無限ルーパー   作:泥人形

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よっ、待たせたな。


無限ルーパー@最終ループ

 ──気が付いたら人気のない上、燃え盛る街に一人佇んでいた。

 燃ゆる業火はあの日のそれと変わらない。

 崩れ行く都市はあの日のそれと変わらない。

 あの日、あの時、あの瞬間。

 目に焼き付けて、記憶に刻み込んだ、あの地獄と寸分違わない。

 すべてが始まった時の光景と、何一つ変わらなくて、けれども、何もかもが同じという訳じゃなかった。

 他の誰でもない、俺自身がもう、別物だった。

 立ち上がることすらままならなくて、その場にへたり込んでしまう。

 決して、体調が悪いわけでも、怪我をしているわけでもない。

 身体的な面だけ見れば、むしろ絶好調と言っても良いほどだった。

 それなのに、まるで身体に力は入らない。

 いいや、多分もう、入れることが出来なかった。

 そうしようと思うことさえ、億劫だった。

 立ち上がる理由を探すことさえもう、出来なかった。

 だって、何をしても無駄だったのだから。

 どう足掻いても、すべて無意味だったのだから。

 何度も挫けそうになって、その度に支えてもらって、背中を押してもらって、必死になって頑張ってきた。

 たった一年。 

 されども一年。

 短いようで、ひどく長い、一年だった。

 思い出すことすらしんどくて、苦しくて、泣き出しそうになるほどで。

 だけど何よりも明るくて、暖かくて、誇らしい旅だった。

 それがすべて、無くなった──なかったことになった。

 ここまで踏みしめて来た時代も、命も、時間も。

 たくさん繋いできた希望も、絆も。

 何もかもがゼロになってしまったんだ。

 ──何かがドンドン内側で膨らんでいく。何かがドンドン内側に積もっていく。

 重くなっていく、重くなっていく、重くなっていく!

 圧し潰される、と思った。

 もう、それでも良いか、とも思った。

 耐えることに意味はなかったのだから。

 グチャリと潰れて、何もかも、全部吐き出してしまえば良い。

 どうせ一人なのだから。

 どうせこれもまた、消えてしまうのだから。

 バタリ、と意識せず横に倒れこんだ。

 ちょっとした衝撃が、全身を伝う。

 少しだけ痛かった。その痛みが引き金を引いたみたいに、涙がボロボロ零れ始めた。

 止められなかった、止めようとも思わなかった。

 ……痛いのは、嫌だった。

 怪我をするのは避けたかった、骨が折れた時の感触は、思い出したくもない。

 たくさん血が溢れていくのは、ひどく恐ろしかった。

 死ぬのが、怖かった。

 生き返るのが、気持ち悪かった。

 こんなのはもう、人間じゃないと思った。

 怪我をさせることに、慣れたくはなかった。誰かを傷つけたくなんかなかった。

 血を流させることを、当たり前にしたくなかった。

 戦いなんてごめんだった、殺したくなんてなかった。

 苦しかった。辛かった。もう投げ出したかった。やめたかった。逃げたかった。代わってほしかった。終わりたかった。

 どんどん感覚がおかしくなっていくのが、はっきりと自覚できたのが恐ろしかった。

 まるで、自分が自分じゃなくなっていくようだった。

 知らない自分に、生まれ変わっていくような感覚があって、ずっと吐きそうだった。

 耐えられないと、何度も思った。

 もう耐えたくないと、何度も思った。

 でも、その度に耐えなくちゃって思い直した。

 だって、だって俺は! 人を、人理を、世界を! 守らなければならなかったのだから! 救わなければならなかったのだから!

 だから、耐えた、踏ん張った。

 あとちょっとなんだって、もう少しなんだって。

 過ぎていく日数を数えながら、経過していく時間を想いながら。

 まだ諦めてはならないのだと、天を睨んだ。

 すべてが終わればきっと、いつかのような普通の、平和な明日が待っているのだと信じたから。

 誰かに頼る訳には行かなかった。

 カルデアの職員はみんな、恐怖と不安を抱いていた。

 彼らは誰もがひとかどの天才なれど、レイシフト適性も、マスター適性もない人達なのだ。

 才があって、実力があって、けれど直接戦うことは出来ない人たち。

 俺と、立香くんに全てを託すしかない人達。

 彼らはどのような思いだったのだろうか、どれほどまでに思い詰めただろうか。

 俺と立香くんという、素人どころか、ただの一般人にすべてを託さなければならなかった彼らは、どれほど苦しんだのだろうか。

 けれど、だからこそ、折れる訳にはいかなかった。

 少しの不安でも、続けば続くほど、不和を生み出す大きな要因になる。

 ただでさえ、閉塞した環境なのだ。

 身内で揉めている場合では無かったし──それに、立香くんだって、不安だったに決まっているのだ。

 誰かが強くあらなきゃいけなかった。

 俺は先輩だった。少なくとも、立香くんの。

 だから、せめて上っ面だけでも取り繕おうと思った。

 俺の無能さは周知の事実だけれども、それでも、希望にならなければと、そう思ったから。

 鍛錬は欠かさず、勉強は絶やさず。

 己を磨き上げるのは、純粋に自分の為でもあり、ある種のパフォーマンスでもあった。

 ──そうやって、特異点を乗り越えれば乗り越えるほど、不安は目に見えて無くなって。

 代わりに期待は大きくなった。

 もちろんそれは、俺だけに向けられるものでは無くて、立香くんにも向けられているものであったが、しかし、それが自分に向けられているという事実そのものが、何より恐ろしかった。

 何故なら、それに応えなければならなかったのだから。

 そうして、応えれば応えるほど、進めば進むほど、後戻りはできなくなっていった。

 いつの間にか、立派なマスターとして認められるようになった。

 確かに喜ばしいことで、嬉しかったことではあったけれど、それはそのまま重圧にもなった。

 ──戻りたかった。

 人理修復の旅なんて、請け負うべきでは無かったのだと、後悔を重ねるようになった。

 どうせ何度あの場に戻ったとしても、断ることなんて出来ないくせに、狂うほどに悔やんだ。

 それを、吐露できればどれだけ楽だっただろうかと、今でも思う。

 けれど、それをした瞬間、俺はもう自分が戦えなくなることが分かっていた。

 全部吐き出してしまえばその瞬間、俺は弱音も涙も何もかもを同時に吐き出してしまうから。

 一度逃げ場が出来上がると、絶対にそこに逃げ込んでしまって、もう出てこれなくなってしまうから。

 だから、何度でも、何度でも、言い聞かせた。

 誤魔化すように、騙すように。

 一年くらいなら、全然平気だと。

 希望はまだあるんだと。

 未来は奪われた、だから取り返すんだと。

 取り返せるのは、俺達しかいないんだと。

 だから、止まっている暇なんて全然、どこにもないんだと。走り続けるしか無いんだと。

 そうやって走ってきた、走り続けてきた。

 その果てに、手が届いたと思った。

 ようやく報われたと、素直にそう思って──だけど、届いてなかった。

 終わらなかった、終われなかった。

 また始まった。

 俺は、まだ頑張らなきゃならないのか?

 もう一度、この長かった旅を、始めなきゃならないのか?

 あと一度で終わる保証は、どこにある?

 あと何度、繰り返せば良いんだ?

 ……嫌だ。

 違う、もう無理だ、無理なんだ。

 不可能だ、俺にはもう、できない。

 あの長い戦いに、身を投じることはできない。

 果てしない旅を、歩むことはもうできない。

 もう俺は、頑張れない。頑張れない、頑張れない、頑張れない、頑張れない、頑張れない、頑張れない!

 言葉をかけるくらいなら代わってくれよ、背中を押すくらいなら前に立ってくれよ!

 もう、前が見えないんだ。

 誰か、助けてくれよ……。

 助けて、ください……。

 丸くなって、蹲る。

 そうすることだけで、精一杯だった。

 頭をかきむしることも、叫びをあげることも、周りに当たることも、結局何にも出来なくて。

 ただ、ひたすらに小さく、縮こまるので限界だった。

 都市を満遍なく焼き滅ぼす炎からも逃げるように、一層小さくなれば、不意にザリ、という音が鼓膜を打った。

 見るまでもなく、それが誰かは分かっていた。

 何度、ここで殺されたと思っているんだ。

 世界は理不尽に象られている。

 救いをどれだけ求めても、差し伸べられるようなことは無い。

 祈りも願いも、しょせんはただの現実逃避でしかない。

 音は少しずつ、少しずつ近づいてきていた。

 骨特有の、不安定な歩き方から鳴る、軽い音。

 酷く不愉快で、総毛立つような、恐ろしい音。

 逃げようとすれば、多分出来る。

 今すぐに動き出せば、きっと逃げ切れる。

 ──でも、動かなかった。

 身体の動かし方を忘れたみたいに、震えて蹲ることしかもう、できなかった。

 馬鹿みたいに早鐘を打つ鼓動が、鼓膜を揺らす。

 漏れる吐息が、どんどん大きく早くなる。

 音はドンドンと大きさを増していき──不意に、腹に衝撃が走った。

 肺の中の空気が一気に出て、身体が少しだけ宙を舞って、そこでようやく蹴り上げられたことを悟った。

 受け身も取れずに仰向けに落ちて、スケルトンと目が合った。

 その手の内にあるのは、碌に研がれてもいない、刃毀れのした剣。

 嫌な懐かしさだった。

 一撃で、死ねるのだろうか。

 死ねないだろうな。

 何度も何度も打ち付けられて、それでようやく死んで──そして、また元通り。

 痛いのは嫌だ、怖いのは嫌だ、死ぬのは嫌だ、だけど、戦いたくもない。

 我儘ばっかりで、弱くなった……いや、これが本当の、俺だった。

 情けなくって、酷くダサい。

 骨はゆったりと、歩き近づいてくる。

 あと五歩も進めば、射程圏内だろう。

 俺はそれを、何もできずに見つめていた。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 四歩。

 そして、五歩。

 剣は高く掲げられる。天を突くように真っ直ぐに振り上げられて──そして、当たり前のように振り下ろされた。

 それはとても、とてもゆっくりとした振り下ろしに見えた。

 スローモーションというほどでもないけれど、それでも馬鹿にされているのかと思うくらい遅くって。

 だけど確実に俺の脳天を割る軌道ではあって。

 どうすれば良いんだろうって、そう思った俺の思考ごと吹き飛ばすように、()()()()()()()()()()

 ──いいや、何かではない。

 俺はそれを知っている。

 俺はそれを見たことがある。

 俺はそれを味わったことがある。

 俺はその人を──良く、知っている。

 振るわれたのは大鎌だった。身の丈ほどもある、巨大な鎌。

 剣ごと骨は微塵となって消えていき、その人は俺の前へと降り立った。

 全身を覆うように羽織った黒の外套。そこから零れる美しい、紫色の髪。

 宵闇の中でも怪しく光る、黄金の瞳。

 隙間から覗いて見える、陶器のように白く、綺麗な肌。

 忘れるはずがない、忘れられるはずがない。

 記憶に刻み込まれて、絶対に消えることは無い、大切な英霊(ひと)

 初めて召喚に応じてくれて、契約してくれた英雄。

 いつだって、どんな時だって寄り掛からせてくれた、これ以上ない相棒────メドゥーサが、そこにいた。

 彼女は訝し気に、俺を見る。

 一瞬だけ目が合って、すぐに逸らした。

 乾いた笑いが、喉から零れ落ちる。

 思い返してみれば確かに、彼女はこの近くにいたのだった。

 こうやって蹲っていれば、彼女の方からこっちへと来ていたんだ。

 巡り逢わせと言うべきか、それとも、運命と言うべきなのか。

 まあ、どっちでも良いか。

 殺すなら、早く殺してくれないかな、と思った。

 メドゥーサを、見ているだけで苦しかった。

 ザワザワと、胸騒ぎが酷かった。

 彼女は俺の相棒だ。けれども、今のメドゥーサは、相棒じゃないのだ。

 メドゥーサは、俺を知らない。

 俺とメドゥーサはたくさんの時代を、戦場を駆け抜けてきたけれど。

 でも、今はまだ、他人同士なんだ。

 メドゥーサが俺と契約してくれるのは、これからもう少し先のことだから。

 俺を知らないメドゥーサと、関わりたくなかった。

 何よりもそれが、恐ろしかった。

 メドゥーサに、全く見知らぬ誰かだという目で見られるのが怖かった。

 その事実を目の当たりにしてしまうのは、絶対に耐えられない自負があった。

 だから、殺してほしい。

 次はすぐにでもここを離れるから。

 決してメドゥーサには見つからないようにするから。

 だから、だから、だから。

 何も言わずに、殺してくれ。

 ボロボロと、際限なく涙を零しながら、掠れた声でそう言った。

 視界はもうぐにゃりと歪んでいて、きっと、酷く情けない顔になっているだろう。

 それでももう、そんなことはどうでも良いから、早く。

 せめてもう、これ以上現実を、叩きつけないでくれ。

 もう、散々なんだ。

 声にすらならない呻き声が、口の端から漏れ落ちて、メドゥーサは半歩俺に近寄った。

 白磁のような肌の手が近づいてきて────俺の頬を、撫でた。

 伝い続ける涙をメドゥーサはそっと拭って、クシャリと表情を崩してから。

 

 ────どうか、泣かないでください。私がここに、貴方の傍に、いますから。

 

 メドゥーサは、俺を抱きしめた。

 どこにも行かせないとばかりにきつく、強く、守るみたいに彼女は俺を抱きしめて。

 あやすように、優しく俺の頭を撫でた。

 憶えています──忘れられるはずがありません。

 夢のように輪郭はあやふやで、この手で掴むことが難しいくらいの朧げな記憶。

 それでも私の霊基が、霊核が、魂が、貴方という存在を、マスターという存在を憶えている──焼き付けている。

 何度膝を屈しても、立ち上がる姿を私は識っている。

 傷だらけの身体でも、歩み続けられる姿を私は識っている。

 幾度も投げ出そうとして、それでも何も諦められなかった気高い姿を私は識っている。

 何一つ捨てることはできなくて、だから何もかもを背負って戦ってしまう貴方のことを、私は識っている。

 長く苦しい旅の中で、数多の出会いと別れを経験し、弱いまま、強くなってしまった貴方のことを、私は識っている。

 だから──だからこそ、私は。

 貴方が泣いていると、やりきれない。

 貴方が悲しんでいると、見ていられなくなってしまう。

 貴方が戦っている時、必ずそこにいなければと、そう思う。

 どうしても駆け寄って、傍にいなければと、支えなければと、そう思ってしまう。

 ですから、どうか泣かないで。

 私が隣にいますから、私が貴方を支えますから。

 貴方をひとりにはさせませんから、と。

 メドゥーサは言った。

 温かい声音だった。安心させてくれるような、優しく包み込んでくれるような。

 何度も、何度も聞いた声だった。

 かけられた言葉はスルリと心の奥に滑り落ちてきて、じわりと広がっていく。

 何でとか、どうしてだとか、聞きたいことは溢れかえりそうなほどあって、けれどもそのすべてが今はどうでも良かった。

 言葉に出来ない感情があって、声を出すことすらできなくて、ただメドゥーサにしがみついた。

 

 

 

 

 英霊の座は、時間軸からも、空間からも外れた領域にあるとされている──つまり、過去や未来と言った時間的概念が存在せず、時間も空間も確定していない。

 遥か昔から、遠い未来までの全ての時間において、英霊の座に登録された、いわば本体の方には召喚時のあらゆる記録が集積されている。

 かといって、それはサーヴァントとして召喚された英霊が何もかもを知っている、と言う意味にはならない。

 サーヴァントが召喚時に持っていける、あるいは付与される記憶や知識と言うのは、生前の記憶とその世界、その時代の常識くらいのもので、これまで召喚された時の記憶、これから召喚された時の記憶は何一つ持って行くことはできない。

 いいや、あるいは『記憶』として実感することができない。

 英霊の座に集積される記録というのは膨大すぎるほどに膨大だ。

 時間という上下の広がりにも、並行世界という横の広がりにも、すべてに一つで対応しているそこにおいては、どのような思い出も夢のように忘れてしまう。

 それが、サーヴァントというものだ。

 ほとんどの場合において例外はありえない──だから、今のメドゥーサがあるのは、正しく奇跡のようなものだった。

 あるいはそれは、この人理焼却されているというイレギュラーな事態が、俺がループしているというイレギュラーな事態が、密接に絡まり合って生んだ限定的なものかもしれないが。

 それでも構わなかった。

 メドゥーサは何度も頭を撫でてくれて、背中を叩いてくれた。

 何でも言ってください、と。

 いつでも、どれだけでも頼ってください、と。

 私は強いサーヴァントではないかもしれない、貴方が頼るには、脆すぎるかもしれない。

 守り切れないことも多かった、いつだって貴方を傷だらけにしてしまった。

 だけど、それでも、貴方の傍から離れないことはできるから。

 貴方の為に、戦うことはできますから。

 私は、貴方のサーヴァントです。

 だから、マスター。

 ひとりでは立ち上がれないのなら、私と共に立ち上がりましょう。

 ひとりでは歩けないのなら、二人で歩きましょう。

 貴方はいつだって、諦めない人だった──いいえ、()()()()()()()だった。

 私は貴方の輝きを知っています、弱さも、強さも、気高さも、諦めの悪さも、子供っぽいところも、大人っぽいところも。

 貴方が貴方であるからこそ、あの旅の果てまで辿り着けたことも。

 そのすべては──絶対に、無駄なんかではなかったのですから。

 無意味でも、無価値でもなかったのですから。

 何故なら私の中に、それが残っている。

 貴方という存在が焼き付いた者が、ここにいる。

 それでは足りませんか? 私のマスター。

 静かに、メドゥーサはそう言った。

 まったく、酷い人だな、と思う。

 いつだって、傍にいて欲しい時にいてくれて。

 どんな時だって、欲しい言葉をかけてくれて。

 必要なだけ甘えさせてくれて、必要なだけ厳しくしてくれて。

 背中を叩いてくれて、支えてくれて、隣にいてくれる。

 それで俺が、もう一度立ち直れるということを、知っているから。

 今だって、今までと同じで、戦いたくなんかはない。

 全部他人に任せたい──だけど、立ち上がろうと、思うことが出来てしまう。

 彼女の言葉のひとつひとつが、まるで星のように輝いていて、力を与えてくれる。

 心に火を、灯してくれる。

 涙はもう出てこなかった。出尽くしてしまったのかもしれない。

 まあ、それならそれで良いか。

 無理だって思った時に支えてくれる人がいたから、戦ってこられた。

 一人では何も出来ない、そういう人間だった。

 だから、メドゥーサがいてくれたなら、俺はまた戦える。

 頑張れる……頑張りたいって、そう思える。

 我ながら簡単な男だ。でも、多分それで良いんだと思う。

 ありがとう、メドゥーサ。

 出てきたのは、そんな短い一言だけだった。

 それでもやっぱり、それには全部込めていて、メドゥーサは優しく笑ってくれた。

 

 

 

 パチン、と両頬を叩いて立ち上がる。

 足は震えていたし、心が怯えているのは、今なお確かだった。

 けれども立ち上がれた。

 立ち上がれたってことは、もう戦えるということだ。

 戦えるってことは、先に進もうという意思が、明確にあるということだ。

 それを失くさない限り、俺はもう少しだけ、頑張れる。

 もう一度だけ周りを見渡せば、視界に入るのは揺れる焔と、崩れ落ちた都市のみ。

 ここから先に進めば、たくさんのエネミーと英霊と出遭い、殺し合うことになるだろう。

 ──上等、上等。

 あの時とは、何もかもが違うんだ。

 一度乗り越えた後、幾度もシミュレーションを利用して経験した。

 そうでなくとも、何度も死んで、何度も繰り返した戦場だ。

 それは、今の身体には蓄積されていないが、頭には残っている。

 その上、隣には今、メドゥーサがいるんだ。

 負けるはずがない──だなんて、調子に乗るような真似はしないけれど。

 それでも条件は雲泥の差だった。

 すべてにおいて、先手を取る。そのくらいの覚悟で臨む。

 だから、まずは合流するべきだろう──うん、それが良い。

 じゃあ行こうか、とメドゥーサの手を繋ぐと同時に、契約を結んだ。

 仮ではあるが、それでもメドゥーサとパスが繋がる。

 主観的に言えば、久し振りと言うほどでも無いのに、それでも懐かしさが混じる感覚が走り、手の甲に見慣れた紋様が焼き付いた。

 アシンメトリーな、赤い令呪。

 それを少しだけ眺めていれば、不意にふわっと柔らかく、視界が浮いた。

 というか、抱き上げられた。もちろんメドゥーサに。

 俗に言うお姫様抱っこってやつ。

 ……は?

