より考えてみると、むしろ知恵を得てからの人類のベクトルは地球の外を目指しているとみる方が自然だ。その証に、地球から離れることで、知恵と本能の目指す方向が初めて一致する」
「その顕現がニュータイプですか」
教授は満面の笑みでうなずき、ようやく頭の中の靄が晴れた。
ニュータイプとは限られた人間の話ではない。突然変異でもない。事実、ニュータイプの能力は誰でも持っている。
が、眠っているそれを発動させるにはきっかけが必要。
まず、精神の、重力の枷からの解放。
次に、他の個との結びつきを強固なものにせざるを得ない状況。
そこでひとつの流れがはっきりと俺の意識に浮かび上がった。ああ、そういうことなのか。
「ここで、離れる、というのは物理的な意味ではない。体が地球を離れても、精神はあいかわらず地球を求めている。すべての生命を生み出し育んできたあのぬくもりを」
「それが、人が宇宙に出てまでも地球にこだわり続け、悪循環より逃れ得なかった理由だと」
「そうだ。そう考えると、精神が自ら地球から離れて、初めて人類は宇宙で生きることができるのではないだろうか。生きるという、その本質の意味で」
生きる。生きるということ。
宇宙という暗き大海の真っ只中で、人は人という存在のあまりの小ささを突きつけられる。乾いた砂漠に落ちた一滴の水。
が、生命は生命であろうとする。環境が苛酷であればあるほど。
それは、生物としての本能である。
そのため、宇宙では、人間は人間であることを超えようとする。
人は変わるのか。変われるのか。
そうではなく、変わっていかざるを得ない。宇宙という環境に合わせて。
言うまでもなく、宇宙は人間にとってあまりに過酷である。そんな環境ではひとりで生きられないので、自然に洞察力を伸ばし、認識域を拡大させ、潤滑なコミュニケイションを実現し、人同士の結びつきを強めようとする。そういう向きへ進むはずである。そうしなければ、生き延びていけない。宇宙の戦争でニュータイプが多く現れるのは、極限状態がその変化を大いに促進するため。
だが、認識能力や洞察能力だけがニュータイプではない。そういうところがまず目につきやすかったということ。もっと本質的な部分での変化が現れるはず。種としての変化であるはずだから。
これだけのことを、対話によらず、一瞬で把握して、自分のものとできた。
そして、ここからが結論となる。
飛躍のためには、地球を自ら発つべきである。
地球がいつでも戻ってゆける場所である限り、人は新たな段階には進めない。人も精神的に親を殺して自立する。
が、母親の死に絶望して、あっさりと滅び去るかもしれない。人類にとって、賭けであることは確かだ。
しかし、と思ったそのとき、意識が光で一杯になったようだった。厚い壁が砕かれて、光の河がどおっと流れ込んできたかのような。わかった。ついにわかった。俺が何のために闘おうとすればいいのか。
「人は、初めて進化を目にすることができるかもしれない。その曙に立ち会えただけでも幸運だと思わないかね」
教授は強い口調で言って俺の目を見つめた。
もちろん、うなずいた。
教授もにこりとして、話を続けた。
「人は気の遠くなるほど長い時間をかけて徐々に、自ら気づかぬままに変わってゆくのか。それとも、ある日突然、一斉にステップアップするのか」
俺は、輝く天に向けて突き上げられる幾多もの手を見た。
「私も、後者であると思う」
教授もそう言って、にっこりとした。そう、人のブレイク・スルーのために。新たな扉にかけられた手を護るために。
「今度こそ、だいじょうぶね」
マザー・ララァの微笑み。
「あなたなら、できるはずよ」
