今回で2巻の内容は終了です。
結界内に響く轟音。
肉が潰れ、骨が砕ける音を伴い、響き渡るは拳撃の音色。
城門を打ち開く破城鎚の如き一撃は、だが紛れもなく拳1つによるモノ。
されどその拳が人ならざるモノ――尋常を超越した化生の凶拳であるのなら、その威力も納得がいく。
『ヴルルルゥ……!』
響く唸りを発するは、恐ろしく、そして悍ましき獣面。
伸びた剛毛が天を衝かんばかりに逆立ち、唸り声を漏らす口元からはナイフの如き鋭牙が覗いている。
異形の武器を手にする右手も、同じく剛毛に包まれているが、それでも此方はまだマシな方だ。
真に目を向けるべきはその反対。何も持たぬ左腕は、体躯の中で最も獣毛に覆われ、その大きさも形も、既に人間のそれを失い、凌駕していた。
此れぞ『獣化』。血に酔い、正気を失った獣共を狩る
“獣を狩る者が、自ら獣に堕ちる”という、何とも皮肉と混沌を孕んだ行為。
もはや狂行とすら言えるソレは、だが戦場という場においては比類なき武を獲得する一手でもある。
握り拳の形となっている左手。
殺し屋ブラドーを殴り飛ばした異形の左手による拳撃は、砲撃に匹敵――否、それさえも凌駕する。
それでも即死に至ることなく、結界の端でどうにか体躯を立たせ、起き上がって見せたのは流石に狩人の強靭な肉体と生命力ゆえか。
「お主、それは……!」
『ヴォオオオオオオオァッ!!』
獣皮頭巾の下で双眸を見開くブラドーであったが、そんな彼の反応など知らぬと、凶獣と化したギルバートが地面を蹴り上げ、猛進する。
振り上げられた異形の左腕。獣の暴威の具現たる大爪の一撃は、ただそれだけで人如きの肉体など容易く破壊する。
引き裂き、襤褸切れのように無惨な惨死体を生むか。
あるいは斬撃の後に掌で以て押し潰し、形を失った肉塊と成すか。
どちらにせよ死であることに変わりはなく、だからこそブラドーは即座に回避行動へと移るが……。
『ォオオッ!』
そんなことなど赦さぬと、ギルバートは
ぐしゃり、と肉が潰れたような音が鳴る。
回避が間に合わなかったブラドーの肉体のうち、右腕の付け根辺りがごっそりと抉れるように無くなっており、その近くでは、かつて右腕であった肉塊が凄惨な姿を晒していた。
だが直後に後方へ大きく跳び、ブラドーは彼との間に距離を取った。尋常ならざる膂力を持つ獣を相手に、如何に狩人とはいえ超至近距離での戦闘は愚策だからだ。まして片腕を欠いた以上、力で押し勝てる道理はない。
その光景に、結界の別場所でそれを見ていたグレンらは、驚愕の表情をその顔に表していた。
これまでに幾度となく現出し、しかしただの1度も捕えることのできなかった闇世界の処刑人。
かつては特務分室の精鋭すらも打ち倒した殺人鬼には、未だ多くの謎が残っている。
今回の獣化もその1つ。
噂とこれまでに彼との戦闘を経験した者たちの情報から、彼は少なくとも魔術師ではなく、あくまで卓越した技術と膂力を誇る殺し屋であると認識されていた。
だが今回明かされた秘密より、少なくとも彼が魔術か、あるいはそれに近しい何らかの秘術を扱う人物であることが分かった。
ああ、だがしかし。分かったからと言って、この光景に対して驚くなというのは無理な話だ。
少なくともこれは実力力量とは
『ヴルルルゥ……ッ!』
血塗れの左腕。獣毛に付着した紅の鮮血を左腕ごと振るい、血振りのように払い落とすと凶獣と化したギルバートが再び牙を剥き、突進する。
既に右腕を失い、得物も片腕では全力を引き出せない。
加えて輸血液を注入しようにも、回復する前にギルバートの攻撃が先に届く。
だが、それでもやはり――。
「――舐めるなァッ!」
膨れ上がった血槌を左腕のみで振り上げて、己が今出せる力の全てを注ぎ込む。
狩人の最たる武器である速度では勝てず、回復も間に合わぬ以上、右腕を欠いた現状態では力で勝てる筈も無し。
それでもやはり、敗北を受け入れることはない。
自ら獣化を行ったとはいえ、その理性が完全に人の頃のままである可能性は限りなくゼロに近い。
ならばこそ、真正面からの突進を逆に利用し、全力の一撃で奴を迎撃する。
勝つためには――もはやそれしか手はない。
そして距離が縮まり、
あと5歩――それほど近くにまで迫ったその時、凶獣ギルバートは突進を一瞬止めて、
『――ギィアアアアアアアアアアッ!!』
強靭な両足で地を踏み締め、喉が張り裂けんばかりに轟かされた大絶叫。
只人が行うそれとは異なり、人を超えた獣の吐き出す声量は膨大の一言。
吐き出された咆哮はもはや、膨大な音を溜め、固めた爆弾そのもの。
それをあと数歩という距離で突然に、かつ完全な無防備状態の上で放たれたならば、どのような結果へと至ったのか。
振りかぶった血槌は左腕から滑り落ち、音の爆弾を至近距離で受けた獣皮頭巾の殺し屋の体躯はその場に踏み止まることも叶わず、吹き飛ばされる。
(……!)