 なんで!? と聞く前にメドゥーサは鋭く地を蹴った。

 この方が速いでしょう? と薄く笑って。

 

 

 

 

 後ほど、『特異点F』と名付けられるこの特異点は、これから踏破する特異点と比べることが烏滸がましいと思えるほどに、小規模なものだ。

 それは重要度という意味ではなく、単純な広さの話で、という意味ではあるが。

 何せ第一から、第七まで見てみても、すべてが一国以上の広さを舞台にした特異点だったことに比べ、此処の戦場はたった一つの街なのだから。

 かつて冬木と呼ばれた、どこにでもあるような都市。

 その全マップが、俺の頭には入っていたし──前回、どのような経路(ルート)を辿り、聖杯まで辿り着いたかまでも、覚えている。

 というか、否が応でも覚えさせられた、と言うべきか……。

 まあ何だ、ダヴィンチちゃん様々、という訳である。

 何でも役に立つもんだ、と独り言ちながら、メドゥーサへと指示を出す──いやまあ、指示というほど上等なものでもないんだが。

 そこ右、とか暫く真っすぐ、とかそういう段階の話だ。

 情けないことに現在の時間が把握できていなかったが、未だに強力な魔力反応……つまり、聖杯の存在は感じ取れる。

 ということは立香くんたちはまだ、聖杯には辿り着いていないということだ。

 まあ、そもそも俺が此処にレイシフトして来てから、そこまで時間が経っている訳でもない──と言っても、楽観できる状況かと言われたら、まったくそうでも無いのだが。

 前回は偶々、何もかもが上手くいっただけ、そう考えるのが自然だ。

 合流する前に、彼らは死んでしまうかもしれない。

 あるいは、既にそうなっている可能性だって、当然のようにあるのだ。

 立香くんは、マシュは、確かに何者にも代えがたい、稀有な存在で、どこまでも強い子たちではあったが。

 それでもあの二人は、何でもない普通の男の子と、女の子なのだから。

 ここは特異点、人理定礎が崩されたことで発生した、最悪なもしもの世界。

 どんな「もしも」だってありえるのは、当たり前だ。

 だから、その一点だけが気がかりで、一先ずは聖杯とそれを守護するセイバー・オルタが佇む、大空洞の入口へと向かった。

 メドゥーサが、滑るように地を駆ける。

 先程も言った通り、この特異点はそこまで大きくはない。

 英霊にかかれば、端から端までの移動だとしても、そう時間はかからないだろう。

 数多のエネミーを相手にすることは無く、すり抜けるように走ればそれだけで、大空洞は見えてきて──同時に、甲高い金属音が耳朶を叩いた。

 目を凝らせば見えてくるのは、一騎のアーチャーと、それに対抗する、二人のサーヴァントと、二人の人間。

 炎が飛び交い、剣と盾がぶつかり合って、激しく火花が散って舞う。

 見たことのあるような光景だ、と思って安堵した。

 まだ生きている、それも随分と元気そうだ──であれば遠慮はいらないだろう。

 ここで、一撃で仕留める。

 その意思が伝わったのか、音にすら手を伸ばすように、メドゥーサは一歩ごとに加速する。

 地を蹴る感触が身体を伝う度に景色は流れ行き、そして、令呪をきった。

 手の甲を、熱く燃えるような感覚が駆け抜ける。

 瞬間、俺はふわりとその場に置き捨てられて──メドゥーサは更に加速した。

 単純な膂力の強化を以て、彼女はアーチャーの懐へと踏み込み、薙ぎ払った。

 閃光のような一撃がアーチャーの身体を両断し──そして俺は滑るように地面に墜落した。

 ゴロゴロと派手に転がり、ダメージを減らす努力だけして立香くんの足元に落ちる。

 ……いやね、終局時の俺ならまだしも、今の俺じゃ受け身取ることで精一杯なんですよね……。

 マジで痛いので反省してほしい、と心の底からそう思った。

 

 

 

 立香くんたちの状況は、前回とほとんど──というよりは、まったく変わっていないようだった。

 マシュと立香くんは契約を結んでおり、所長とも合流して、キャスニキとも仮契約を行っている。

 サーヴァント二人、人間二人の四人パーティ。

 かつて随分と手こずらせてくれた巨躯のサーヴァント──ダレイオス三世も無事突破してきたようで、既に立香くんには頼もしさに近いものが感じられた。

 相も変わらず飲み込みの早い……というよりは、適応力の高い少年だ。

 羨ましいとはもうとっくに思わなくなったが、流石だとは思った。

 残念ながら、俺ではそうはいかないと思うから、なおさらだ。

 と、まあそんなことはどうでも良くて、合流した以上はさっさとこの特異点を終わらせたい、というのが本音だ。

 ──いや、それは少し、語弊があるかもしれない。

 確かに早くカルデアには戻りたかった、けれども、本当に戻って良いのだろうか、という思いがあったのも事実だった。

 それは、別に俺にとって何か不都合がある、とかそういう訳ではなく。

 特異点Fを攻略し終えるということは即ち、カルデア現所長:オルガマリー・アニムスフィアを失うということに他ならない。

 いや、正確にはそれも、間違ってはいるのか。

 既に俺達は彼女を失っている──所長は既に、死人だ。

 レフ・ライノールの手によって起こされた管制室の爆破は、確実に所長の命を消し飛ばした。

 それにそもそも、所長はマスター適性も、レイシフト適性も無かったと聞いてる。

 つまり、本来であれば所長は、絶対にレイシフトなぞ出来ないはずなのだ。

 だから、ここにいる所長は、オルガマリー・アニムスフィアであって、オルガマリー・アニムスフィアではない。

 彼女が死する時に、強く思い残した感情、情念、意志が残り、形作っただけの、言わばただの()()()()

 それが、今の所長の正体だ。

 現在の彼女にはもう肉体はなく、ある種の霊的存在ですらある。

 要するに、所長はもう、()()()()なのだ。

 あの時の、悲痛な悲鳴はまだ、耳朶にこびりついている。

 まだ何も成し得ていない。

 まだ誰にも認められていない。

 そう叫んで生を願った彼女は、もう死んでいる。

 聖杯に近づけば近づくほど、特異点の終わりに歩み寄れば歩み寄るほど、所長の終わりも近づいてくる。

 どうすれば良いのだろうか、等と考えるまでもないことなのに、それでも少しだけ、考えてしまった。

 今この場で伝えるか? とも思ったが、しかしそれは幾ら何でもナンセンスだろう。

 ただでさえ、皆不安を抱えているのに、そんなことを伝えてみろ。

 雰囲気も士気もガクリと落ちるのが目に見えている。

 それに、俺がループしてるなんて事実を受け容れてもらうには、信頼や実績、時間に情報等、とにかく何もかもが足りていない。

 今は少しの休憩を挟んでいるが、終わり次第聖杯に向かうことになるだろう。

 数十分もかからず、聖杯には辿り着く。

 同時に、セイバー・オルタとも、レフ・ライノールとも邂逅を果たす訳だ。

 そして所長は死ぬ。それは変えようのない確定事項で、前回のそれは、カルデアスに飲まれるという形での死であった。

 ……あの時と違って、俺はもう、色々と知っている。

 カルデアスに放り込まれる、と言う意味を、理解している。

 かつて、レフ・ライノールはそうされることを「永遠に死に続けること」と言った。

 それをもう少し噛み砕いて言えば、それは「分子レベルで分解されること」を意味する。

 触れた面積から、恐ろしい速さで、しかし目に見えないほど細かく消し去られるのだ。

 想像を絶する痛みなのは、それこそ何度も死を経験してる俺だからこそ、少しは分かる。

 だから、それだけは避けねばならないだろう──せめて死ぬのであれば、安らかに、痛みも一瞬な方が、絶対に良いに決まっているのだから。

 覚悟をゆっくりと積み上げて、ため息を漏らせばパチンッとデコを弾かれた。

 眉間にシワが寄ってますよ、なんてメドゥーサに笑われて、それから引っ張り上げられる。

 束の間の休息はもう終わりという訳だ。

 後はもう、戦って戦って、それでカルデアへと帰還する。

 静かに長く息を吐いて、良し、と呟いた。

 

 

 濃厚な死の匂いが立ち込めていた。

 呼吸をすることすら苦しくなるような重圧が空間を支配していた。

 聖杯とセイバーが待ち受ける此処だけが、まったく別の世界かのような魔力濃度を誇っていて、全身に強化を回す。

 思っていたよりも随分と弱弱しい強化で、若干不安になったが、活動するのに問題はない……多分。

 いや待って? マジでしょぼい。本当に俺、こんなんで戦ってきたのかよって疑っちゃうレベル。

 まあ、文句を言っても仕方がないので黙って進めば、直ぐに彼女は姿を現した。

 黒のドレスに身を包み、無機質な黄金の瞳を宿す、反転した騎士王。

 相対するのと同時、黒の聖剣はゆっくりと構えられた。

 ──圧が増す。魔力は渦巻き、彼女と聖剣を包み込んだのちに、それは放たれた。

 極黒の一撃。

 それは、ともすれば第六特異点で見た、聖槍による裁きの光にも似ているかもしれない、と思った。

 全てを塵に還すような圧倒的一撃だからそう思ったのか、あるいは、彼女らがその一撃に込める意思が似通ったものだからなのかは分からない。

 無論、聖剣と聖槍は別物で、かの獅子王の一撃の方が威力はずっと上だろう。

 それは間違いない──しかし、だからこそ防ぐことができる。

 大盾を携えたマシュが前に出た。

 立香くんのバックアップを受けた彼女は大盾を前に構え、高らかに叫びをあげる。

 ──真名、偽装登録。仮想宝具、疑似展開。人理の礎(ロード・カルデアス)

 顕現するは白亜の城──ではないが、しかし盾の形をした巨大な守護障壁が展開され、騎士王の一撃とぶつかり合った。

 光と光が反発し合い、激しい衝撃が空間を揺さぶる。

 嵐のような風が巻き起こり、地面は砕け、瓦礫が舞う。

 その二つは最期までせめぎ合い──同時に霞の如く消え去った。

 振り降ろされた黒の聖剣と、大盾が今度は直接ぶつかり合って、甲高い金属音が響く。

 大盾はマシュごと鋭く弾かれて、同時にメドゥーサは地を蹴った。

 トン、と軽やかに。されども風より速く、鎌は振るわれる。

 一合、重々しい金属音が鳴り響く。

 そのまま力押しで騎士王を吹き飛ばし、キャスニキの援護の炎が幾つも飛んだ。

 騎士王が炎に呑まれ──打ち払われる。

 マシュが体勢を立て直し、地面を駆けるのと同時に、令呪をきった。

 燃えるような感覚はメドゥーサの力へと転換され──それを待っていたかのように、彼女の魔眼は発動された。

 メドゥーサの美しい瞳は石化の魔眼。無論、問答無用でセイバーを石化させるほど強力ではないが、それでも数秒身体の動きを止めることは可能だ。

 ビタリ、と不自然にセイバーは剣を止める。

 そこにマシュの一撃がジャストミートして、呆気なくセイバーの小さな体は宙へと浮いた。

 刹那、魔力は渦巻いた。

 セイバーの全身から、絶大とも言える魔力が吹きだそうとして──胴を、鎌が貫く。

 肉厚の刃が音もなく振り払われて、セイバーは半身と泣き別れした。

 軽い音と共に、騎士王の上半身は地面へと落下した。

 セイバーは何度か剣を握ったまま、それでもと身動ぎしたが、やがてそっと力を抜いて、視線だけをこちらに寄こしてきた。

 見事──とは言ってやろう。されども、こうなった以上は──こうすることを選んだ以上は、覚悟を決めることだ。

 七つの時代を巡る、聖杯探索(グランドオーダー)は今、これより始まったのだから。

 それだけ言って、セイバーはその姿を光へと還した。

 

 

 

 焼き増しのような光景に、焼き増しのような言葉。

 そういえば、こんなことも言われていたな、というのが抱いた感想だった。

 それ以上でも、それ以下でもなくて、あまり感慨深さがない。

 ──きっと、これからはずっと、そう感じることになるのだろうということを、ぼんやりと察した。

 今までのような短い間隔ではなく、本当に一から始まるとは、そういうことなのだ。

 少しだけ、寒気が背筋を上り──ギュッと、手を握られた。

 横を見れば退去の光に包まれたメドゥーサが俺を見ていた。

 では、一時のお別れです、マスター、と彼女は言った。

 直ぐに呼んでくださいね? と微笑みを浮かべ、ゆるりと霞のように消える。

 言われるまでもない、と一人ごちれば、パチパチと、拍手の音が響いた。

 そこにいたのは、緑のシルクハットを被った男。カルデアを裏切った敵。

 レフ・ライノール……あるいは、七十二柱の魔神が一柱、フラウロス。

 見覚えのある、酷く不愉快そうな目で、彼は俺たちを見下ろしていた。

 所長が彼の名を叫ぶ、彼もまた、所長の名を優しく呼んで、そしてあの時のように、所長は走り出した。

 否、走り出そうとした所長の手首を、今度こそはつかんだ。

 恐ろしい形相で振り返り、離しなさいと叫んだ所長に、それでも首を横に振った。

 アレが──あの人が、本当にレフ教授に見えますか? と、言葉を紡ぐ。

 この状況で、あの様相で、あれほどの余裕を見せる人が、本当に、本当に俺たちと同じ、不慮の事故に巻き込まれた人に、見えますか?

 俺には見えない──どっちかって言うと、黒幕にすら見える。

 信頼関係がどうのという前の話です、所長。

 混乱だってしているかもしれない、知ってる人に頼りたくなるかもしれない、だけど、貴女はカルデアを代表する所長なんですから。

 盲目的に、誰かに縋ろうとするのはやめてください。

 そう、言葉を重ねれば重ねるほど、所長からは力が抜け落ちるようだった。

 変わらず眉は顰めたままだったが、それでも足を止めて、ゆっくりと彼女はレフを見る。

 手を離しても、もう所長は動かなかった。荒い呼吸のまま、けれども確りと、所長は問いを投げる。

 貴方──本当に、レフなの? と。

 俺たちのやりとりを面白そうに眺めていた彼は、そこで耐え切れなくなったのか吹き出すように笑った。

 いやあ、見事、見事!

 ああそうだよ、オルガ。私は確かにレフ・ライノールさ──だが、そうだな、カルデアを爆破した犯人を黒幕と言うのならば、そう、私が黒幕だ。

 そう言って、俺たちを見る。

 そこから語られ始めたのは、当然ではあるが、一度聞いた話だった。

 未来──人理の焼却と、所長の生死。

 それらを雄弁に語り、所長を殺せなかったことだけ少しだけ不満そうにして、彼はこの場を去った。

 同時に特異点は揺れ動く。

 聖杯を回収したことで、形を保てなくなっていたこの世界はついに崩壊を始め──所長は、しかし何も言うことは無かった。

 あの時のように取り乱すことは無く、されども落ち着いているのかと言われればそういう訳でもなく。

 ただ、己を見つめているようだった。

 そこに、どんな感情が介在していたかは分からないまま、俺達は光に包まれて──レイシフトは、行われた。

 最後の瞬間、所長は無線機に何かしら言っていた、ような気がした。

 

 

 

 

 ──意識が戻る。

 ふわふわとしていた五感が急速に戻り、視界に広がったのは随分と荒らされた管制室であった。

 消火はされているものの、あちこち砕けていて、ボロボロだ。

 懐かしい光景だな、と思った。

 確かに最初はこんなんだった。時間をかけて少しずつ片づけたものだ。

 チラリと横に視線を送れば、問題なく立香くんもマシュも戻ってきていた──もちろん、所長はいない。

 俺と、立香くんと、マシュの三人だけである。当然だ。

 がやがやと集まってきた職員やドクターにベッドに連行されそうになるのをスルっと回避する。

 多少の疲労はあるが、まだやることが──というよりは、やりたいことがあった。

 まあ、何と言うか、アレ……端的に言って、召喚がしたくて仕方なかった。

 もう戻ってきてからかなりソワソワしてしまっていて、個人的には一刻も早く、と言った気分なのを抑えつけている状態だ。

 や、ほら、直ぐに呼ぶとか言っちゃったし。

 カルデア式の召喚は、マシュの盾が必須だ。

 かといって、マシュが必要なわけでは無いし、それ以外の機材もダメージは受けてないはずだ。

 つまり、召喚自体はすぐにでも可能なはずなのである。

 聖晶石は手元にあるし、こちらの準備も出来ている。

 今は休んだ方が──と述べるドクターに何とか頼み込めば、少し考えたのちに彼は仕方ないなぁ、と許してくれた。

 そうして踏み込んだのは召喚用の、正方形の真っ白な部屋だ。

 マシュの巨大な盾を中心に、幾何学模様が刻まれ、薄く発光している。

 室内にいるのは俺一人で、大きく深呼吸をした。

 かなりの我儘で許してもらったわけなのだが、普通に概念礼装しか出てこない可能性があるんだよな……。

 というか、むしろそっちの方の可能性が高い、ということに遅まきながら気付いて、滅茶苦茶でかいため息を吐いた。

 い、いや、ちゃんと約束したし、大丈夫でしょう。……大丈夫だよな?