その声はこの身に眠る遠い過去の願いとともに力となった。確信できた。俺は、間違えていない。
「この戦が終わったら、いつでもいい、訪れてくれたまえ。そのときまでにまた色々なものを見ているだろう。君たちも、私も」
別れ際、教授はそう言って俺たちの手を厚い手で包み込み、肩をぐっと抱いた。
俺も力を込めて抱き返した。
人の温みを久しぶりに感じて心も温まったし、それ以上に気分がひどく高揚していた。
クール・ダウンさせるために、帰り道の上で、あえて振り返ってみることとした。覚醒の途を。
教授の話に沿って考えてみると、――
地球暮らしだったのが、急に宇宙に出て、一気に重力から解放された。
荒れ果てた十代は、人とコミュニケイションを取りたがっていた心の裏返し。
初陣で撃墜されかけて、生存本能が絶叫した。
稚拙な操縦技術を他の手段でカヴァーする必要があった。
「その他に、もしかしたらこれが最大の要因かもしれない。君とどうにかコミュニケイションを取ろうとしていた」
最後に冗談めかして言うと、ずっと黙っていたディタは足を止めて、不思議そうな、また、意外そうな顔をした。
「わたしとコミュニケイションを取ろうとしていた、ですって」
「おかしいかい」
と目を見ると、
「そんなこと、――ないわ」
やっぱり目を伏せられてしまう。ニュータイプも、ニュータイプである前に人間なんだと、こういうときに強く感じる。まあ、笑い飛ばしてしまうのが一番だ。
「あの頃は、何を言っても君の応えは一つだったな」
「そ――そうだったかしら」
「そんなヒマ、ないわ。――これでおしまいだった。ようやく同じテーブルで食事ができるようになったと思ったら、俺は地球へ降り、君はオールド・ハイランドへ戻った」
ディタは下を向いてしまった。
「ごめんなさい」
「あ、いや、そんなつもりじゃない」
わかっているわ、とディタは呟くように言った。
「ただ、あの頃は、まずあなたを確かめなければならなかったから、必要以上に近づくことを避けていたのよ」
いいさ、と言った。
「今となっては、互いに笑い話だ」
でも、と、ディタは俺を見た。強い瞳で。
そして、言葉をひとつひとつはっきりと口にした。
「わたしは、もう一度、会いたいと思った。そのときの気持ちは、――」
ドンッ、
目に見えない壁が、また思い切りぶつかってきた。こういうとき、ディタは加減が効かなくなる。無理もないと思うが、誰かがその辺りを教えてやらなければ、いつか大怪我をするだろう。
しかし、誰が。
そう思って、やめた。それこそお節介というものだ。ディタが望んでいないことを無理強いすることこそ、無用だろう。
ただ、今、ここでは、ディタはまだ帰りたくないと言っていた。言葉ではなく、瞳の色と足取りで。それは何とかできる類の問題だが、残念ながらここいらは一歩踏み込むと別の顔だ。猥雑で、悪の匂いがぷんぷんしていて、ディタばかりじゃなく、女性の好む場所ではない。かと言って、別のエリアへ走って店を探す時間は余計だ。
となれば、道はただのひとつだ。
「ディタ、この近くに俺のよく行く店がある。ただ、君にふさわしからぬというか、そんなに上品なところじゃないんだが」
「行ってみましょう」
最後まで言わないうちにディタは応えた。
そんなわけでおおむね十分の後、俺たちはダウンタウンの喧騒のど真ん中にいた。
『レッド・ハウス』
ディタと一緒にこのドアを開ける夜が来ようとは。なかなか感慨深いものがある。強い煙草の煙が煙幕のように立ちこめ、カード占いをする女の笑いや賭博に興じる男たちの声が詰め込まれている。その隙間に流れるのはブルーズ。まったく、たいした店だ。見つめ合って、
「君の瞳に、乾杯」
