東方幽棲抄 ~ 今日も今日とて、ツンデ霊夢に殴られる 作:風鈴.
俺と優が危うく轢過事故に巻き込まれそうになった日――それから3日後の夜。
俺は自宅のソファーに座り、しきりに壁掛け時計の示す時刻を確認していた。
現在の時刻は、夜の8時。
この時刻に、とある人物が自宅へ訪れる予定となっている。
「そろそろ、か……」
俺は立ち上がり、玄関の方へ向かった。靴を履いて、玄関扉を開けてみる。
夜中の閑静な通りには、特に人影は見当たらない。少し通りに出て眺めまわして見るも、来客と思わしき人影は無かった。
来訪の予定時刻となったが、まだ到着しないようだ。少し遅れるのかもしれない。
俺はそう思い、自宅へ戻った。玄関の扉を閉めて靴を脱ぎ、元いたリビングへ入ろうとドアノブを捻った。
「……って、うぇ!」
リビングへ入室し――俺は間の抜けた声を上げてしまった。
「あら、こんばんは。お邪魔していますよ」
知らぬ間に、来訪予定の人物――紫さんがリビングにいた。しかも、眼前に。まるでこちらの動きを予測していたかのごとく、扉の前に立って待ち構えていた。
「ゆ、紫さん!? いつの間に来たんですか!?」
「ほんの数秒前に。予定の時刻になりましたので、スキマを通って直接リビングへ参った次第ですわ」
「あ、ああ……。なるほど」
どうやら、外の様子を窺いに行った時に、丁度やってきたらしい。
「どうせ来るなら、玄関から来て下さいよ。びっくりしたじゃないですか」
「ええ、それが目的でしたから。普通に登場したのでは、興を欠くかと思いまして。失礼を承知で、奇をてらわして頂きましたわ。一興ではありませんでしたか?」
紫さんは、邪気の無い笑みを浮かべた。そんな笑いを浮かべられると、気勢を削がれてしまう。
「あー……まあ、いいでしょう。紫さんらしいと言えば、紫さんらしいです。一興というよりは、驚きの意味で一驚でしたが……」
「あら、上手い洒落ですね」
紫さんはくつくつと笑うと、道を譲るように、脇へ退いた。
「さて、戯れはこの辺りにして、私は客人として振る舞いましょう。主人、案内して下さるかしら?」
俺は一瞬きょとんとしてしまったが、言葉の意味するところを理解した。
「ああ、なるほど……。ひとまず、そちらのソファーにでも座ってください。今、飲み物を用意しますから」
「かしこまりましたわ」
紫さんはソファーの方へ歩いて行くと、素直にソファーに座った。
こういう形式ばった出迎えは慣れていないので、ちょっと戸惑うなぁ……。
俺は冷蔵庫から麦茶を取り出して2つのコップに注ぐと、それを盆に乗せて、紫さんの許へ向かった。
「どうぞ」
俺はコップをテーブルに置くと、自分もソファーに座った。2人ともL字型のソファーに座っているので、対面ではなく斜め先に座り合っている形だ。
「ありがとうございます。……さて、先日に手紙で知らせました通り、あの時に話し切れなかったことについても、お話しするとしましょうか」
俺は頷いて応える。
先日の手紙とは、紫さんが書いたと思わしき置き手紙のことだ。一昨日、知らぬ間にリビングのソファーに置いてあったのだ。内容は、先日の対談時に伝えられなかった重要な話をしたいというもので、都合の良い日時を教えて欲しいというものだ。
手紙の裏に希望日時を書いてテーブルの上に置くように指示があったので、その通りにしたら、いつの間にか手紙は回収されていた。そして、今日の8時に訪れるという新たな置き手紙があったというわけだ。
「さて、何から話しましょうか……。希望はありますか?」
「希望、ですか」
俺は少し考え、
「いくつかありますが、じゃあ、どうして紫さんが俺のことを見守っていたか。それを教えてもらえますか?」
「あなたに恋慕していたから、と言ったらどうされますか?」
予想外なことを言われて、俺は数秒だけ呆けてしまった。
しかし、紫さんの含みのある笑いを見て、お馴染みの冗談と看破する。
「うーん、そうですね。ストーカー被害として、警察へ相談しますかね。……で、冗談は止めて下さい。またあの時のように会話が進まなくなるので」
「あら、そうですか。まあ、そうですね……今回に限っては、茶々を入れないよう努力しましょう。では、話を戻しまして……私があなたを見守っていた理由でしたね。良いでしょう、お答えします」
紫さんはそう言うと、考えをまとめるかのように、数秒だけ黙る。
「どこから説明すれば良いか悩みますが、やはり初めの方から順に話していきましょう。いったん質問の趣旨から外れますが、あなたの父親の話からしましょうか」
「俺の……父親の話!?」
紫さんの口から、思ってもみなかった言葉が放たれた。
「紫さん、俺の父親のことを知っているんですか? 父さんがどこにいるか知っているんですか!?」
「まあ、落ち着きなさい。あなたが焦る理由も分かります。順を追って話しますから、聞いていてください」
「あ、はい……すみません。お願いします」
「私とあなたの父親は、古い馴染みです。あなたが生まれる数百年前から親交がありました」
「ああ、父さんの旧友なんですね――」
……ん?