吹き飛ばされ、体躯が宙を舞う瞬間、彼は見た。
理性を欠いているという自分の勝手な思い込みから生じた失敗。
それを起因とした自身への怒りが一瞬込みあげかけたが、その感情もソレを目にした瞬間にすぐ失せた。
宙を舞う自身と、それをさらに上の宙より狙う恐るべき凶獣。
既に左腕は振りかぶられ、異形の大爪がブラドーを切り裂かんと鈍く輝いている。
爪牙を剥き出し、獲物を狩らんとするその姿。
それは紛れもなく野に生きる獣のソレと変わらないが、唯一つ――異なるモノがその姿にはある。
「ああ……そうか」
例え姿を獣へと変じさせようとも、理性を欠くことなく、己の意識を保ち続けた。
その証明こそが、凶猛なる人獣の眼――その内にある、
「お主は、既に……獣さえも……!」
『ヴォオオオオオオォ――ッ!!』
――
振り切られる大爪。
分かたれる殺し屋の体躯。
上下2つに分かたれて、夥しいほどの鮮血を溢れさせながらブラドーの体躯が地に落ちて、その凄惨な姿を晒した。
断面より覗く内臓。未だ止まらぬ朱色の血液。そして色を失っていく肌。
誰の目から見ても分かる通り、もはや彼には万が一にも助かる見込みはない。
いやさ、例え奇跡的にこの状態から回復できる手があったとしても、即座にまた凶獣の大爪で息の根を止められるだけだ。
輸血液を注入しようにも、体の自由がきかない。
後に待つのは死のみ確信した丁度その時だ。
溢れ迸った鮮血に濡れ、伸ばした獣毛を朱色に染めた
『――クァ……ッ!』
――
上下に開かれた
いや、正しくは『喰らう』というよりも『啜っている』といった方が適切だろう。
口内に含まれた肉より血を絞り出し、絞り切った肉はすぐさま吐き出し、また新しい肉を食んで絞り啜る。
肉など要らぬ。ただ血だけを寄越せ、と。
自然界によく有り触れて、しかし人界においてはあり得ざる悍ましい光景に、後方にいるグレンらもその双眸を見張り、これまで以上の驚愕を瞳に湛えていた。
ある者は恐怖し、ある者は得物を構え、またある者は凄惨さに耐え切れず、腹より込みあげてくるものを感じて口元に手を当ててさえいる始末。
ぐしゃり、ぴちゃり、と生々しい音が奏でられ続け。
ようやく音が止んだ頃には、やはりというべきか、凶獣の意識は
『ハァァァ……!』
向きを変え、再び彼らの視界に映った凶獣の姿を先のモノとは異なっていた。
獣毛が伸び、野性味あふれるものであったとはいえ、まだ人の名残があった先程の姿とは違い、今の彼は完全な獣だ。
狼の如き貌と、より鋭利かつ巨大となった左腕と大爪。
獣毛はより
そして何より月の如く爛々と輝く双眸には、先程までにはなかった狂気が滲み出ている。
その狂気が彼の視界を歪めているのか、あるいは視界のみならず、理性さえも冒し始めているのか。
血濡れた爪牙を剥き出して、
「っ……何かしらの
猛獣の持つ比類なき凶暴性と人間を超越した身体能力。
破壊と殺戮の化身と化したギルバートの戦闘能力は、確かに先程とは比べ物にならないほど上昇した。
だが、あまりに飛躍的な強化の代償は大きく、ソレが現在の理性の喪失だ。
誰が敵で誰が味方かなどとは判別できず、ただ飢えた獣のように眼前の生者一切を襲い、貪り喰らう。
今のギルバートはもはや、世に悪名高い『血塗れの殺人鬼』などではない。
善人悪人問わず、視界に入る総てを喰らい殺すだけの凶獣。
名を与えるならば凶つの人狼――『凶狼』とでも言うべき、生きた災禍そのものだ。
元々グレンとギルバートは、かつてとはいえ敵同士であった間柄。
片や帝国の宮廷魔導士。片や帝国の夜を支配する殺人鬼。
講師となった今でも、帝国内にて指名手配されているかの『血塗れの殺人鬼』を逃がす道理はない。ないのだが……。
(結局こうなるのかよ……!)