 不安しかないんだけど……と思いつつも、ここでまごまごしていても仕方がない、と聖晶石を放り投げた。

 虹色の、トゲトゲとしたデザインのそれは、盾に触れると同時に解けるように消え、召喚の儀式を開始する。

 幾何学模様のサークルが青の輝きを巻き起こし、部屋全体を包み──人影が一つ、中心に出来上がった。

 随分と見慣れた立ち姿だと、そう思うと同時にバチリと真っ赤な令呪が右手の甲に刻み直されて、光は晴れる────は?

 声が、思わず漏れた。

 それをかき消すように、カチャリと鯉口を鳴らす音がして。

 彼女は元気良く飛びだしてきた。

 

「サーヴァント、セイバー! 召喚されて超参上! みたいなー☆」

 

 はあぁぁぁ!? チェンジチェンジチェンジ!

 

「二回目ともなると流石の私も傷つくんですけどーー!?」

 

 

 

 

 鈴鹿御前という英霊は、俺という個人にとって、最も例外なサーヴァントである。

 というのも、俺の召喚に応じてくれたサーヴァントというのは、彼女を除けば、形はどうあれ先に縁を作っている者のみだからだ。

 メドゥーサもカーミラも、各特異点で何度も殺し、殺された相手である。

 命を奪った、あるいは奪われたという事実は、それだけで強力な縁になる。

 だから、二人が召喚されたことは、正直言って不思議なことではない──むしろ、当然とも言って良いだろう。

 カーミラに至っては、彼女の幼少期とも呼べる、エリザベートとも縁を結んでいるのである。

 だが、そんな中で唯一、鈴鹿御前だけは縁を結んでいないサーヴァントだった。

 とはいえ、それ自体もまた、別におかしなことではないのだが。

 現状、カルデアの召喚は基本的に『人理修復を成すため』に行われるものであり、その想いに同意したサーヴァントのみが召喚に応じてくれる仕組みである。

 ゆえに、『人理修復を成す』という意思さえ合致すれば、どのサーヴァントであろうとも召喚される可能性はある──無論、そこに縁があれば優先度は上がるのだが。

 だから、鈴鹿が召喚される可能性と言うのはもちろんあったし、召喚されたこともおかしくはなかった。

 それは分かっている。だが、それも含めて、俺にとっての唯一であったというのもまた事実なのだ。

 ──そう、唯一の存在。

 それは、召喚された経緯だけではなく、俺の事情を知っているということも含めて。

 彼女は特別だった……いや、だからといって特別扱いをしていたとかそういうことは一切ないのだが。

 むしろ、特別扱い等と言ってしまえばカーミラの方がずっとそうだったのではないだろうか。

 カルデア内で、気が付いたら俺の傍にいるランキング、堂々の一位だったからね、あいつ。

 何だかんだ人肌恋しがるやつなんだよな。いや、鈴鹿がそうじゃないという訳でもないのだが。

 カーミラはいつの間にか傍にいるが、鈴鹿はその逆だ。

 俺を見かけ次第飛びついてくる感じ──いやこの話全然関係ないな。

 とにかく、そういった様々な要因込みで、鈴鹿は俺の中で少々特別な位置にいた。

 だからこそ、今回の召喚に応じたのが彼女であるという事実に、特段そこまでの驚愕を持ちうることは無かった。

 いや、正確には驚愕を引きずるようなことは無かった、と言うべきだろうか。

 何でお前が!? と言う気持ちより、まあ鈴鹿だしな……という気持ちが勝ったとも言う。

 まあ、それはそれとしてメドゥーサを呼ぶつもり満々だったのだが。

 流石にそれを露骨に表情に出すのは、勝手知ったる仲と言えども失礼と言うものだった……いや、失礼と言えば一言目からもう露見してんだけど。

 普通に取り繕うには無理がありすぎて、けれども鈴鹿は力を抜いてふにゃりと笑った。

 何だ、意外と元気そうじゃん、良かった。

 マスターのことだから、今頃泣いてるかと思ってたんだけど──今回もまた出遅れたかな、これは。

 出来るだけ早く来たのになぁ、こればっかりはもう、仕方がない、か。

 うん、まあ、良しとしましょう──ねぇ、マスター。

 ()()()()()

 俺の手を包み込むように握り、鈴鹿は一言、そう言った。

 ごめんね、前にも聞いたことを、もう一度聞くような真似をして──でもね、それでも訊きたかったの。

 あの時とはもう、状況が違う。分かっていることも違う。何もかもが同じで、けれども何もかもが決定的に違うから。

 これから始まる旅は、人理修復という長い戦いは、マスターにとっては二度目に過ぎない。

 そして同時に、数あるうちの一つになる旅路でもある。

 それくらいは、分かっているでしょう──何をやっても、マスターはまた此処に戻ってくることになる。

 何度戦って、何度救って、何度殺して、何度生き残っても、ここに辿り着くんだよ。

 そんなの────そんなのってさ、良くないじゃん。

 マスターは強いよ、確かに強い。一つでも切っ掛けがあれば立ち上がってしまえる、そういう人。

 傷ついて、折れて、屈して、それでも立ち上がるところはかっこいいよ。

 眩しくて、心強くて、どうしようもなく惹かれる──けれどもそれは、同時に酷く痛々しい。

 もう、見ていられない、黙っていられない。

 ──戦うって選択肢はさ、決して正しいものじゃないじゃん。

 傍から見れば美しい判断に見えるかもしれない、勇気ある選択に見えるかもしれない。

 逆境の中でも立ち向かって見せる背中は途方も無く大きく見える。

 だけど、絶対にそこに「どちらが正しかった」なんてものは宿らない。

 ……私は、ずっとマスターのことを覚えていられるよ。

 終わらない一年が、どれだけ続いたって構わない。私はその間、ずっと傍にいてあげられる────私はもう、マスターには傷ついて欲しくない。

 辛い思いも、苦しい思いもしてほしくない。

 重荷ばかりが増えていって、心も体もボロボロになっていくところをもう、ただ見てるだけなんて嫌だよ。

 支えるなんて出来ない。守りたい、守りたいんだよ!

 だからね、マスター。

 お願いだから、もう戦わないって言って。

 守って欲しいって、そう言って。

 お願いだから、そうすれば、私はもう貴方が傷つくことが無いように、大切に閉じ込めることくらいは、できるから……と鈴鹿は重ねて言った。

 その手は震えていて、彼女の瞳からは涙が溢れるように零れ落ちていく。

 それは、飽くまで()()()だった。

 命令でも無ければ、強制でも無い、俺のことを想って口に出した、彼女の願いだった。

 それに、心を揺らされなかったと言えば、嘘になる。

 鈴鹿の願いは、心の底から嬉しかった──もっと言えば、それは俺がずっと求めていた言葉でもあったのだから。

 もう戦わなくていい、戦わないで欲しい。

 そういう言葉が、ずっと欲しかった。

 優しくて、甘くて、暖かい言葉。

 じわりと心に溶け落ちるような鈴鹿の想いを、しかし呑むわけにはいかなかった。

 ()()()()()()のだと、決めたのだから。

 戦うのだと、メドゥーサに誓った。

 まだ進めるのだと、心に火を灯した。

 それを消すのはまだ早いと、他でもない俺自身がそう思うから。

 だから────だから、ありがとう、鈴鹿。

 そう言って、鈴鹿の華奢な身体を抱きしめた。

 鈴鹿の提案は怖いくらい魅力的だ。思わず頷きそうになるくらいには。

 俺のこと、そう思ってくれるサーヴァントはきっとお前だけだよ。だから、ありがとう。

 でも、ごめん。やっぱり俺は戦うよ。

 張りぼてでも、何でも良いから、もう少しだけ真っすぐ立っていたい。

 何とか頑張って前を見て、進んでいきたいと、そう思った自分を、無かったことにだけはしたくないから。

 少しだけの静寂が、ゆるりと広がった。

 鈴鹿は俺をかき抱いたまま、小さく言った。

 どうしても? と一言だけ、呟くように囁いて。

 俺はそれに、ゆっくりと頷いた。

 それが最後の問答だった。

 鈴鹿は暫くの間何も言うことは無く、その小さな身体を震わせて泣いていた。

 他でもない俺の為に、彼女は泣いてくれたのだった。

 

 

 

 

 どれだけの間、そうしていたのだろうか。

 鈴鹿は目を真っ赤にさせたまま、半歩だけ離れて俺を見た。

 ……本当はね、聞くまでも無く分かってたの。

 マスターなら絶対に、私の言葉に頷かないって、戦うって言うんだって、分かってた。

 これは、私の我儘だった、お願いだった──だから、それはもうおしまい。

 人理修復を終えてなお、その先に如何な困難があろうとも。

 どれだけ傷つこうとも、前に進むという意思が欠けることは無いのだと信じましょう。

 ──我こそは、第四天魔王が娘にして、鈴鹿山に降り立ちし瀬織津姫神(せおりつひののかみ)

 貴方が戦うというのであれば、我が存在すべてを以て支え、救いましょう。

 ええ、貴方を蝕む永劫の輪廻からも、解き放つことを約束いたします──なんてね。

 ちょっと小難しい言い方になっちゃったけど、ま、つまりはそーゆーこと。

 マスターの繰り返し、やり直しはもう、ここまで。

 ようやく、ぜんぶ理解ったから──もう、そうする為の算段はついたから。

 そう言って、鈴鹿は小さく笑みを浮かべたのだが、しかしその言葉を、俺が呑み込めなかった。

 思わず呆然としたまま、思考は停止したままグルグルと回り出す。

 ループを終わらせる? どうやって? 意味分かんないんだけど──と声に出そうとすれば手を口に当てられる。

 何を──と思えば鈴鹿は面白そうに笑って、安心して、と言った。

 マスターには理解できそうにない複雑なことを、丁寧に積み上げて、組み立ててようやく成り立つことだから。

 マスターはただ……そうね、もう一度、()()場所に。

 終局特異点────魔神王ゲーティアが座す玉座へ辿り着いて欲しい。

 もちろん、ゲーティアを打倒するまでがセットだけどね。

 出来る……かどうかはもう、聞かない。マスターならやってみせるって分かっているから。

 だから、今はそれだけを考えて欲しいな──あ、でも。

 そうね、一人くらいは協力者が欲しいかも……ちょうど、私と同じくらい頭が回って、同じくらい優秀な人が一人。

 当然、私たちの事情を伝えても問題ないような人……って流石に注文が多すぎね。

 あはは、と鈴鹿は笑い、しかし俺は普通に首を傾げた。

 いや、本当に色々と注文が多いし、理解できなくても何でも良いから説明しろよ、という気持ちはあるのだが、それはまあ……仕方ないから置いといて。

 その条件を満たす人、一人だけいるじゃん。

 ふぇ? と可愛らしく疑問符を零した鈴鹿に、やれやれ、と肩をすくめた。

 

 

 

 

 

 という訳でダ・ヴィンチちゃん! ちょっと聞いてほしい話があるんだけど! といつもの調子で彼女の工房へと飛び込めば、やはりダ・ヴィンチちゃんはそこにいたが、しかしまるで見たことのないような不審な目を向けられた。

 え、こんな歓迎されないことある? と思った直後、あっ、と気付く。

 そうだ、そうだった。

 今の時点の俺はまだ、ダ・ヴィンチちゃんと面識が無いはずなのだ。

 二度目である云々の話を抜きにして、まずこの時点では名前はおろか、存在すら知らない相手なのだ。

 ダ・ヴィンチちゃんが、鈴鹿やメドゥーサと同じとは限らない──というかむしろ、そうでない方が普通なのである。

 奇跡は何度も起こらないから、奇跡たりえるものなのだから。

 これはまずい、と思ったがしかし、ここで取り乱す方がもっと怪しいだろう──いや、もう既に怪しさ満点ではあるのだが。

 シュン、と静かに扉が閉じる音が響いて、ダ・ヴィンチちゃんは鋭く俺と鈴鹿……いや、多分、俺を観察し始めた。

 普通に参ったな、と思う。続いて恐ろしい失敗をした、とも。

 いや、そもそもループしている、だなんて荒唐無稽な話は、少なくとも今の段階で信じてもらうには無理があるのは分かっていた。

 だから、怪しさを抱かれるのは承知の上ではあったのだが、この入り方はかなり悪かった。最悪とも言って良いだろう。

 何事も第一印象と言うのは大事なものだ。俺だったらこんな不審者、信用しようとは思わない。

 内心舌打ちをしながら言い訳を考えていれば、ダ・ヴィンチちゃんはふむ、と顎に手を当て十数秒、思考するそぶりを見せた後に言った。

 少年、君の話を聞く前に、私から一つ、質問させてもらっても良いだろうか と。

 質問? 俺に? と思ったが、しかしまあそりゃそうだ、と納得する。

 今の俺達、普通に不審者だからな……。

 仕方ない、と俺が頷けば、ダ・ヴィンチちゃんは椅子を用意して、座りたまえ、と促した。

 俺が腰を掛けると、ダ・ヴィンチちゃんは数回自身のこめかみをトントンと叩きながら、今から聞くことが、もしも的外れな質問なのだとしたら、直ぐにでもそう言ってくれ、と前置きをしてから、再度口を開く。

 君と私は初対面だ、これは間違いないね? 何せ、私は君のことを良く知らない。

 データバンクの情報を少し閲覧はしたが、挨拶すらした記憶がないのだから、これは当然の前提なはずだ。

 まあ、私自身の情報はカルデア内に限れば、多少はオープンではあるし、耳に挟んだことあるということは十分にあり得るだろうけどね。

 しかし少年、君は間違いなく私を求め、態々ここまでやってきて、なおかつこの姿の私を見て迷いなく「ダ・ヴィンチちゃん」と呼んだね。

 無論、それを間違っているとは言わないさ。むしろそう、その通り。如何にも私は万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチだ。

 どうやって看破したのか、気になるな。

 それに、ダ・ヴィンチちゃんという愛称は私が、親しいものにだけ許しているもので、決して君に教えた覚えはない。

 だが、君は随分と親し気だった。それに、この私の工房に驚きの一つすら漏らさない……そう、まるで此処に来慣れているかのように。

 さて、以上の観点から、君に一つだけ問いたい。

 あまり論理的ではなく、いささかぶっ飛びすぎているような問いで、私としても問うのは躊躇うんだけど、何度考えてもこの結論に到達してしまうのでね、はっきりさせておきたい。

 少年、君はこの特異点Fと、先ほど名付けられた特異点を乗り越えたのが初めてではない──いや、そもそも、今から始まろうとしている、人理修復の旅そのものを、体験するのが初めてではないのでないだろうか。

 少なくとも一度以上は、繰り返している──つまり君は、()()()()()()()()()

 無論、レイシフト絡みだとか、そういう話では無くてね。

 ──静寂が、落ちて広がった。

 それから不思議と笑いが込み上げてくる。

 何というか……凄く『ダ・ヴィンチちゃん』だった。

 こちらが説明する前に、もう大体の状況を把握できてしまえる、そういう人……英霊。

 俺の先生であり、尊敬するべき相手であり、そしてこの天才のみが集うカルデア内でも、比べるまでも無くトップに君臨する万能の天才。

 こうやって改めて思い知らされると、もう驚き通り越して笑うしか無くなるな……と思えばダ・ヴィンチちゃんは嬉しそうに笑った。

 私に不可能はないからね──さて、では話してもらおうか。

 何をって? そりゃあもちろん、君が歩んできた旅路と、その結末……そして、()()()()のこと。要するに、君が話したかったことすべて、さ。 

 

 

 

 

 俺が各特異点の話──つまるところ、前回の人理修復の旅の話を終えたのは、深夜と呼べるだろう時間に突入した頃だった。

 ダ・ヴィンチちゃんお手製の、やけにゴテゴテしい時計がチクタクと音を鳴らしながら、二時過ぎであることを知らせている。

 流石に眠くなってきたな、とあくびをしていれば、俺の話を手元の紙にメモしていたダ・ヴィンチちゃんが、ふむ……と唸った。

 面白かったよ、うん、創作(フィクション)として聞くのならば、正しく良く出来た冒険活劇といったところだね。

 小説か、あるいは漫画にしたらウケそうなものだ──ああ、いや、誤解を招いたならすまない、信じてないという訳じゃあないんだ。

 むしろ信用性という点においては、高まったと言っても良いだろう。

 それだけの情報量と、質だった。それに何より、ロマニのことを分かっているのなら、もう疑いようは無いだろうさ。

 ああ、信じるとも──というか、元より疑ってはいなかったんだけどね。

 何せこの万能の天才たる私が、そうであると推理したのだから、後は答え合わせのようなものだったのさ。

 まあ、それとは別に、荒唐無稽な話であるとも思うけれどもね──もちろん、それを打破することができるということも含めて。

 だが、うん、そうだね……良いとも、協力はしてあげよう。全面的なバックアップは任せたまえ。

 鈴鹿御前、君も、これで良いんだろう?

