ダンジョンの何処か。
薄暗い、閉塞的な空間に
『ヴゥ?』
一匹のモンスターが背後を振り返る。そこにあるのは見知った暗闇と、点在する同胞たちの影と、とうの昔に喰い尽くした
天井から、壁から、地面から湧き出してくる、
『ォ―――ッ!?』
それは現れるや否や、モンスターに襲い掛かった。全身を絡め取る粘液は動くほどに広がり、瞬く間に身体の自由を奪う。
目、鼻、耳、口。全身の穴という穴から粘液が流れ込み、肉体を包み込む。その時にはすでにモンスターの意識は消失。直後に形を失い、粘液と完全に同化してしまった。
抵抗すらも許されない。異常を感じ取った何匹かは逃げ出そうとするも、瞬間には粘液に絡め取られ、他の同胞たちと同じ末路を辿る事となった。
薄暗い、閉塞的な空間にそれは、『深淵』は現れた。
そしてそれは、ダンジョン各所に現れ始めた。
「……?」
第50階層の
常であれば灰色の森林が広がっているはずの場所が、所々に濁った変色を認めたからだ。フィンたちが発つ前に話していた新種のモンスターたちの進攻、その前兆であると感じたその団員は、急いでアキたちの元へと駆け出した。
「皆、起きろ!例の新種が来るぞ!!」
その声に団員たちは一斉に目を覚まし、速やかに臨戦態勢を整える。
行動自体は間違っていなかった。魔力による誘導の準備、そこへ集まった新種のモンスターを一網打尽にする武装の数々。フィンたちが居なくとも確実に対処して見せるだろう。
それが、例の新種のモンスターだったのであれば。
「ッ!?」
神ウラノスの目がこれでもかと大きく開かれる。その顔には驚愕と困惑、そして焦燥の色がありありと浮かんでいた。
「フェルズ、今ダンジョンに【ロキ・ファミリア】以外の冒険者はどれ程いる!」
「なっ……!?」
『闇の王』が現れて以降、何の像も結ばなくなった水晶を懸命に調べていたフェルズは、背後から飛んで来た声に驚く。
不意に叫ばれたからではない。今までにない焦りが込められた神の声に、何か重大な事態が起こっているのだと察したからだ。
「……今は真夜中だ、この時間帯にダンジョンに潜っている者はそう多くはないだろう」
「ならば『
『フェルズ!』
苦肉の策を打ち立てようとしたウラノスであったが、それを遮るようにフェルズが持つもう一つの水晶から連絡が入った。
「リド?どうした!?」
『ダンジョンに
「っ!?」
リドからの報告に、愚者と大伸は戦慄する。
『異端児《ゼノス》』たちを冒険者の救護に当たらせようとしたウラノスは、その術すらも失った。
「……やむを得ん」
しかし、指を咥えて見ているだけなど出来ない。ウラノスは被害を最小限に留める事にのみ集中し、次なる指示を飛ばす。
「フェルズ、ガネーシャへ
「待て、待ってくれウラノス!ダンジョンに一体何が起こっているんだ!?」
「……全ては分からない。だが……」
かつての『賢者』であっても全く理解出来ない異常事態に、ダンジョンの守護者とも言える大神は、慄くように呟いた。
「このままでは……下界が飲み込まれる……!」
状況からしても、原因は『闇の王』と考えて間違いない。しかしそれに対処出来るのは、今まさに戦闘を繰り広げているであろう【ロキ・ファミリア】をおいて他にない。
新たな戦力の投入はおろか、現状すらも正しく把握出来ていない。未曾有の危機に対しオラリオが誇る大神は、大空間に広がる虚空を睨んだ。
こちらを向いた『深淵の獣』に対し、アイズは先手必勝とばかりに突貫する。
全身に纏った『風』により『深淵』を跳ねのけられる事は実証済みだ。ならばフィンたちは敵の撹乱に尽力してもらい、自分は積極的に攻撃を仕掛けるまで。
レフィーヤの魔法による援護射撃もある。背後を気にする必要はないと、アイズは『深淵の獣』の
「 ォ■ 」
しかし、そう簡単にはいかない。
『深淵の獣』は再び腹部から大量の『深淵』を噴出させ、自身の周囲に壁を作った。触れれば終わりの死の壁が視界いっぱいに広がり、アイズの金の瞳が揺れる。
