目覚めて最初に見たものはベランダの外。
特に曇っているわけでもないのに、いつもより外が暗い。
……まだ日の光が射していないからか。
「………」
二月もそろそろ終わりをむかえているけれど、やはり冬なので布団から出ると肌寒い。
私は鏡で寝起きの顔を確認し、髪を櫛でとかしてから部屋を出た。
「……おはよう、比企谷くん」
部屋を出ると、すでに着替えを終えて朝食をとっている比企谷くんがいた。
まぁ部屋を出る前から物音で分かっていたけれど、彼は本当に起きるのが早い。
休日は私と同じくらいお寝坊さんなのに。
「ん、いつも寝坊するのに今日は早いな。と言うかまだ眠ってもいいんだぞ。昨日は夜遅くまで起きてただろ?」
「お弁当のおかずを作っていただけよ。本当はもっと早くから起きてちゃんと完成させたかったけれど、その必要はないようね」
テーブルの上に置いてあるお弁当にはおかずと白米が詰められている。
昨日私が作っておいたおかずを比企谷くんが弁当箱入れてたのだろう。
「おかずありがとな。とりあえず弁当はできたから、もう少し寝たらどうだ?」
「いえ、……大丈夫よ」
確かに寝たいけれど、たぶんそれは出来ない。
最近は眠りが浅い。夜はなかなか寝付けないし、一度眠っても夜中に何度も目が覚める。
原因は、……分かっている。
もう彼と暮らし始めてから一カ月以上経っているのだ。
「…今日もお仕事頑張ってね」
「ああ、雪ノ下もバイト頑張ってくれ」
たわいない会話でちょっと新婚みたいだとか考えて浮かれる。
そんな毎日が過ごせてうれしい。
「……なぁ雪ノ下、話は変わるけど」
「何かしら?」
やけに真剣な比企谷くんの顔つきを見て、私は無意識に片手でお腹を押さえている事に気がついた。
気づいた瞬間に手を下げたが、その不自然過ぎる動きで彼を騙せるわけがなかった。
「お腹すいてるだろ?」
「………」
完全な図星に何も言い返せず、眼をそらしてしまった。
もうずっと……、肉を食べていない。
本当はもうずっと前から限界が来ている。雪ノ下陽乃と出会った時、私は肉を喰べるために廃工場に行ったが結果は腕一本分しか摂取できていない。
お腹がすくのは当然のことだった。
「俺を喰ってもいいんだ…」
「比企谷くん!!」
彼の言葉をかき消すように、とても大きな声を出した。
自分でも驚くぐらい突然で、寝起きだというのに心臓がバクバクと動いている。
「……もう二度と、……二度とそんな事は言わないで。たとえ冗談だったとしても、……許さないわ」
じわっと涙がこみあげ、視界が歪む。
だが涙はこぼさず彼の方を見た。
「……すまん。今のは俺の、………俺のために言ったことだった。雪ノ下の気持ちを考えていなかった」
「………」
どうしてこうなるのだろう。
比企谷くんは私を心配してくれているだけで、悪い事なんて何もしていないのに。
私はただ、比企谷くんと普通の暮らしがしたくて、喰種であることを忘れて彼のそばに居たいだけなのに。
「……私の方こそごめんなさい。あなたは悪くないのに、…私が勝手に感情的になって」
目元の涙を人差し指で取り去り、比企谷君に頭を上げさせる。
「……私の食事は引っ越す前に言った通りにするわ。だから今日は、…私の方が帰ってくるのが後になると思う」
時計を見るともう彼が家を出る時間になっている。
私は何か言いたげな彼を家から出るように促し、近くに置いてあったカバンにお弁当を入れて渡した。