 そう言って、ダ・ヴィンチちゃんは鈴鹿を見た。

 俺にもたれかかるようにしていた鈴鹿は、ダ・ヴィンチちゃんと目を合わせ、数秒黙った後に頷いた。

 それが、どういった意味のやり取りだったのかは分からない。

 けれども、ダ・ヴィンチちゃんが敢えて言葉を濁し、鈴鹿は無言でそれに応えたのだから、わざわざ聞くのも野暮と言うものだろう。

 というか、眠くてそれどころでは無かった。

 何せ特異点から戻ってきて、今の今まで一睡もしていないのである。

 もちろん、言われるまでもなく、一から十まで俺が悪いのだが、それはそれとして普通に疲れていた。

 鈴鹿が、そんな俺の頬を幾度か叩き、ふわりと笑う。

 お疲れ様、マスター。後は私と、ダ・ヴィンチちゃんで話すから問題ないし、寝ても良いよ。

 それともベッドまで連れて行ってあげよっか?

 そんな、いつもなら跳ねのけるような軽口に一瞬だけ乗せられそうになって、ハッとなる。

 ゆるゆると首を振って否定しながら目を覚まし、ダ・ヴィンチちゃんを見た。

 まだ、俺に聞きたいこと……っていうか、言いたいことあるでしょ。

 そう言えば、ダ・ヴィンチちゃんは面白そうに眼を見開いた。

 これでも、俺からすれば、ダ・ヴィンチちゃんとは一年もの付き合いなのだ。

 それくらいは分かるというものである──いやちょっと待って? もしかしてこの「分かってますよ」みたいなムーブ、今のダ・ヴィンチちゃんからしたら相当キモいのでは?

 もし俺が逆の立場だったらかなり嫌だな……と思わず顔を顰め、謝った方が良いかなあ……等と思っていたら不意に、ダ・ヴィンチちゃんは軽く息を吐いた。

 どうにも、君が私を師事していたという話も本当らしい。

 信憑性がまた高まったよ──ま、それはそれとして気持ち悪いからやめた方が良いかもね、それ……というのはまあ、冗談としてもだ。

 良いのかい? 君はこれで……いや、この聞き方は少しばかり不親切で、卑怯だね。

 いや、何、私が気にしているのはね、君は本当に、彼女の言っている言葉の意味が分かっているのか? という点なのさ。

 ループからの脱却、と言えば確かに口当たりは良いだろう。だが良いのはそれだけだ。

 一度経験している──それは確かに、アドバンテージにはなりうるだろう。

 けれども、それは同時に、恐怖も知っているということに他ならない。

 私とて英霊に数えられる内の一人である──かつては君と同じ、人間だった。

 自らが成し得てきた偉業をもう一度行える、という英雄はそれこそいないと言っても過言じゃあないだろう。

 それを、君は本当に分かっているのかい?

 そう言って、ダ・ヴィンチちゃんはジッと俺を見た。

 その瞳に、何が込められていたのかは分からない。

 ただ、その透き通った海のような眼で、俺の内側まで見透かすようだった。

 それに少しだけ緊張して、ついでに少しだけ──いいや、かなり躊躇ってから、俺は頷いた。

 分かってる……って、言葉にできるほどは多分、その大変さは分かっていないんだろうけれど。

 それでもやるよ……できるできないじゃなくて、やる、やってみせる。

 そう返せば、ダ・ヴィンチちゃんは面白そうに俺を見た後に、小さく笑みをたたえた。

 そう、それなら良い──とは、言えないけれど。

 うん、君が君自身で選択したことならば、あれこれ言うのも野暮と言うものだった。

 これは私が悪かったな、すまない。

 さて、私から聞きたいことは以上だ──時間も時間だし、存分に休むと良い。

 協力するとは言ったが、主に動くのは君たちなんだからね。

 身体は資本だ、大事にしたまえ。

 言われるのと同時に、額を人差し指で押され、途端に身体から力が抜けた。

 一回振り切ったはずの眠気が急激に鎌首をもたげ始め、そこでようやく、あ、やられた、と思う。

 間違いなく魔術である。

 ただでさえ寝ろと言われれば直ぐにでも寝れる状態だったのに、魔術まで使う必要あったのだろうか……?

 そう文句を言おうとしたが時すでに遅し。抵抗するまでもなく、俺のフラッと意識は闇へと落ちた。

 

 

 

 翌日、早朝。

 俺と立香くん、マシュは中央管制室へと集められた────あの日のように。

 運良く生き延びたカルデア職員と、それをまとめるドクターとダ・ヴィンチちゃん。

 彼らに問われ、俺達は答えを返す……あるいは、宣言をした。

 戦うのだ、と。

 世界を救うのだ、と。

 そう、誓いを立てた。

 

 

 

 ────かくして、史上最大規模の聖杯探索は()()幕を開けた。

 七つの特異点、七つの聖杯を巡る、人理修復の旅──世界救う物語は、もう一度動き出す。

 

 

 第一特異点:邪龍百年戦争オルレアン────それは、覚悟を問い直される戦い。

 有り得ざる反転が起こった贋作の聖女──竜の魔女と、それを誰よりも願い、生み出してしまった愚かな男との殺し合い。

 彼ら彼女らが、実際どうであったのかも、どう思っているのかも関係なく。

 ただ願われたままに、思われたままに全てを憎み、嫌悪し、荒れ狂う者たちを鎮める物語。

 

 第二特異点:永続狂気帝国セプテム────それは、これが間違いを否定する為の戦いであるのだと、再認識する戦い。

 かつて何よりも繁栄し、そしてなるべくして衰退したローマ帝国。

 その正史を覆さんとした──永遠の繁栄を求めたものたちを、滅びに追い返す戦争。

 その先が、どれだけ華々しくとも。

 その先が、如何に幸福に満ち溢れていようとも。

 そこに正しさは無いのだと、切り捨てる物語。

 

 第三特異点:封鎖終局四海オケアノス────それは、自由を求めた者たちが、それゆえに運命を破壊する戦い。

 一人の愚者が、それでも平和を夢見て作り上げた、封鎖された果ての海。

 そこに自由は無く、されどもそこに閉じ込められたのは、誰よりも自由な者達だった。

 自らの願いの為なら英傑すら下し、自由の為であれば神にすら抗い、そして。

 自分達が信じるものの為であれば、誰の願いであろうと踏みつぶす物語。

 

 第四特異点:死界魔霧都市ロンドン────それは、隠された真実の一端を知るための戦い。

 多くの思惑が潜む、絶死の霧に沈んだ近代ロンドン。

 そこで飛び交う必殺の刃を迎え討ち、闇を祓う雷が鳴り響き、嵐の王すら退けた──その先で対面する最大の敵。

 持ち始めていた希望を踏みにじられて。

 それでも前に進まなければならないのだと、思い直すための物語。

 

 第五特異点:北米神話大戦イ・プルーリバス・ウナム────それは、狂気と信念が渦巻く、何も譲れなかった戦い。

 一人の女の為に甘んじて狂った王と、一つの国の為にすべてを背負った果てに、使命に溺れて狂った王の殺し合い。

 そして、それらすべてを治してみせるのだと立ち上がった、狂った女との戦争。

 血と、肉と、鉄の山を築き上げるような殺し合いは果てしないほど続き、神話の一幕のようなぶつかり合いが何度も繰り広げられ。

 その果てへと踏み込む物語──狂った女が、それでも誰にも狂うことを許さなかった物語。

 

 第六特異点:神聖円卓領域キャメロット──それは、願いと希望を貫き合う戦い。

 神々しく築かれた白亜の城、太陽王の威光と共に広がる砂漠、そして死神の眠る里が鎬を削る、既に焼け落ちる寸前の聖地。

 されども誰一人として「悪」はいなかった。

 獅子王は人間の善性を。太陽王は己が民草を。暗殺者たちはこの時代に生きる人々を。 

 守り、生かし、残すために、互いを殺し合っていた。

 正解なんてものはどこにもなくて、すべてを決めるのは自らの信念と力のみ。

 自分が信じる、最善の未来を押し通す力と想いがすべてを決める戦いで。

 一人の死神が戦場を停滞させ。何よりも尊い"善性"が道を開き。思いを託され、繋がれることで騎士達を打倒し。

 永らえ続けていたたった一人の男の願いが、獅子王を打ち破った物語。

 

 第七特異点:絶対魔獣戦線バビロニア──それは、誰もが明日を願い駆け抜けた戦い。

 そこは獣の形をした終焉に追い詰められていて、けれども輝かしい明日を目指し続けた人々が織りなした時代。

 英霊ですら霞むような戦いが起こる毎日で、けれども人々が諦めを抱くことは無かった。

 ただひたすらに明日の為に、その手に武器を持って立ち上がった。

 絶望を前にした時にするべきことは、膝を屈することではないのだと誰もが吠え。

 誰一人として、折れることは無く、下を見ることは無かった。

 誰かが折れそうなら、誰かがそれを支え。

 誰かが諦めそうならば、誰かが隣に立つ。

 神々と訣別することを選び、人の意志こそが勝利を掴み取る、そういう物語。

 

 

 

 俺にとって二回目になるそれらは、思い出すような旅路であったと言えるだろう。

 一度経験した数多の出会いがあって、同じ数だけ別れがあった。

 見覚えのある人々がいた。

 聞き覚えのある声があった。

 言われた覚えのある言葉があった。

 知っている絶望があった。

 忘れられない希望があった。

 ──けれど、同じ物語であったかと言われれば、それは絶対に違った。

 経験したことのない出会いがあって、同じ数だけ別れがあった。

 見覚えのない人々がいた。

 聞き覚えの無い声があった。

 言われた覚えのない言葉があった。

 知らない絶望があった。

 忘れられなくなる希望があった。

 そういう、全く別の旅路だった。

 まるで一度作り終えたアルバムを、一から捲り直して写真を増やすような、そういう物語だった。

 それに、まあ。

 隣にはずっと鈴鹿がいたのだから、こうなることは必然だったのだろう。

 かつての自分の背中を追い越すように駆けてきた一年は、やっぱりそれでも、怖いくらい長かった。

 不安と恐怖に押し潰されそうで、その度に救われた……まあ、それはこの旅に限った話でもないのだが。

 前回でもそうだった。俺はいつも、誰かに支えられている。

 時間としては、たったの一年しか使っていなかったのに、やけに長くいたように感じるマイルーム。

 ライトを点けるのも何だか面倒で、その上窓もないこの部屋は暗闇に沈んでいる。

 そこに備え付けられたベッドの上で、背中合わせにして座っていた鈴鹿へと、少しだけ体重を寄せた。

 この一年の間で、すっかり鈴鹿は俺の部屋へと入り浸るようになっていた。

 お陰で随分と物が増えた。マジでどっから持ってきたんだよそれ……という気持ちでいっぱいだがまあ、それはそれ。

 文句を言うほどではない……いや、たまに散らかりまくっててキレそうにはなるが……良いでしょう! というアレだった。

 それに、決して嫌という訳ではない。鈴鹿が傍にいるのは、どちらかと言えば心地の良い方だ。

 というか、心地良くなった、が正解だろうか。

 そりゃ一年も……事実上、二年間も一緒にいたのだ。

 その上ここ一年は、四六時中傍にいたのである。

 ここまで来たらもう滅茶苦茶嫌か、そうではないかの二択になるというものだった。

 まあ、こんなこと絶対に口に出して言うことは無いだろうが……と思っていれば不意に、髪を梳かれる感触がして、鈴鹿の声が続いた。

 髪、結構伸びたね。

 静かに囁かれたそれに、少しだけ間を置いてから、「あー……」と思った。

 それから、何となくちょっと面白いな、とも。

 髪の毛、そんなに気になることかな……。

 やっぱ似合ってない? なんて聞けば、鈴鹿は少しだけ考えた後に、可もなく、不可もなく……みたいな? と曖昧に笑った。

 マスターって別にイケメンって訳じゃ無いけど、不細工って訳じゃ無い……敢えて何か言うまでもないような顔してるじゃん?

 だから、ショートでもセミロングでも、あんまり印象が変わらないって言うか。

 似合う、似合わない以前の話になる的な? 

 そう、言葉を続けながら向かい合った状態で、鈴鹿は俺の髪の毛を弄ぶ。

 ふぅん……ちょっと? 鈴鹿さん、流石にそれは言い過ぎでしょう? 泣いちゃいそうなんだけど、と思いつつも、やたらと熱心に俺の髪で三つ編みを作っていく鈴鹿に、二度目のデジャヴを覚えた。

 まあ、正確に言えばあの時は膝枕で、彼女は俺の髪の毛を梳いていたんだけど。

 結局あの後は寝落ちしたんだっけ、と思い出していたら突然パチンとおでこを弾かれた。

 かなり手加減されてるとはいえ、英霊の一撃である。普通に星を飛ばすことになり、苦悶の声で文句を飛ばせば、今、他の女の子のこと考えてたでしょ、とジトッとした目で見られた。

 お前は俺の彼女かよ……。

 やれやれ、と小さくため息を零しながら言葉を重ねる。

 ちょっとデジャヴったんだよ──ついでに、何で性懲りもなく伸ばしちゃったのかな、って我がことながら思ってたんだ。

 前にさ、伸ばしてた時は、ちょっとした願掛けみたいなつもりだったんだよ。

 どうか万事上手くいきますように──ってさ。

 結局、上手くはいかなかった……って言うのはちょっと違う気もするけれど。

 まあ、()()なった訳で。

 伸ばしてても仕方ないのに、一回も切ろうって思わなかった……どころか、早く伸びろって思ってたような気もするなって思って。

 二回目なのに、俺って何にも変われてないんだなーって、ちょっと思ったりとかしてたんだよ、と言えば鈴鹿は、それって別に、悪いことじゃなくない? と言った。

 こっちを見ることは無く、手元を忙しそうに動かしながら。

 人って何かがあったからって、突然がらっと変われるものじゃないっしょ。

 少しずつ、少しずつ時間をかけて変わっていくことしか出来ないんだよ。少なくとも、人間は。

 そしてそれを、人間(あなた)たちは成長と呼び、意外と自分じゃ気付けない。

 マスターはこの二度目の一年間、必死に歩いてきた。旅をしてきた、戦ってきた。

 それらはやっぱり、マスターに大きな影響を与えてるよ。

 でも、影響を与えられたからって、直ぐに変化が起こる訳じゃないから。

 ゆっくり、ゆっくり変わっていって、そうやってふと振り返った時にようやく「あぁ、成長できたんだなあ」って思えるものだから。

 だから、そう不安になることも、卑下することも無い──って言うか、マスターって自分のこと卑下しすぎじゃん?

 いや、卑下っていうか、自己評価低めっていうか……自分の優先順位が、いつも少しだけ低い。

 本当に、少しだけだけど。

 いつも一番大切なところで、自分以外の誰かを優先することができてしまう。

 それは間違いなくマスターの美徳だけど、同時に私は、それがとても怖い。

 ねえマスター。

 マスターは私にとって、一番のマスターだったよ。

 貴方でなければ、ここまで歩いて来れることは無かったと、確信すらしている。

 だからね、マスター。

 お願いだから、自分を大切にしてね。

 人が、命を懸けたところで為せることは多くはないし、大きくもないから。

 この先、何があったとしても自分自身のことだけは、軽く見ないで。

 いつの間にか、鈴鹿の手は止まっていた。

 その手は俺の服をギュッと握っていて、鈴鹿は俯いている。

 彼女の言葉はまるで心の奥まで触れてくるように入ってきて、少しだけ逡巡した。

 それから鈴鹿の手に、自分の手を重ねる。

 分かってるよ──そりゃもう、嫌ってほどに分かってる。

 無茶はするけど、無理はしないようにする。

 それにまあ、もしそうなったとしても、鈴鹿が守ってくれる。そうだろう?

 そう言って笑うのと同時に視界が揺れ動く。

 ボフン、というベッドからの感触が少々乱雑に伝わってきて、そこでようやく押し倒されたのだと理解した。

 何をするんだよ、と文句を零そうとして、けれども反射的にそれを飲み込んだ。

 鈴鹿の黄金の瞳が、射抜くように見つめてくる。

 見慣れたそれは、しかしいつも以上に威厳が込められていて、迂闊に言葉が出せなかった。

 そんな俺を見ながら鈴鹿はゆっくりと、優し気に言葉を紡いだ

 だから、それが嫌だって言ってるんだよ、マスター。

 軽く見ないでって言ったでしょう──貴方はもう、自分を犠牲にするのが当たり前みたいになっているから。

 本当なら私だって、いつまでも、どこまでも傍にいて、ずっと守ってあげたいよ。

 でもそれは出来ないから。いつかは終わりが来てしまうものだから。

 自分を大切にして──もっとちゃんと、自分の我儘に耳を貸してあげて。

 そう言って、鈴鹿は笑った。小さく、儚げに。

 それが俺にとっては酷く印象的で、何故だか嫌に目に焼き付いて離れなかった。

 何だか鈴鹿がいなくなってしまうような気がして、思わず彼女の手に触れれば、鈴鹿は笑みを深めた後に──そのまま落ちてきた。

 言葉通りドスン! と勢いよく上体を倒してきて、思わずぐぇっ、と悲鳴を上げた。

 いやマジで痛い、何こいつ?

 一瞬抱いた不安をかき消すような衝撃に顔を顰めれば、そのまま頭を抱え込まれた。

 当然ながら顔がまるごと彼女の身体で顔を覆われるわけで、普通に息苦しい──ついでに若干の恥ずかしさも混じって抵抗を試みる。

 もがもがと、言葉にならない声を発せば、鈴鹿の面白がるような、軽やかな笑い声が耳朶を叩いた。

 ──もう、そんな顔しないでよ……未練になっちゃうじゃん。

 ぼそり、と何かを言われた気がしたが、自分のもがく声で良く聞こえない。

 というかそろそろ暑苦しいんだよ! と反抗する力を増したが当たり前みたいに余裕で抑え込まれた。

 パッと見、女子高生とはいえ、鈴鹿は英霊なのだから当たり前ではあるのだが。

 それはそれとして何となくショックを受けてたらグググッ、と抱きしめるには些か強すぎるくらいの力で抱えられた。

 人理修復全然関係ないところで怪我するとか洒落にならないんですけど……!