「【アルクス・レイ】!」
そんな彼女の背後から飛んで来た魔力の弾。レフィーヤの放った魔法が壁に穴を空け、そこをアイズの身体が通り抜ける。
死の壁を突破したアイズは目の前にまで迫った
その斬撃は、他でもないその凶剣によって防がれた。
「ッ!!」
ガキィンッ!という鋭い金属音が鳴り響く。
関節本来の駆動域を無視した動きでアイズの斬撃を迎え撃った
「避けろ、アイズッ!!」
彼女の意識に生じた刹那の空白を破ったのはベートの声であった。同時に『深淵の獣』の
「くッ!?」
超至近距離から放たれた無数の黒弾を、アイズは渾身の力で凶剣を押し返す事でその場を離脱。装甲の一部や髪の端を食い千切られながらも、奇跡的に身体への被弾は免れた。
「大丈夫!?」
「うん、何とか……!」
ティオナのすぐ近くに着地したアイズは使いものにならなくなった胸部の装甲を剥ぎ取りつつ、未だに一歩も動かずにいる『深淵の獣』を睨みつける。
そして、それが吐き出した『深淵』が、地面を侵すかのように蠢いている事に気が付いた。
「団長、あれは……!?」
「分からない。けど、早急に何とかしないといけないだろうね」
その正体が、今ダンジョン自体を侵食しつつあるものである事は誰も分からなかった。ただ、放置しておいて良いはずもない。
「リヴェリア、詠唱を!」
「【―――間もなく、
飛ばされた指示に対し、リヴェリアは詠唱する事で返答した。
一番離れた位置に立つ彼女は足元に翡翠色の
同時に、フィンたちも走り出す。
「リヴェリアが詠唱を始めた!魔法が完成するまで僕らに注意を引き付けろ!」
攻撃の主軸をアイズからリヴェリアへと切り替える。彼女へ意識が向かないよう、一同は『深淵の獣』を全方位から攻め立てた。
周囲に散らばる武器の数々。壊れていようが関係ない、片端から拾い上げ、投擲武器として使用する。
「くそ、ガラじゃねぇってのによぉ!」
「贅沢言うとる場合かっ!四の五の言わず叩き込めい!!」
近接戦主体のベートも、大戦斧が得物であるガレスもそれに加わる。特にガレスが投げつけるのはどれも特大武器であり、それらは砲弾の威力にも匹敵するものだった。
「【アルクス・レイ】!」
レフィーヤも矢継ぎ早に魔法を行使する。速射性に秀でた彼女の魔法は遠征前に習得した並行詠唱も相まって、正しく動く砲台となってその力を遺憾なく発揮していた。
通常の大型モンスターであればひとたまりもない集中攻撃の嵐。しかし『深淵の獣』が埒外の存在だと、彼らは身を以て思い知らされる事となる。
「 ■ァ お■■ ? 」
全身に突き刺さった武器の数々、そしてレフィーヤの魔法によって抉られた傷口。それらは『深淵の獣』を小さく身震いさせる以上の効果はなかった。
剣が、槍が、腐った肉体に飲み込まれる。抉れた傷が泡立ち、瞬く間に再生する。まるで蝿が身体にとまっただけのようなその反応に、一同は驚愕を隠せない。
「はは、何の痛痒もなしか……!?」
椿の乾いた笑い声が空しく響く。
それでも続ける。目的は撃破ではなく、単なる時間稼ぎなのだから。
「【汝は業火の化身なり】!」
リヴェリアの詠唱は間もなく終盤へと差し掛かる。幸いな事に『深淵の獣』からの反撃はなく、故にフィンたちは死に物狂いで投擲に専念する事が出来た。
「総員、引けッ!!」
タイミングを見計らい、フィンの声が飛ぶ。
一同は魔法の効果範囲外へと逃れ、『深淵の獣』の周囲は完全なる無人となった。
「【焼きつくせ、スルトの剣―――我が名はアールヴ】!」
「【レア・ラーヴァテイン】!!」
―――巨人の剣が降り降ろされた。
安全圏へと逃れた者たちの頬すらも焼く業火の一撃。その近くに突き刺さった武器すらも熔解するほどの超高温の炎の檻に、穢れた巨体は全身を閉じ込められた。
炎の檻が小さくすぼまり、勢いを失ってゆく。これで終われ、終わってくれ……!誰もがそう強く願い、灰塵と帰した敵の姿を脳裏に思い描く。
だのに……だというのに。