結局のところ、私は喰種なのに人を喰べることを避け、そのせいで比企谷くんに心配をさせてしまっただけだった。
比企谷くんと暮らしているのに彼と同じ人を喰べてしまったら、もう比企谷くんと一緒にいられないような気がして今まで以上に喰べたくなかった。
「……朝から嫌な気分にさせてしまってごめんなさい。お仕事頑張って」
「……いや、俺の方こそ悪かった」
それが今回の嫌な雰囲気を作ってしまった原因だ。
だから悪いのは私で、彼に怒るなんて間違っているかもしれない。
「……」
でも……、
「……でもね、比企谷くん」
「……?」
どうした、と言わんばかりの表情をする彼。
さっきの事で彼も気まずい雰囲気を作りたくないため気にしていないふりをしてくれている。
……比企谷くんはいつも優しいから。
「もうあなたに謝ったり、あなたに謝らせたくないけれど、やっぱり私はさっきのような事を言われたら怒るわ」
「……分かった。もう二度と言わない」
最後にいってらっしゃいと言って、彼の背中を優しく押した。
彼はドアを開き外へ出る。彼が出て行く代わりに冷たい風が外から入ってきた。
「だってあなたは、私にとって一番大切なものだもの」
*
雪ノ下に送り出され、いつもの様に仕事場で働き続けていると昼の休憩が来た。
俺は食堂の隅っこで母親と一緒に昼食を取っている。
「……あんた今日は変ね。……まぁ最近はずっと変だけど」
近くの自動販売機が温度調節のために変な音を出している中、俺の母親はそんな事を言った。
いつも飯を食べている時は視線をこちらに向けず、話していてもあまり反応のよくない母親だが今日はしっかりとこちらを見ている。
「そうか?」
「うん、今日変なのは集中力がないこと」
「それは、……今日は朝から色々あってな。それでちょっと考え事をしてた」
女々しくて情けないが今日の朝の事をまだ引きずっている。
俺を喰っていい、なんて彼女が聞いて喜ぶわけがなかった。
何でもっと彼女の事を考えてやれないのだろう。
仕事中はその事で頭がいっぱいになっていた。
「最近変なところはもっと他の事で、色々ある」
「例えば?」
俺は雪ノ下が作ってくれた卵焼きを箸で半分に切り、それを味わいながら母の話を聞く。
レシピ通りと言っていたが、やっぱり美味しい。
「仕事辞めたことは別にいいけど、……引っ越したのは驚いた。別にそれも悪い事じゃないけど、何で小町に住所教えないの?受験終わってあんたに会いたがってるよ」
「メールで聞いた。でも今は小町に来られたら面倒な事になる」
「ふーん、小町かわいそ」
母親は深く詮索せず、それだけ言うと黙々と自分の弁当を食べ始めた。
「……」
俺は小町にはもちろん母親にも雪ノ下の事を話していない。
だが不思議な事に母親には筒抜けな気がする。
実際にはバレていないだろうが、なぜかそんな気がしてならないのだ。
「……なぁ、今の俺の生活の事聞かないのか?」
「何?聞いてほしいの?」
「いや、親として気にならないのかと思って」
気づけば母親の弁当箱は空で、もう片付けを始めている。
「あんたはもう二十歳でしょ。何が良くて何が悪いかくらい考えて行動してるんじゃないの?」
「まぁ、……俺が正しいと思う事をしているけど」
「ならいいわよ。気にしないからそれを続けなさい」
休憩時間の終わりが近づき、母親は弁当を持って席を立つ。
俺も急いで残りを平らげ弁当を片付けようとするが、母親は先に行ってしまう。
……ちょっとくらい待ってくれてもいいんじゃないですかね?
