――智慧ある者は、さらなる智慧を欲するものである。
例えそれが遥か彼方。この手の届かぬ『ソラ』の領域にあるものだとしても。
ああ、故に。故に人よ、智慧に狂いし
求めよ。さすれば天は君たちに、さらなる智慧を与え、新しい思索を可とさせるだろう。
求めよ。遥か彼方の智慧を獲得せし、静かに狂う『血塗れの狩人』を。
では、君たちに倣い――
*
――『ダメ講師、グレン覚醒』
あの夕暮れの刻にて語り合った日の翌日。
それまでいい加減過ぎる授業を行って来たグレンは、突如その姿勢を一変させた。
とはいえ、彼自身の性格や人間性が変わったわけではなく、単に真面目に教え始めただけだ。
そう、ただそれだけ。
よく噛み砕き、真に正しい意味を理解し、それを確かなる考えのもとに生徒たちへと教授する――そんな授業をだ。
おかげで彼の評判は格段に上昇。現在では、彼が授業を行う教室に空席はなく、立ち見の生徒さえ現れる状態だった。
――さて、それからさらに数日が経過し。
そんな絶賛評判向上中のグレンとは別に。ギルバートは1人、学院長室に居た。
非正規、それも魔術師ですらない一般人の町医者が学院長室に招かれるなど通常ならばある筈もなく、もし呼ばれることがあるとすれば、大体は悪い報せを告げられる時だろう。
だが幸いにも、今回の呼び出しはそういう類――主に
「連休中の医務室の担当、ですか?」
「うむ。帝都で行われる魔術学会に出席するべく、ここの講師・教授たちは今夜帝都に転移する。
よって明日から5日間、学院は休校とすることについては、君も既に知っているね?」
初めて会った時と変わらない好々爺然としたリック学院長の言葉に、ギルバートは軽く頷くことで肯定する。
そう。明日から学院は5日間、休校だ。
学院の教授や講師連中が帝都で催される学会に出席するため、生徒たちへの授業は行われない。
だが唯一、例外が存在している。
とある事情で退職した講師に代わり、非常勤講師グレン=レーダスが担当することになった2年2組。
彼らのクラスだけ授業に遅れが生じ、彼らだけ休日中授業を行うことになっている。
「学院はほとんど空になるとはいえ、一応生徒たちとグレン君がいる。
万が一のことがあっては困るのでな。すまないが、その間のみ君に医務室を任せたいのだが……どうかね?」
「いや、別に俺……私は構いませんが。
はたして本当に必要でしょうかね?」
「言ったじゃろう、万が一のことがあっては困るとな。
だが、受け持つ
だからその間、医務室を任せられるのはギルバート君。君しか居らんのだよ」
納得するには何か足りない気がするのだが、元々リックという男はこんな感じだ。
歴史あるアルザーノ魔術学院の長を務めているというのに、いや……あるいはそうであるからこそ、他者をより強く思うのだろう。
それがいつか、帝国の未来を担うであろう生徒たちであれば尚更に。
「……分かりました。その仕事、引き受けましょう」
「おお、やってくれるか」
「その代わり、給金は少し足してください。
本業をそう何度も休んでいては、街の皆さんからの評判も落ちてしまう。ならせめて、それぐらいはして頂いても良いでしょう」
「むぅ……そうじゃのぅ」
ほんの数秒ほど、困ったように唸りを上げていたリック学院長だったが、自分からの頼みでもある故、彼の要求を呑み込むこととした。
周囲の住民たちから良い印象を抱かれ、評判が良くなれば『もしもの時』が来ても疑われる可能性は大幅に下がる。
逆に住人たちからの評判が悪くなって、何かを切っ掛けに怪しまれでもしたら後が面倒だ。
頂いた給金は取り敢えず、菓子か何かを買うために使って、馴染みの者たちに配ればいい。
周囲の反応を気にし、対処法を考えるのは人間であるが故と、こういう時にはよく思うものだ。
「それで、用件はそれだけですか?