『深淵の獣』は、変わらずそこに在った。
「………!!」
絶望という言葉をこれほど強く感じた事はない。リヴェリアの魔法の威力を誰よりも強く理解するレフィーヤの瞳が、目の前の事実を否定したがっていた。
肉体の表面は黒く炭化しているものの、それもすぐに再生し、先程までと変わらぬ腐った肉体が姿を現す。しかしそれで終わりではなかった。
歪んだ背骨が軋みを上げ、反り返ってゆく。
朽ちかけた船底のような腹部を天へと晒し、内部に渦巻く『深淵』が大きく波打ち―――、
「ッ!?」
何をする気か分かった時には、すでに全員が動いていた。
『深淵』が噴出し、フィンたちの頭上より襲い掛かる。その範囲は先ほどまでの比ではなく、触れれば即死の漆黒の雨を避けるべく、彼らは散り散りとなって回避を強いられた。
「レフィーヤ!!」
「アイズさ―――!?」
身体を硬直させてしまったレフィーヤをかき抱き、全力で地を蹴るアイズ。『風』を纏う時間すら許されず、故に死に物狂いの逃走である。
他の者たちも同様に、痛む身体に鞭を打ってその場を離脱する。上級冒険者の肉体でなければ逃れられなかった漆黒の雨により、こうして『深淵の獣』の周囲数十Mの大地は黒く染め上げられた。
「 ■ァ 」
本当に。
それだけで終わっていれば、どれほど幸運であったか。
「そんな……!?」
レフィーヤの唇が震える。
それが何を意味するのか。彼女の呟きにつられて振り返ったアイズは、確かに一瞬呼吸が止まるのを感じた。
大地を黒く染め上げた『深淵』。そこから這い上がるのは無数の異形たち。
様々な鎧に身を包んだ亡者の群れ。頭と左足のない巨人。苔むした石の騎士。車輪と一体化した骸骨。歪んだ頭部と異常に長い腕を持つ人らしき何か……今なお次々と現れる彼らの身体は皆一様に、『深淵』一色に染まっていた。
「全く……本当に、参るね」
こうした局面において、普段のフィンであれば絶対に出ないような言葉。それが彼らの感じている絶望を如実に物語っていた。
ここへ来ての新たな敵、しかもそれは『深淵』から現れた。これ以上出てこない保証など、一体どこにあろうか。
絶句する彼らに、べたついた視線が向けられる。
『深淵の獣』の内に
真夜中のオラリオを、魔石灯の光が淡く照らし出す。
ダンジョンの真上に立つ
「はいはーい、押さないでー!急いでいても押さない、走らない、喋らない、
「ごめんなさいねー、ホント。でも大事な訓練なんで!いやホントに!」
【ガネーシャ・ファミリア】による大避難訓練。そのような名目で、ウラノスはダンジョン周辺の住民の避難を開始させた。
突然の避難訓練に戸惑う住民たちであったが、そこは【
「こんな夜分遅くに付き合ってくれて、ガネーシャ超感激!お前たちっ、愛してるぞぉぉおおおおお!!」
「ガネーシャ様うるさい!」
「
「ふはは!すまん!」
象の仮面で素顔を隠した神ガネーシャの大声がオラリオに響き渡る。
普段通りの様子を装う男神は、しかしその笑みを消し、不気味に口を開いているであろうダンジョンを睨んだ。
(俺が出来るのはここまでだ、ウラノス)
神はダンジョンに入れない。故にガネーシャが出来る事は地上の住民の誘導と、後は―――。
「……頼んだぞ、シャクティ」
「私たちの役目はダンジョンに残った冒険者たちの捜索、及び地上へ誘導だ。リヴィラの街の住人たちも例外ではない。また『
【ガネーシャ・ファミリア】団長、【
彼らはガネーシャより『
藍色の髪をした長身の麗人は、ダンジョンの入り口を背にして口を開く。
「現在ダンジョンには、我々も見た事がない
「はい!!」
「よし……では、作戦を開始する!」
オラリオをゆるりと包み込む異常を、聡い神たちは密かに感じ取っていた。
「……今夜は随分と外が騒がしいわね」
「神ガネーシャが避難訓練と称し、ダンジョン周辺の住民をここから遠ざけています。そして我々にも……如何致しましょう」
「そうね……」