「あんた最近変だけど、前よりもマシな顔してる。だから何も心配しないわよ」
「ん?」
急いで追いかけた母は、俺に背を向けて何かを言ったが聞き取れなかった。
俺は横に並び、言葉を聞き返すとこう言った。
「……小町のやつ彼氏できたって」
「えっ!嘘だろ!?」
明らかな俺の動揺に、母親はふっと鼻で笑った。
「……嘘に決まってるでしょ。あの子はまだお兄ちゃん離れできてないんだから」
*
夜の暗い帰り道。
俺は仕事場から一番近い駅に向かって歩き、一人でスマホとにらめっこする。母親は自転車で帰るので一緒ではない。もちろん職場の人と一緒に帰る様な事はない。
「……小町か」
スマホを見てみるとさっき話題に出た小町からメールが来ている。
ずらっと並んだ文字を読んでみると、どうやら大学の合格祝いに高いヘアピンを買ってほしいそうだ。
……全く、そんなもの大学につけて行ったら余計に男が寄り付くかもしれないだろ。
俺は丁重なお断りメールを送って、スマホをポケットにしまった。
「……あ?」
ながら歩きを止めて普通に前を向いていると、少し先の曲がり角から腕が見えた。
腕はこっちに来いと言わんばかりに手招きをし、曲がり角が近づくとサッと消える。
「……今日はあいつ、帰りが遅いって言ってたな」
そんな事を呟いて、俺は手招きされた方へ曲がって行くと、さらに奥の曲がり角でさっきと同じように腕が手招きをしていた。
やはり俺を呼んでいる様だ。
「……あまり駅から離れないでくれよ」
こうして俺は、人気の少ない方へと進んでいった。
・・・・・・・・・・・・
それから5分ほど歩くと架道橋の下まで連れてこられ、相手は俺の数メートル先で止まった。
「……意外と無防備だね。私が喰種ならどうするつもりかな?」
「まずは自己紹介したらどうだ?お前が俺の事を知っているかは知らんが、俺はお前の事を知らないからな」
ここまでくる間に長い直線があり、その時からずっと後ろ姿を見せていた彼女はようやく口を開いた。
背が低い事から女だと思っていたが、声から判断しても間違いないようだ。
「おっと、それは失礼。なんせ興奮してしまって自己紹介なんて忘れていたよ」
ゆっくり。
ゆっくりと彼女は振り返り、被っている赤いフードをはずす。
「どーも初めまして」
「……お前」
見えたものは、歪み切った笑顔。
「“隻眼のフクロウ”です」
そして赤い右眼だった。
「いやぁ、最近は君たちの事が気になってすぐにちょっかいをかけたくなるんだよ。この前あの子に会ったばかりだと言うのに、もう君に近づいてしまった」
「雪ノ下の友達、……なわけないか」
「お友達だよ。雪乃ちゃんと私はマブダチだ」
ケタケタとおかしな笑い方をする。
何故か全く周りに人の気配を感じない。
「……用件があるなら手短に言ってくれ。まぁ俺を喰うって言うなら、全力で逃げるがな」
「安心していいよ。君は美味しそうだけど喰べやしない。そんな事をしたら“賭け”が出来ないからね」
……賭け?
「……あぁ、やっぱり悩むなぁ。可愛い雪乃ちゃんにハッピーエンドをむかえさせるか、それとも醜い喰種になってもらうか」
「……何の話だ?」
無駄だと分かっていても、無意識に身構えている。
喰種が相手ならクインケがないと話にならない。
それもSSSレートならなおさらだ。
「だから“賭け”の話だよ。まぁ君の一人勝負だから私に損はないけどね」
静かな空間で、またケタケタと笑い声が響く。
その異様な笑い声に、俺は少し恐怖を覚えた。
「ねぇ比企谷くん」
「……っ!!」
耳元に吐息がかかったと思ったら、彼女は俺のすぐ隣にいた。
先までは前にいたはずなのに……。
「……もし君が負けたら」
上で電車が架道橋を通る。
ガタガタと大きな音を鳴らして。
「君のすべてを使って、雪乃ちゃんには狂ってもらう」
・・・・・・・・・
・・・・・
・・
*
夜道を進んでアパートまでたどり着く。
いつもより帰る時間は遅れたが、下から見ても我が家の窓から光が射していない。
それを見て、雪ノ下の帰りが遅い事を思い出した。
アパートの階段を上がり、一番奥の部屋へと向かう。
何だか今日は色々と疲れてしまった。
「……は?……何でこれがここにあるんだよ」
カバンの中をガサガサと探っていたが、家のドアの前を見て鍵探しを中断する。
疲れた頭で家のドアの前に置かれたものについて考えるが、なぜこんな状況が起こるのか理解できない。
……普通に考えれば、これがここにあるなんてあり得ないのに。
「……」
少し考えたが、俺は結局それを家の中へと入れる事にした。
「今日はやけに変な事が多いな」
俺は家の中に入り、雪ノ下の部屋の押入れにそれをしまった。
彼女の目に入らないように、暗くて狭い奥の方へと。
読んでくださった方々、ありがとうございます。
いつもより投稿が遅くなってしまいましたが用事が一段落したのでこれから頑張ります。
これからも是非読んでください。