不死人、オラリオに立つ   作:まるっぷ

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第七十話 家族

 

「!」

 

松明の灯りのみが照らし出す“祈祷の間”にて、フェルズは鋭く勘付いた。

 

「ウラノス、誰か来るぞ」

 

「何?」

 

水晶で『異端児(ゼノス)』たちと連絡を取り合い、何とかダンジョン内部の状況を探っていたフェルズの言葉に、ウラノスは怪訝げに眉を寄せる。

 

「ロイマンがいたはずだが……そうか」

 

彼の脳内に幾つもの可能性が浮かび上がり、それらは瞬く間に一つの解へと収束していった。

 

地上の住民たちへの避難誘導と、ダンジョンへの出入りの規制。これだけでは絞り込めるに至らないが、そこに『偶然』と『神の勘』を加えればどうなるか?

 

『偶然』ダンジョンの前に居り、『神の勘』が働いた。そしてこの場所を目指す者がいるとすれば、それは一柱(ひとり)しか考えられない。

 

「フェルズ、身を隠せ」

 

「心当たりが?」

 

「ああ」

 

コツン、コツンと、音の反響が大きくなる。

 

やがて祈祷の間へと足を踏み入れたその神物(じんぶつ)は朱色の髪を揺らし、ウラノスを真正面から見据えた。

 

「何の用だ、ロキ」

 

「とぼけんなや、ウラノス」

 

剣呑な雰囲気を纏うロキの眼差しは、ウラノスを射殺さんが如くだ。呑気に娯楽を謳歌しているそこらの神々がこの場にいれば、思わず後ずさりをしていたに違いない。

 

「単刀直入に聞くで。ダンジョンで何が起こっとる?」

 

「何かが起きていると、その証拠があるのか?」

 

「ない。けど確信はしとる」

 

勘や、と言い切るロキ。

 

そのような不確かなもので、と一笑に付すのは簡単だ。しかし『神の勘』ほど無視できぬものはない。それがこの道化神の抱いたものであるのなら、尚更だ。

 

「……良いだろう」

 

ウラノスは小さく頷き、改めてロキを見据えた。

 

「私の知り得る限りのことを話そう、ロキ。お前も全くの無関係という訳ではないのだからな」

 

「何やて……?」

 

眉を歪めるロキに、ウラノスは全てを開示する。

 

異界と化した59階層と、ダンジョン内で起きている異常事態。そしてその全ての元凶である、『闇の王』という存在について。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

底なしの沼に沈んでゆくような微睡(まどろ)みに絡め取られながら、ファーナムの意識はどこまでも深く落ちてゆく。

 

早く目覚めなければと思うも、身体は言う事を聞いてくれない。その内に思考すらままならなくなり、何もかもが曖昧になってゆく。

 

(何かを……忘れているような……)

 

大切な事だった気がするが、どうしても思い出せない。

 

そうしている間にも、彼の意識は更に深く落ちていって―――――

 

―――――

 

―――

 

 

 

 

 

 

……。

 

…………?

 

……!………っ!

 

(……何、だ……?)

 

音が……いいや、声が聞こえる。何やら楽しそうな声だ。

 

声の主に覚えはない。心地よい微睡みを妨げる存在に対し、自然と眉にしわが寄ってしまうのを感じる。

 

そんなささやかな抵抗も声の主には関係なく、唐突に訪れた腹部の衝撃によって、その微睡みは呆気なく破られてしまった。

 

「うっ」

 

しかし、それは衝撃と呼べるようなものではなかった。全く力を入れていない状態でも十分に受け止める事ができ、痛みなど全くない。

 

それでも驚きはする。閉じていた瞳を開け、視線を己の腹部へと向けると……。

 

「あっ、おきた!」

 

そこには、小さな子供の姿があった。

 

肩口で切り揃えられた柔らかな金髪の子供。5歳ほどであろう年の頃の女児は、続く言葉を口にした。

 

「おはよっ、()()()()()!」

 

目の前の子供の発した言葉に、()は困惑していた。

 

(おとーさん……お父さん?それはもしかして、俺の事か?)