先の学院における一件にて、利害が一致していたとはいえ協力し合った相手。
殺人鬼などと称されているとはいるが、殺めた相手の大半が外道魔術師という、外道とは異なる異端の悪者。
その所業は許されるものではない。外道魔術師が相手とはいえ、夜な夜な凄惨な殺人劇を繰り広げ、秩序と平穏を乱す輩が許される道理はない。
だが、それでもどうにかできないのかと、グレンはそう思わずにはいられなかった。
何にせよ、迎え撃つ準備は整えておかねばならない。
相手にはもはや理性がなく、爪牙は既に構えられ、グレンたちを切り裂かんと鈍く輝いている。
いつ如何なる瞬間にも対応できるよう、せめてと左手を前へ伸ばし、魔術行使の準備をせんと行動を始め。
「――右へ避けろ、グレン!」
己の後ろ。ルミア・アリシア母娘の傍にいる金髪の美女。
自分の魔術の師でもあるセリカが左手を翳し、その先にいる
「――《吹き飛べ》ッ!」
轟――ッ!!
一瞬の詠唱の直後、生じた爆発が人狼の巨躯を呑み込み、灼き尽す。
巨大な鎖で編まれたも同然の強度の誇る獣毛の鎧も、爆発による火炎の前ではその防御も著しく低下し、逆に毛の1本1本に火が燃え移り、灼熱と共に彼を苦しめる。
だが、まだまだ彼女の
爆撃による奇襲が成功し、人狼が炎熱に苦しみ、足を止めている今が好機。
先と変わらぬ極短詠唱で瞬く間に魔術行使へと移り、彼女の左手からさらなる魔術が解き放たれる。
虚空を駆け、眩い輝煌を伴い放たれるは収束された雷電。
【プラズマ・カノン】――束ねられた極太の稲妻は真っ直ぐに駆け抜け、グレンが立っていた場所を通過した後、その先にいる人狼ギルバートの身を穿ち、人狼の巨躯を引っ掛けたまま天高くへと飛んで行く。
『ヴォアアアアアアアアァ――ッ!!?』
己の速度でさえ避け切れなかった雷撃砲の一撃を受け、結界を砕いて外界へと飛ばされた人狼の悲鳴じみた咆哮を最後に。
やがて雷電と人狼の姿は見えなくなり、虚空の彼方へと消え失せた。
「セリカ!」
「罵倒なら受けないぞ。ああでもしなければ、あいつをこの場から遠ざける方法がなかったんだからな」
己の名を呼びながら走り寄ってきた
既に結界は壊れ、壊れた箇所から徐々に結界そのものが解除されていく。
結界内で何かが起こっていたことは、おそらく内部からの轟音などで察せられているだろうが、その轟音を発した者たちについてまでは知られていないだろう。
あるいは、それでいいのかもしれない。
魔術も用いず、ただ純粋に身体能力のみであれほどの激闘を繰り広げた者たち。
獣皮頭巾の男は己を『狩人』と称していたようだが、その狩人なる者たちが如何なる経緯であれほどの力を手に入れたのか。あの激闘を間近で見たならば、それに対して興味を抱く輩も出てくるはずだからだ。
それに、これはセリカ個人が感じたことなのだが……
(あの気配……アレは間違いなく、200年前の……)
今からおよそ200年ほど前。
当時セリカを含む『六英雄』なる者たちを切り札に、人類は
それは人でもなければ獣でもない、正真正銘の化け物共。
この世界とは異なる外宇宙より飛来し、召喚された恐るべき
多くの犠牲を払った末に、セリカたちは邪神の眷族を討ち取り、何とか人類の存続は相成ったのだが……。
(私がかつて討ち果たした眷族とは違う、さらに上位の気配――邪神のそれが、あの殺人鬼からは感じられたな……)
一体どのような経緯でそのような代物を得たのか。
