CCG本部
エアコンからの温かい空気が私の周りを包み、部屋は快適な気温が保たれている。
私はそれを肌で感じながら意味もなく白い天井を眺めていた。
「はぁ、比企谷君がんばってるかなぁ…」
「准特等、暇なら資料の整理を手伝ってください。今日のノルマが終わりそうにないのですが…」
「それは後輩ちゃんの仕事でしょ。自分の分は自分でやりなさい」
「はうっ、……確かにその通りですけど。と言うか、そろそろ私の名前を憶えてくださいよ」
私は静ちゃんや比企谷君が11区で戦っている時間帯に、回転する椅子にもたれかかりながら後輩ちゃんと雑談をしていた。
“後輩ちゃん”とは私のパートナーの女の子で任務の時は私の予備のクインケを持ち運んでくれる。
……いや、嘘は良くないから訂正しておこう。
正確には予備のクインケを待たせている子だ。
「やっぱり私も11区に行きたかったな。そしたら強い喰種と戦えて、特等への昇格も近づいて、新しいクインケも作れて、いい事ばっかりなのに」
「今の段階で准特等であることがとてもすごい事なんですけど…、それに強いクインケはもう持っているじゃないですか」
「ずっと同じ物を使ってたら飽きちゃうからね。モンハンでも気分によって武器変えるでしょ?」
「私は双剣一筋です」
彼女は会話をしながらもせっせと資料を整理し、パソコンにデータを入力している。
「双剣かぁ。確かにあの鬼人モードは魅力的だよね。
……あっ!そう言えばあの時の比企谷君もそんな感じだったかも」
「はぁ、また准特等の比企谷君が~、比企谷君は~が始まりましたね。もう何度も聞いたので結構です」
「む、部下は上司の言う事は一言一句聞き逃しちゃダメなんだよ。アカデミーで習ったでしょ」
「習いましたけどちょっと違う気がします……」
パソコンのキーボードを叩く音が止まり、後輩ちゃんは一度背筋を伸ばしてこちらに視線を向けてきた。
「准特等は本当にその比企谷君と言う人が気に入っているんですね。確か私と同じで二等捜査官ですよね?」
「うん、でも彼はそんな小さな器じゃないよ。クインケの扱いならそこいらの上等捜査官なんて目じゃない…。
Sレート喰種だって倒せるよ」
「いや、それはさすがの雪ノ下准特等のお言葉でも信じ難いですね。
二等捜査官でそれだけの実力を持っているなんて考えにくいですし、何よりもそんな実力を持った人がいるなら少しくらい噂になるはずですし……」
「そう、そこが問題なんだよねぇ」
今日で何度目か分からないけど、私はまたため息をして天井を見上げる。
真っ白で何もない天井を見ていると、なぜだか昔の事がよく思い出せる。
「…比企谷君の才能に気づく人が全然いないんだよ。知っているのは、私と静ちゃんだけ。本人でさえ、…自分の才能を理解していない」
でも、これは仕方がない事なのかもしれない。
比企谷君は普段から自分の力を発揮せず目立つようなことは一切しない。
私も静ちゃんも前に偶然彼の本気を知っただけで、その時がなければ彼の事など気にすることはなかっただろう。
それになぜか彼は喰種を殺さない。
この事が捜査官として目立たない一番の理由だ。
「……?」
いつの間にか後輩ちゃんはポカーンとしていた。
「えっと…、つまりその比企谷二等は鬼人のように強いってことですね?」
「んー、やっぱり鬼人って言うのはニュアンスが違うかな。戦ってるときは冷静で精確って感じだし。
それに彼は変な子でね、敵の強さに同調して自分の力を発揮するんだよ」
面白いでしょ?と彼女に聞いたが、やはり首をかしげている。
「フフ、ごめんごめん。分かりにくい説明だったよね。まぁつまり比企谷君は………」
“天才なんだよ“
*
11区 アオギリの樹アジト
五棟
戦闘が終わり、急に廊下は静かになった。
「…やっと、…倒れてくれたわね」
赫子に吹き飛ばされ床に倒れこむ彼を見て、私は安堵のこもった声を漏らす。
必死で戦っていたから何十分経過したのかは分からないけれど、ずっと休むことなく戦っていたので心身ともに疲れを感じる。