 

男の頭に幾つもの疑問符が浮かぶ。

 

子供は返事を期待しているかのようにこちらを見上げ、ニコニコと笑っている。どうやらこちらが何らかの返答をしない限り、梃子(てこ)でも動く気はないらしい。

 

(……まぁ、仕方がないか)

 

自分の事を誰かと勘違いしているようだが、とりあえずは返事をしなければ始まらない。誤解を解くのは、それからでも構わないだろう。

 

そう結論づけ、男は口を開いた。

 

「ああ、おはよう。()()()()()()()()()()()()?」

 

その口から出て来た言葉に、誰でもない男自身が驚いた。

 

ただ“おはよう”とだけ言おうとしていたのに、自然と続く言葉が出て来たのだ。“母さん”とは誰なのか、彼自身にも分からぬままに。

 

「うんっ!もうすぐ朝ごはんができるから、おとーさんをおこしてきてって言ってた!」

 

「はは、そうかそうか。それじゃあ母さんが怒ってフライパンを持ち出す前に、早く起きなくちゃな」

 

またしても、男の口から自分の意志に反して言葉が飛び出す。しかも今度は腕が勝手に伸び、ごく自然に幼女の頭を撫でたではないか。

 

が、不思議と違和感はない。勝手に身体が動くという現象への驚きもかき消え、むしろ安堵感すら覚えたのだ。

 

ずっと忘れていた、或いは欲していたものがこの手の中にある……今の彼の感情を例えるのならば、ちょうどそんなところだろうか。

 

「残念。ちょっと遅かったわね」

 

そこへ、新たな声がかけられた。幼いものではない、成熟した女性の声だ。

 

女性はエプロンを外しながら穏やかな笑みを湛え、幼女と同じく、男へ目覚めの挨拶を投げ掛けた。

 

「おはよう、お寝坊さん」

 

「ああ―――おはよう、母さん」

 

この言葉も。

 

やはり男の口からは、自然に出てきた。

 

 

 

 

 

(かまど)で温め直したパンと、簡単なサラダ。そして朝には少し豪華な具沢山のシチューが三人分、中央に花瓶が置かれた食卓の上に並ぶ。

 

「それじゃあ、頂きます」

 

「いただきまーすっ!」

 

「ふふっ。はい、召し上がれ」

 

朝食が始まった。

 

まずはサラダから。レタスと玉葱のシャキシャキとした瑞々しい食感がドレッシングに良く合い、トマトの酸味も良いアクセントになっている。

 

次に、パンを千切ってシチューに浸して食べる。噛むたびに溢れる優しい味わいが胃を刺激し、あっという間にパンはなくなってしまった。

 

もうシチューは器に少ししか残っていない。スプーンで掬うほどの具もないので、男は器を直接手に取ってそのまま飲み干す事にした。

 

「あなた、お行儀が悪い。この子が真似したらどうするの?」

 

「うっ……わ、悪い」

 

「あははっ、おとーさんおこられたー!」

 

そんな若干の気まずさも、子供の笑い声が洗い流す。

 

女性もそれ以上に咎める事はせず、子供の口元に付いたシチューを優しく布でぬぐい取った。んむー、と、子供は少しだけくすぐったそうにして笑う。

 

そんな光景を、男は優しげな眼差しで眺めていた。

 

(ああ、幸せだ)

 

このささやかな幸福さえ続けば、他には何もいらない。

 

きっと寝ぼけていたのだろう。先程までの奇妙な感覚も、今や遥か彼方に消え去っていた。

 

(そうだ。俺は妻と娘と、三人でここで暮らしているんだ)

 

