東方幽棲抄 ~ 今日も今日とて、ツンデ霊夢に殴られる 作:風鈴.
「さて――そろそろ頃合いですわね」
俺がチョコレートケーキを食べ終えた直後、紫さんは呟いた。
「頃合い?」
「あなたが元いた場所に帰る頃合いのことですよ」
紫さんは安楽椅子から立ち上がると、俺に椅子から立ち上がるよう促す。ついで、絨毯の上からどくようにも促す。
俺が絨毯の上からどくと、紫さんも絨毯の上から離れ、家具や食器類に対して何度も指を振るう。その動きに呼応するように、初めは長テーブルがスキマの中に落ちた。その次に安楽椅子がスキマへ落ち、終いには黄白色の絨毯もスキマへ落ちた。
10秒も経たない間に、即席の茶の席は、痕跡も残さずに消えた。
紫さんは、口元の高さに小さなスキマを開く。
「――藍、そちらの彼への説明は済んでいるかしら?」
その問いかけに応じる何者かの声が聞こえた。俺の立っている位置からでは明瞭に聞き取れないが、声音からして返答者は女性と思われる。
恐らく、紫さんが口にした『そちらの彼』とは――優のことだろう。
「分かったわ。今から通過用のスキマを開くから、こちらへ来るように伝えなさい」
紫さんは、虚空に向かって大きく指先を振るう。指先の動きに従い、人ひとりが通れそうな大きなスキマが開いた。
数秒すると、大きな人影がスキマから現れた。
「彼は問題なくこちら側へ渡って来たわ。手間を掛けさせたわね、藍。こちらで彼らの身の責任を持つから、あなたは仕事に戻って構わないわ」
紫さんは藍という人物に告げると、大小のスキマを閉じた。
「さて、藍から話はあったと思うけれど……現状に対する理解は出来ているかしら?」
紫さんに尋ねられた人物――優は、少々困ったように眉を顰めながらも、どこか楽しげに飄々と答える。
「まあ、なんとか……と言ったところですね」
「どうですか? 戸惑いましたか?」
「それは、まあ……突拍子もない話でしたから。でも、戸惑ったというよりは……なんだか面白そうな話だなーっというのが正直な感想ですね。話の内容も意外でしたが、それを教えてくれた人の姿が意外過ぎて――もしかすると話を半分も聞いていなかったかもしれませんね」
「あらあら。それは困りましたね。もう話を繰り返す時間は無いのですけれど」
「いや、ご心配なく。ああいう格好は、諸事情の関係で見慣れていますので。話を聞けないほど目を奪われることはないですから」
「それは僥倖ですね。……ちなみに、その諸事情とやらの内容について尋ねても宜しくて? 藍のような姿に見慣れているなんて、仮装パーティーにでも出席していた経験をお持ちなのかしら?」
「オレの名誉を保つために答えられませんね。けれど、仮装パーティーではなく、紳士の集いに出席していた――そう答えておきましょう」
「おや、興味深い発言ですね。詳しい言及は控えますが、その紳士の集いとやらがどのような活動の集いなのか、尋ねて構いませんか?」
「いえ、それも答えられません。その活動内容と活動メンバーの情報は、他言厳禁なのです。……そういう暗黙の了解があるんですよ」
優は、いかにも意味有り気な薄笑いを浮かべる。
「なるほど、暗黙の了解ですか。すなわち、紳士の集いだけに、紳士協定というわけですか。それでは、質問の答えを頂くことは、期待しても仕方がありませんね。……礼儀を重んじる紳士なのですから」
「……素晴らしい機転。相手の発言の真意を理解したが故に、上手い落ちをつけて抜け道を開いて下さるとは。それがし、感服いたしました」
「なに、私などまだまだ若輩ものですよ」
優と紫さんは、利得の絡んだ悪だくみを講じる悪代官と商人のような目笑を交わす。
俺には2人の会話の意味が全く解らないのだけれど、当の本人たちは言葉の遣り取りの意味を理解しているらしく、吞み込み顔で不可思議な会話を繰り広げている。
うわー。なんだろう、この疎外感。
とは言え、互いに相手の腹の内を読もうしつつ、そのことを意に介さず飄然と超然としている優と紫さんの会話に混じりたくないなぁ。
なんだか、急に居心地悪くなったな、この空間。もともと居心地なんて良くないけれど。
颯さん、早く元いた世界に帰りたいっす。
「紫さん、水を差すようで悪いのですが――そろそろ帰る頃合いだったのでは?」
「ああ、そう言えばそうでしたね。会話に歓を尽くしている場合ではありませんでしたわ」
「すみません。早く元いた場所に戻って、駅のホームにいるもう1人の連れに会いたいので」
恐らく、早苗は駅のホームで時間停止している。俺と優が電車に轢き殺されそうになった状態だから、どういう心境なのか心配なのだ。
「それはそれとして……優よ。お前、危うく死別していたかもしれない俺に生きて再会したというのに、感動の言葉は期待しなくとも、挨拶の言葉くらいあってもいいんじゃないか?」
「……あ、なんだ。颯、生きていたのか。死んだかと思っていたよ」
「素っ気ねえ!」
お前は本当に俺の友人の1人なのか!?
