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初めて口にした日から、片時たりとも忘れた事はない。
口内に広がる香ばしさは、まるで身体に染み渡るよう。刺激された私の唾液と混ざる肉汁は、しかし私の唾液に溶ける事なく、口内の隅から隅へといきわたる。食感も普段口にしているそれとは違い、とてもとても柔らかかった。すんなりと通った牙を押し返すものなんて、肉汁の波だけだったのだ。
まるで溺れるような食感。
しかし、私に訪れたのは息苦しさではなく、濃厚な香りに包まれる充足感。
巨大な二本角の草食竜を制した時のような。はたまた空を支配する赤く猛々しい飛竜を地に落とした時のような。延いては百戦錬磨を謳う金色の牙獣との闘争に決着をつけた時のような。強者を屠り、喰らっている時のような感覚だった。
それが咀嚼する度に私の口内を満たすのだ。
正に、至福の一時。
無論、直に味わった肉そのものは、更なる深い味わいをしていた。
闘争の果てに、漸く辿り着いた新境地のような……いいや、私の持ちうる言葉では、どれ程称えても足りぬ程、見事な味わいだった。
臭みなど全く無く、肉汁の香りを一切殺さない。
それでいて独立した旨味があり、その旨味が肉汁と合わさる事によって、私を感動の渦に閉じ込めるのだ。
あれこそ、至高と呼ぶに相応しい肉だった。
忘れようがない味わいだった。
ただの一度で、私が培ってきた食への価値観を木端微塵にしてしまったのだ。
そして何より、至高の肉は、私に稀有な機会をもたらしてくれた。
非力な人間の少女との出会い。
ふてぶてしい態度の男との出会い。
至高の肉と出会えた充足感が無ければ、このふたりは私の胃袋に収まっていた事だろう。
私を屠り得る存在として認めてきた人間。
彼等の生態をすぐ傍で観察する事によって、私は己の知能に傲りがあった事を認めざるを得なかった。至高の肉を生み出したと思われる技術もそうだが、彼等は知能が高いのと同時に、とても器用だったのだ。だからこそ、それを武器にして、ヒエラルキーの頂点に君臨した。そのどちらかが欠けていれば、木の上で糞を投げて遊んでいる緑や桃色の獣とよく似た生き物になっていた事だろう。
このふたりと過ごす日々で、決して何かがあった訳ではない。
ついぞ至高の肉を手に入れる方法は聞き出す事が出来なかったし、人間の生活こそもの珍しかったが、それを見て得るものは無かった。おまけに隙を見て男が逃げ出すのだから、その対応に追われるばかりだった。
だが、悪くない日々だった。
生まれて初めて、誰かと接するという事をした。
共存という道に目を向けた。
共に生きるという喜びを知ってしまったのだ。
しかし、それは不埒な侵入者によって、奪われてしまった。
奪われてしまったのだ。
なら、奪い返さねばなるまい……。
全てを喰らう者として、全てを私の胃袋に収めてくれる。
私はゆっくりと目を開く。
視界に映るは、黒。
これは私の身体から迸っている漆黒のエネルギーの所為ではない。激情を余す事なくぶちまけた咆哮によって、私の住処が崩れてしまった為だ。
なあに、気にする事は無い。
もうこの場所に用はないのだから。
たかが洞窟の崩落ぐらいで、私の身体に異常がある筈もなし。
頭に圧し掛かる重たい瓦礫を、面を上げると同時に振り払う。それでも空が拝めぬ程、瓦礫の量は多かったが、ならば前に進めば良いだけの話。こんな瓦礫如きで、私が身動きのとれぬ状態に陥る訳がない。
私は後ろ足に力を籠めると、ゆっくりと身を仰け反らせた。
空いた空間へ、瓦礫がガラガラと雪崩れ込んでくる。
それに構う事なく、私は目の前の瓦礫の山へ向けて、強烈な体当たりをぶちかました。
その衝撃は私がぶつけた前方ではなく、斜め上へと逃げたようだった。しかし、それが功を奏して、鈍色の光が射し込んでくる。これ幸いとして、他所からの瓦礫がそこを塞がぬうちに、私は屈強な足を用いて強引に瓦礫の山を登った。
地面を掘削する時のように硬い頭を左右に振って、瓦礫を押しのける。
瓦礫の山から半身が出た時、いよいよ面倒臭く思えて、尻尾を横へ薙いだ。
数多の小石がはじけ飛ぶ。
ようやっと視界が開けた。
しかし、洞窟が崩れた衝撃で、そこいらの大樹がこちらへ向けて倒れていた。その所為で周囲の確認が出来ない。舞い上がった砂埃の所為で、目的の匂いを察知する事も出来なかった。
勿論、このままではあの不埒な侵入者を見つける事も叶わない。
おまけに途方もない空腹感が襲ってきた。
ああ、腹立たしい。
己がやった事だが、全てが煩わしい。
この不条理に対する怒りが、それを晴らせぬ己が、そして、猛烈な空腹感が……ああ、本当に煩わしい。
身体が熱い。
古傷が開いたのか、身体中から痛みを感じる。
どうしてくれよう。
どう晴らせば良いと言うのだ。
この、抑えきれぬ憤怒をっ!!