まさか、この男がここまでやれる白鳩だったとは思っていなかった。
三本目の赫子を出したのはいつぶりだったか。
「はぁ、……さすがに、疲れたわ」
人間の体は喰種に比べてかなり弱い。
体は脆いし、生み出せる運動エネルギーも全然違し、何よりも“赫子”を出せない。
白鳩はその差を埋めるために赫子を基にしたクインケを使っているが、それでもやはり人間は人間。私達からすれば、すぐに壊せてしまう生き物だ。
だからこそ倒すのは難しい。
力加減に細心の注意をしながら戦うというのは結構骨が折れる。それがこの男みたいな手練れの相手だとなおさらね。
「あぁ、たしか…」
「え……?」
突然、気絶させたと思った相手が何かを呟きクインケを握ってゆっくりと立ち上がる。
しかし足はふらついているし、腐った目がちゃんと私をとらえていない。
……起き上がったのは驚いたけど、やっぱりさっきのダメージが大きいようね。
「あーー、しんど」
「それなら大人しく、眠っていなさい」
どうせ立つので限界なのだから、死んだふりでもしてくれればこちらとしても好都合だったのに。
そんな事を思ってたいしたスピードも出さず、彼のみぞおちでも殴って眠らせようと足を踏み出す。
「なぁ……」
だがその時、私はミスを犯した。
相手が弱っているから、何よりも相手がこの男だから警戒意識を緩めてしまった。
彼がどれだけ速く動けるかなんて、さっきまで散々戦っていたから分かっているはずなのに。
「本気で避けろよ」
その言葉が聞こえた時にはもう遅く、もう彼は間合いを詰めていた。
それだけではなく、もうクインケの刃が私の目の前に——————。
「なっ!!」
考える暇もなく、脳が私の意識を介さず体をそらせる。
「っ!!!」
刃は仮面の数ミリ上を通り過ぎて行く。
ギリギリ、かわすことが出来……。
「……っ!?」
かわしたと思ったクインケは、容赦なく私の体の一部を切断する。
反射的に動かせたのは体だけで、戦闘において肝心なものが動かせていなかった。
彼が狙っていたのは胴体でも首でもない。
彼が狙ったのは……。
「赫子が……っ!!」
「あと一本」
右と真ん中の赫子が切断されたことに気づくと、私は急いで彼と距離を取るために床を蹴る。
一本の赫子では彼とは渡り合えない。赫子を再生させるために距離を取って少しでも時間を稼ぐ。
私なら四秒もあれば再生できる。
背中を見せる事になるけれど、とにかくクインケの間合いから完全にはずれさえすれば————。
「……俺の勝ちだ」
そう言って後ろにいる彼はクインケを振るう。
でもそれが私にあたるはずがない。もう十分間合いから外れている。
あたるはずが……。
「……やられたわね」
斜めの一線が、その軌跡上にあるものを全て切り裂く。
彼の刃に触れたものは私の三本目の赫子。
それに右足のふくらはぎだった。
「ぐっ…」
右足に痛みが走り、宙を飛んでいた私は着地の時に足がよろけて倒れこんだ。
倒れたこんだコンクリートは冷たく、風圧で少しだけ砂が舞った。
「長い戦いだったな」
「……」
赫子と一緒に、緊張の糸も切られたような気持ちだ。
まだ逃げられる。
まだ動ける。
まだ戦える。
なのに……。
私はその場から動き出そうとは思わなかった。
「それじゃあ本当に疲れたし、終わりにしようか」
彼はそう言って、初めて出会った時のようにゆっくりと私に近づいてくる。
……ここで私は終わるのかしら。
私はまだ戦えるでしょう。
なぜ動き出さないの?
ここで死ねば、何も分からないまま…。
なぜ生まれてきたのか、分からないまま……。
彼は私の目の前まで来て、握ったクインケを振り上げる。
ここまで来てなお、指の一本も動かさないのだから困ったものだ。
……もしかしたら私は、もう死にたいのかもしれない。
「やっと………」
振り下ろされたクインケは私の眉間に近づく。
もうこの男の手で—————。
「お前と会うのは数週間ぶりだな」
「え……」
そう言って、彼は私の顔を傷つけることなく
優しく仮面を割った。