などとあまくささやいて杯を合わせられるところではない。間違えても。もっとも、瞳に乾杯したくとも、ディタは瞳を見せてくれないだろうが。
「ひさしぶりだな、シュー」
カウンターの隅に腰を据えると、主のイジーにぶっきらぼうな声をかけられた。
「そうだな。なかなか時間が取れない」
「でも、この店もおまえさんに守ってもらってるんだから、しょうがないか」
そんなことをぼそっと言ってから、にやりとして、ディタに目で礼をした。ディタはかすかに頭を動かしただけだった。イジーの剣呑な雰囲気に、ひそかに警戒を強めていた。無理もない。
さて、ディタはどれだけ飲めるのだろう。その前に、何が好きなのだろう。
聞いても、応えは、
「わからない」
若しくは、
「知らない」
だということはよくわかっているので、俺の道を行くこととする。
「イジー、白ワインはあるかい」
「ない、と言ったら今夜は台無しだろう」
見事な切り返しだ。まるで映動の一場面だ。
「それじゃ、このレイディにはキールを。俺は――」
モスコウ・ミュールではない。
マザー・ララァではないが、そんな声が電撃のように響いて、とっさにジン&トニックと言ってしまったのは、ディタが隣にいるためだろう。意識をシャンとさせておくべきなのはたしかだった。
「おいしいわ。このお酒」
ディタは何と言うこともない顔をして淡々とキールのグラスを傾け続けた。身の置き所に困っているということもなさそうだった。ただ、普通に話をすると、茹ですぎたパスタのようにぶつぶつ途切れることは目に見えているので、キールの話をした。ディタは感心したようにうなずいて、また同じキールを注文した。クレーム・ド・カシスは少し減らしてほしいと添えて。
と、チョーキングの効いたギターのイントロに続いて、粘っこい声が流れ始めた。『ロック・ミー、ベイビー』。御大B・B・キング。実に久しぶりだ。
「あたしを揺さ振ってよ、ベイビー」
耳元でささやくように繰り返される歌声。締め上げられるようなギターと絡むと、まさに呪文だ。艦や宿舎の部屋で聴くよりも、断然効く。魂に染みとおる。
悪くない。
ブルーズは、酒をゆっくりと、しかし有無を言わせずに進める。
実に、悪くない。何も考えず、夜通し暴れて、朝方疲れきって眠りたい。そんな気分にさえ、なる。
と、セクシーな歌声に別の声が、かすかにだが、かぶって聞こえてきた。声ならぬ声が。
「あたしを揺さ振って、ベイビー」
「あたしを突き上げてよ、一晩中」
ほんとうの声ではない、心の呟き。
これは、――ディタだ。
そうとわかったときの驚きは、なかなか表しがたい。
考えられない。というよりも、考えてはいけない気がする。ディタを、一晩中、など。
「あたしを揺さ振ってほしいの、ゆっくりと」
「背骨がなくなっちゃうまで」
「おねがいよ」
しかし曲が終わった後も、ディタの胸のうちでは熱い声がけだるげに転がっていた。
ディタがこの古いブルーズを知っているわけがない。が、実にシンプルで、言っていることはただのひとつしかない曲だ。
「わたしは、もう一度、会いたいと思った。そのときの気持ちは、――」
酒を啜ると、さっきのディタの声が、さっきよりも熱く、そして生々しく甦ってくる。
だが、その言葉で激しく揺さ振られているのは、誰よりも当のディタだった。ディタはあまりにも慣れていない。己の感情や衝動や欲望に正直になることに。昔からそうだが、ディタは抑えすぎている。解放が必要だとはわかっている。ディタも解き放たれることに憧れている。が、ディタは手許のグラスをじっと見つめるだけだ。キールの輝きのうちに何を見ているのだろう。
