二月 三週目
朝 比企谷家
いつも通り早く目を覚まし、眠気を覚ますために顔を洗っているとふと思った。
二十歳になった俺は学生の時とあまり変わらない。
毎日決められたことをやり、夜が来れば眠って明日をむかえる。
これが一週間続くとまた次の一週間が来る。
一週間前の一日と今日の一日を比べても大差ないだろう。
「……ねみぃ」
まぁ実際に比べてみるともちろん違いはある。
今日雪ノ下が俺の布団で寝ていた事なんかはいい例だろう。彼女は俺の背中に頭をつけて眠っていた。
「はぁ、偉そうに守るなんて言ったくせに何も出来てねえな」
頭をガシガシと掻いて寝間着からスーツに着替える。
雪ノ下と暮らし続ける中で多くの事を話し、色々な表情を見て彼女との距離はだんだんと近くなった。少しかもしれないが、彼女を分かって来たと言ってもいいかもしれない。
分かって来たと言っても、それは猫が好きだとか意外と方向音痴だとかそう言ったものではなく、もう少し彼女の深い所に隠れていること。
彼女が死のうと思ったその原因についてだ。
俺は彼女を見てきて、こう思った。
……たぶん、彼女はどんな喰種よりも強いのだ。
彼女は決して人を傷つけようとはしない。人の命を軽く見たりしない。
誰よりも命を奪う事を避け、誰よりも命を尊く思っている。
それが彼女の強さであり、決して曲がらないものだと俺は思った。
そして、それが彼女を苦しめている元凶だとも思った。
人しか喰べられないと言う喰種の体を持っていながら、決してその考えを変えることはない。
人の命を尊く思い、喰べることが嫌でたまらない。他の喰種がそれを妥協しても、彼女は決して妥協しないから苦しんだ。
そしてその苦しみは彼女を蝕み、何時しか耐えられないほど大きなものとなる。
信念より先に彼女自身が壊れてしまうほど大きなものに。
だから雪ノ下は死を望んでしまった。
彼女は強いけれど、それ故に弱い。
「眠ってるな」
自室の扉を開いて布団を見てみると、雪ノ下はまだ眠っている。
今まで彼女を見てきたが、雪ノ下は少し精神的に不安定だ。
昨日は特に疲れてしまった様なのでゆっくりさせてやりたい。
何か気の晴れることでもしてやれればいいのだが……。
「……」
椅子に座ってじっと考えてみたがあまりいいアイデアが思いつかない。
雪ノ下の場合なら猫カフェとかに連れて行ったら喜ぶかもしれないが、それじゃあその辺の猫と戯れている時と変わらない。
……かと言って他に案があるわけでもない。
「何か雪ノ下の好きな……」
そこまで考えていると、ピンポーンとかすれた電子音が部屋に響いた。
俺は最初かなりビックリしてしまったが、これは家のインターホンが鳴っただけだ。
この家のインターホンが押されたのは初めてじゃないだろうか。
「ふう、起きてないよな」
またまた自室の扉を開いて雪ノ下を見てみたが、身じろぎしただけでまだ目覚めてない様だ。
俺は早足で玄関まで向かい、出来るだけ音をたてないようにしてドアを開いた。
「……あぁ、……おはよう比企谷さん」
「あっ、おはようございます」
真下の靴を履いて外に出て、ドアをゆっくり閉めて来客に軽くお辞儀する。
真冬だと言うのに部屋着にエプロンをつけたままという寒そうな格好、履いているのはこれまた冬に合わないサンダル。
家を訪ねてきたのはこのアパートの大家さんだった。
「朝早くからごめんなさいね。……ちょっと用事があって」
「いえ大丈夫ですよ」
俺のなんてことない返事に大家さんは微笑を浮かべる。だがその顔はどこかぎこちなく作られたように感じた。
わざわざ朝早くから訪ねてくるなんて何事なのか。
「それで……、あの子はまだ寝てる?」
「……?えぇ、寝てますけど......。彼女に何か用が?」
「いや、特に用はないんだけどね。朝からインターホンの音で起こしちゃったら悪いと思って」
「……そうですか。それじゃあ用事と言うのは何でしょう?」
ずっと外に居ても寒いため早めに会話を済ませた方がお互いのためになる。
それにそろそろ仕事に向かわないと遅刻してしまう。