 何とか脱出しようと力めば不意に、鈴鹿は言った。

 今言ったこと、ちゃんと忘れないでいてね。

 少しでも良いから、マスターのことをこうやって、大切にしていた人がいたってこと、覚えていてね。

 それが多分、マスターには一番"効く"から、と。

 効くってなんだよ……と思いつつも、分かった、とだけ返す。

 まあ、正確にはもがもががっ、って感じだったのだが鈴鹿には伝わったのだろう。

 ゆっくりと身体を離し、俺を見下ろした鈴鹿は小指を立てた右手をずいっと押し付けてきた。

 ……え、なに?

 お前なんか小指一本で倒せるぜっていうジェスチャーか何か? と思えば「指切り」と鈴鹿は呆れたように言った。

 指切り……あっ、そういうこと。

 悪いな──と何も考えずに小指を絡めれば、鈴鹿は小さく歌い出した。

 ゆーびきーりげーんまんってやつだ。

 三行で終わりそうな歌詞を歌い切った彼女は優しく指を切った。

 はい、約束ね、なんて言ってから鈴鹿はもう一度倒れ込んでくる──と言っても、先ほどのように急では無かったが。

 ゆっくりと、俺の身体に頭を乗せるように横たわり、もう今日は休もっか、と鈴鹿は言った。

 その言葉はまるで魔法のようで、緩やかな眠気に瞼を覆われたと思うと同時にストンと俺の意識は落ちていった。

 

 

 

 ────そっと、鈴鹿御前は身体を起こす。

 自らのマスターたる青年は、それはもう面白いくらい安らかに眠っていて、それが少しだけ嬉しかった。

 この青年は基本眠りが浅い上に、魘されているのが常で、しかも本人はそれに気付いていない。

 ……いいや、あるいはそれは、気付いていないのではなく、敢えて目を背けているのかもしれないが。

 そういう悪癖が、この青年にはあった。

 だからこそ、今こうしてゆっくりと眠っていることにホッとした。

 それが一時のものであったとしても、無いよりはマシなはずだから。

 そんなことを思いながら、鈴鹿御前はそっと青年の額へとキスを落とした。

 まあ良いでしょ、だってこれが、最期なのだから、と鈴鹿御前は言い訳を並べ立てて、青年の頭を撫でる。

 ──そう、最期だ。正真正銘、カルデアで過ごせる最後の一日。

 明日にはこの青年と共に、一度は降り立ったあの時間神殿へと踏み込むことになっている。

 そうしてきっと……いいや、絶対にあの魔神王を打倒するのだろう。

 何せ自らが認めた、最高のマスターなのだから。それくらいはやってのけて当然だ。

 だから問題は、自分自身なのだろう、と鈴鹿御前は思う。

 青年をループから解放する──それは言葉にするなら容易く、しかし行うのはこれ以上ない程に困難だ。

 だが不可能ではない、というよりは、成功自体はするだろう。それはもう、間違いなく、と断言して良いほどに。

 鈴鹿御前には自信どころではない、確信があった────あったからこその逡巡があった。

 決心をした今でも、覚悟を決めた今でも、それは少しだけ残っていて──それをしかし、切り捨てるようなことはしなかった。

 鈴鹿御前は控えめに言っても「重い」女である。ただそのことを彼女は少しだけ自覚していたから、敢えて抱え込んだ。

 鈴鹿御前(わたし)はここにいたんだと、これだけ素敵なマスターに出会えたのだと、世界に証明するために。

 大事に大事に抱きかかえた鈴鹿御前は、もう一度だけ青年の頭を撫でてから、その傍らへと横たわった。

 まるで恋人にでもするように、彼女は慎重に青年を抱きしめて。

 本来英霊には必要のない睡眠に、意識を緩やかに解かした。

 

 

 

 

 『人類悪』とは即ち、『人類愛』であるらしい。

 人類『を』滅ぼす悪なのでは無く、人類『が』滅ぼす悪、故にそれは『愛』なのだと。

 人類への悪意を基に生まれ、滅ぼすための機構では無く、むしろ人類にとってのより善い未来を願ったが故に、今の安寧に牙を剥き、洗い流すかのように滅ぼす。

 つまるところ、人類悪とは人類による壮大な自殺とも言えるのだとか。

 ゆえに、顕現する七つの人類悪はそれぞれに掲げる願い──理がある。

 第一の獣、そう呼称された魔神王ゲーティアの背負うそれは、即ち『憐憫』であった。

 かつて、魔術王と呼ばれた男が使役し、構築した魔術式でありながらも、高度な知性体であった彼らは『終わりある命』という前提を嫌悪し──憐れんだ。

 故に彼らは人類を滅ぼそうと画策したのだ──何事にも結末がある、という前提をひっくり返すために。

 自らが星となり、『死』という概念を抹消する為だけに、彼らは人類を焼却した。

 嫌悪からでもなく、憎悪からでもなく、私怨からでもなく。ただ、そうすることが『必要』であったが故に。

 だからこそ彼らはビーストⅠと、そう呼ばれる獣になりえた。

 人が人を憐れみ失望するという、人であれば誰しもが持ちうる驕りの体現として。

 ……それは、その在り方は果たして、悪と呼んで良いものなのだろうか、と少しだけ思った。

 そんな話を思い出しながら、二度目の最後のレイシフトは完遂された。

 降り立ったのはあの時となんら変わらない、終局特異点──冠位時間神殿ソロモン。

 魔術王の身体に刻まれた魔術回路を基に作り上げられた、時の流れから外れる、彼のみが持ちうる固有結界。

 かつて此処を、俺は「あの世」だと思ったことがある。

 そんな記憶が呼び起こされて、思わず笑みを浮かべた。

 別に失笑したとかそういう訳じゃ無い、ただ、一年経った今でも、不思議とその感想は変わらないな、と思ったのだ。

 死ぬのならばここが良い──なんて少しだけ思っただけで、当然死ぬつもりなんかはない。

 鈴鹿に怒られるしな……。

 だから、死ねない。そう、死ねないんだ。

 レフとマシュ、それからドクターたちの問答を聞き流しながら、概念礼装を喚び起こした。

 一字一句違わない──のかどうかは分からないけれど、それでも聞き覚えのある会話で、そういったものを聞き流すのも、もう慣れた。

 繰り返すというのはそういうことだ、やり直すというのは、そういうことだ。

 どれだけ違う出会いがあったとしても、その根幹は変わらないものだから。

 ──だから、進めば進むほど、鈴鹿のありがたさが身に染みるようだった。

 彼女がいなければ、彼女の言葉が無ければ、ここまで歩いてくることすらできなかったであろうことが、容易に理解できてしまう。

 まあ、その代わりとでも言うように、メドゥーサもカーミラもいないんだけど……。

 二度目にあたるこの旅では、何故かは分からないが鈴鹿以外のサーヴァントは誰一人として召喚されなかった。

 要するに第一特異点から、俺の傍にいたのはずっっっと鈴鹿だけなのである。

 もう何か運が悪いとかっていうレベルの話ではなく、一度目よりも苦労が多かったように思える。

 というか普通に落ち込んだ──元より、足手まといどころではないというのに、戦力増強すら出来ないのはマスターとして致命的だった。

 まあ、あんまりにも不安になって鈴鹿に相談したら滅茶苦茶笑い飛ばされて終わったのだが……。

 鈴鹿が気にする、気にしないは関係なく俺の問題であった。

 それを補うようにやたらと立香くんがサーヴァントを召喚しまくる──今回はアルトリアとマルタに加え、シャルル=アンリ・サンソンと、アルテラだっただろうか──ので、全体的に見ればバランスは保てていたのだが、お陰で俺の惨めさがヤバかった。

 いや、俺の惨めさとかは正直どうでも良いんだけど……。

 複数の戦力と言うのは確かに心強いが、その反面、指示を出す側からすれば負担の増加でもある。

 俺が召喚出来ない、という単一の事実だけであらゆる方面に負担をかける羽目になるのが酷く心苦しかった。

 その分駆けずり回った自覚はあるから何とかイーブンになっていたら良いな、なんてことを思うと同時にレフはその身を魔神柱へと姿を変える。

 それを見て、ああ、始まったのだ、と独り言ちた。

 二度目であるそれは、ほんの少しだけ、味気ないと思った。

 

 

 

 ────なんて、そんなことを考えていたから悪かったのだろうか。それとも、ここまでとんとん拍子のように進んで来れたのが悪かったのだろうか。

 あるいは、やはり俺には覚悟とかそういったものが足りなかったのか。

 いいや、もしかしたら、そんなことは一切関係なかったのかもしれない。

 俺はいつだって、自分のあずかり知らぬような大きな意志か、もしくは力によって振り回されているようなやつだったから、()()なることは半ば運命であったと、そう言っても過言ではないのかもしれなかった。

 まあ、なんだ、端的に言うのであれば、俺は()()()()

 失敗──そう、失敗としか言い様は無いだろう。

 俺は、冠位時間神殿ソロモン内で、ゲーティアを打倒することすらできずに死亡した。

 しかし、考えてみればそれは、極自然なことであったと、今では思うのだ。

 一番最初にゲーティアを撃破できたのは、正しく奇跡のようなものだったのだから。

 何度も何度も飽きるほどに死んで、その度に繰り返して、そうしてやっと進んできたような俺が、たった一度のチャンスをモノに出来たことが奇跡だったのだ。

 奇跡は何度も起こらない、起こって良いものじゃない、そういうものだ。

 俺は当たり前みたいにゲーティアに殺されて、そうしてまた、気付けば炎上した都市のど真ん中に佇んでいた。

 それに対して、何も思わなかったわけでは無い。

 当然だ、何の為にあそこまで進んできたと、ここまで歩んできたと思っている──けれども、その反面そこまでショックを受けたわけでは無かった。

 もしかしたらそれは、失敗したという事実が先にあったからなのかもしれない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 成功したら次に進める、失敗したらやり直し。馬鹿でも分かる理論で、けれども現実に当てはめればどこまでもおかしい理論。

 それが、どこかカチリと当て嵌まってしまった──やり直すという概念が、もうどうしようもないほどに、身に沁みついてしまっていた。

 瞬間的に、次はどうするべきかを考えることが出来た時点で、歩み直す覚悟はとっくに固まっていて──そしてそれらすべてがきっと、傲慢でしかなかった。

 繰り返せば何とかなる、何とかすることができる。

 俺ならば、俺であれば。

 そういう思考が、無かったとは言い切れないのだから。

 ────それを証明するように何度も繰り返して、その度に失敗を積み重ねた。

 繰り返して、やり直して、積み重ね直した。

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も!

 何度だって、歩きなおした。

 竜舞う空を何度見上げただろう。

 繁栄を求めたローマを何度滅ぼしただろう。

 果てなき海に何度自由を見出しただろう。

 霧に沈んだ都市で何度雷を見ただろう。

 戦火の広がるアメリカを、何度踏破しただろう。

 円卓の騎士を何度葬っただろう。

 失われし神代で、何度地獄を目の当たりにしただろう。

 ──そうして何度、魔神王の手によって殺されただろうか。

 百を超えた辺りから、数えることはやめてしまった……というよりは、そのくらいの頃から『今』が何度目なのか、分からなくなってしまった。

 それは多分、今が何度目であるか、なんてことはどうでも良いことなのではと思えてしまったからであろうと思う。

 失敗を何度積み重ねたところで意味は無いのだから。

 成功だけが必要で、それまでのものは、しかしどれだけ積み重なろうとも失敗でしかないのだから。

 ──でもそれは、そう思うことは、果たして悪いことなのだろうか?

 だって俺はまだ絶望していない! まだ諦めていない! まだ、まだ戦えるって、天を睨むことが出来ている!

 俺自身がどれだけ弱かろうと、数えきれない程の失敗を、敗北を積み重ねてきていようとも!

 いつからか、心の芯に据えていた熱が冷めていることに気付いていたとしても!

 己が為でも、誰が為でもなくなって、義務的なものになっていたのだとしても!

 それでも、それでも俺はまだ、前に進んでいるのだから。進もうとすることが出来ているのだから!

 決してこの在り方は、悪ではないだろう……?

 善と呼ぶのは烏滸がましいかもしれないけれど、間違ってなんかはいないはずなんだ。

 諦めたら終わりだから、膝を屈したら終わりだから、途中で投げ捨ててしまっては終わりだから──そういう風に教わってきたはずだから。

 だから、何度だってやってみせる。

 繋がれてきたものは、絶対に誰かに繋いでみせる。

 鈴鹿が見せてくれた希望へと、手を伸ばしてみせる。

 ダ・ヴィンチちゃんが協力してくれてようやく見えた未来に触れてみせる。

 出来なかったとしても、やらなきゃらならないんだ。やれるまで繰り返さなきゃならないんだ。

 差し伸べられた手を取るために、俺は。

 駆けて、駆けて、駆け抜けて。

 不意にガクンと、膝が折れて突っ伏した。

 ──あ、え?

 あまりにも前触れが無さ過ぎて、受け身も取れずに痛みが走る。

 何で倒れたんだろうって思って、すぐさま立ち上がった。

 否、立ち上がろうとして、できなかった。

 もうすぐブリーフィングが始まるってのに、何をやっているんだ。

 もう何度目かも分からない、けれども終局なんだ。次こそは、次こそはどうにかしないといけないのに。

 そう思ったけれど、自室でたった一人、どうすることもできずに無様に転がることしかできなくて。

 それを理解できた瞬間に、どこからかプツンという音が聞こえた気がして。

 あ、これもうダメだ、と唐突にそう思った。

 思った、というよりそれは、ようやく素直に受け止められたと言った方が正しいのかもしれない。

 何十回、何百回と失敗を繰り返し、馬鹿の一つ覚えみたいに立ち上がって──それで何を得られたのだろう?

 しょせん、俺のやっていたことは英雄の真似事に過ぎなかったのだ。

 どれだけ模倣しても、どれだけ縋っても、どれだけ頑張っても、たった一つのチャンスをつかむことができない。

 その幸運はもうとうの昔に使い果たしてしまっていて、俺にはもうその資格が無かったのだ。

 諦めないのは、もう無理だ──と言うよりは、諦めなかったところで、どうにもならないということをジワジワと思い知らされているようだった。

 人理修復を為すというのは、それほどまでの偉業だった。

 何度何度も、繰り返したから出来るものなんかじゃなかった。

 たった一回、そう、たった一回きりの奇跡だった。

 甘く見ていたつもりは無いけれど、やっぱりどこかで慢心が生まれていたのは否定できない。

 だからと言って、それをすぐさま取り消せるほど俺は出来た人間じゃなかった。

 そんなことも全部、全部最初から分かっていて、それでも目を背けて来たけれど、それももう限界だった、らしい。

 そして、それを受け止めてしまった以上、俺はもう多分、戦えない──だって、戦うことに価値を見出せなくなってしまったのだから。

 もう頑張る意味なんて無くないか?

 未来なんて、もう投げ出したって良くないか?

 英霊のみんなは、こんな俺を見たら失望してしまうだろうか。

 期待外れだったって、お前にはがっかりだって、思うだろうか。

 でもさ、俺にしては、かなり頑張った方だと思うんだよ。

 結果のついてこない『頑張った』なんて意味ないことくらい分かってるけれど、それでも。

 俺、ここまでだ。

 本当ならもう一度ゲーティアを倒して、ループからも脱却して、世界を救って、またみんなと笑い合って、日常に帰れたらなって、そう思ってたんだけど。

 そう思ってた、はずなんだけど。

 やっぱりもう、駄目なんだと思う。

 多分、こういう時に立ち上がれるのが英雄って呼ばれる人種で、残念ながら俺はそうではなかったのだ。

 真似っ子はしょせん、真似っ子に過ぎなかった、つまりはそういうことなのだ。

 だから、ここで折れるのも全く不思議ではないし、むしろ当然のことなのだろう。

 まあ何だ、結構粘った方だろ、俺にしては。

 そう思えば、少しは気が楽になるような気がして、小さく長く、ため息を吐いた。

 吐けば吐くほど、全身から力が抜けていくようだった。

 それは酷く気分が悪くなるような行為で、でも同時に安らかさえあった。

 這うようにしてベッドへと近づいて、何とか起こした上体をぐったりと預けて天井を眺める。

 幾度となく見た天井だ、最初の頃は全然慣れなかったっけ。

 もう戦いたくない──なんて言ったらドクターは怒るだろうか。

 多分、怒らないだろうな。それどころか、謝られるかもしれない。

 ドクターはそういう人だ、俺や立香くんに無理を強いているという自覚が、誰よりもある人。

 ……まあ、もしかしたら鈴鹿とダ・ヴィンチちゃんには、失望されてしまうかもしれないけれど。

 立香くんには──どうだろう。彼が一番、俺をどう思うのかが分からないな。

 立香くんが一番、俺とは同じような立場だったから、もしかしたら誰よりも怒るかもしれないし、あるいは笑って許してくれるかもしれない。

 彼はそういう、真っ当に普通の人間だから。

 あー……真っ当に普通の人間だから、あまり背負わせてはいけないって思ってたんだっけ?

 誰よりも背負ってもらいたがっていた俺が、そんなことを思うのは幾ら何でも身の程知らず過ぎるだろう、と少しだけ笑えば急に光がブワッと部屋に入ってきた。

 いや、別に神秘的な光とかそういうアレでは無く、普通に目の前の扉が開いたことによるものである。

 廊下のやたらと明るい人工的な白の光が、扉が開くことで出来た隙間から鋭く差し込んできて、思わず目が眩んだ。

 当然、俺が開けたわけでは無いのだから、誰かが入ってきたのだろう。

 と言っても、それが誰かであるかは考えるほどのものでもない。十中八九、鈴鹿に決まっている。

 俺の部屋を好き好んで尋ねるようなのは鈴鹿くらいだ──いや、他の人の場合もあるが、ちょっと鈴鹿の場合は頻度が違うのだ。

 だから、下手に動揺するようなことでもないし、ついでに言えばちょうど良かったとも言えるだろう。

 今なら鈴鹿のあの時の誘いに応えるよ……なんて、もし言ったとしたらビンタの一発二発は飛んできそうだけど。

 もう何でも良いし、それもアリだろ、と思っていたらかけられた声は予想に反して、ずっと低い、男性の声だった。

 一般的な高校生男児くらいの、随分と耳に慣れた声──って、え?