数百年前から?
「すみません、ちょっと良いですか?」
「なんでしょう」
「聞き間違いだと思いますが、数百年前から……と言いましたか?」
「はい、その通りです。千年は超えていないことは間違いありませんね」
「千年……。え、じゃあ、紫さんは……。いや、そもそも……人間……」
「ああ、そう言えば、まだ伝えていませんでしたね。私は人間ではありません。いわゆる、妖と呼ばれる類ですね」
「妖……妖怪?」
目の前の女性の姿と記憶の中にある妖怪のイメージが合致しない。
どこからどう見ても、紫さんは若い――20代前半に収まるであろう美貌だ。
いや、しかし……。妖怪と言われると、スキマという奇怪な能力が使えることに、ひとまずの納得が得られる。あれは、どう見ても人間業じゃない。
「受け入れられなくとも構いません。ひとまず、私は人間という存在ではないと考えて下さい」
「あ、はい……分かりました」
「よろしい。話を続けます。私が妖怪であるように、あなたの父親もまた、妖怪でした。何百年と生きて強大な妖力を手にした、大妖怪でした」
「……」
俺の父親が……妖怪?
どこからどう見ても人間にしか見えなかった、あの父親が?
確か、普通のサラリーマンとして会社勤めをしていたような人だぞ。
話し初めの段階から、すでに俺の思考は付いていけなくなってしまった。
「ずいぶんと混乱しているようですね。無理もないことですけれど」
「……話を続けて下さい。正直、理解が追いついていませんが、ひとまず全て事実として聞きますから」
「分かりました。先に言いましたように、あなたの父親もまた、妖怪と呼ばれる類の者です。妖怪という語感に違和を感じるなら、現人神と思っても構いません。人の姿を取った超人であることに、違いはありませんから。……話を続けます。彼は、妖怪の中でも変わり者でした。人間のことを深く愛した妖怪だったからです。よく人里や都市に下っては、その場その場の人間と交流し、喜びを分かち合っていました。」
紫さんの言っていることは、よく分かる。確かに、俺の父親は、やたらと外交的と言うか、人と接することが大好きな人だった。
「数十年前――とある人間の女性と恋に落ちました。あなたの母親ですね。そして、人と妖怪の子である、あなたが生まれました」
紫さんの言を信じるなら、俺は――半妖ということになる。
「じゃあ、俺には妖怪の血が半分も流れているってことですよね。……でも、俺、ただの人間ですよ。不思議な能力なんて使えませんし」
「当然です。あなたの父親に頼まれ、あなたが人として生きられるよう、一時的に人妖の境界を操り、人間側の領域を可能な限り広げてありますから」
「紫さんが俺の妖怪としての力を封じていたと……?」
「ええ、その通りです。幼き頃は力の自制など出来ませんからね。幼少とは言え、妖怪の身体能力は絶大。人間と比べるまでもありません。うっかり同年代の子供を殴り殺すようなことがあっては困りますからね」
「あ、ああ……なるほど」
俺は自分の手を見下ろし、握りこぶしを作った。そこには、高校生の平均より少し強い程度の握力しかない。今は封じられているが、本来なら、ここに妖怪としての握力も加わっている筈だったのだ。
「普通の人間としての力しか無いでしょう? いずれ、あなたの出生などについて、両親から伝えられる予定でした。あなたが18歳になる頃――普通の人間が高校を卒業し、進学か就職するか選ぶ頃合いですね。人として生を送るか、それとも妖怪の血筋であることを認め、幻想郷へ移ることを選ぶか」
「幻想郷……」
その言葉には、とても馴染みがあった。
まるで故郷のような感慨が湧くから不思議だ。
「ええ、幻想郷。忘れ去られた者たちが集う、のどかで幻想的な郷ですわ。多くの妖怪は、幻想郷に移り住み、今もなお妖怪としての本分を発揮しながら生活している。言わば、妖怪の避難所であり、楽園ですわ。きちんと普通の人間もいますのよ。集落を作り、そこで旧時代的……そうですね、江戸時代後半から明治初期あたりの文明で暮らしていますわ」
俺の脳内には、ひっそりと山間に存在する村のような集落のイメージがあった。人里があり、離れた場所に神社がある。湖もあれば洋館もあり、竹林もあればヒマワリ畑もある。そんな不思議な場所だ。