都市の中心地から少しだけ離れた住宅街に居を構え、周辺の村々からやって来る新鮮な野菜や家畜の肉などを店に卸す仕事をしている。オーナーなど大それた役職ではなく、一従業員として。

 

給料は一人暮らしには十分なものだが、家族を不自由なく養うにはもっと働き、もっと稼がなければならない。遊んでいる暇なんてない。

 

が、今日だけは特別だ。普段あまり構ってやれていない娘のために、オーナーに頼み込んで休みをもらったのだ。

 

窓から差し込む日差しが眩しい。外に出れば、きっとたくさんの楽しい事が待っているに違いない。何せここは世界の中心、()()()()()()()()なのだから。

 

「おとーさん。きょうはお仕事、おやすみなんだよね?」

 

「ああ、だから今日は色々と見て回ろうな。何か欲しいものがあれば、父さんに言うんだぞ?」

 

「やった!じゃああたし、お洋服がいい!」

 

「あら、駄目よ。今あるので我慢しなさい」

 

「えー!?」

 

「はは、大丈夫だって。実はこの日の為に、少し貯金してきた」

 

「……もう。本当に子煩悩なんだから」

 

賑やかな朝の光景が続く。

 

三人が笑い合う食卓、その中央に置かれた花瓶に生けられていた花―――白いカスミソウが、朝日を浴びて輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝食の後、少ししてから出かけた洋服店。

 

子供用の可愛らしいワンピースの数々に目移りする我が子と、そのたびに駆け出す後ろ姿をせわしなく追いかける妻。男は少しだけ離れた場所でそれを見ていた。

 

服が入った紙袋をぶら下げ、次に向かったのは出店が立ち並ぶ中央通り(メインストリート)だ。時刻は間もなく昼に差し掛かる頃で、住民や冒険者たちは思い思いの食べ物を購入し、口に運んでいる。

 

「おっと、そこの君たち!美味しい美味しいジャガ丸くんはどうだい、買ってかないかい!?っていうか買っておくれよ、ボクを助けると思ってぇ!?」

 

「え、あっ、はい。買います、買います」

 

途中で店を広げていた女神―――幼女に見えなくもない―――に『これじゃあ今日のノルマがぁああ!?』と泣きつかれて購入した揚げ物を手に、三人は次の出店へと足を延ばす。

 

「お祭りみたいでたのしいね!」

 

揚げ物を頬張り、口の端に衣をつけたままの我が子が満面の笑顔を向けてくる。

 

きちんとした昼食をとるべきだったが、娘がこんなに喜んでいるのだ。ならば今日くらい食べ歩きをしても良いだろう。典型的な子煩悩である男は、妻の少しだけ呆れを含んだ視線に苦笑いを浮かべた。

 

「あなた、次はどこに行くの?」

 

「うぅん、と。そうだな、次は……」

 

どこへ行こう。どこを見て回ろう。

 

ここがいい!そうか、じゃあそこに行こうか。

 

楽しげな会話は尽きない。

 

どこまでも、どこまでも続いてゆく。

 

この幸せな時間はいつまでも続くのだと、確証もないのに信じてしまう。

 

「お花は、綺麗なお花はいりませんか?」

 

雑踏と喧噪の中、とある花屋の前から売り子と思しき声が聞こえて来た。妻と娘には聞こえなかったようだが、男はその声のした方向へと、何の気なしに顔を向ける。

 

売り子は小人族(パルゥム)の少女だった。小さな身体で大きな花束を持ち、道行く人々にお花はいかが?と懸命に話しかけていた。奥では店主らしきヒューマンの老夫婦が、まるで孫を見るような優しい眼差しで少女の働く姿を見守っている。

 

店は花の種類も豊富だった。軒先に並べられている以上の花が店の中には溢れていて、きっと建物の中は良い香りに包まれている事だろう。そう考えるだけで、ここにまで花の香りが漂ってくるかのようだ。

 

「おとーさーん!」

 

