気が動転した。
動けばいいのか止まっていればいいのか、このまま立っていればいいのか座った方がいいのか、何をどうすればいいのか分からない。
完全に固まった私は雪ノ下陽乃に抱かれたまま、結局彼女の言葉に耳を傾けるしかできなかった。
「全部、……私が悪いんだ。私のせいで、こんなにも傷つけた」
「な、何を……。あなたが悪いなんて、そんなわけないでしょう! 私は化け物だから、こんな事当たり前で……っ」
この状況が全く理解できていないけれど、私は否定した。
化け物である私が肯定されるなんておかしい。そんな事があるはずがない。
……そんな事は、……そんな事を言ってくれる人は、この世界に彼しかいない。
「そんなことないよ」
でも、雪ノ下陽乃は優しい声音で耳元に囁く。
冷たくて静かな道路の上で、無機質な仮面を取った雪ノ下陽乃が囁く。
「あなたは母の娘で、私の妹。……お母さんの何よりも大切な宝物で、……私の宝物。あなたは決して醜い化け物なんかじゃなかった」
「……っ……」
彼女の声を聞いていると胸が締め付けられる。
涙ぐむその声を聞いていると胸が熱くなる。
何故か分からない。だけど、耳がその声を懐かしいと感じている。
「……あんなにも小さかったのに、大きく…なったね。
嬉し過ぎて、……涙がこぼれちゃうよ」
「あな……たは」
ぶら下げていたはずの両手が無意識のうちに彼女の背中に回っている。
……いつか忘れた、……いつか諦めたものが、ここにあるような気がした。
「ね、………姉さん…」
たっぷり間をおいて絞り出した言葉は、たったの一言なのにとても勇気がいる。
「姉さん、………私の、…姉さん」
疎まれて恨まれていると思っていた相手に、こんな事を言うのはとても難しい。
それでも、今この時に胸の内から湧き出る温かい感情が私にそう言わせる。
彼女に言葉を貰って感じたのだ。ずっと心のどこかで求めていたものを。
父がいなくなってから一度も貰えなかった“家族”からの愛情を。
「……ぁ……っっ」
「っ!」
彼女の抱きしめる力が急に強まり、体重を全てこちらに預けてくる。
いや、預けていると言うより自分で支えられていない。
呼吸も荒れ始め赫子が刺さった腹部の肉が疼きだす。ずっと痛みに耐えていたのかもしれないが、遂に彼女は立てなくなる。
腕だけは離さなかった彼女につられ、私も膝を崩して雪で濡れた道路に座り込んだ。
「ダメよ! 寝てはダメ! 今すぐ向こうまで運ぶから」
真冬の寒さにもかかわらず、彼女の額からは汗が垂れ始め、目が半分ほど閉じかかっている。
刺さった赫子が苦しそうだが、抜いてしまうと大量に血が流れてしまう。こんな大怪我の治療知識なんて持っていないためどうすればいいか分からない。
「とにかくここから動いてCCGの医療班の所まで……」
「……ダメ、……聞いて」
体にグッと力を入れて彼女を抱えようとするが、彼女は私の腕を掴んでそれを止める。
耐えられない痛みが彼女を苦しめているはずなのに、震える手を片耳に伸ばしてつけていたイヤホンの様な物を取り外した。
『雪ノ下! 返事をしろ雪ノ下!!』
道路に転がり落ちたのはずっと対策部と連絡を取っていた通信機。他の捜査官達も同じようなものを身に着けて通信していたからすぐに分かる。
その通信機からは何度も呼びかけがあり、反応がないと思った相手は通信も切らずに声を張り上げる。
『“あいつ“が到着したか!? すぐに向かわせろ!!』
ドタドタと慌ただしい騒音の中で、聞き取れたのがその言葉。
それを境にして通信はすぐに切られた。
「“あいつ”って……」
「……今すぐ逃げて。本当に、……すぐ来ちゃうから」
弱々しくて今にも消えてしまいそうな彼女の声。
もう明らかに限界だ。彼女は私のように肉さえあれば再生する便利な体じゃない。
私の様な化け物と渡り合えた天才でも雪ノ下陽乃は人間。今すぐにでも治療しないと彼女は死ぬ。
「バカ言わないで。すぐあなたを……」
無理やりにでも彼女を持ち上げようとした時だった。
「お願い、……もう二度と伝えられないかもしれないから、……聞いて」
