「比企谷さん、起きてください」
目を覚ますと相変わらずオレンジ色の景色が広がっていて、頭を何かで縛られた感覚があった。
俺は確か、喰種と戦っていて……。
「……どう、…なったんですか?」
「大丈夫です。ほぼ終わりましたから」
痛みが走る頭を触ってみると止血の為何かの布を巻かれている。
よく見ると腕や足にも巻かれているため、一通り応急処置をしてくれたのだろう。
座ったまま石塀に楽な体制でもたれ掛かっている。
「すみません。今回の事は完全に私のミスでした。
比企谷さんには大変な思いをさせてしまいましたね。手足を切られていますし、動けないでしょう?」
「……いぇ」
首を絞められたときに喉がやられたのか、さっきから声が上手く出せない。
だんだん冴えてきた目で見てみるとやはり夕陽が出ているのが分かる。
俺はそんなに長い間寝ていたわけじゃない様だ。
「…ほかの、ぐ」
「話さなくても大丈夫ですよ。
ほとんど私が駆逐しておきました。処理班を呼ばないといけませんね」
上司が指さした方向には五体の喰種が血で染まった地面に転がっている。
その中には俺と戦っていた喰種も……。
………いや、
何か忘れている……?
「……!?
……あの、子は!?女の子、が!?」
気絶する前に見た光景を思い出し、上司に上手く出ない声で聞いた。
あの時、俺を助けた女の子がいたはず。
「…女の子?………あぁ、これの事ですか?」
上司はしゃがんで俺と話していたが、この話をすると急に立ち上がり、一歩横にずれて今度は後ろのフェンスの方を指さした。
先ほどまで上司がいたから見えなかった場所。
俺はそこを見て目を見開いた。
「……あ、なん……で?」
死んでいる喰種たち同様、腹部を血だらけにして座り込んでいる彼女を目にすると、言葉と言うものを忘れてしまった。
彼女はお腹に空いた大きな穴を押さえ、呼吸を荒くしてフェンスにもたれ掛かっている。
「……他は駆逐したのですが、これはまだ残っています。もう死にかけですし、比企谷さんの手当てを優先しました」
こんな状態でも必死に呼吸をして、動けなくても生きようとしているのが分かった。
彼女の目は生きたがっていた。
「馬鹿な喰種ですよ。いきなり赫子を出して同族に襲い掛かり、結局返り討ちにあったのですから。
たぶん共食いでもしようと思っていたのでしょうね。
弱いくせに出てくるからこうなるんですよ」
「ちがっ」
やはり声は上手く出ず上司の耳には届かない。
「まぁ処理班が来る前に片付けておいた方がいいですね。もう動けないようですし、即殺できるでしょう」
……違う。
違う、どう考えても違うだろ。
彼女は俺を、
「おれ、を…たすけ」
夕陽に照らされ赫子を出した彼女は間違いなく俺を助けるために割って入った。
見ず知らずの俺を、……まったく自分と関係のない喰種捜査官を助けた。
「ハハ、比企谷さん。
これが君を助けるわけないじゃないですか」
上司は笑いながら死にそうな彼女の首元にクインケを当て、こう言った。
誰に対しても敬語で話すような優しい上司が、
人として少し尊敬していたこの人が、
常識を持った人間が笑いながらこう言った。
“これはただのゴミですよ”
「…………………は?」
この時、俺の中で“何か”が壊れた。
たぶんその“何か”はこの世界の人間が持っていて当たり前の物で、持っていないといけない物。
この世界を見るときに歪みを補正しているものだった。
それが壊れた俺には、もう世界は正しいものではなかった。
俺の見えていた世界は一気に変わり始めた。
「……何だよ、これは?」
地面が歪み、
血が歪み、
クインケが歪み、
建物が歪み、
空が歪み、
人が歪み始めた。
「それジャアころシまスネ」
ぐにゃぐにゃに歪んだ上司が何を言っているか分からなくなった。