と、花屋に気を取られている、その時だった。愛娘の声にハッと我に返った男はごめんごめんと謝りつつ、駆け足で二人の元へと急ぐ。

 

「お買い上げ、ありがとうございます!」

 

すでに離れた花屋から、少女の元気な声が響く。どうやら花が売れたらしく、その声は嬉し気に弾んでいた。

 

少女はぺこりと頭を下げ、次の花束を作るために店の奥へと引っ込んでゆく。

 

幾つもの花が置かれた店内。その一角に埋もれるようにして、白いアネモネの花が顔を覗かせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楽しい時間というのは、いつだってすぐに過ぎ去ってしまう。

 

友達と遊んでいる時。恋人と共に過ごす時。そして一家団欒の時……永遠に続くかに思えた時でも、いつかは終わりを迎えるものだ。

 

男は家族で外食を楽しみ、帰路についていた。魔石灯の明かりがオラリオの街並みを彩り、昼間とはまた違った喧噪に包まれている。

 

「晩ごはん、おいしかったね!」

 

「ああ、たまには外食も悪くないだろう。な、母さん?」

 

「ふふっ。ええ、そうね」

 

夕食は少しだけ高いレストランだった。落ち着きのない子供と一緒でも問題なく迎えてくれる所で、娘はオレンジジュースを、二人は葡萄酒を頼んだ。

 

酒など滅多な事では飲まないが、今日は特別な日なのだ。毎日の仕事と家事育児に専念している二人にとっても、たまにはこういうご褒美があってもバチは当たらないだろう。

 

奮発してしまった分、またしばらくは必死に働かなければならないだろうが、男は全く気にしていなかった。またこんなひと時を過ごせるのならば、どんな事にだって耐えられるのだから。

 

(ああ、いや。でも……)

 

ふと、男の頭に不安がよぎる。それはこの先数年後、あるいは十数年後の事だ。

 

(この子に好きな子が出来たらどうしようか。いや、まだ早いとは分かっているんだが、でも、しかし……うぅぅぅん……っ!?)

 

子煩悩、ここに極まれり。そんな()()()()()()の心配をしてしまう男の胸中は、愛しい妻子には伝わる訳もなく。

 

男は楽しげに言葉を交わす妻子の隣を歩きつつ、一人悶々とした考えに頭を悩ませていた。

 

(家族を養えるか、なんて聞くのは野暮か?いや、重要な事だ!でもそれで二人を愛の妨げにはなりたくない。というより、この子に嫌われたくない……!!)

 

密かにうんうんと唸る今の男には、周囲の光景も目に入らない。夜のオラリオの喧噪だけが雑多な音として聞こえてくるばかりで、それもすぐに不要な情報として忘却されていった。

 

「それじゃあ、明日という偉大な日の前祝いとして、乾杯しよう!」

 

「はははっ!さっきから何度目だよ、それ!」

 

「しかも俺たちの事じゃねぇし!他所のファミリアの事だし!」

 

「まぁどっちでも良いけどよ!よぅしお前ら、ジョッキは持ったか!?」

 

喧噪の中で聞こえてくる大声。酒場のテラス席で酒盛りに興じ、すっかり出来上がった冒険者たちの会話。

 

()()()()()自分の人生には何の関係のない彼らの隣を、男が通り過ぎようとした―――その時。

 

 

 

「【ロキ・ファミリア】の『遠征』、未到達領域への進攻(アタック)を祝って……乾杯!!」

 

 

 

【ロキ・ファミリア】。

 

一瞬しか聞こえなかったその単語に、男の身体が硬直した。

 

「     」

 

立ち尽くし、呼吸が止まり、瞳孔が開く。

 

行き来する人の波の中で、動かない男だけが異物のように浮彫りとなっている。

 

「おとーさん?」

 

「あなた?」

 

宙に浮かぶ妻子の声。

 