「一応、ここは素直に従っておきましょう。それと、アレンたちにはこう伝えて頂戴。遠目からで良いからダンジョンを監視しておいて、って」
「こんな夜更けにいきなり避難訓練だって?子供たちの眠りを妨げてまで?らしくないじゃないか、ガネーシャ」
建物と建物の隙間から顔だけ出し、羽根つき帽を目深に被り直した神ヘルメスは意味深にそう一人ごちた。
「そんなのいつもの事でしょう。そんな事より早く
「ははは。いつも悪いね、アスフィ」
ヘルメスの警護の任に付いていた【
しかし、神ヘルメスの返答はこうだった。
「でも避難訓練じゃあしょうがない。さぁ、僕たちもあの列に加わろうじゃないか!」
「……あー、もう。言うと思ってました……」
あっけらかんと笑うヘルメスに、げんなりとした顔で諦めるアスフィ。
故に彼女は、ヘルメスの油断ない視線がガネーシャへと向けられている事に気が付かなかった。
(なんや、これ)
列になって移動する住民たちの姿に、ロキは一人訝しげに眉間にしわを寄せる。
現在ロキはダンジョンの前、
それは危険と隣り合わせの『遠征』に出かけたフィンたちの身を案じてか、それとも、その身に宿る魔法【ディア・ソウルズ】の存在を明かしたファーナムに対してのものか……ロキ自身も分からぬまま、気が付けばここまで来てしまっていたのだ。
そこで目にした住民たちの避難訓練。先導しているのは【ガネーシャ・ファミリア】のようだが、こんな夜更けに突発的に始まったこの出来事に、ロキは無視できない違和感を抱いていた。
(ガネーシャのやる事や、なんぼでも説明はつく。せやけどこんなタイミングで避難訓練?いくらなんでも出来過ぎやろ)
自身が抱いたざわめきと呼応するような
思考の海に飛び込もうとした瞬間、彼女の視線がダンジョンの入り口へと向けられた。そこには通常はいないはずの存在【ガネーシャ・ファミリア】の団員たちが、得物を手に立っているではないか。
まるでダンジョンへの立ち入りを、
「………っ!」
その瞬間、ロキの中で何かが繋がった。
【ガネーシャ・ファミリア】は街の警備も兼任している。その彼らがこんな夜更けに住民たちの避難訓練を行い、更にダンジョンの入り口には団員たちが警備に付いている。
いくら【
ガネーシャにこれを指示し、実行できるのはただ
「……ウラノス……!」
ロキの瞳が剣呑に光る。
何が起きているのかは分からない。しかし何かが起きている。ダンジョンの底で、地上までも動かすような何かが。
ロキの足はすでに動き出していた。
向かうは白亜の宮殿、ギルド。その最奥に座する、オラリオが誇る大神の元だ。
「うっ、ぐぅうっ!!」
「このっ、クソ野郎!?」
牛頭と山羊頭の異形の群れの猛攻に、アマゾネスの姉妹が必死に抗う。
「椿、踏ん張れぃっ!!」
「くぅ、ぉおおおッ!?」
死体の山が吐き出す呪詛の嵐に、鍛冶師と老兵の声が重なる。
「るぉおおおおおおおおおおおおッ!!」
「くっ……!!」
幾匹もの飛竜が放つ『深淵』を含んだ黒雷に、餓狼と小さき勇者は懸命に立ち向かう。
「レフィーヤ、私の背に隠れていろ!!」
「リヴェリア様!?」
「はあぁあッ!!」
銀の鎧を纏った騎士たちが振るう剣、槍、そして大弓に、妖精の女王は弟子を守るべく障壁を張る。金色の瞳の少女は剣を振るう。
『深淵』より無尽蔵に湧く異形の群れ。いかに【ロキ・ファミリア】が手練れの冒険者集団であっても、この理不尽な現実の前には手も足も出ない。
圧倒的物量に
そしてその亡骸さえも、『深淵の獣』はこの星ごと飲み込むだろう。
善も悪もない。『深淵の獣』は全ては飲み干す。人の営みも、その歴史も、そこに確かに在った命も、悉くを蹂躙し尽くす。何もかもが無に帰すまで、絶対に止まらない。
だから。
だからこそ。
その大災厄を止める存在があるとすれば―――それは、諦めぬ者に他ならない。
戦場の何処か。
無数の武器が散らばる灰の大地に、十字槍にて腹部を貫かれた男が倒れている。
その男の指が、微かに動いた。