私としては、まだ用があるのではと思っていたのですがね」
「……」
普段と何も変わらない口調で尋ねるギルバート。
変わらない声での問いだからこそか、学院長は彼が、ここに
それもそうだ。こんなことを知らせるためだけに、学院長室に呼び出される筈もない。
例え自分が同じ立場であったとしても、とリックは思い、彼を呼んだ本当の理由たる
「……君も知っているだろう。『血塗れの殺人鬼』のことを」
「ええ。もうかれこれ4年ほどになりますかね、例の殺人鬼の名前が世に広まってから」
「一般的に知られている最初の犯行場所は、帝都オルランド。
精鋭を揃えた帝国宮廷魔導士団の手から逃れ、後に場所をこのフェジテに移し、今もなお夜毎に魔術師たちを惨殺しているとの噂だ」
「そのようですね……それで? それと何の繋がりがあって、私をここへ招かれたのですか?
まさか……学院長殿は、しがない町医者に過ぎない私を疑っているとでも?」
若干目付きに鋭さが帯び、気付かれない程度でに睨みつけると学院長は両手を横に振り、「違う」と否定した。
「君を疑うつもりなどないよ。ただ、少し君の意見が聞きたくてね」
「私の?」
「うむ。……ギルバート君、君は件の殺人鬼がどういう輩を殺めてきたのか、知っているかな?」
「どういう輩って……やっぱり魔術師でしょう?
少なくとも新聞や近所の方々から聞く噂話では、一般人を襲ったという情報は聞きませんからね」
「そうだ、魔術師なんだよ。彼が殺害対象として定めているのは。
……まあ、正しくは。彼が殺しているのは普通の魔術師ではなく、人道を違えた『外道魔術師』なんだがね」
「ふむ……」
ここまで話を聞いて、ギルバートはリック学院長の言いたいことに大体察しがついて来た。
『外道魔術師』と改めたのは、単に件の殺人鬼が見境なく魔術師たちを殺しているわけではないことの証明。
彼を庇うつもりではないのだろうが、学院長的にはその輩が、単なる殺戮狂ではないと考えているらしい。
「魔術の探究のためならば、他の一切を犠牲にすることも厭わない外道魔術師。
そんな彼らの存在を知る民衆は、当然のごとく彼らを恐れ、だがそれ故に外道魔術師を狩り続ける件の殺人鬼に対し、ある種の好感を抱いている者もいるそうだ」
「それはまた……殺人鬼に好感を抱く民衆とは、世も末ですね」
「今はまだいい。だが、これから先そういった国民が増え続ければどうなるのか……それを想像するのは、そう難しいことではない」
想像するは容易く、だからこそそうなった時にどれ程の被害が出るのかを、学院長は考えていた。
彼も魔術師の端くれだが、魔術至上主義者ではない。
少なくとも、推薦があったとはいえ、ただの一般人であるギルバートをセシリアの助手と認めるだけの寛容さはある。
例え凄まじい魔術の腕を持っていたとしても、魔術師と一般人を明確に差別するような輩ならば、伝統ある学院の長を務められる筈もない。
「ギルバート君。このアルザーノ魔術学院において唯一、魔術師ではない一般の人間である君に問いたい。
君たち一般の人間にとって、我々魔術師は――魔術は、忌むべきモノなのかね?」
糸目と表わせる細目を開き、普段の好々爺然とした空気は消え、学院の長としてリックは彼に問い掛ける。
向けられる視線に込められた数多の感情を感じ取り、ギルバートもまた口元の微笑を消し、至極真面目な口調で彼の問いに対する答えを、その口より吐き出した。
「……そうですね。
「……やはりか」
「ええ。……ですが学院長、それはほんの一部であって、全員ではありません。
少なくとも私は――いえ、俺は魔術そのものを『悪』であるとは思いません。
結局のところ、それを扱う者によって変わるんですよ。
その答えを聞き終えて、張り詰めていた空気を解き、いつもの姿勢へと戻る学院長。
他の講師・教師陣と比べれば、勤務期間はそこまで長くはない。