あまい酒が欲しい気分だ。オールド・ファッションドを注文する。ビターズのしみた角砂糖をマドラーで崩しながら、こういうときガーディーなら、と考えて、笑ってしまった。
「あの氷を溶かす前に夜が明けちまう」
間違いなくこう言うはずだ。
つまらないことをあれこれ考えている間に、ディタの胸に流れていた『ロック・ミー、ベイビー』は消えてしまい、ディタはこともあろうに闘いのことを考え始めていた。いつもの、自分でコントロールできる自分に一刻も早く戻ろうと。この店で、しかも酒が入っていることを考えると、とんでもないことだ。ここでなければそれも目をつぶるが、今、ここでは見逃せない。
「ディタ」
呼びかけて、その落ち着いた顔をじっと見た。
「君の的確な戦術的判断は尊敬している。分析力もそこいらのアナリスト顔負けだ。でも今夜は、俺といる間だけでいい、闘いのことを忘れてみないか」
「でも、どうすればいいのか、わからないわ」
真剣な目でそう言うディタが微笑ましく感じる。やっぱり、ディタだな。
ひとまずイジーにディタの酒を頼んで、ギターとサム・ピックを借りた。ディタがしげしげと見つめる前で素早くチューンをチェックして、慣らしをする。指はきちっとリフを覚えていた。忘れようもない。ブルーズは古い友達だ。――よし、オールG。グラスに残っていたオールド・ファッションドで火を点けて、クリアード・フォー・テイク・オフ。
「君は『ロック・ミー、ベイビー』が気に入ったみたいだから、アンコールだ」
俺は床をどかどかと踏み鳴らしてギターを弾き始めた。
「Rock me, babe. Rock me all night long.」
歌い始めると、隅の卓にいた黒人の二人連れがカードを放り出してよたよた歩き出し、ディタの後ろにどたどたと座り込んだ。ひとりは琥珀色の酒の入ったショット・グラスをかぱっと空けると、カウンターでグラスを打ち鳴らしてリズムを取り始めた。もうひとりは半分しか開いていない目で、ストゥールの上で身をよじらせながら歌い始めた。
1コーラス目が終わると、拍手と歓声が周りでどっと起こり、なみなみと注がれたショット・グラスがあちこちから突き出された。客のほとんどが俺を囲んで『ロック・ミー、ベイビー』を一緒に歌っていたり、うまそうに酒を啜っていたり、ゆったりとシェイクしていたり、――それは実に懐かしく、温かい光景だった。
ソロの頭で、この大騒ぎの中でも凍ったようにじっとしているディタに大声で呼びかけた。
「ディタ、自分を自由にしたいときは呪文を唱えるんだ。『ロック・ミー、ベイビー』は君にとってそのひとつなんだぜ」
その瞬間、冷たい鉄の仮面はぽろりと外れた。
ディタが、微笑んだ。
「そうね。そうするわ」
ますますいい気分でソロを決めて、歌に戻る。乗ってきたのはあちこちから注がれまくるバーボンのせいばかりじゃない。
「あたしを揺さ振って、可愛いベイビー、ゆっくりと揺さ振ってよ、一晩中」
歌っているうちに、ディタを口説いているような気分になってきた。こともあろうに、ディタを。それこそ、
「そんなヒマ、ないわ」
――だろう。
しかし、ディタはまたさっきと同じように、口を閉じたままだが、一緒に歌っていた。そこで、もう2コーラスばかり回してサーヴィスした。
終わってみると、拍手と歓声の中から男たちにグラスを突き出されて乾杯の嵐。女たちには大きな手で叩かれ、抱きしめられ、頬にキッスの嵐だ。
「いいねえ、ヒリヒリする」
「あんた、イカしてるよ。指使いだけでもう、たまらないわァ」
「嬢ちゃん、この兄さんには気をつけな」
イジーまでがそう言って輪に加わってきた。
「ブルーズで口説くなんてロクなもんじゃねェ。今までたくさん泣かしてきてるぜ」