ただクインケが動き、彼女の首をはねようとしたのは分かった。
「まっ!待ってくださ———————」
「さヨウなら」
俺の必死で出した声も、とっさに動かした手も意味を持たず、何も変えずに終わった。
彼女の頭部は、地面を転がった。
「…あ、……ああ」
この時大きく歪んだこの世界にとっては、取るに足らない小さな出来事が起きた。
喰種の女の子が捜査官に首をはねられて死んだ。
「ああ、……あ」
日々平穏に生き、家でゆったりしている人達にとっては気にもならない出来事かもしれない。
「……あああああああああああああああ!!!」
でも俺にとっては、
「アアああああああああああああああああああああ!!!!」
世界が崩壊するよりも大きな出来事だった。
*
いつの間にか座り込んでいた俺は後ろで電車が通り過ぎる音を聞き、目を覚ました。
「……もう夜じゃねえか」
夕陽は沈み、本当にいつの間にか空は暗くなっていた。
たぶん記憶をたどっていたら半分寝たような状態になっていたのだろう。
冬の寒さのせいで体が冷え切っている。
「……帰るか」
最後に飾った花を一目見て、俺は駅に向かって歩き出す。
無論、頭の中はまだあの日の事でいっぱいだった。
……明るい髪をお団子のようにまとめた女の子。
彼女が最後にどんな顔をしていたのかは一生忘れられない。
俺を庇ったせいでお腹に穴をあけられ、荒い呼吸で生き続けていた彼女は苦しかったと思う。
俺も喰種に首を絞められ、とても苦しかった。
必死で呼吸をして生きようとしていたのに刃を向けられ、彼女は怖かったと思う。
俺も喰種に殺されかけて心底恐怖をした。
結局死ななかった俺よりもずっと苦しかったしずっと怖かったと思う。
泣いて泣いて、どうしようもないほど涙を流して泣きわめいても何一つおかしくない状況だった。
でも彼女が最後に作った表情は、苦しそうな顔でもおびえた顔でも泣き顔でもない。
そのどれでもないものが、他者である俺のために作られた。
「………」
あの時、
歪んだ世界でただ一つ、彼女だけが歪んでいなかった。
その彼女は死ぬ一瞬前に俺の方に眼を向けた。
そして彼女は………、
無理やり笑顔を作った。
「……俺なんかの為に」
あれからずっと、彼女が笑顔を作った理由を考え続けた。
なぜ俺に笑いかけたのかをずっと考え続けた。
「お前は……」
そして導いた答えはとても簡単だった。
「お前は誰よりも優しい女の子だったんだ」
……彼女は自分の為ではなく、あの時最低な顔をしていた俺のために微笑んだ。
怖くて辛くて泣きたいだろうに、俺のために微笑んだ。
彼女はきっと、俺を安心させるために微笑んだのだろう。
なぜならあの時、……泣いていたのは俺だから。
「……俺なんかより、お前の方がずっと生きる価値があった」
駅の改札の前でそう呟き、俺は券売機で切符を買った。
駅の改札を通るとちょうど電車がやって来たので、ホームに止まることなく電車に乗り込んだ。
「………」
……未だに正しい答えは分からない。
でも彼女と出会って、俺は答えを見つけるチャンスをもらった。
世界が歪んでいる事を気づかせてくれた。
「……雨降って来たな」
座った座席から窓の外を見ていると、水滴が落ちてきた。
暗く曇った空から雨が降ってくる。
月の光はほとんど見えない。
「折り畳み傘入れといてよかった」
歪んだ世界で正しく生きるのは難しい。
喰種にとって人間は食べ物、人間にとって喰種は害。
それがこの世界の決まりだから……。
それでも…、
それでもあの子は、彼女なりに正しく生きようとした。
……だから俺も、あの子のように生きてみたい。
例えその道が暗く、周りの人が間違っていると言っても。
もう二度と、後悔しないために。
*
そして雨の降る帰り道。
「………濡れてんぞ」
「……っ」
俺は片眼が赤い女の子と、三度目の出会いをした。