あるいは初めからあの男は、邪神の血族としてこの世に生を受けた存在なのだろうか。
「……知る必要があるな。あの男――『血塗れの殺人鬼』とやらを」
その言葉を最後に一旦セリカは独り言を中断し、己の意識を現実へと戻す。
解かれた結界の外から生じる生徒や講師、その他数多くの人々の声。
先の戦いが嘘に思えるようなその状況だからこそ、彼らは気づくのに遅れたのかもしれない。
凶獣と化したギルバートに敗れ、真っ二つに両断された刺客ブラドーの遺体。
それら全てが鮮血と化し、跡形もなく消えてなくなっていたことを。
そしてこの後日、アルザーノ帝国魔術学院からは1人の男。
法医師セシリア=ヘステイアの補佐ギルバートが、突如としてその姿を消したのだった。
*
疲労を溜めた状態のまま、狩人ギルバートは道の先へと進み行く。
ボロボロになった狩人装束。その所々より覗く肌に傷はないが、顔に滲み出ている疲労は相当なものだ。
競技祭の日、セリカの雷撃砲を受けて遥か遠方に飛ばされた彼は、奇跡的にも理性を取り戻し、自らに施した獣化を解いて人間態へ戻ることに成功した。
吹き飛ばされた際に受けた雷撃砲によって穿たれた腹部は、輸血液を注入することによってどうにか塞ぎ、傷も回復させることができたが、それでも蓄積した疲労まではゼロにすることはできない。
地図もなく、それ以前に己が来たこともない不可思議な森林を進むこと早数日。
途中で獣を捕まえて喰らい、どうにか過ごしてきたはいいが、先日の戦闘がかなり堪えたのか、そろそろ限界が近づいているのが理解できた。
「まだ、だ……っ!」
それでも諦めることなく、人里へ出ようと進み続ける。
ここで死んでも夢に戻り、また現実という朝に目覚めるだけなのだが、それでも目覚める場所は変わらない。
ならば少しでも先へ。前へと進み、行かねばならない。
凄惨たる狂気の古都における、繰り返される一夜の冒険。
その中で得た不屈さ、諦めの悪さを核に森の先へと進んで行き、
「ァ……っ!」
己の意思に体躯が付いていけず、遂にギルバートの体躯がそこで倒れた。
溜まった疲労は重しとなり、鎖となって彼の身を縛り、その場に固定する。
人間を超越した狩人とは言っても、
せめてあと一歩でもと、右手を伸ばして進もうとするも、もはやそれ以上先へと進むことはできず。
やがて重くなっていく目蓋により、視界が徐々に黒く染めり――刹那の
「ク、ソ……ッ!」
それは誰に対する罵倒の言なのか。
とにかくその言葉を最後に吐いた後、ギルバートの意識はそこで完全に断たれ、狩人の無防備な体躯が森林内に晒される形となった。
鼻の利く獣の類ならば、すぐさま嗅ぎ当てて彼を喰らいに掛かったことだろう。
何せこれまでに幾百幾千という膨大な数の人獣を屠ってきたのだ。染みついた血の臭いを嗅ぎ取るなど、容易い筈だ。
「……こいつは」
だが、そうはならなかった。
鳥や獣よりも先に血の臭いを嗅ぎ取って、森林内に横たわる彼の姿を見つけたのは1人の人間。
大柄な体躯のギルバートよりもさらに巨大な、頭一つ分は上の背丈を誇る大男。
目元を包帯のような薄布で覆い、黒の帽子を被った大男が首に巻いているもの。
それは別世界。ヤーナムと呼ばれる古都に設けられた教会に属していた者が持つ――聖布と呼ばれる代物だった。
あんまり長々と引き摺るのもあれですし、区切りも見えたので原作2巻の内容はここで終了です。