「ああ、それァ間違いない。おれが女なら、今夜はもう離さねェな」
大きな笑い声。俺は大袈裟に肩をすくめてみせる。ギターを返すいとまもなく、アンコールがかかってしまう。ディタも手を叩いている。もう逃げられないところにいると知った。
「あたしのレモンをギュッと絞って。おねがいよ」
「甘くとろけるおまえのカスタード・パイ、一切れでいい、俺にくれよ」
オールド・ファッションドの甘さのせいか、頭のなかで『スクィーズ・マイ・レモン』と『カスタード・パイ・ブルーズ』がごちゃ混ぜになっている。が、火に油を注ぐことは避けたい。クール・ダウンだ。そうと考えると『はかなき愛』がすぐ頭に浮かんだが、ロバート・ジョンソンは悪魔を招いてしまう。
どうするか。
考えるまでもなかった。初めて金を稼ぐことのできた、あの曲だ。アンコールはその『フーチー・クーチー・マン』一発で勘弁してもらってギターを返すと、『ロック・ミー、ベイビー』が流れ始めた。今度はディタひとりの声で。
「少し、静かなところへ行きたいわ」
すっ、と目を伏せたディタは、低い声だったが、はっきりと言った。
☆
乗艦したら、時間がわたしをがんじがらめにした。
コンディション・グリーンなのに、忙しい。
ううん、違う。コンディション・グリーンの方が忙しい。
戦闘食に切り替わるのはコンディション・イエローから。だけど、レイションを見る皆さんの目は嫌気で一杯。やっぱり無重力食なんて食べたくないよね。あれほどラベルと中身の違うものはないと思っていたけど、オールド・ハイランドも変わらない。
そんなあわただしい日々の中、楽しみといったら、トクロウさんの賄いだけ。
出撃前夜はパスタだった。それも、オマール海老がドカンと乗っている超豪華版。喜ぶより先に驚いてしまって、わけを聞くと期待料だと言われた。入隊前は『ピッコロ』というトラットリアのチーフだったトクロウさんの特製だからおいしくないわけはなく、それどころか信じられないくらいにおいしかったんだけど、この味と同じくらいハイ・グレードな期待をされているってコトなのかしら。
「まだ、怖いかい」
明日のためにその一、仕込みの最中、トクロウさんに聞かれて、ずきっとした。とっさに応えられずにいると、トクロウさんはごめんと言った。
「この厨房は安心だ。重力があるからな。コロニーと変わらない」
たしかに。そうなんだけど。
ひそかにため息をついた。
ダメだなあ。跳んでしまったのはいいけれど、うまくバランスを取ることができていない。アップアップしている。ちょっとしたことでぐらぐらしちゃって。うまくやっていけると思っていたのに、これならモビルスーツの操縦の方がよほどやさしい。
ため息、もうひとつ。
大尉どのにお会いしたいな。
何でもいい。声が聞きたい。
乗艦してから一度もお会いできていない。当たり前よね。大尉どのはパイロット。朝昼夜を問わず天を駆けてらっしゃるし、食事に来られても、今度はわたしが奥に引っ込んでいる。遠すぎるのよ。悲しいくらいに。重力ブロックから出られずにいるわたしが一番ダメなんだけど。
でも、今度の作戦が終わって帰るときには時間が取れるはず。いや、絶対に取る。その思いがわたしの支え。
その大尉どのが夜遅くにひとりふらりとメス・ホールに現れたときは、その姿を目で見ても、信じられなかった。
「た、大尉どの、いったい、ど、どうされたのですか」
思わずどもってしまうほど。
すると大尉どのはカウンターから厨房を覗き込んで、
「慣れたかい」
もしかして、わたしのコトを気に掛けてくださったとか。