だが彼には、他の者たちにはない『ナニカ』があった。
物事の真意を紡ぐ口と、何物も見抜くような双眸。
どこか達観して見える彼の存在は、学院長としては羨ましく、そして時に異質に見えていた。
「では、俺はこれで失礼します。学院長。
帝都での学会、頑張ってください」
バタン――と重々しい扉を閉めて、学院長室より白衣の医者が消える。
扉越しに聞こえる硬い靴音を耳にしながら、学院長は彼が立っていた場所を見つめていた。
*
日は過ぎて、翌日の午前10時30分。
9時頃には既に学院に到着し、医務室に待機していたギルバートは、1人何かを弄っていた。
手荷物の黒カバンの中――捻じ曲げられた空間より取り出した
歪な形状の刃を備えたソレをギルバートは撫でるように左手で触れ、その切れ味を確かめるように肌を少しばかり切った。
ぽつり、と裂かれて出来た傷口から鮮血が流れ、白衣に落ちて染み渡る。
血――ヤーナムの血を受け入れた狩人たちにとって、何よりも重い価値を持つモノこそが『血』である。
魔術師たちにとっての魔術がそうであるように、狩人たちにとって、血とは彼らを
あの忌々しい――青ざめた血を何故、自分が求めたのかはもはや分からない。
ただ1つ、確かなことは、もう自分はまともな人間に戻ることはできないことだ。
『なりそこない』とは、自分の体のほとんどはもう――
「……ん?」
手にした刃から視線を離し、窓の方へ向けると、そこで彼の視界に何かが映った。
学院に張られた結界。その一部が鏡の如く割れる光景を。
そして割れた箇所を通り道に、2人の黒装束の男が学院の敷地内に踏み込む様を。
学院の結界がどれほど高度な代物なのかは、表向きは一般人のギルバートでも理解していた。
だからこそ、その結界を攻略して侵入してきた2人組がどういう類の人間なのか、それを知るのにそう時間は掛からなかった。
「外道魔術師……それもかなりの腕前と来たか」
どうやって結界を攻略したかはさて置き、このまま好き勝手させるわけにはいかない。
あるいは、連中の内のどちらかがあの件――自分をこの世界に飛ばした何かに関する情報を知っているやもしれない。
そうとなれば行動は迅速に。
カバンの内側に突っ込む形で刃を異空間に戻すと、それとはまた別の武具と装束。そして何に使うのか分からない
人の良い医者としての
獣と狂人、果ては神に等しき異形共さえ屠って見せた狩人――その再動の瞬間であった。
*
覚悟の下に生まれた強さと、張りぼての強さは全くの別物である。
この時、彼女――システィーナ・フィーベルはそう思い知らされた。
裂かれた制服。晒された白い肌。拘束され、身動きのできない体。
眼前に見えるのは、黒い装束に身を包むチンピラ風の男。
名をジンといい、今日この学院にレイクという仲間と共にやってきた、俗にいうテロリストだった。
詳しい理由は分からないが、何故か彼らは自分の親友――ルミア・ティンジェルを目当てにやって来て、ルミアはもう1人の男に連れていかれてしまった。
そしてシスティーナは、レイクが仕事を終わらせる間のジンの
誇りある学院の生徒であり、名門フィーベル家の令嬢でありながらこの有り様。
如何に吼えようとも、真に力ある魔術師の前では、自分など所詮小娘でしかなかった。
自分の弱さを『強がり』という仮面で覆い隠して来ただけの小娘――ジンは彼女の性質をあっさりと見抜き、それを知った上で楽しもうとしているのだ。
「やだ……やめて……やめて、ください……」
「くっ――ぎゃはははははは! 落ちんの早過ぎだろ、お前! ひゃははははは!」
目元に涙を溜め、恐怖に体を震わせて希うシスティーナを、ジンはその下品な哄笑で以て応える。
答えは否。ここまで来て、今さら止めるなどあり得ない。
長らくしていなかったこともあり、何より人の道を踏み外した外道である彼は良くも悪くも己が欲求に忠実で、故に彼はシスティーナへその腕を伸ばすことを躊躇わなかった。
