雪の中の化け物【完結】   作:LY

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第二十五話

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

母と私が一緒にいた時間はあまり長くなかった。

 

 

小さい頃の事だから母との思い出は淡いものばかり。

 

正直言ってほとんど思い出すことが出来ず、余りにも曖昧過ぎて本当は夢だったのではないかと思う時もある。

 

本当にそれくらいおぼろげな記憶ばかりだ。

 

 

 

 

……でも二つだけ、確かに覚えている思い出がある。

 

優しい母が残してくれた、私にとって大切な思い出。

 

 

 

 

 

 

 

一つ目は、母が頭を撫でてくれたこと。

 

 

 

私が四歳位の時、もうこの時点で私と母は同じ場所に住んでいなかった。

 

私は会社の社長をしている父と暮らし、母とは離れ離れ。

 

だから母にご飯を作ってもらった事も、勉強を教えてもらう事も、歯を磨いてもらった事もない。

 

でも私は母がそばにいない理由を何となく察していたので文句を言わなかった。

 

寂しいと思っていたが、何も言わなかった。

 

 

自分で言うのも何だが、私は子供のころからお利口さんだったのだ。

 

……少し利口過ぎた。

 

 

 

 

 

そんな私は父の目を盗んで何度か母に会っていた。

 

父は母に会いたがらないし、私が母と会う事を絶対に反対するので秘密裏に動いた。

 

 

私の面倒を見てくれる人の中に母の事をとても慕っている人がいて、その人がいつも母との待ち合わせを取り計らってくれていた。

 

 

 

 

 

 

 

幼い私にとってはその時間が一番の楽しみで、待ち合わせの時間よりずっと早く到着して待っていたものだ。

 

椅子に腰かけ足をぶらぶら揺らし、ずっと時計を眺めて待っていた。

 

その時の私は鼻歌なんかも歌っていたかもしれない。

 

 

 

そうしていると、やがて母はやってきて遠くから私の名前を呼ぶ。

 

 

 

“陽乃”

 

 

 

母は何度も私の名を呼びこちらに手を振る。

 

私はそれに気づくと小さい足を懸命に動かして、母の所まで駆け寄った。

 

 

駆け寄って母の足にしがみつき、よく笑われたものだ。

 

 

 

“陽乃は甘えん坊ね”

 

 

 

そう言って母は私の頭を優しくなでた。

 

 

 

“いつも一緒にいられなくてごめんなさい”

 

 

 

優しく、優しく、大切に撫でてくれた。

 

 

 

“大好きよ”

 

 

 

 

これが私にとって、とても大切な思い出。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてもう一つは、もっと大切な思い出。

 

 

一つ目の思い出の後の事で、私が母と最後に会った時の事だ。

 

 

……母は私と会った後、すぐに息を引き取ったらしい。

 

 

 

 

この思い出は、体の弱りきった母が私にくれた人生で一番大切な思い出。

 

 

 

 

 

 

 

でもこれは、あまり思い出さないようにしている。

 

 

 

 

この思い出は、私と母。

 

 

 

 

それと———————————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やぁ比企谷君」

 

「どうも」

 

 

 

午後六時頃、メールで後に送られてきた待ち合わせ場所まで来てみると、もう雪ノ下さんはその場所にいた。

 

今日はいつもと違ってあのバカみたいな挨拶はしない。

 

 

 

「ゴメンね、急に呼び出して」

 

 

 

呼び出された場所は普通のファストフード店で少し早い時間だから周りのお客は少ない。

 

雪ノ下さんは四人掛けテーブルを陣取り、そのテーブルの上には既にドリンクやハンバーガーが並んでいた。

 

そして彼女の向かいの席にも、ドリンクとハンバーガーが置いてある。

 

 

 

「適当に君の分も買っておいたけど良かったかな?」

 

「ええ、後で払いますよ」

 

 

 

そんなのいいよ、と彼女は言って俺を席に座らせた。

 

 

 

「……それで、なぜ俺を呼び出したんですか?

雪ノ下さんは今日仕事を休んでいたから体調が良くないと思っていましたけど」

 

 

 

向かいにいる彼女は珍しく俺の顔を見ず、代わりに手前のトレイを眺める。

 

どこか上の空と言う感じだった。

 

 

 

 

「君と話がしたくなった……」

 

 

「……」

 

 

 

たっぷり間を置いた彼女は、やはり俺を見ていない。

 

頭の中で、誰かの事を思い出しているのかもしれない。

 

 

 

「……私ね、小学校の二年生までは他の子と違ってた。

喰種は怖い生き物じゃないって思っていたの」

 

 

 

はたして誰を思ってこんな事を話し始めたのか。

 

それは考えないようにした。

 

 

 

「それでね、ついうっかりクラスでその事を話しちゃったの。喰種は怖くないよって。何でその事を話したのかは覚えていないけど、周りの反応はよく覚えている」

 

 

 

それから彼女はフフフと少し笑った。

 

笑ったけれど、どこか疲れたような感じだった。

 

 

 

「ずっといい子で完璧だった私が初めて変な目を向けられたの。その後先生が父を呼んだりして大変だったなぁ」

 

 

 

彼女の話はこの世界では至極当然のことだった。

 

喰種の擁護は重罪、そんな世界で喰種を肯定的にとらえるなんてどうかしている。

 

俺もあの子がいなければ、ずっとそんな考え方しかできなかっただろう。

 

 

 

「それから父は私に異常なまでに怒って、徹底的に教育した。喰種は悪だって。父は人一倍喰種が嫌いだからね」

 

「……」

 

 