思わずふくらんだ胸は、次の瞬間にはしぼんでいた。どうも喉が渇いてね、と大尉どのは水をコップに注いで一気に飲み干された。うう。でもそういうものよ。もしそうだとしたら、別の時間、別の場所でお会いできるはずよね。
けれど、モビルスーツを操縦するのとはまったく違うこの仕事に慣れたのは本当。トクロウさんはとてもいい人だし、お師匠としても尊敬できるし、仕事もきついけれど、楽しい。それを告げると、大尉どのはにこりとした。
「それはよかった」
「でも、仕事が終わってひとりになると、気分が沈んでしまうんです」
それを口にしてしまうと、大尉どのは即答された。
「そんなときは音楽を聴くといい」
「音楽、ですか」
大尉どのはにこやかにうなずいてくださるけれど。困ったな。音楽と言われても、何を聴いていいのか、わからない。
「わたし、音楽というものを聴いたことがないんです」
正直にいうと、大尉どのの目は丸くなった。
「そうなのか」
「ユーゲントではそういうものに触れることは一切できなかったんです」
「なるほど。それじゃ、ちょっと待っててくれ」
大尉どのはメス・ホールを出て行った。すぐに戻ってきた。
「これを聴いてみるといい。好きになる曲がきっとあるはずだ」
と、ミュージック・メモリーパックをひとつ、渡してくれた。
「これは、何の音楽なんですか」
「ザ・ビートルズ」
大尉どのの言われた名前は、聞いたことがあった。でも、名前だけ。ユーゲントでは文化に関する授業や講義は数えるくらいしかなかったから。
「ビートルズは君の支えになってくれるよ。どんなときもね」
大尉どのはきっぱりとおっしゃられた。うなずきはしたものの、この曲の数はすごいかも。
「これ、全部がビートルズなんですか」
「そうだよ。全部で二百五十曲以上ある」
とんでもない数だ。
そんなわけで帰りにPXに寄って、プレイアーを一つ買った。お金なんて使うことないから、奮発してちょっと高いやつにしてみた。部屋に戻ると箱から出して、コードをつないで、MPを早速プレイバック。『プリーズ・プリーズ・ミー』とディスプレイにアルバムのタイトルが表示された。二百五十曲以上もあるんだからとにかく聴かなければ。
けれど三十分後。
わたしは『プリーズ・プリーズ・ミー』をもう一度最初から聴いていた。
何だろう。頭の中が熱くなってる。沈んだ気分なんて、吹っ飛んでしまった。すごい。ものすごい勢い。いきなりMAXアフターバーナー、オンていう感じ。歌が胸に直に飛び込んできて、心をぐいぐい揺さぶる。音楽なんて気にも留めていなかったけど、こんなにすごいものだったんだ。でも「君が好きなんだ」って、こんなに大きな声で言っていいことなの?
さらに三十分後。
『プリーズ・プリーズ・ミー』をしぶしぶイジェクトして『ウィズ・ザ・ビートルズ』をプレイバック。そして、またもノックアウト。すごい。どの曲もパワフルでエナジェティック。生き生きしてて、きらきら輝いてる。それでいて、きれい。そのなかでも心を鷲づかみにしたのは「オール・マイ・ラヴィング」という曲だった。
「僕の愛のすべてを君に贈ろう」
「愛しい君、僕の愛はすべて君だけのもの」
わたしにも、こういうことを言ってくれるひとがいればいいのに。ああ、大尉どのがささやいてくれたら、ふにゃふにゃになっちゃうだろうなあ。そんなことを考えて、ひとりでにやにやしてる。バカみたい。でも楽しい。
聴き終えると、もう一度最初から。
その夜は『ウィズ・ザ・ビートルズ』をもう一度通して聴いて、最後に「オール・マイ・ラヴィング」を二度リピートしてベッドに潜り込んだ。
明日のために眠ることがとても惜しかった。
次の日も厨房から帰ったらビートルズ漬け。三枚目のアルバムをセット、GO!
ジャーン!