「あぁ……、ちょっと渡したいものがあってね。たまたま手に入ったんだけど、私は使わないから良かったら二人で」
そう言って大家さんはエプロンのポケットから二枚の紙きれを取り出す。
紙を持った手は寒さのせいなのか少し震えていて、それを俺に渡した。
渡された紙には文字や絵が印刷されていて、その絵のキャラクターには見覚えがある。
「これは……」
「じゃあそれだけだから、……朝早くからごめんなさいね」
紙を渡すや否や大家さんはすぐに背を向けて階段の方へと歩いて行く。
まだ貰ったお礼も言っていないし、なんなら貰うなんて一言も言っていない。
しかしながら、このまま何も言わないのも失礼だと思ったので、少々強引にその場から離れる大家さんに後ろからお礼を言っておいた。
「……何だあの人。今日はやけに変だな」
そう言って肌に触れる冷たい風に身震いしながら俺は家の中へともどって行った。
・・・・・
・・・
・
俺は仕事に行く前に、自室に行って寝ている雪ノ下の近くに座り込んだ。
後ろの壁にもたれ掛かって静かに耳を澄ませていると、彼女の寝息が聞こえてくる。
色々と脱線して大家さんまで来たからすっかり忘れていたが、話を最初の方へと戻そう。
二十歳になった俺は学生の時とあまり変わらない。
毎日決められたことをやり、夜が来れば眠って明日をむかえる。
これが一週間続くとまた次の一週間が来る。
一週間前の一日と今日の一日を比べても大差ないだろう。
でも、そんな毎日が今はとても幸せだ。
同じような一週間のサイクルの中にいつも彼女がいる。
ただいまやお帰りを言い合うことや日常の些細な会話で笑うこと。
同じテレビを見たり同じコーヒーを飲むこと。
偶に一緒に出掛けて冬の寒さを共に感じること。
彼女の喜んだ表情や困った表情、少し拗ねた顔や時には泣き顔も。
全てひっくるめて今が幸せだ。
何一つ余すことなく永遠に忘れたくない。
同じような事をして同じようなものを見ているはずなのに、そのすべてが違う色彩を帯びている。
ずっと前に喰種の女の子を救えなかった時から、俺の見える景色は歪んでいたのに。
毎日が意味のないように思っていたのに……。
「雪の降る夜に、化け物と出会った」
その時から全てが変わり始めた。
「……助けたのは俺じゃない」
俺は立ち上がってスライド式のドアを開け、雪ノ下の部屋に入った。
彼女の部屋にある押入れを開き、この間隠した物がちゃんとあるか確認する。
見えないように奥へと隠してからは触っていない。
「……ちゃんとあるな」
いつもと大して変わらないはずの朝なのに、俺はこんな事を思ってしまう。
あと何度こんな風に彼女と過ごせる日常があるだろうか?
あと何度彼女と会話ができて、何度彼女の笑顔が見られるだろうか?
全部近いうちに終わってしまうのではないか?
隻眼のフクロウが俺に接触してきたことも、これが家の前にあったことも、全て何かの予兆だと思う。
大切で幸せな日々が終わってしまう予兆なのだと思ってしまう。
もしそうだとしたら。
その時俺は………。
「……ずっと一緒に居られたらいいのにな」
俺は卑怯だから、雪ノ下と違ってちゃんと相手が寝ている事を確認している。
寝ていると知っているから、俺は隣の部屋にいる雪ノ下にそう言った。
「もっともっと、……お前と一緒に」
でも俺の嫌な予感は。
外れてはくれなかった。
*
CCG本部
「丸手特等、準備が整いました」
「……そうかぁ、たかだか喰種一匹を狩る準備にだいぶ時間がかかったな」
「そうですね。まぁ丸手特等がたかだか喰種一匹にあんなにも捜査官を集めなければもっと早く終わっていたと思いますけどね。作戦もかなり大胆ですし」
「作戦人数の増員は俺じゃなくて総議長の命令だ。俺もたかだか一匹にやり過ぎたと思うが、相手はあの隻眼だ。ここにきてアオギリとのつながりも示唆されてやがる。フクロウと関りを持っている可能性も十分ある」
「隻眼は必ず殺せ、……ですか。運の悪い喰種ですね」
「喰種なんぞに同情してやるかよ。それより、準備は終わったんだろ?」
「……はい。では参加する捜査官に伝えましょうか?」
「ああ、全員に通達しろ。……作戦開始だ」