「……まぁそれもしょうがないと思う。父は喰種のせいで母がいなくなったと思っているから」

 

 

 

雪ノ下陽乃も何かを抱えて生きている。

 

俺が自分なりに何かに迷って生きていたように彼女も人生で何かに迷った。

 

 

いや……、もしかしたらまだ迷い続けているのかもしれない。

 

まだ答えが見つけられていないのかもしれない。

 

 

 

「それで父の教育とあの時の周りの反応のおかげで、私はこの世界に適した考えを持つことが出来た。たぶん君なら“仮面”って言うと思う」

 

「仮面ですか……」

 

 

 

仮面と言われると、ふと今まで見てきた喰種たちが身に付けていたものを思い出す。

 

捜査官に素顔を隠すために使われる仮面。それぞれの持つ独特なデザインで通り名が決められたりする。

 

 

 

「その仮面はいつしか私を喰種捜査官にさせ、喰種を殺すことを楽しませ、私は戦いが大好きになった。

そうして喰種捜査官を続けていたらね、いつの間にか仮面は仮面じゃなくなった。

もうはずれることはない、私の体の一部になった」

 

 

 

そこまで言うと、彼女はテーブルの下から右手を上げて頭まで持って行く。

 

そして手で頭を押さえ、顔がだんだん歪んでいった。

 

 

 

「もうはずれないって、………そう思っていたのに。

私が昔の事を思い出そうとしないから、……私は、あの人との約束を破った」

 

 

「……大丈夫ですか?」

 

 

 

明らかにいつもの陽気な雪ノ下陽乃ではなかった。

 

口にする言葉も俺に向けられたものではなく、自分に向けて言っている。

 

 

 

 

そしてしばらく彼女は黙り込み、初めて目の前のドリンクを手にしてそれを飲んだ。

 

 

 

 

「……ゴメンね。急に呼び出して、訳の分からない事ばかり言って」

 

「いえ……」

 

 

 

この時に今日初めて彼女と目が合った。

 

 

 

「……静ちゃんがメールで送って来たよ。比企谷君が捜査官辞めるって。………君はちゃんと選んだんだね」

 

 

 

その小さい声があいつを思い出させ、俺は右手でそっと左腕を触った。

 

服の下には、家で待っている彼女の咬み跡が残っている。

 

俺がちゃんと選び、決断した証拠だ。

 

 

 

 

「…はい、選びました。もう後悔しないように」

 

 

「そっか…」

 

 

 

 

また小さくこぼれる言葉が耳に入ると、俺を見つめる瞳が少し潤んだような気がした。

 

 

決して泣いているわけではないけれど、少しだけ雪ノ下さんが涙を流しているように見えた。

 

 

 

 

 

「………君は選んでくれたんだね」

 

 

 

 

そして彼女は、いつもの顔を作った。

 

 

 

 

「じゃあ私も、ちゃんと選ぶよ」

 

 

 

いつもの様に陽気で、完璧な雪ノ下陽乃の顔を。

 

 

 

「私は喰種捜査官。これからも喰種を殺すよ」

 

 

「……あなたはそれを選ぶんですね?」

 

 

「うん」

 

 

 

アオギリ戦の前にクインケのメンテでCCGのラボに行ったとき、彼女と話したことを覚えている。

 

俺が雑談だと称し、彼女に質問をした。

 

 

その質問の答えを俺は忘れてはいない。

 

 

 

「ありがとう、比企谷君。君のおかげで、私はちゃんと決めることが出来た」

 

「俺は何もしていませんよ」

 

 

 

頃合いだと思って目の前のドリンクを一気に飲みこみ、ハンバーガーはカバンの中へと入れた。

 

さすがに一気に飲んだのでお腹がしんどいが、俺は見栄を張ってなんともない顔をして彼女に言った。

 

 

 

「……じゃあ俺は帰ります。ごちそうさまでした」

 

 

 

それから彼女の返事を待たずして、俺は一人で店を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼が席を立ち、一人になった。

 

座ったままの私は、先ほどまで彼がいた席を眺め、こんなことを呟いた。

 

 

 

 

「何もしてないなんて、そんな事ないよ。

 

私は君で、君は私なんだ。

 

だから私は捜査官を選ぶことが出来たんだよ」

 

 

 

 

君のおかげ、私はもう迷わなくてすむ。

 

 

 

 

「ありがとう、比企谷君。やっぱり君の事が大好きだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

腕時計を見たら、小さい針が7を少し過ぎていた。

 

 

それを確認し終わると、俺は目の前の見慣れた扉を開いた。

 

 

 

「………あっ、……お、おかえり、なさい」

 

 

 

扉を開けると一人の女の子がこちらに駆け寄り、ぎこちなくそう言った。

 

 

 

「…おう、ただいま」

 

 

 

この家に帰ってきて、初めて“ただいま”と言った。

 

初めて“ただいま”と言える相手がいた。

 

 

 

「…なぁ、雪ノ下」

 

 

 

俺が彼女をここに引き留め、こうして彼女に向き合っている事が本当に彼女のためになっているかは分からない。

 

ただ俺の、自己満足なのかもしれない。

 

 

 

「……?何かしら?」

 

 

 

……でも、今こんなにも俺が嬉しいと感じられるから、

 

 

 

「…ありがとな」

 

 

 

俺はこの選択が間違っているとは思わない。

 

 

 

 

 

「……フフ、変な人。お礼を言うのは私の方なのに」

 

 

 

 

俺は雪ノ下陽乃の敵になったとしても、彼女と一緒にいる。

 

 

 

 

 

 


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