「もっと他にあるだろう! ほら、たとえば、こう……生きていたんだね、良かった的な……とかさ」
「いや、オレ、そんな感極まったようなことを言うキャラじゃないし。……逆に訊くけれど、颯はそんな台詞を言って欲しかったの?」
「え? いや、それは……」
こいつがそんな台詞を言ったら……。
うん、気持ち悪い。
「お前がそんなことを言ったら薄気味悪く思わなくはないが……。それでも、何か一言くらいあってもいいだろう?」
「再会の抱擁といこうじゃないか、友よ」
「すまん、俺が悪かった」
こいつに普通の反応を求めることが間違っていた。
「ふふ、仲が良いですね。さて、話頭を転じて、あなたたちをスキマ外へ出した後の話をしましょうか。手短にいきましょう」
俺と優は、紫さんに肯定の意を示す。
「では、説明に移りましょう。現在、駅のホームにいた者の時間を静止させていることは、ご存じの筈です」
俺は軽く首肯した後、横目でちらりと優の反応を窺う。
優は俺と同じように吞み込み顔で傾聴していた。藍という人物から、時間停止のことを聞かされていたのだろう。
「私は、駅のホームに通じるスキマを開きます。場所は駅のホームの――そうですね、線路の退避スペースとしましょう。命からがら、退避スペースへ逃げ込み、難を逃れたという設定です。間一髪のところで輪禍を逃れたという体を装って下さい。ついでに、例の中年男も退避スペースへ置いておきます。人身事故が起きてしまったかもしれないという騒動は止められませんが、それについては了承して下さいな。これは妥協点です」
「少々気は引けますが、紫さんが助けて下さったから、こうして無事でいられましたからね。その点は甘んじます」
「颯に同じで、オレもそれについては既に了承済みです」
俺も優も快諾した。本来は失っていた命だ。その程度の厄介ごとなら、いくらでも甘んじよう。
「そうですか。それなら、これ以上言うことはありません。……ああ、そう言えば、あなた達に約束して欲しいことがあります。私の存在は、他言無用でお願いします。そちらの方が、あなた達にとっても都合が良いでしょう」
「それは別に構いませんが……。例の妖怪退治屋ですか?」
「ええ。噂を嗅ぎつけて、あなた達に色々と探りを入れてくるかもしれません。面倒事を自ら招く必要はないでしょう? 留意しておいて欲しい点は、それです」
紫さんはそう言うと、空間を撫で上げるように指先を振るった。例の如く、彼女の指先の動きに呼応してスキマが開かれる。人ひとり通れる程の大きさまで広がると、スキマの先から眩い光が差し込んでくる。
スキマの向こう側を覗くと、視界を横切る長大な物体――電車の車体と思わしきものが見えた。
「どうぞ、スキマを潜って下さい。それは退避スペースに繋がっていますから。あなた達がスキマ通ったら、静止していた時間を流れさせますわ」
「分かりました。……じゃあ、行くか、優」
「そうだね。さっさと面倒事を済ませて、早苗と小旅行を再開できる良いのだけれど」
「恐らく、旅行へ出掛けられる余裕はあるんじゃないか? 恐らくだけどな。行けなくなったら、その時はその時だ。近場の街にでも出掛けて、なんかしようぜ。買い物とかさ」
「その休日の過ごし方も乙なものだね。早苗の心労を労って、お菓子屋巡りもいいんじゃない?」
「スイーツ店巡り、ねぇ……。まあ、それも乙だな」
「じゃあ、その方針でいこうか」
「ああ、そうだな――」
俺は背後に立っている紫さんの方へ向き直る。
「じゃあ、紫さん。俺達はこれで失礼します。……色々とありがとうございました」
「颯に同じく、お世話になりました」
俺と優は、紫さんに礼を述べた。
「なに、礼には及びません。それよりも、これからは身の安全に注意を払って過ごして下さい。今回は運よく助けられましたが、次回、同じようなことが起きた時に、再び運よく助けられるという保証はありませんから」
「肝に銘じて、骨に刻んで忘れませんよ。あんな九死に一生を得るような災難、2度とごめんですから」
俺は苦笑いを浮かべながら答えると、スキマの方へ向き変わる。
待ち受けているであろう面倒な一騒動に対して覚悟を決め、元いた現実に繋がる空間の裂け目へ足を運ぶ。
さて、まずは退避スペースを自分から出るか、駅員が来るまで待つかだな。その後は、恐らく救急車にでも乗せられて最寄りの病院で擦過傷の治療、大事をとっての何かしらの検査だろうか。
今回の騒動が事件性を疑われた場合、警察からの事情聴取もあるかもしれないな。
――まったくもって、今日は疲れる1日になりそうだ。