威勢良くギターが鳴って、ジョンがパワフルに歌い始めた。空っぽの体にほんとうに元気を注ぎ込んでくれる歌声。
「きつい一日だった、犬みたいにあくせく働いた」
「きつい一日だった、丸太みたいに眠りたい」
ああッ、この「ア・ハード・デイズ・ナイト」はまさにわたしのための歌ッ! もっとも、わたしにはヘロヘロになって帰ってきても優しく抱きしめてくれるひとなんていないけど。あーあ。
でも『ア・ハード・デイズ・ナイト』を聴きながら、ふと思った。
ビートルズを聴きたいという願いは、十分に生きる力になる。
ビートルズ漬けの日々はさらに続く。続く。続く。
変化は、あった。
ビートルズの曲がいつどんな時でも頭の中に流れるようになった。それも、そのときの気分で曲が変わる。ブルーになんてなることはなくなった。だって、いつでもジョンやポールが歌っているから。仕事にも加速がつく。トクロウさんにも一目で見破られてしまうほど。
「カルーア、最近やけに楽しそうだな」
「やっぱりわかりますか」
鬼の速さでタマネギをエマンセしながら応えた。強化された体も使いよう。こうやって活かせばいいのよ。
「わたし、この世に素晴らしいものがあったことに、今まですこしも気がついてなかったんですよ」
「その素晴らしいものをみつけたわけか。よかったな」
「ええ」
大尉どのはおっしゃったわ。
「ロックンロールは、俺にとって、人生の大事な鍵のひとつだ」
わたしにもそうだったみたい。
大尉どのが厨房を覗き込んできたのは、ビッグEがアロハ・ステーションに腰を据えて、わたしがビートルズを制覇してしばらくしてからのこと。
夜遅くだった。けれど、戦闘訓練が終わったばかりなんだ、と水をがぶ飲みされた後で、
「ビートルズはどうだい」
「最高です」
わたしはきっぱりと言った。
「最初は二百五十曲もあるのかと思っていたんですけど、今はたったの二百五十曲しかないの、と思ってます。もうほとんど歌えますよ」
わかるよ、大尉どのは笑った。
「俺も頭の中にジュークを置いて、四六時中流しっぱなしにしていたからな」
「特にジョンの曲が好きです。ほんとうに胸に飛び込んでくるみたいで、ときどき、どきっとします。どうしてわたしのことを歌っているの、って」
大尉どのはうなずいた。
「そうか。カルーアもレノン信者か」
その言葉に嬉しくなって、力いっぱいうなずいた。ポールの曲の方がきれいだとは思うけど、ジョンの歌はほんとうに烈しく胸に迫ってくる。ロックンロールとか、メロディとか、そういう枠を超えて、プラスの感情もマイナスの感情もすごく熱く、生々しく、有無を言わさず。
「ジョンの歌は俺たちの魂に撃ち込まれる楔だね」
素晴らしく的を得た言葉。
「じゃあ、ジョンのソロも聴いてみるかい」
「はい、ぜひ、おねがいします」
うなずくと、大尉どのは、驚くべきことを言った。
「俺はね、ジョンはニュータイプだったと信じているんだ」
「ジョンが、ニュータイプ」
「うん。ジョンの歌や言葉や行動から考えると、ね」
大尉どのは静かにそう言われた。
「ジョンにはきっと真実が見えていた。世界がどうあらねばならないか、ということも。しかしそれは人の言葉で表すのは難しいし、あの時代は今よりもはるかに混沌としていて、世界にジョンの意志を受け容れる準備ができていなかった」
そして、ジョンは死んでしまった。
大尉どのははっきりそうと言わなかったけれど、わかった。ジョンは死んでしまった。時の歩みが停まっているような時代の中で、それでもまた頑張って進み始めようとした矢先に。
けれど、ジョンは、負けなかった。だから、――
すると大尉どのは手を伸ばしてわたしの肩をぽんと叩いた。
「ジョンは世界を変えられなかった。しかし、人を変えることはできた。俺も、そのひとりだ」
わたしも。わたしも同じ。ジョンに出会って変わったひとり。
前にトクロウさんの言った、人として生きるうえで大事なことが、まだまだはっきり言えないのは残念だけれど、わかってきた気がする。
「そして、人が変われば、世界も変わっていく」
大尉どのは遠い目でそう言ったけれど、すぐにわたしに目を戻して、にこっとした。
「世界は変わるよ、カルーア」
世界が、変わる。
その言葉を胸のうちで繰り返したとき、頭の奥がふいに、
ぴりっ、
とした。
何だろう?
MOBILE SUIT GUNDAM FX
Episode 8 “Here’s looking at you, kid.”
アンサーの奮闘記を挟んで、ここより後半に移ります。
よろしくお願いします。