昼間と全く同じその言葉に、男が顔を上げてみれば―――二人の背後、その遥か先の方に。

 

歩みと共に揺れ動く、()()()()が見えた。

 

「―――――ッ!!」

 

気が付けば、男は駆け出していた。

 

妻子の横を走り抜け、人の波をかき分けて、一心不乱に足を動かし続ける。

 

「あなた!?」

 

「おとーさん!?」

 

妻子の呼び止める声も今ばかりは聞こえない。行き来する人々の肩に何度もぶつかりながら、点のように小さくなりつつあるその後ろ姿だけを、一心不乱に追いかける。

 

人込みを抜け、入り組んだ住宅街を駆ける。すでに見失ってしまった後ろ姿を、男は焦燥に彩られた表情で懸命に探していた。

 

「ハッ、ハッ、ハッ、ハァッ……!!」

 

何故こんなに焦っているのか、その理由は自身にも分からない。

 

真っ暗だった夜空は、いつの間にか早朝の色に塗り替えられていた。それほど時間が経った訳でもないと言うのに。

 

その異常な変化を気にかける事もなく、男はひたすらに足を動かし続けた。

 

そうして抜けた住宅街―――その先にあるのは、大勢の人だかりだった。

 

「………ぁ」

 

バベル……ダンジョンへと続く大穴の上に建てられた白亜の塔の前に集結した、恐れを知らぬ勇敢な冒険者たち。それぞれが得物を携え、これから挑む地下迷宮を真っ直ぐに睨みつけている。

 

彼らの名は【ロキ・ファミリア】。

 

これから彼らは前人未到の領域、第59階層へと挑まんとしているのだ。

 

「犠牲の上に成り立つ偽りの栄誉はいらないっ!!全員、この地上の光に誓ってもらう―――必ず生きて帰るとっ!!」

 

そんな彼らを前に、見事な演説を振るうのは小人族(パルゥム)の男。【ロキ・ファミリア】団長、フィン・ディムナ。

 

彼の言葉が全員を勇気づけ、士気を高めさせる。誰も死なず、死なせず、ダンジョンからの生還を心に誓う彼らの表情は、自信に満ち満ちていた。

 

正しく強者の一団。輝かしい英雄譚の一(ページ)そのものである光景を前に、男の顔はより一層の焦燥感に苛まれる事となる。

 

「駄目だッ!?」

 

叫べども、届かない。

 

男の制止の声も空しく、彼らは次々にダンジョンへと潜っていく。見送る者たちの声援を背に受けながら。

 

「行くな、戻れ!!59階層には奴が……『闇の王』がっ!!」

 

止めなければ。その一心で声を荒らげ続けるが、それは(つい)ぞ届く事はなかった。

 

やがて彼らの姿が見えなくなり……そして、誰もいなくなった。

 

ドッ、と、男が膝を突く。

 

いつの間にか、男の姿は変わっていた。オラリオではごく一般的な服から、冒険者のような武骨な恰好に変貌している。

 

重厚感のある金属鎧。その肩周りを覆う装飾のような毛皮に、鎧の端から伸びる緑を基調とした布地。兜こそ被ってはいないが、それは男を―――ファーナムを、ファーナム(不死人)たらしめる姿だった。

 

(……思い、出した……!)

 

瞬間、ファーナムは全てを思い出した。

 

自分が『闇の王』との激闘の末、腹部を十字槍で貫かれた受けた事を。今こうしている間にも【ロキ・ファミリア】が、仲間の命が危機に晒されている事を。否、そればかりか、この世界そのものが崩壊の瀬戸際に立たされている事を。

 

(……行かなければッ!)

 

これ以上寝ている訳にはいかない。

 

一刻も早く起き上がり、戦わなければ。項垂れていた身体に力を入れ直し、ファーナムは仲間の元へと駆け付けるべく、その足を動かそうとした―――その背に、不意に声が投げかけられる。

 

 

 

「おとーさん?」

 

 

 

(ッ!?)