 立香くん? と言う前に焦ったように俺の名を呼ぶ声が耳朶を叩いて、慣れてきた視界にはやはり立香くんがあわあわとしたように俺を見ていた。

 

 

 

 

 立香くんが俺の部屋を訪ねるということはまず無いことである。

 それは別に、俺と彼が実のところはかなり不仲である、とかそういったかなり個人的な理由があるという訳ではない。

 どちらかと言えば仲は良好……な方であるはず、である。多分。流石に嫌われるような真似はしていない。

 ご飯食べる時も会話くらいはするし、何度か一緒にトレーニングだってしたことのある仲だ。

 であれば何故、そんなことが断言できるのかと言えば、単純に俺がマイルームにいることがほとんどないから、としか言いようがないだろう。

 ──いや、ほとんどない、という言い方は少し違うな。当然、俺だってカルデアにいる間はマイルームで毎日就寝して起床している。

 ただ、そうするまでの間はほとんど常にシミュレーターに籠っているというだけの話だ。

 そういう関係上で、時間を気にすることなく突撃してくるような鈴鹿以外だと、マイルームを訪ねられることが無い。

 他のスタッフも含めて、俺に用がある時はまずシミュレーションルームへと直行して来るくらいで、立香くんは俺のマイルームを知らないだろうな、とすら思っていたまである。

 だから、何だか色んな意味で驚きながら、取り敢えず立香くんを宥めることにした。

 怪我をしたとか、具合が悪いとか、そう言うのじゃなくて──あれ? 別にもう、強がる必要もないのか?

 いや、確かに不調という訳でも無いんだけど……全然問題はないって訳でもないし。

 戦うことをやめるのであれば、いずれ伝わるようなことだ。

 誰に先に言っても、特に変わりはしないだろう。

 ──なあ、立香くん。俺がもう戦えないって、戦いたくないって言ったら、立香くん怒る?

 そんな風なことを言えば、立香くんは一瞬だけ「え?」といったような顔をした後に、少しだけ笑い、俺の隣に並ぶように腰を落として、そうですねぇ、と言った。

 怒りはしませんよ、だって先輩がここまでずっと、誰よりも頑張ってきたこと知ってますから。

 おれもマシュも、そんな先輩に頼ってここまで来た自覚があるから、怒るなんて烏滸がましいくらいです。

 でも、そうですね……どう思うかっていう話になったらおれは、少しだけ寂しいなって思います。

 ──先輩は、おれに言ってくれたこと、覚えてますか? って、流石にこの言い方は抽象的過ぎますね。

 おれが、もう嫌だって部屋に引き籠った時のことです。

 先輩、開口一番に『まあ、気持ちは分かるよ。だから、逃げても良いんじゃない?』って言ってくれたんですよ。

 もう、聞いてるこっちが拍子抜けするくらい、軽い調子で。そうするのは別に普通のことだよって言ってるみたいに。

 でもその後続けて、『でももし、まだ頑張ろうって思えるなら、頑張った方が後悔しないって思うなら、そうした方が良いと思う。いや、俺がそうしてくれた方が嬉しいってのもあるんだけどさ。やっぱり重荷って分かち合ってなんぼだろ?』って。

 本当に、言ってくれたのはそれだけだった。それだけで、十分だった。

 おれだけに背負わせるんじゃなくて、一緒に背負うからって言ってくれた──それは、第五特異点の時もそうでしたね。

 いつだって先輩は、一緒に戦おうって、一緒に歩こうって、一緒に背負おうって言ってくれた。

 おれ、それが嬉しかったんですよね……まあ、とうの先輩は隣を歩いてくれるって言うか、率先して前を歩いてくれてた感じだったんですけど。

 進んで危険に突っ込むし、いっつもヒヤッとするような事態の真ん中にいるし。

 まあ、それでもおれは、そんな先輩に追いつこうと思って歩いていたってところもあるんで、やっぱり『寂しい』が一番近い感情ですかね。

 でも、大丈夫ですよ。

 先輩はもう充分戦ってくれたから、前を進んでくれて、道を作ってくれたから。

 ここからは、おれが先に行きます。

 先輩はちょっとだけ休んでてください。その間は、おれが頑張るから。

 だから、立てるようになったら、歩けるようになったら、またおれと一緒にこの人理修復(おもに)背負ってくださいよ。

 だってこれ、おれと先輩の物語でもあるでしょう?

 そう言って、立香くんは笑った。

 励ますように、宣言するように。

 満面の笑みで、彼はそう言ったのだ。

 それは意外にも、強がりから出てくるような表情でも、言葉でもなかった。

 ただ、大丈夫ですよ、任せてください、と言いながら、また俺が立ち上がることを信じている。

 期待しているのでも、願っているのでもない、どこまでも無垢な信頼。

 手を貸さずとも、優しい、甘い言葉をかけずとも、絶対にまた一緒に戦ってくれるのだと信じ切っている。

 それは、悔しいくらいに眩しい在り方だった。

 一分の疑いも無く、ひたすらに誰かを信じ、託せる人。

 俺もいつかは、そういう人になりたいと思っていたのだろうか。

 というか俺は、こんなにも強い子を守ろうだなんて、そう思っていたのか。

 人理修復の旅は、俺だけの旅では無かったというのに。

 そんな大切なことを、いつから忘れてしまったのだろうか。

 ほとほと傲慢だな、と思って目を伏せれば、立香くんは、「あ、でも」ともう少しだけ言葉を重ねた。

 もし、助けを必要としているのなら、おれにどうにか出来るようなことなのであれば、いつでも言ってください。

 人理修復なんて関係ない、個人的なことでも、何でも良いです。

 おれはここまで来るのにたくさん助けられたので、そのお返し……って訳でもないですけれど。

 仲間って、助け合うものでしょう? 言えないことがあって、伝えられないことがあるのだとしても、それでも気にせず手を貸す。

 仲間ってそういうものじゃないですか。

 だから、全部言って欲しいなんて言いません。

 事情を詳らかに説明しろだなんて言いません。

 助けて欲しかったら、助けて欲しいって言って欲しいです。

 今までおれがそうやって助けられてきたように。

 今度はおれが、全力で出来る限りのことはしますよ。

 何せおれ、先輩の後輩ですからね。

 

 

 

 言葉は力だ、と時折思う。

 傷つけるためだとしても、心配するのだとしても、誰かの為に発した言葉と言うのは大なり小なり、心に跡を残すような重みを持つ。

 そうしてその跡というのは、決まって後々から効力を発揮するものなのだ。

 それは心を照らす光かもしれないし、あるいは覆ってしまう闇かもしれない。

 受け取り手次第でもそれは大きく変わるだろう──そして、立香くんの言葉は間違いなく前者のものだった。

 仄かに輝く言葉のひとつひとつは、柔らかく俺自身の内側を照らしてくれるようで。

 不快さはない、悪くはない感覚だった。

 ……助けて欲しい、か。

 そういえば、もうずっとそんなことを言ってこなかったような気がする。

 いや、特異点修復を為すために何度も口にはしてきたのだけれども。

 それでも、俺個人を助けて欲しい、だなんてことを口にしてきたような記憶は数えるほどしかない。

 立香くんが相手ならなおさらだ──彼に助けて欲しいだなんて、誰が言えるものかと、そう思っていた。

 まあ、今でもそうではないのかと言われれば、それもまた違うのだが。

 すぐに思考や思い込みを変えられるほど器用な人間じゃない。

 だけど、俺は俺を優先するために助けて欲しいと、そう頼っても良いんだ、と思った。

 それは英霊たちにだけ、とかではなく、誰にでも。

 全部ひとりでやって、失敗して、勝手に諦める方がよっぽど性質が悪い。

 そんなの当たり前のことだって、分かっていたはずなんだけどなぁ……。

 いつから忘れてしまったのだろう────どれだけのことを、忘れてきてしまったのだろう。

 思い出せないから分からないけれど、きっとたくさんのことを置いてきてしまったんだと思う。

 これから思い出すからオーケー、って話でもないんだろうけど……まあ、そうだな。

 ──俺、もうこの旅何度も繰り返してるんだよね。毎回必ず、最後の最後に失敗してさ、また一度からやり直すんだよ。

 それをもう、数えきれないくらいやってるんだけど、まあ今こうやって話してるように、成功したこと無いんだよね。

 意味不明だろ? でも現実なんだよなぁ……だからさ、立香くん。

 助けてくれない? と、そう言ってみた。

 思ったより軽い調子で言ってしまったし、我ながら要点がまったく掴めない語りだった。

 流石にこれは頼む立場からの物言いとしては最悪だな、と思ったが、しかし立香くんは少しだけ首を傾げた後に、俺を見た。

 何か……思いのほか全然分からなかったですけど、うん、大丈夫です。

 任せてください、おれが先輩のこと、ドガーンと見事に助けてあげますよ!

 世界を救うとかより、誰かを助けるための方がずっと分かりやすいですしね、と立香くんはそう言って笑った。

 それはやっぱりどこまでも眩しくて。

 同時に俺は、そうはなれないな、とも思った。

 前までの俺ならば、あるいは、なんてことは考えるけれど、今の俺はもうダメだ。

 今の俺は、今がもう終着点だから──でも、それでも。

 あと一回くらいは、立ち上がろうと思った。

 助けて欲しいとか言っちゃって、それを了承されちゃったし。

 しかもそれを、黙って待つだけなのは、ちょっと流石に情けなさすぎるし。

 今回限り、あと一度だけ、背負ってみようと、そう思った。

 

 

 

 

 そうして降り立った冠位時間神殿ソロモンは、しかしだからといって、何か変わったことがあったわけでは無かった。

 もうすっかりと見慣れた風景で、記憶と寸分違うことは無い。

 緊張は────やっぱりするけれど。

 というかここまで来て、逆に緊張しないやつっていないと思う。

 なにせ自分の命がかかっているのだ、ついでに言えば、世界の命運も。

 幾度も繰り返したところで、そういうのは変わらないものだ。

 だから、目新しさがもう無い、と思うくらいで、手汗は滲むし、下手したら足は震えそうになる。

 もしかしたら、失敗してきた積み重ねが馬鹿みたいにある分、そのプレッシャーは大きいのかもしれない。

 あー、死にたくないな、やり直したくない。

 またここまで来るのは、随分と疲れる────疲れた。

 これが俺にとってのラス一だしな、なんて思った。

 弱気とかじゃなくて、純粋にそう思えた。

 俺が一番、俺の限界を知っているから。

 だからと言って、手を抜くとか、逆に気張り過ぎるなんてことは無いが。

 戦闘時におけるメンタルコントロールだけはそれなりに上手くなったつもりだ、もちろん、英霊ほどじゃないけれど。

 レフ・ライノールの、何なら一から俺が喋ってやろうかと思うくらいには覚えてしまったご高説が終わるのと同時に駆け出した。

 ここまではいつも通り、ここからも、いつも通りだ。

 流れ行く星々の如く、縁を辿った英霊たちが集い、守り、道を作ってくれる。

 第一から第八まで、人理修復の旅路をなぞるように────あるいは、その意義と重みを思いださせるように。

 当然ながら驚きはもう無い、何せ分かり切っていることだ。

 聖女の守りが外敵から一切を跳ねのけてくれて、皇帝の一撃が道を切り開いてくれる。

 海賊の砲撃が宙に花火を咲かせ、並び立つ雷があらゆるものを焼き尽くす。

 狂気と鉄の信念を帯びた女の宣言が周りを鼓舞し、円卓の騎士が魔神を打倒しお師匠の一撃が穴を空ける。

 神々の気まぐれが、怒りがすべてを光で染め上げて、英霊ですらない、しかし確かに縁を結んだ人たちが道を繋いでくれる。

 それは旅先で繋いできた確かな絆、形ある縁の──もう何度も見てきた奇蹟の証明。

 別に、無味に思う訳じゃ無い。今だって助かると思っているし、ありがたいとも思っている。

 何せ、彼らは縁を頼りに来てくれている──それは当然ながら、縁がなければ来ないということでもあるが。

 来ないことだってあった……もちろん、誰一人として来なかったなんてことは無かったが。

 俺がどうあれ、立香くんは何度目であろうとも全力だった。

 全力で、全霊で生きる為に駆け抜けていたのだから、そんな事態はありえない。

 誰だって力を貸してくれる、という訳だ。

 そんな、あまりにも場違いなことを考えながら神殿内を駆け抜けて、気付けば玉座へは辿り着いていた。

 意外に思うかもしれないけれど、一度だってここまで来れなかったことは無い。

 英霊たちのサポートはそれだけ完璧だった。だからこそ、俺の力不足が目に余ると言った話でもあるのだが……。

 コクリ、と鈴鹿が喉を鳴らす。

 多分彼女は、俺以上に緊張しているだろう──何せ鈴鹿にとってこれは()()()だ。

 英霊の座にある、鈴鹿の本体とも言える存在がどう俺を記憶しているのか、本当のところは分からないが、しかし恐らく、いわゆる一周目の記憶だけが強く刻まれているのだろう。

 唯一成功した……もしくは、最も成功に近かった周の記憶のみが強く。

 あるいは、二周目以降の旅路は刻み込まれるほど強くはなかった、と言うべきだろうか。

 鈴鹿はいつだって一度目の記憶を保持した状態で、それ以降の周回のことはまるで記憶せずに召喚されていた。

 だから何だ、という話でもあるのだが。

 二度目だろうが、何度目だろうが関係はあまりなかった。

 気の持ちようでどうとでもなることならば、現状は招かれていないのだから。

 かつてのように、今までのように、マシュはゲーティアの一撃からマスターの身を守り、そしてその身を蒸発させた。

 その姿に背を押されたドクターが、最期の魔術と共に、全能を手放した。

 ──良く出来た物語だよ、まったく、本当に。

 脳裏にちらついた、そんな言葉を振り捨ててから礼装を起動した。

 ここからだ、ここからが俺にとっては本番なんだ。

 何度も繰り返してきた一年の中で、唯一俺にとって意味を為す瞬間。

 ゲーティアの咆哮が高らかに響き、最後の戦いは始まった。

 

 

 

 

 光が奔る、天は裂け、地が砕け、空間が軋む。

 もう何度も何度も繰り返した最終決戦──一度でもまともに喰らえばその時点で終わりの戦い。

 終わり、というよりは終わらせるための、もしくはスタートに戻される戦い、なのだろうか。

 ゲーティアの拳が振るわれる度に大気は震え、直接ぶつかり合えば火花と共に一方的に押し飛ばされる。

 どれだけの準備を重ねても、ギリギリ蹂躙にならないくらいの戦いにするので精一杯だった。

 二度目の時から思ってたんだけど、最初の俺はこれ、どうやって倒したんだろうな。

 アルトリアの聖剣が弾かれて、滑り込むようにマルタの十字架が振るわれゲーティアを圧し飛ばす──刹那、振るわれた片腕から放たれた熱線が鋭く空を焼き焦がした。

 その先にいたサンソンの手を引くと同時に、鈴鹿の刀が形を変える。

 切っ先は炎に、水に、(こがらし)に。

 小さな台風のようにゲーティアの目を晦まして、その上で、アルテラの剣は解放された。

 虹色の極光がゲーティアの全身を襲う──のと同時に、撃ち放たれた紫紺の熱線が鍔ぜり合った。

 光と光が弾き合い、その間にアルトリアとマルタ、サンソンは距離を詰め。

 衝撃が走った。

 双方放っていた光が打ち消し合い──正確に言うのであれば、アルテラの半身が削り飛ばされるという形で決着するのと同時に振るわれた刃たちは、アルトリアの聖剣のみが片腕を断ち、それ以外は弾かれた。

 金属音が鳴り響き、サンソンとマルタが一緒くたになって薙ぎ払われる。

 否、薙ぎ払われるように動いた片足がそのまま胴を消し飛ばした。

 風圧でアルトリアの動きが一瞬止まり、それを立香くんが緊急回避で離脱させる。

 熱線がアルトリアの頬を掠め、射出されるように撃ち出された鈴鹿の刀がゲーティアの足へと並ぶように刺し貫いた。

 血のように黄金の光が零れ、鈴鹿が地を蹴った瞬間、ゲーティアは地を踏みしめて。

 緊急回避するのと同時にゲーティアの剛腕が俺の肌を掠め、地を穿った。

 炸裂音と衝撃がビリビリと空気を揺らし、その隻腕から小さな、けれども星のような輝きを内包した光が飛び出した。

 鈴鹿の悲鳴が耳朶を叩き、同時に終わったなあ、と思った。

 前回もこれで殺されたのに、全然学習出来てなかった、なんて思いながら、立香くんへと託すことにした。

 託すと言っても、まあまた巻き戻されるのだが。

 二度目の頃から出来た、習慣のようなものだ。

 もし、この世界が続くのであればきっと彼が成し遂げてくれるから──毎度の如くそう思って立香くんの姿を探し、て、あれ?

 どこにもいない、ということに気付くのと。

 俺の身体が強引に押されるのは、全くの同時のことであった。

 ──これが、おれに出来る精一杯です。

 笑って言った立香くんは、刹那の後にその全身を穴だらけにされた。

 

 

 

 怖いくらいに鮮血を噴き出しながら、立香くんがまるで玩具みたいにその場に崩れ落ちる。

 死んだ──わざわざ確認しなくても分かることだ。

 彼は死んだ、たった今、俺を庇ったことで死んだのだ。

 ────え? いやいやいやいや、は?

 助けるって、そんな、そういうことじゃ、ない。

 俺みたいなやつの為に、命を張るとか、それだけはダメだろう。

 君は、一度しか無いのに。そういうのは、何度でもある俺の役目だろう?