先の失態を忘れ、私は吼える。
邪魔なものは、全て退け、失せろ。
と、知恵の欠片もないただただ暴力的な咆哮を上げる。
それは正しく蛮行だったが、今の私の咆哮はこれまでのものと桁が違った。
小石は吹き飛び、根っこの抜けた樹木さえもが転がり、道を開ける。
一頻り憂さを晴らした私の前には、最早邪魔なものは無かった。
正しく僥倖。
今しがた芽生えたばかりの力だったが、怒りに震える私が気にする事は無かった。
むしろ、力が増しているのだ。悪い訳が無い。
問題は些細な動作一つで猛烈に腹が空く事だが、これから全てを喰らうのだから、大した問題ではない。最早それにおいて味などどうでも良い。至高の肉以外は、等しくただの補給だ。今の私がそこに拘る理由もない。
要らぬのだ。
不味い肉など、肉ではないのだ。
ただの補給。ただの飢えを癒すもの。
至高の肉以外を肉として認めぬ。
――私はグルメである。
ゆっくりと、歩を進める。
先の侵入者は一人だった。あの赤い鎧の男と同じかもしれぬが、私を屠りに来る猛者はいつも四人だった。
警戒するに越した事はない。
しかしながら、それで逃がしてしまっては元も子もない。
あの侵入者の意図は、おそらく私から少女と男を奪い去る事だったのだろう。その目論見が達成されては、私の溜飲が下がらぬ。
察知するのだ。
研ぎ澄ますのだ。己の感覚を。
激痛を忘れ、激情を静め、追うのだ……憎きあの侵入者を。
私は砂埃が舞う一帯から抜け、静かに息を潜める。
なあに、血肉を追う事は得意中の得意だ。私が今まで生きてきた日々の中で、むしろやらぬ日が無かった行いだ。逃がす筈がない。
嗅覚に意識を集中する。
じめじめとした森の空気が私の邪魔をしたが、まさかそれで見失おう筈もない。
見つけた。
私は匂いがする方向へ向き直る。
奇しくも……いや、これにおいては狙っているのだろう。侵入者が逃げた方角は、私が少女や男と出会った場所を指していた。
成る程。
私を屠りに来たのなら、どうして瓦礫の山から抜け出す隙を放って逃げ出したのかは、疑問を持つべきだった。
あの侵入者は、私の比較的弱い部分を的確に狙い撃つ技術を持っていた。この私から逃げ果せると思っている程、浅はかという訳でもあるまい。
とするなら、少女達と出会った場所のように、開けた場所の方が戦い易いと判断しているのではなかろうか……ふむ。この考えは的を射ているように思う。
よくよく周囲を見渡せば、私がそれらを押しのける力が無ければ身動き出来ぬ程に、木々が茂っている。
これは私にとって、視界が通らず煩わしい程度のものだが、彼等の脆弱な身体からすれば、一々避けて動かねばならぬものだろう。
成る程、成る程。
つまり、今が好機か。
私は大地を駆った。
邪魔くさい木々は全てなぎ倒し、猛然と前へ進んだ。
今を逃せば、面倒になるのだろう。ならば、あの平地へ辿り着く前に屠ってやろう。
人間の小さな身体で、私の巨躯より速く動ける訳が無い。
鬱蒼と茂る木々を、何ら意に介す事無くなぎ倒す。
どれ程幹が太かろうと、身体中から感じる痛みを、熱量を糧にして、八つ当たりよろしく体当たりをぶちかますだけで、右へ左へと吹き飛んでいく。
それに応じて鳥や小型の獣が煩く喚いていたが、それらは全て後回しだ。
憎きあの侵入者を駆逐した後、ゆっくりとたいらげてやろう。
平地までの距離の半分を進んだ。
そうら、もう追いつくぞ!