彼女はスッと右手を伸ばして私の頬を撫でる。
冷えた私の頬は暖かい熱を感じ、赤い赫眼が映し出す彼女を見て息を呑んだ。
上半身を支えられた彼女はゆっくりと唇を動かして言葉を探す。
その姿はあまりにも儚くて、瞬きをすれば消えてなくなりそうだった。
「ねぇ……、いまさら、姉だなんて言ったら……、迷惑…かな?」
途切れ途切れでゆっくりと、彼女は自分の気持ちを言葉にする。
「いまさら、……大切だったなんて言ったら…、嘘みたい…かな?」
ずっと溜めていた涙を流し、もう一度私の頬に触れて彼女は言った。
「いまさら、……いまさらずっと会いたかったなんて言っても、……信じてもらえないかな?」
「待って姉さん! 死なないで!!」
今まで何を考えているか読み取らせず、仮面を付けているような彼女だったのに、今は何を考えているか言われなくても分かる。
彼女と目を合わすだけで気持ちが流れ込んでくる。
「ずっと、……ずっとずっと愛していた。私が守るってお母さんに約束した日から、ずっと想っていた」
「もういいから……、お願いだから、いなくならないで」
彼女の手を握りしめ、泣いてすがったその時。
私達のいる道路の両方で何十人もの人が一斉に足音を鳴らし始めた。
十メートルほど離れたところで騒々しく道の両端を塞ぎ、一斉に銃をこちらに向ける。
左側が離れたところに照明が設置された方で、右側は特等のクインケで派手にめくれ上がったアスファルト。
今の状態では切り抜ける事は不可能。たったの一本の赫子でこの数の銃を防ぎきるなんてさすがにできない。
体力も残されていないし、横の建物を上って逃げようとしても撃ち落される。
……それに一人だけ、黒いアタッシュケースをもった捜査官が前に出てくる。
大きな照明が設置されている方から、ゆっくりと雪の中を歩いて。
服も肌も白で、髪の毛まで白い眼鏡をかけた捜査官が。
「……白い死神」
私が生きてきたこの二十年で、本気で戦って勝てなかったのは一度だけ。
高槻泉、……いや、芳村エトのただ一人。
その小さい体を赫子が覆い、恐ろしい怪物となる彼女だけだった。
でも、そんな彼女も勝てなかった相手がいる。
「あれが高槻さんの言っていた、……有馬貴将」
そう、何時しか高槻さんが私に言った。
“その男を見かけたら、逃げる事だけ考えろ“
“下手に立ち向かったりしたら、……殺されるかもしれないよ”
「……雪乃ちゃん、逃げて」
呆然と座り込む私に、彼女は最後の力を振り絞って言った。
私の名前を初めて呼び、赫眼が出ているはずなのにちゃんと眼を見て告げる。
「雪乃ちゃんは必ず、……助けて見せるから」
「……無理よ。もう私は……」
もう私は助からない。
そう呟こうとした瞬間、私の耳は急速に近づいてくる音をとらえた。
「……いや、必ず助けるよ」
「え………」
感じた事のある律動が、照明の光が当たらない右側から向かってくる。
荒々しい羽赫の律動、それとその後ろから二人分の足跡が聞こえてくる。
「がぁっ!!」
そして瞬く間に兵士が声をあげ始め、敵がバタバタと倒れて行く。
この時は立っている兵士の影で誰が向かってきているのか見えなかったが、何となく誰なのか直感してしまった。
「……私は君で、君は私なんだ。だから必ず、雪乃ちゃんを助けに来てくれる」
会いたいと思うけれど、もう会うことは出来ない。
ずっと一緒にいたいけれど、ずっとは一緒にいられない。
……私のせいで迷惑をかけてしまい、私のせいでこんなにもたくさんの敵を作ってしまった。
「……なんだよ。女相手に大勢で来やがって。家の妹が見たらポイント激減だぞ」
光の射す方から来た白い死神に対し、彼は夜闇にまぎれてクインケを振るう。
見た目に反して美しいその動きは、黒いコートのせいで影が動いているみたいだった。
「……ちゃんと連れ出してって言ったのに、……どうして」
座り込む私の前に来たのは三人。
黒いウサギの面をつけた羽赫の喰種と全身に包帯を巻きつけた赤い服の半喰種。
それと私の大切な__________。
「比企谷くん……」
私の愛した人でした。