 

振り返ったファーナムが見たもの。それは不思議そうな顔でこちらを見つめる、幼い娘の姿であった。

 

傍らに立つ女性はしっかりと娘の手を掴んでいる。微笑みながらも、僅かに寂しげな表情を浮かべながら。

 

「……ぁ」

 

掠れた声はファーナムのものだ。

 

全てを理解したファーナムは、もう今までのように二人を見る事が出来ない。何故ならこれは生死の境を彷徨っている自分自身が見ている、一時の夢に過ぎないのだから。

 

だからこそ、分かった。

 

この二人は、不死人となるより以前の自分……人間であった頃の自分が手にしていた、何よりも大切な、かけがえのない家族なのだと。

 

「………ッ!」

 

途方もない感情の波が押し寄せる。

 

オラリオで得た大切な仲間たちと、遠い過去に自ら手放してしまった最愛の家族。現在と過去。何ものにも代えがたいものが、天秤にかけられている。

 

仲間たちの元へと駆け付けなければ。失ってしまった家族の時間をここで取り戻さなければ。

 

選ばなければ、選ばなければ、選ばなければ……残酷なまでの二者択一を迫られるファーナムの脳裏に、ファーナム()の声が響いた。

 

 

 

―――また、裏切るのか?

 

 

 

ファーナムは全てを思い出した。それはかつて自身が人であった頃の記憶であり、その身に“闇の刻印”が刻まれたその日の事だった。

 

突如としてその身に刻まれた理不尽。当然村の住民たちに相談する事など出来ない。過去には“闇の刻印”が刻まれた事を隠そうとして、その家族全員が殺された、などという話も聞いた事がある。そのような危険を冒してまで他の者に打ち明けるなど、男には出来なかった。

 

だから男は家族を捨てた。妻と、まだ赤子の娘が寝静まった深夜にテーブルに書き置きだけを残して姿を消したのだ。他に女が出来た、お前たちは邪魔になった、と。

 

そうすれば自分は“妻と赤子を残して出て行った最低の男”という悪評が立ち、村の者たちが憐れんで妻子を養ってくれると考えたのだ。村の者たちの気の優しさは、男も良く理解していた。

 

そこまでした。そこまでやったのだ。二度と会えないと覚悟して出て行ったのだ。

 

酷い裏切りをしてしまった家族を前に、ファーナム()の声が再び頭の中で響く。

 

 

 

―――また、裏切るのか?

 

 

 

「………無理だ」

 

出来るはずがない。一度ならず、二度も裏切るなど。

 

そうだ。俺はよくやった。俺が『闇の王』を倒さなければなんて、思い上がりも甚だしい。後の事は【ロキ・ファミリア(みんな)】がどうにかしてくれるはずだ。

 

だから、良いだろう?

 

ここで、かけがえのない家族の時間を―――取り戻しても。

 

天秤が傾く。最愛の家族へと。

 

失ってしまったものは余りにも大きい。それが今、手を伸ばせばすぐ届くところにまで来ている。どうしてこれを拒めようか。

 

一度傾いた天秤はもう止まらない。ファーナムに止める術はない。

 

故にこそ、それを止めたのは……最愛の家族の手であった。

 

「あなた、行ってあげて」

 

女性の手がファーナムの手を優しく掴む。武骨な鎧で覆われた手に、微かな温もりが伝わった。

 

「大切な仲間なんでしょう?じゃあ、行かないと」

 

「……っ!」

 

ハッと顔を上げるファーナムに、女性は続ける。

 

「あなたが優しい事はよく知ってるわ。困っている人を見ると放っておけない優しい人だって事も、村の皆よく知ってる。だからあんな手紙、誰も信じてなかったわ」

 

彼女は可笑しそうに笑った。バレバレの嘘をついた子供を、優しく叱るように。

 