 言葉を思わず零し、息を漏らす。

 失敗してから、繰り返す度に身に纏わりついてくるようだった倦怠感が剥がれ落ちていく。

 まるで、どこか他人事のようにずっと思っていた感覚が剥がれ落ちていく。

 どこまでも現実であり、そうであると思うようにしていたにもかかわらず、夢のように感じていた意識が剥がれ落ちていく。

 俺の身体はずっと戦場にいたのに、俺の精神はその隣で眺めているようだった、そんな状態が元に戻される。

 そして、どこにでもない宙ぶらりんだった自我が、急速に俺の元へと戻って来る。

 視界が開けるようだった。

 世界に色が戻るようだった。

 ようやく夢から覚めたような気分だった。

 嫌になるくらいの現実感が、身体の輪郭を、魂の輪郭を定めているようだった。

 俺という身体に、俺という精神がやっと入り込んできたかのような。

 そんな、吐き気を催すような、今すぐ死にたくなるような、何もかもを投げ捨てて逃げたくなるような絶望的感覚が全身全霊を襲い──やっと、俺は久しぶりに、この足で立ち上がった。

 この目で世界を見て、この身体で息をする。

 ──ああ、そう、そうだったんだよ。

 俺はもう、とっくに二度目の途中から諦めていたんだ。

 無意識的か、意識的かは自分でも分からないけれど、俺はもうダメだと思って、自分だけを守るために、自分を逃がした。

 心だけを、別に置いた。

 別に、特別なことじゃない……いや、やっぱりおかしなことではあるのかな。

 俺は、俺自身を俯瞰するような、そういう風に自分自身を隔離した。

 どれだけ痛くても、どれだけ苦しくても、どれだけ悩んでも、それは俺自身であり、俺自身ではないものとして見ていた。

 心を透明にするというよりは、心を別に置く。そういう風に生きるのはもう、一度目の旅で出来ていたから。

 だから、何もかもがテキトーだったんだ。

 心意気も、覚悟も、信念も、何もかもが半端だった。もしかしたらそもそも、なかったかもしれない。

 楽にやり過ごそう、余裕を多分にもって進もう、という思いが確かにあった。

 そりゃ失敗するわけだよ、だって、全部懸けてないんだから。

 そのくせ、そうやって走るのはもう疲れたって、もうダメだって、弱音まで吐いて、みっともないことこの上ない。

 全然苦しくなんて無かったくせに、全力で挑戦なんてしてこなかったくせに、さっさと逃げ隠れてしまっていたくせに、良く言うよ、という話だ。

 挙句の果てに、そんな自分自身を助けて欲しいと強請って、そして立香くんは死んだ。

 そう、死んでしまった、死なせたようなものだ。

 もう取り返しはつかない、そういうことが起こってようやく俺の目は醒めた。

 いつだって、手から取りこぼしてしまった瞬間に、多くの間違いに気付く。

 色んなことを思い出していく──全部、初めの頃の俺は分かっていて、覚えていたはずのことを。

 俺、何やってんだよ。

 自分のものとは思えないような絶叫が喉奥から広がっていく。

 立香くんが契約していたサーヴァント──アルトリアとのパスは一時的に俺に譲渡されていた。

 令呪を一画使用して、アルトリアの魔力を増幅させる。

 既に準備を整えていた彼女の宝具は、俺を巻き込むような形で撃ち放たれ──鈴鹿に襟首掴まれる形でその場を脱した。

 極光が、ゲーティアを包み込み、破壊する。

 光が霞と消えると同時に紫紺の極光は幾度も宙で折れ曲がりながらアルトリアへと殺到し、だけどそうなることは分かっていた。

 アルトリアの宝具で倒しきれないことはもう知っている。

 間髪無く使用した令呪が一画、熱を遺して鈴鹿の力へと転換され、刀剣の群れは生成された。

 紫紺の熱線に蹂躙されるかの如くアルトリアはその姿を消し、けれども鈴鹿の刀剣は寸分違わずゲーティアを穴だらけにし、その場へと縫い留めた。

 それを見るまでも無く、数歩踏み込んだ。

 ゲーティアの、憐憫に満ちた紅の瞳と目が合い、その威圧を直に感じながら。

 フラガラック──ッ!

 あの時と同じように、蒼光の剣を解き放つ。

 その上体へと風穴を空けて、押し倒す。

 時間が経てば経つほど脆弱になっていた彼の身体は、その衝撃で全身が砕けるように零れ落ちた。

 同時に、その横へと這いつくばるように倒れ伏す。

 もう指先ほども動かせないであろうゲーティアの声が、少しだけ宙を揺らした。

 何故だ──何故貴様らは、貴様は戦うのだ。

 何故、屈しないのだ、何故、諦めぬのだ。

 そんな問いに、少しだけ答えが詰まって、それから素直に吐き出した。

 ──何で、なんだろうなあ。

 立香くんならきっと、生きる為って言うんじゃない? だけど俺は、もう分からないや。

 生きる為だったのか、終わるためだったのか、あるいは義務だったからなのか。

 もしかしたら、その全部だったかもしれないし。

 もしかしたら、その内の何でもないかもしれない。

 でも、まあ。

 多分、そうしたいってちょっとでも思ったから、なんじゃないかな。

 呟くように言ったが、しかしちゃんとゲーティアには届いたようで、彼は笑った。

 何だ、それは。愚かであることを通り越して、最早言葉も見つからぬ。

 そんな、そんな曖昧な理由で、我々を打倒したのか、貴様は。

 ふ、ふふ、ふはははは──救いようのない、やつだな、と。

 身体を光に解かしながら、ゲーティアは笑う。

 同調するように、俺まで笑いが込み上げてくるようだった。

 俺も、そう思うよ──本当に、俺は愚かなやつだ。

 繰り返して、やり直して、何度も、何度もそうやって、結局大切な人をたくさん死なせて、やっと此処まで辿り着いたんだから。

 仮に俺が、この輪廻から脱することができたとしても、果たして先に進んで良いのか、果たして自分の好きなように終わって良いのかも、もう分からないんだ。

 俺の愚かさとか、考えの足りなさとか、力の足りなさとか、そういうものがいっぱいあったせいで、色々なものが失われたのに。

 俺だけが、好きなように生きて、終わっても良いのかなって。

 言ったところで意味の無いことくらい分かっていた。

 それでも止めることはできずに言葉を垂れ流せば、ゲーティアは少しだけ驚いたように俺を見た後に、本当に貴様は愚かなのだな、とそう言った。

 ──そう言って、ゆらりとその姿を、光へと還した。

 

 

 

 

 ────お疲れ様。

 トン、とフラフラしながら俺の隣に降り立った鈴鹿から、ねぎらいの言葉が落ちてくる。

 そろそろ声を出すのもしんどくて、何とか鈴鹿を見れば、鈴鹿は今すぐにも泣き出しそうで、けれども笑っていた。

 慈愛と慈悲が込められているようだ、と思った。

 何でそんな顔してるんだよ、頭でも撫でれば良いのか? 何て軽いことを考えたが、身体を起こすことすらできなかった。

 ただひたすらに見つめ合っていれば、振り切ったように鈴鹿はもう一度笑みを浮かべて言う。

 マスターは役目を果たした、だから今度は、私が果たす番、だね。

 大丈夫、大丈夫、もう心配はしないで────って言っても、ここまで隠し通してきたんだから、そりゃあ気になるよね。

 ……うん、どっちにしろ話さないと意味不明だろうから、話さなきゃだし。

 なるべく手短に話すから、ちゃんと聞くこと。

 言いながら、彼女は宝具を展開していた。

 鈴鹿の扱う、三つの宝剣の名を明かしていく。

 小通連、大通連、そして、顕明連。

 一振りずつ丁寧に解放していきながら。

 その身に纏う装束を変化させながら。

 恐らくは、存在そのものを昇華させながら。

 崩れかけていた光帯を、その手で安定させていきながら。

 鈴鹿は謳うように語った。

 前提として、貴方のその、いわゆるループは元よりその身体に、魂に備わっていたものではないのでしょう。

 貴方のそれは、何者かに与えられたもの、授けられたもの……植え付けられたものと言っても良い。

 けれども、ここで大事なのは「誰に」与えられたのか、ではなく「いつ」与えられたのか、です。

 これは流石に、マスターでも分かるんじゃないでしょうか。ええ、そうです、恐らく、という枕詞は付きますが、それは貴方が初めてレイシフトを行った日でしょう。

 カルデアが爆破され、意図せず特異点Fに跳躍した、その瞬間であると私は考えます。

 何故ならそこが、貴方が繰り返していることを知覚した、一番最初のタイミングなのですから。

 つまり、レイシフトが行われた瞬間から、レイシフトが完了されるその刹那の間に、何かしらがあったのでしょう。

 貴方が()()なった出会いか、あるいは出来事か……流石にそこまでは、今はまだ見通せませんが。

 少なからず、何かが確かにあった────だからそれを、問答無用で覆します。

 貴方にとっての始まりを、ゼロから()()()()()()

 ()()()()()()で、やり直してみせます。

 貴方が変わり果てる前に、貴方を戻す。言ってしまうのならば、それだけのこと。

 そしてそれこそが、大雑把ではありますが私の構築した理論──その為に、此処という時空が最も曖昧な場所と、集められた光帯……そのすべてとは言いませんが、それでも通常では到底考えられない、時空を貫けるほどの力が必要だった。

 これを以て、貴方の意識のみを飛ばします──今からちょうど一年前。

 カルデアの爆破が起こる、その手前の貴方自身の元へと。

 通常の私では不可能ですが──まあ、ダ・ヴィンチの協力も得て、無理矢理可能に押し上げました。

 八つの聖杯は、すべてこの為に。

 まあ、何でしょう、つまるところこれが、貴方にとっての最終ループ。

 戻った先で、まずはレフ・ライノール……いいえ、魔神フラウロスを討ち倒すと良いでしょう。

 2015年、そして2016年担当であったかの魔神は、人類を見定めるという役目も担っていた。

 それ即ち、人理焼却が行われるか否かは、あの魔神にかかっていたということです。

 レイシフト直前はまだ、人理の焼却は行われる前だった、であれば行われたのは爆破以降のことなのでしょう。

 あるいは同タイミングだったか……ええ、だから貴方は、戻ると同時に魔神フラウロスを打倒するのです。

 それだけで、すべては丸く収まる。

 人理は焼却されず、故に人理修復の旅も行われることは無く。

 マシュはその身を消されることは無く、ドクターロマニはその身を捧げることは無く、藤丸立香が死ぬことは無く、そして誰よりも、貴方自身がもう、傷つかなくても良い。

 この旅はもう、行われなくて良い────いいえ、いいえ、そもそも最初から、行われるべきではなかったのです。

 貴方が苦しむような、傷つくような、犠牲になるような旅など。

 本来であれば、有り得て良いものでは、決して無かったのですから。

 そっと、陶器のように白い手が、俺の頬を撫でる。

 何だかいつにも増して──いつか見た、三千大千世界を使った時よりもずっと、ずっと神秘的に見える鈴鹿は、それでも泣くように笑っていた。

 ──それは。それは確かに、心から想われている証左で。

 彼女の持ちうる慈愛から生まれた判断で、しかし、それでも首肯するわけにはいかなかった。

 いいや、本当は頷きたかった。縋りついてでもお願いしたいって心は、確かにあった。

 でも、それでも。

 今の俺じゃない──もっと、もっとちゃんと在れた頃の俺ならば、きっとそうはしないだろうから。

 こんな、失敗に失敗を重ねて擦り切れてしまった俺になる前の俺ならば、首を振るだろうと思うから。

 せめてガワだけでもそう在りたいと思って、離れて行く鈴鹿の、その手首をそっと握った。

 当然ながら、もう全然力は入らなかったから、それは添えるようなものでしかなかったけれど。

 それでもちゃんと握って、少しだけ引っ張った。

 言わなければならないことが、あると思ったから。

 鈴鹿がどうしたの? とでも言わんばかりに俺を見て、少しだけ笑う。

 そんな鈴鹿を見つめながら、絞り出すように言った。

 ……鈴鹿の言う通り、人理修復の旅は苦しかったよ。辛かったし、逃げ出したかった。

 痛いことでいっぱいで、何もかもが恐ろしかった。

 当然だけど、俺じゃなくても良かったんだと思う。偶々、俺と立香くんだったってだけなんだ、きっと。

 ──だけど、だけどさ、鈴鹿。行われるべきでは無かったってのは、多分少しだけ、違うんだ。

 少しだけだけど、それでも絶対に、それは違う。それだけは、断言できる。

 だって、この旅が無ければ俺は、鈴鹿に出会うことも無かったんだから。

 メドゥーサとも、カーミラとも出会えなかったのだから。

 たくさんの人に、英霊に、何も託されることも、繋がれることも無かったのだから。

 それらは俺を縛りつける重荷で、呪いでもあったけど、同時にかけがえのない宝物でもあったから。

 お前らの魂にまで刻み込まれた俺達の旅は、やっぱり、酷く辛くて、吐きそうになるくらい恐ろしくて、痛いものだったけど。

 同時に心を慰めてくれる、誰にだって誇れる思い出でもある……あったんだ。そこだけは絶対に、ブレていないはずなんだ。

 これは、我がままだってことは分かってる。

 鈴鹿が誰よりも俺のことを想って言ってくれていることは分かっている、俺の為に色々と考えてくれたことだって分かってる。

 でも、その上で、これまでの旅を無かったことにはしてほしくないって、そう思う俺が、絶対にいるはずから。

 だから、ごめん、鈴鹿。

 俺の言葉を聞けば聞くほど、鈴鹿の表情は歪んでいき、不意に「え」、という一音だけが鈴鹿の口から零れ落ちて、見開かれた目が俺を見た。

 マスター、貴方、これが二度目ではない、の?

 もう何度も、何度も繰り返してる?

 こんな、数えられないくらいに、何度もこの旅を?

 ────いいえ、聞くまでもない、見えた、見えてしまった、視通せてしまった。

 あ、ああ、あああ、あああああああああああ! ダメ、ダメ、ダメ! 

 やっぱり違う、違います。マスター、貴方の言うことは、やはり違う!

 絶対に、この旅は行われるべきではなかった、こんな──こんな仕打ちを、貴方が受けなければいけない道理など無かった!

 無茶苦茶よ、こんなの。

 貴方が今も自我を保てていることが、奇跡同然じゃない。

 全部、私に任せてください。もう、全部なかったことにしますから。今すぐにでも、貴方を戻しますから。

 人理修復の旅は、確かに貴方にとって……私にとっても! 大切な、かけがえのない、輝かしいものだったけれど!

 それでもこんなのは、やはり無かったことにした方が、ずっと良い。

 釣り合ってない……貴方ばかりが、色々なものを抱え込み過ぎている!

 全部背負ってもう、潰れ切ってしまっている、擦り切れてしまっている。

 こんなのは、酷すぎるよ。

 そう言って、鈴鹿は涙を流した。

 何だか鈴鹿のことは泣かせてばかりだなあ、なんて、久し振りにそう思って。

 良いんだよ、と口にした。

 というか、そうだなあ、本当は俺、もう一つ謝らなきゃいけないことがあってさ。

 ……俺、もう死にたいんだ。

 死にたいというか、終わりたいというか。

 全部、全部もう、どうでも良くなってしまった──というのは、少し違うか。

 言葉にするのが苦手だから、要領を得ないとは思うんだけど……俺はさ、多分最初は生きる為とか、またみんなと遊ぶためとか、話すためとか、馬鹿やるためとか、そういうことの為に頑張ってて。

 そうしてその果てに辿り着いて、そこそこ満足げに終わった──これで充分なんだって、自分に言い聞かせて、終わりを受け容れようとした。

 悪くはない──って。

 終われるって感覚は確かに安堵があったし、ちょっと安らかだった。

 ……でも、でもさ、違うんだよ。

 本当は大団円で終わりたかったに決まっている。

 たくさんの人に、英霊に繋がれてきたものを、あの瞬間に次に渡すなんて、名残惜しかった。

 普通に生きたかった……夢見た明日へと踏み出したかった。

 もう戦いなんてしなくて良いんだって、心の底からの安堵を得たかった。

 幸せな終わりに行きついて、そうして緩やかに終わっていきたかった。

 でもまた始まって、今までのすべてが無駄だったんだと思って、瞬時にあの血生臭い旅が始まるのだと理解して。

 突然視界が覆われたような気分だった。多分、あの時点でもう俺はダメだったんだ。

 メドゥーサにケツを叩かれて、鈴鹿に甘やかされて、そうやって立ち上がってはみたけれど、どうしても頑張り切れなかったのが、その証拠だ。

 その状態で走り続けてみたは良いものの、今はもう、あの頃ほど明日が恋しくなくなってしまったんだ。

 もし、ループから解放されたなら、俺は自分の命をその場で終わらせる。

 そういう確信がある。

 でも、そうするのは鈴鹿にとって不義理だって気持ちもあって、だから、だから……。

 俺はもう、どうすれば良いのか、分からないんだ。

 もう、取り返しがつかないところまで来てしまったんだ。

 弱くてごめん、情けなくてごめん、でもこれが、今の俺なんだよ。

 声がどんどんと小さくなっていく。

 思っていたことすべてを吐露するのは、初めてかもしれない。

 こんなに薄汚くて、弱々しくて、ダサいところは見せたくなかったのに。

 そうせざるを得なかった自分が、恥ずかしい。

 でも、これが今の俺のすべてだったから、嘘は吐けなかった。

 ──沈黙が落ちる。

 鈴鹿はただ、俺の身体を抱きしめて、何も言うことは無かった。

 あるいは、何も言えなかったのかもしれない。

 ああ、このまま鈴鹿と二人で死ねたのならば、どれだけ良いのだろうかと、心底そう思った。

 鈴鹿の温もりを感じながら、眠るように逝けたのならばどれだけ幸せだろうかと。

 そう、素直に思えたから、俺はダメなのだとも思った。

 こういうのを、八方塞がりというのだろうか。

 もう何も見えない、見たくはない──何も、考えたくない。

 

 ────愚かだな、ああ、まったく本当に。このような人間に負けた自分自身に腹が立つほどの、愚か者だ。

 

 聞き覚えのある声が、思考の暗闇を切り裂いた。

 

 

 

 

 僅かな残滓を基に、短い命を得たことで人の視点を手に入れた男──人王ゲーティア。

 かつて、俺と立香くんの前に立ちはだかった、魔神王の成れの果て。

 星々の輝きの如く煌めく金の髪を靡かせ、右肩から先を失い、傷口から流れ出る黒の煙をそのままに、彼は俺達の元へと歩み寄ってきた。

 鈴鹿は鋭く刀を抜いたが、不思議と、俺は警戒心を抱くことは無かった。

 それほどまでに、ゲーティアからは敵意を感じられなかった。

 魔神王であった時と唯一変わらない、紅の瞳をじろりと俺に向けて、彼は言う。

 ……そうか、貴様、この私ですら、見るのは初めてではないのか。

 既に私は、少なくとも一度以上は敗北していたという訳だ────ふん、まったくもって、面白くないな。

 我が怨敵、我が運命。そこまでして私の偉業の邪魔をするか……等とは、今は言うまい。

 ああ、そうだ──以前の私であれば口にはしないだろうが、しかし、敢えて言おう。

 我が運命、正真正銘、カルデア最後にして、最も愚かなマスターよ。

 私は──貴様の積み上げてきた偉業に対し、敬意を表する。

 例え敵対していたのだとしても、数百、数千という回数を繰り返してきた貴様には、憐憫と敬意を。

 そうして()()を以て、この一度限り、口だけは出してやろう。

 そう言ったゲーティアの表情からは、しかし何も読み取ることはできなかった。

 というか、敬意と、そう言ったのか? 今。

 ゲーティアが、俺に?