「じゃ、そういうわけでいただきまーす!」
「いや……嫌ぁああああああああ――ッ!」
――その直後だった。
「あ――!?」
突然の轟音に思わず顔をシスティーナから扉の方へ向けるジン。
咄嗟に反応し、視線をそちらへ移したのは良い判断だと言えるだろう。
だが、今回はその行動が裏目に出た。
視線のみならばまだ助かったのかもしれないが、時は既に遅く。
扉のあった方へ向けた目の片方を、銀色に輝く
「が、あぁあああああっ!?」
左目に突き刺さった刃により、左の視界は喪失。
突き立つ刃を引き抜こうと、その柄を手で握り掴むが、事はそう上手くはいかなかった。
目の方に意識を取られていた隙を突かれ、いつの間にか接近していた人影が、構えていた拳をがら空きの懐へと叩き込んだ。
「がふぅ――ッ!?」
腹に猛烈な痛みを感じつつ、ジンの体は実験室の隅へと吹き飛ばされ、壁に激突。
予想外に次ぐ予想外の出来事にシスティーナの理解は追い付かず、ただ周囲を見回すのみだ。
そしてその視界の中に1人、彼女は新たな黒装束の姿を捉えた。
ジンやレイクのそれとは異なる、短めのマントを取り付けた
両の腕には金属製の籠手にも似たものを取り付けて、だが先端を覆うのは黒手袋のみ。
そして頭に頂くのは、烏の翼を思わせる枯れた羽根付きの帽子。
だがその下にある筈の顔はマスクと
「あ、貴方……?」
「っつぅ……よくもやりやがったな、てめぇ……!」
左目を押さえつけながら起き上がったジンは、明らかな憤怒の感情を顔に湛え、残る右目でその人物を見て――そして大きく、その右目を見開いた。
両目を除き、肌の露出を一切抑えた黒尽くめの装束。
枯れた羽根が特徴的な帽子もそうだが、それらの組み合わせからジンは
組織の上層部より伝えられた、とある捕縛対象の特徴。
全身黒尽くめ。肌の露出が極端に少ない異国風の装束。
そして羽根付き帽子――これら全てを備えている以上、間違いはない。
「てめぇ……! 血塗れの――」
バァン――ッ! とジンの声を遮って、銃声が室内に響く。
硝煙の臭いが漂い、直後に男の悲鳴が鳴り響く。
見ればジンが右の太腿を押さえ、激痛にその顔を歪めている。
何が起きたのかと思い、システィーナの視線がジンから黒尽くめの男へと移ると、その男の左手にあるモノが握られているのが見えた――銃だ。
「……凄まじい痛みだろう?」
左手に短銃を握ったまま、初めて男が言葉を発した。
それは聞く者に恐怖を与える、一切の温かみを除いた冷たい声音。
冷酷冷血な人物の声というものは、こういうものなのだろうか。
「お前たち魔術師が作る『魔術弾』とは異なるが、これも一応、異端の業を以て生み出された
「異端の、業……だと……?」
「如何にも。獣共の硬い獣皮さえも貫く弾丸……魔術師とはいえ、脆弱な人の身など貫けぬ筈も無し」
空いた右手を虚空に伸ばし、空間を歪めてそこから新たな得物を取り出す。
歪みより引き抜かれたのは、従来の武具にはない悍ましさを備え持つ異形の武具。
獣の牙を連想させる鋸刃と、硬い鎧すら一撃で両断できそうな分厚い刃。
その双方を兼ね備えた、
短銃と異形の武具を携え、肌の露出を極限にまで抑えた黒装束。
多くの特徴を持ち、数年に渡り、帝国の夜を支配して来た最凶の殺人鬼。
それが今、自分の目の前に居るなどと、一体誰が考えようものか。
そして殺人鬼――狩人は行動に移るべく、まずは床に倒れるシスティーナをどうするべきかと考え始めると。
「――ここか!?」
おそらく銃声に反応し、やって来たのだろう1人の非常勤講師が彼らのいる実験室に入り込む。
乱入に次ぐ乱入。予想外の出来事の連続。
学院の日常からは程遠い、殺伐としたこの日。
「――あ」
「む……」
元宮廷魔導士グレン=レーダスは、かつての敵――『血塗れの殺人鬼』との再会を果たした。