「ただ、心配だった。何か大きな事に巻き込まれたんじゃないかって。それでも皆、あなたの帰りを待っていたわ……結局あなたは、帰ってこなかったけど」

 

「……ぁ」

 

「でも……安心して。私たちはちゃんと、幸せだった」

 

女性は男を待ち続けた。男がいなくなった分、村の者たちは一丸となって彼女と娘の生活を援助した。

 

娘はすくすくと成長し、やがて成人し、結婚し、子も生まれた。

 

孫が生まれてからも、女性は男を待ち続けた。それでも時の流れには抗うことは出来ず、やがてその生涯を終えた。娘もその人生にさして大きな問題も起こらず、女性と同様に天寿を全うした。

 

女性は男の無事を祈り、娘は父の安らかな眠りを祈り、その生涯を終えたのだった。

 

「あなたと私の生きた証は、ちゃんとこの子に伝わったわ。そして、その子供にも。だから……ね?」

 

 

 

―――私たちは、ちゃんと幸せだった。

 

 

 

「……っぁ………ぁぁああぁぁあ……っ!!」

 

膝を突き、泣き崩れるファーナム。その兜を脱ぎ去り、素顔を晒したまま女性と娘をその腕でかき抱く。

 

「俺もっ、ずっと一緒にいたかったっ!」

 

滂沱の涙を流しながら、ファーナムは感情のままに泣き叫ぶ。

 

「もっと、もっと幸せにしてやりたかった!!この子の成長を見届けて、普通の人生を生きたかったっ!!」

 

それは“闇の刻印”に全てを奪われた男の慟哭。平凡な人生から一転、呪いと血に彩られた凄惨な道を辿らざるを得なかった男の、魂の叫びだった。

 

「ただの……普通の家族で、いたかった……っ!」

 

ファーナムは強く、強く二人を抱き締め続けた。この温もりを決して忘れぬようにと、この(ソウル)に強く刻み込むために。

 

やがて声が枯れ、静かな時間だけが過ぎていった。叶う事ならいつまでもこうしていたいが、それは叶わない。

 

「さぁ、あなた。もう行ってあげて」

 

女性の細い指がファーナムの涙を拭い去り、優しく立ち上がらせる。それに導かれるまま彼はゆっくりと、しかし確かな意志をもって立ち上がる。

 

「私の愛した人は、困っている人を放っておけない人なんだから」

 

「……ああ」

 

泣きはらし、赤くなった目で女性を見る。柔らかい微笑みはかつて仕事へと出かける際にいつも向けてくれた表情で、その事に再び視界が涙で滲みそうになってしまう。

 

その思いをぐっと堪え、次いで娘へと顔を向ける。女性の服の端をぎゅっと掴む娘は少し不貞腐れたような顔で、ファーナムを見ていた。

 

「おとーさん、もうお仕事にいっちゃうの?」

 

「……ごめんな。でも今度帰ってきたら、その時は一緒にうんと遊ぼうな」

 

「ほんと?やくそくだよ?」

 

「ああ……父さんとの、約束だ」

 

片膝を突いたファーナムは娘の頭を優しく撫で、小さく微笑んだ。

 

それは決して果たされない約束だ。これは一時の夢に過ぎないのだから。

 

それでも約束した。もしもまた、こうして二人に会う事ができたのなら、その時は一緒に遊ぼうと。

 

「じゃあ……おとーさんっ!はい、これっ!」

 

「? これは……」

 

娘から差し出されたのは、一輪のナスタチウムの花だった。道端に咲いているような珍しくもない花だが、鮮やかな色合いのそれは、まるで太陽のようだ。

 

「これからお仕事なんでしょ?だから、あげる!」

 

「―――っ!」

 

このナスタチウムにも負けないくらいの眩しい笑顔を向けてくれた娘に、ファーナムの身体は自然に動いていた。

 