 嘘だろ、と言う思いが先行したが、しかしゲーティアは意に介することなく鈴鹿の方を見た。

 時空を超える、というのは悪くないアイディアだ──だが、一歩足りんな。

 それではこの愚か者は何も変わらない──否、戻らぬのだろう。

 これはもう、ある意味では私と同じ、成れの果てなのだから。

 元より光帯を用いた『逆行運河/創世光年』は、ゼロに戻って何もかもをやり直す……即ち、因果を覆す偉業である。

 その仕組みを、丸ごと使えば良い────理論上は破綻していないはずだ。

 何せそこの男からすれば、ここより先は未来であり、また過去でもあるのだから。

 円を描いているようで、しかしそれは直線とも認識できる、ここはそういう場所でもある。

 まあ、貴様に星の命を縮める覚悟があるのならば、だがな。

 ここまで言えば、鈴鹿御前……いいや、瀬織津姫神(せおりつひののかみ)、貴様であれば理解るだろう。

 ──ふん、途中まで私が組み上げていた計算式だ、どうとでも使うが良い。

 そう言って、ゲーティアは鈴鹿の手のひらへと何かを落してから、用は済んだとばかりにもう一度俺を見た。

 ここではもう、何を言っても無意味ではあるのだろうがな、と前置いて。

 私は貴様が嫌いだ、当然だとも。我々の偉業を悉く台無しにしてくれたのだからな、憎悪すらある。

 だが、それと同時に、多大なる感謝も。

 私はいまこの瞬間に生まれ、そしていま滅びる……それがどこか、心地よくすらあるのだから。

 我が運命、愚かなる人の子よ。

 さらばだ。

 ふわりと、風に解けるようにゲーティアはその身を光の粉へと還した。

 いきなり現れて、いきなり消える。

 本当に何だったのだろう、とすら思うのと同時に、鈴鹿が俺の手を取った。

 不思議にも柔らかく微笑みながら、鈴鹿は俺を見る。

 ──腹立たしいけれど、あの獣の言う通りなのでしょう。

 確かに、そうすれば覆すことは可能──ねぇ、マスター。

 ごめんなさい、私、貴方のこと全然分かってなかった、でも、それでも。

 私、やっぱり貴方を助けます。それはもう、完膚なきまでに。

 貴方がそんな思いをせずに済むように、貴方が望んだ明日を手にできるように。

 だから、少しだけ待っていてください。

 直ぐに行きますから。

 笑ったままそう言った鈴鹿に、何を言っているんだと、問うことはできなかった。

 言葉にする直前で、鈴鹿は俺の手を離し、少しだけ距離を取った。

 その頭には金の立烏帽子。身に纏うは天女の如し赤の衣。

 その背に背負うはこれまで得てきた八つの聖杯と、どこから、いつから持っていたのか複数の聖晶石。

 その全てが、光り輝いていた。

 否、それだけでなく、途方もない程の魔力を発していて、まともに動くことすらできず、声が出ない……呼吸すら、意識しなければ難しい。

 見るだけでも精一杯の俺に、鈴鹿は一度だけ目を合わせてくれた。

 見慣れた黄金の瞳の奥に、見たことの無い幾何学模様があって。

 鈴鹿は小さく、けれども確かに一言、呟いた。

 

『逆行運河/創世光年』

 

 ────と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光とも、闇とも言えない空間を鈴鹿御前はただ通過している。

 その速度は速いのかと言われれば何よりも速く、しかし遅いのかと言われればどこまでも遅いのだろう。

 要するに測定不可能、という訳だ──何故なら鈴鹿御前は今、時空を跳躍しているのだから。

 "逆行運河/創世光年"とは、魔神王ゲーティアが考案した最大級の過去改竄、因果の操作────まあ、一言で言うのならば、星を作り直すための方策である。

 この地球と言う星が誕生する瞬間まで時空跳躍を行い、その場で自らの肉体を基に、人理を焼却したことで束ねたその莫大な魔力を以て『死』という概念の無い星と成す。

 否、正確には時空跳躍は付随される過程であり、『死』という概念の無い星が作り上げられたという結果のもとに生まれるものなのだが。

 ただ言えるのは、言葉にすることすら馬鹿げている大偉業、ということだけだ。

 それを成就するまであと一歩、いいや、あと半歩まで近づいたゲーティアの構築した理論に間違いはなく。

 発動者がゲーティア自身でなくともそれは、何の問題も無く機能していた。

 とはいえ、それはゲーティアが当初想定した運用とは限りなく同じであったが、しかし決定的に違う部分があったのだが。

 ゲーティアが目指したのは四十六億年前の星が生まれる瞬間であり、鈴鹿御前が目指したのはある意味では数秒前であり、ある意味では数百、数千年前だった。

 要するに鈴鹿御前が目指した場所(タイミング)は、一度目の人理修復の旅が終わる、その瞬間。

 無かったことされたはずの、始まりの一回目。

 そこに辿り着くと同時に鈴鹿御前によって、マスターたる青年のすべては、あらゆる意味で元に正されるように戻るだろう。

 その為に、自らのマスターが死に絶えるその数瞬前へと高らかに跳躍を行っていた。

 時間が経てば経つほど──正確に言えばこの瞬間、時間などは流れていないのだが──鈴鹿御前の霊基は砕け落ちていく。

 聖晶石の特性──あまたの未来を確定させる概念そのものを、時空跳躍の際の道を舗装するものとして扱い。

 本来であれば魔力リソースとしてしか運用していなかった、八つの聖杯をほんの少しでも願望器として機能させ己を高め。

 三千大千世界という宝具──正しく言えば『権能』を完全に使いこなすことで、既に英霊の枠から逸脱し神へと成った状態を維持していた彼女でさえ、これは無茶な行いであった。

 というと、そもそも時空跳躍が多大な負荷を与えるものと感じられるかもしれないが、それは少し違う。

 ゲーティアが飛んだのならば、負荷は無いに等しかっただろう。だが、英霊たる彼女がそうする場合は無理が先んじるということに過ぎない。

 それに加え、三千大千世界という権能は、権能であるがゆえに英霊が長時間使うことは許されていない。

 もし長時間の使用が行われればその瞬間、()()()()()()()()()()()()()()

 それはつまり、過去、現在、未来において彼女が英霊として召喚される可能性が消えるということに他ならない。

 だが、鈴鹿御前はそれでも構わない、悔いはない、未練はない。

 無事辿り着くことさえ出来るのであれば、それだけで良い。

 そこまで身体が、霊基が保てば、マスターを救えるのだから。何の問題もない。

 ドンドンと綻んでゆく自分自身を感じながら、鈴鹿御前は静かに目を閉じる。

 穴が空いていく己自身のことを脇に置き、思い返すのはこれまでの旅路。

 一度目の旅と、二度目の旅──そこで話し合った、触れ合った、共にあった己がマスターのことを想う。

 それだけで、鈴鹿御前が頑張る理由としては充分だった。

 何故なら彼女は、鈴鹿御前はそもそも、()()()()()()()()()()召喚に応じたのだから。

 未だに見ることの無い恋を少女らしく夢に見て。

 未だ出会うことの無い相手のことを想いながら、呼びかけに応じ──そして出逢ったのだ。

 それは正しく鈴鹿御前にとって()()()()()()()()()()

 焦がれるほどに憧れ、夢に見た、理想通り──とはいかなかったけれど、それでも鈴鹿御前にとっては何にも代えがたい、素敵な恋だった。

 それを守るためならば、それを貫き通すためならば、どんな問題も些事である──そうでしょう?

 だってこれは私の、私だけの大切な恋心。

 もう会えなくなってしまうけれど、それでも。

 何よりも大事な気持ちだから。

 だから、だからどうか、速く、迅く、疾く! あの人のもとへ!

 願いは光、想いは力。

 夢は彼女の心を守り、恋は彼女の在り方を守る。

 そうして、果てしない一瞬が過ぎた頃────鈴鹿御前は不意に宙へと投げ出された。

 纏っていた衣はズタズタで、立烏帽子ももうどこかにいっている。

 身体だって思うように動かないし、知覚だって恐ろしい程に鈍っている──しかし、それでも鈴鹿御前は辿()()()()()

 崩壊してゆく時間神殿ソロモン、その中空に投げ出され緩やかに落下していく青年を、鈴鹿御前は見つけると同時に飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──あぁ、悪くないな。

 そう思った、良かったと言い切れないのが、やっぱり少しだけ未練があるように思えて笑えたけれども、うん、それでも悪くなかった。

 ……そう、思うことにした。

 立香くんが手を伸ばそうとしているのが見えて──

 

「マスタああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 絶叫と共に、見知った英霊──鈴鹿御前が凄まじい勢いで飛び込んできた。

 ……は? 飛び込んできた!?

 何で!? ていうかお前、さっき退去したはずじゃ──。

 意味不明過ぎて思わず言葉を一気に並べ立て始めれば、ボフン! と中々の重みを持った衝撃と共に鈴鹿に抱きしめられた。

 抱きしめられると同時に、何かがガチリと変わったような気がして一瞬、眩暈がしたが直ぐに意識を取り戻す。

 ただでさえ緩やかに落ちていたのに、鈴鹿の勢いが伝わって物凄い勢いで落下することになっていた。

 本当に何なんだと声を漏らす前に、鈴鹿が耳元で囁くように言った。

 会えた、会えた、良かった、生きてる、生きてるよぅ。

 言葉を重ねるごとに声が涙に滲んで震えていく。そんな鈴鹿の背中を幾度か優しく叩いた。

 いや、まあもう終わりなんだけどな──と、言ってる途中で言葉を遮られる。

 否、遮られるというか、思わず押し黙ってしまったというか。

 両目からボロボロと涙を零して俺を見る鈴鹿はいつになく迫力があって、それに圧されていれば彼女は言った。

 違うでしょう、と。

 悪くない、なんかで終わって良い訳がないじゃん。

 変なところで諦めが良いから、最後の最後で後悔する。

 マスターはもっと幸せになって、いっぱい楽しいことを味わって、そうやって物語を紡いだ最後に終わらなきゃならないんだから。

 だって人理を、世界を救ったんだもの──そのくらい求めたって、罰なんて当たらないし、私が与えさせない。

 だから、帰るよ、マスター。

 まずはカルデアに、そしてその後は貴方が救った、貴方の世界に、ね。

 そんなことを言って、鈴鹿はグッと、落ちていく神殿の破片を踏みしめ跳躍した。

 トントントン、と軽やかに。

 俺が抱いた諦めとか、ちょっとした満足とか、安らぎとかを全部振り落とすかのように鈴鹿は上へと駆けあがる。

 先ほどまで立香くんがいた場所に、辿り着くまでは一瞬だった。

 もう身体にちっとも力の入らない俺を支えながら鈴鹿は、時空断層の手前に舞い降りる。

 この先を潜れば、多分立香くんと同様にレイシフトが行われるのだろう。

 何だか、夢を見ているような気分だった。

 どうにも現実とは思えなくて、ふわふわと浮ついている。

 何もかもが急すぎて、頭が追いついて来ない。

 ただひたすらに疑問が溢れてきて、ひとつずつ口にしようとすればそっと、人差し指を当てられた。

 鈴鹿が笑う。今まで幾度か見てきた、屈託のない、清々しいほどの満面の笑みを浮かべて言う。

 言ったでしょう、あの時。

 貴方の願いの為に、私の全てを貴方に尽くしましょう──と。

 ……それに、それにね、マスター。

 私はマスターのことが好きだから。

 この程度は当たり前じゃん? なんて、そう言って。

 鈴鹿は俺の額に唇を落としてから、俺の身体を時空断層の方にそっと押した。

 抵抗しようにも身体に力が入ることは無く、ただ落ちるみたいにして飲み込まれていく。

 思わず手を伸ばしたけれど、それが鈴鹿に届くことは無く。

 手を取る代わりとでも言うように、鈴鹿は儚げな笑みを浮かべた。

 

「さようなら。私のこと、忘れないでね」

 

 最期にそう言った、鈴鹿の声が寂し気に耳朶を打って。

 俺の身体は、意識は、問答無用で光に解けた。

 

 

 

 

 

 時空断層は音を立てて砕け、また彼女が立っていた神殿の欠片も同様に崩れ落ち、鈴鹿御前は宙へと放り出された。

 これまで気合で保っていた全身が解けるように消えていく。

 消えてしまえば、鈴鹿御前は二度と召喚されることは無い。

 それを理解した上で、鈴鹿御前は、しかしこれ以上ないほどに満ち足りていた。

 満ち足りるのと同時に、己の浅ましさも感じて、それでもどうしても笑みを浮かべてしまう。

 美しい思い出として、酷く辛かった思い出として、いつだって思い出してほしい。

 もう二度と会えないことを知って、その上で一生覚えていて欲しい。

 ──ああ、なんて私はズルい女なのでしょう。

 でも、それでも私は、それで良いのです。

 ああ、私が恋した、たった一人のマスター。

 どうか、どうか貴方の生涯における"唯一"に、なれますように。

 小さく、そう零すのと同時に、鈴鹿御前は完全に光へと還った。

 

 

 

 

 

 

 ──気が付いたら人気の無い上、燃え盛る街に一人佇んでいた……なんてことは無く。

 気が付くのと同時にコフィンから排出された。

 受け身も取れずに「ぐぇっ」と声を漏らしながらその場に倒れ──そうになって受け止められる。

 

「やあ、お疲れ様」

「あ、ダ・ヴィンチちゃん……ただいま、で良いのかな」

「ああ、おかえり。よく頑張ったね、これにてミッションコンプリート。グランドオーダーは、君たちの尽力によって、全工程を終了した。

 立香くんとマシュは空を見に行ったよ。何せ今日は素晴らしいくらいの晴天だ──とは言え、君の場合はそのザマだ、残念ながら、直ぐには行かせられないけどね」

「あんまり実感ないな……あ、でもマシュ、助かったんだ、良かった。ま、そういうことなら俺だって別に、邪魔になるだろうから行かないよ」

「ふっ、君ならそう言うだろうと思った。なぁに、応急処置が済んだら連れて行ってあげるさ」

 

 そう言ってウィンクしたダ・ヴィンチちゃんは俺を担いだまま医務室のベッドへと俺を叩きこんだ。

 普通に扱いが乱雑すぎる……というか、わざわざダ・ヴィンチちゃんがここまでしてくれなくても良いのに。

 ……だって、ドクターがもういないのだ。所長代理がダ・ヴィンチちゃんになったであろうことくらい、言われなくても分かる。

 まあそれはそれとして有難いのだが。

 キャスターである彼女の魔術は当然だが一級で、身体も幾分か楽になってきた。

 ポフン、と柔らかな音を伴って、ダ・ヴィンチちゃんが俺の横たわるベッドへと腰かける。

 

「さて、君のことだから察しはついているだろうけれど、一応の報告はさせてもらおう。

 我々が協力してもらっていたサーヴァントは全て退去してもらった……ここまでは良い。

 退去してもらっただけで、霊基パターンは記録済みだからね、必要があればいつでもまた呼び出せる。

 問題は、その内の一騎──君が契約してたサーヴァント、鈴鹿御前についてだ。

 彼女のパターンのみが、保管されずに完全に消失したことが確認された──それはつまり、もう二度と召喚出来ない、ということに他ならない。

 我々の知っている鈴鹿御前、という括りでは無く、鈴鹿御前という英霊そのものをもう呼び出すことはできない、と言う意味だ、分かるかい?」

「────うん、まあ、分かるよ。分かる……今、ちゃんと分かった。

 ごめん、ダ・ヴィンチちゃん。ちょっとだけで良いから、一人にさせて欲しい」

 

 ダ・ヴィンチちゃんは無言で頷いて、医務室を出た。

 その背中を見ながら、俺は鈴鹿のことを思い出していて、ああ、やっぱりそういうことなんだ、と思った。

 だって鈴鹿が「さようなら」とか「忘れないでね」とか言うなんて、おかしいと思ったんだ。

 理由は分からない、だって教えてくれなかったのだから。でも、それでも分かる。

 まったく、何なんだあいつは。

 俺を助けて消えたと思ったらまた現れて、そうしてまた助けてくれた後に、こうやって消えていく。

 本当ならば、文句の一つや二つ零したいところで、けれども、あんな笑みを見せられたのでは言える訳も無かった。

 ため息が、知らず知らずのうちに溢れ出てきた。

 俺は一生鈴鹿のあの、最後の笑みを忘れられないのだろう。

 そうして鈴鹿は、それだけで充分だと、そう思ったのだ。

 自身の存在と引き換えに、俺みたいなやつの命を選んだのだ。

 ……好きだったのは、お前だけじゃなかったんだけどな。

 さっさと言葉にしておけば良かったのかも……いいや、それはやっぱり無理だな。

 何だか視界が滲んできて、熱いものが頬を伝っていく。

 こういう時は、何て言えば良いのだろうか。

 少しだけ悩んでから、口にした。

 

「ありがとう、さようなら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、無限ルーパーの旅は終わりを告げた。

 たった一つの恋が、終わりを告げた。

 青年はもう繰り返すことは無いだろう。

 後悔は取り戻せないし、失ったものを拾い直すこともできない。

 けれどもそれで良い──それが良いのである。

 それこそが青年が望み、一人の女が見た夢なのだから。

 青年は、そんな女がいたことを胸の裡にしまい、求めていた明日へと踏み出して、紡いでいくのだろう。

 死と断絶の物語ではなく、青年なりの、愛と希望の物語と云うやつを。

 




……という訳で完結でございます。
後ほど活動報告の方にあとがき的なアレを載せる予定ですので、気になった方はどうぞ。

何となくまとめていた設定とかはその内に一話にまとめて更新するかもしれないし、活動報告でダラダラ垂れ流すかもしれないです。多分。


それでは、ありがとうございました。
また何か、別の作品とかで会いましょう。

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