小さな身体を抱き寄せ、もう一度だけ抱き締める。見届けられなかった成長をこの真っすぐな姿に想い、優しく育ってくれた娘に、一筋の涙を流した。

 

「ありがとう……大好きだよ」

 

「うんっ!あたしもおとーさん、だいすきっ!」

 

三人の周囲が淡く光り輝く。どうやら刻限が近いようだ。

 

最後に娘の頭をもう一度だけ撫でる。金属と革の手甲の感触は決して良くはないはずだが、それでも娘はくすぐったそうにして、笑ってくれた。

 

立ちあがったファーナムは、手の中にある兜に視線を落とす。これを被れば、また自分は不死人としてのファーナム(自分)に戻る。それでも、彼の心には何の悔いもない。

 

ずっと昔に忘れてしまっていたものは、確かにこの(ソウル)に刻み込んだのだから。

 

「おとーさん!いってらっしゃい!」

 

「行ってらっしゃい、あなた」

 

かつての日々と変わらず、そしてあったであろう未来と少しも変わらない姿で、二人はファーナムを見送る。

 

「ああ……行ってくるよ」

 

手の中の兜を被る。

 

そしてファーナムの視界は、光で満ち―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………かッ、は………!?」

 

最初に感じたのは、酷く重たい自身の身体の感覚だった。

 

次いで感じるのは痛み。鈍痛と激痛が入り混じった形容し難いそれらがファーナムの身体を駆け巡り、咳込んだ喉の奥には焦げた血の味がへばりついている。

 

「はっ、あ……ぐぅ……!」

 

見下ろした視線の先にあるのは、腹部を貫く十字槍の穂先。未だ『深淵』が蠢くそれを、震える手で鷲掴む。

 

「がぁあ……っぁああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……ッ!?」

 

じゅう、と掌を焼く『深淵』の残滓。それでもファーナムは手を放さない。

 

苦悶の声と共に渾身の力で、どうにかそれを引き抜く。傷口は酷く焼け焦げており、もはや噴き出す血もないほどに凄惨な有様だ。

 

自身でも死んでいないのが不思議な状態であったが、それはリヴェリアたちが懸命に治療に当たってくれたからこその賜物だ。それを知らぬファーナムはこの奇跡に感謝しつつ、痛む身体を強引に動かして上体を起こす。

 

と、その時だった。

 

「……?」

 

掌に伝わる硬質な感触。見てみれば、それはすでに使い果たしたはずの、たった一つだけの雫石であった。

 

夢の中で娘に手渡された一輪のナスタチウム。それを受け取ったのと同じ手に、それが握られていた。

 

「……は、は」

 

ファーナムは小さく笑った。掠れた喉から出た声は酷く小さく、しかしとても穏やかなものだった。

 

「そうだな……頑張らないとな」

 

娘からの贈り物。それに感謝を込めて使用する。

 

淡い光がファーナムの周囲に溢れ、傷を癒す。雫石による治癒は微々たるものだが、それでも腹に空いた穴は仮初にも塞がった。

 

「……っ、う……ぐ……ッ!!」

 

その身に無数に刻まれた傷は未だ完治には程遠く、動くたびに血が滲む。

 

手足は鉛のように重く、歩き出す事さえ億劫になるほど。

 

視界の端々は暗く濁り、戦うなど以ての(ほか)だと理性が警鐘を鳴らす。

 

―――()()()、まだ戦える。

 

血が出るのはまだ生きている証だ。

 

手足の感覚があれば、まだ武器を握れる。戦える。

 

生き残るための本能など、今は切り捨てろ。

 

これから、大切な()()があるのだから。

 

 

 

「待っていろ……次は、お前の番だ」

 

 

 

立ちあがったファーナムの瞳は真っすぐに―――これより向かう戦場を見ていた。

 

 





~花言葉~

カスミソウ(白):夢心地

アネモネ(白):真実

ナスタチウム:困難に打ち勝つ


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