口腔に、溢れんばかりのエネルギーを溜める。
目前の木を突進で破壊し、そのままの動作で極太のブレスをぶっ放した。
思い切り薙ぎ払ったブレスは、そこら一帯を余す事なく焼き尽くした。
ブレスで物を破壊した事は、これまでも何度かあったが、今回のそれは規模が違った。私が想定していた以上に、熱量、範囲共に上がっていたらしい。
大地は熱で溶け、土を剥き出しにして湯気をあげていた。根元から折れた木々は総じて黒く焦げ、その内幾つかは紫煙を上げている。
しかし、陽炎で揺らめくその空間に、侵入者は未だ健在。赤い鎧の男がやってみせたように、回避したのだろう。じゅうと音を立てる大地に、屈みこむような体勢で、こちらを睨みつけていた。
一瞬の静寂。
相手も私も、その力量を真っ向から見定め合う。
黒いヘルムを被っているが、そのフェイスガードは上げられていた。顔つきは眼光こそ鋭く、臆した様子も見られないが、あの少女よりは少しばかり成熟した程度の女に見えた。私の予想を裏切る若さだった。
身に纏う装備は統一性がない。
黒いヘルムやアームを着けているかと思えば、鎧は金と緑色が見事な調和を果たしたものだった。
こうした合わせ着をしている猛者は、総じて強い。私が今まで蹴散らしてきた猛者の内でも、印象に残っている者の殆んどは、彼女と同じように統一性に欠いた装備をしていた。
それが果たして、どういった効力があるのかは知れないが、経験則だ。間違いないだろう。
女はゆっくりと立ち上がり、ヘルムのフェイスガードを下ろした。
既に武器は抜かれており、照準は私の顔より少し下に向けられている。おそらく、もう支度は整っているのだろう。
静寂の果ては、不意に上がった鳥の鳴き声だった。
女が持つ武器が火を噴く。
直後、前足部分が、じりと焼かれるような痛みを覚えた。それは先程の邂逅では気付かなかった事だが、どうやら虫を操る大狼や、金色の牙獣とよく似た攻撃らしい。確かに、あやつ等の攻撃は他に類を見ない程に効いた。
流石だ。人間。
まさか己の脆弱さを補う為に、あやつ等の攻撃さえも真似るとは。
しかし、見誤るでない。
今の私は、このようなつぶての嵐で止まる程、柔ではないっ!
私はつぶてに構わず、愚直にも突進した。
それはやはり空を切る。女は右へと身を躱し、至近距離から更なる連射を繰り出してきた。
否、甘いぞ。人間。
尾を振り上げ、思い切り薙ぎ払う。
しかし、手応えは無い。今一度尾を振って、正面に向き直れば、女は既に距離を取っていた。
やはり怒涛の攻撃が飛んでくる。
ちまちまとした攻撃だが、その女の手は休む事を知らなかった。
蓄積された痛みが、私の身体の中で形を変える。理性を奪う感情となっていく。
ダメだ。
狂うにはまだ早い。
こやつ等人間の前で理性を失えば、それはただ蹂躙される事を意味する。
今はまだ抑え込むのだ。感情を。
それでいて引き出すのだ。己の真価を。
空腹感が煩わしいなら、それを利用しろ。
体内に邪魔がないのなら、さぞかし私のブレスは強大だろう。
躱せぬ程に強大なそれを、ぶちかましてやるのだ。
二本の後ろ足に力を籠め、身体を思い切り仰け反らせる。
相対する人間と同じ体勢に至り、彼奴を見下ろた。
さあ、逃げ惑え。
私の
食らえばただでは済まさんぞ。
腹の底から沸き上がってくる高熱。
強大なエネルギーの塊。
それが喉元を飛び出ようかとするのをグッと堪え、止めようが無くなるまで溜め続ける。
「……やばっ!」
女が何事かを口にして、慌てた様子で武器を仕舞う。
その頃にはいよいよ臨界点。しかと狙いを定めて、私は頭を振った。
轟という凄まじい音が響く。
真正面を焼き払ったブレスは、先程私が燃やした空間より、更に先まで届く。
漆黒のエネルギーは大地を焼き、溶かし、抉り、木々を灰燼へと変えた。
舞い上がった砂煙によって、視界が遮られる。
当たれば間違いなく致命の一撃。
しかし、私には確信があった。
この程度で死ぬ訳が無い。
故に、私は今一度天を仰ぎ見るが如く、仰け反るのだ。
眼下で、先のブレスによる砂煙が晴れた。
その向こうで、やはり女は未だ生きていた。
しかし、余波で吹き飛んだのだろう。私が焼き払った一線からは逸れてこそいたが、煤まみれの樹木の根の部分で体勢を崩し、苦しそうに悶えていた。
これまでだな。人間。
私は愉悦に浸る心地で、喉元にエネルギーを溜める。
万が一にも逃がさぬよう、先程と同じ量の熱量を目安にして、吐き出したい衝動をグッと堪えた。
しかしながら、その女はやはり、私が認めるに値する猛者だった。
私の背に一本の傷を入れた猛者と同じように、こんなにも追い込まれてまで、未だ武器を握っていたのだから。
ガチャリ。
女の獲物が何やら音を立てる。
意識が朦朧としているのか、彼女は頭を抑えながら、その武器に何か小さな物を籠めているようだった。
「諦めるな……諦めるな……」
うわ言をぼやきながら、女はついに武器を私へ向けた。
必殺の一撃のつもりか?
いいや、もしもそんなものがあるのなら、とおの昔に撃っているだろう。それはせめて私の攻撃が止まればという一縷の希望をかけた抵抗に違いない。所詮、先程までのちくりちくりとした攻撃と大差ないのだ。
構う事はない。
ブレスを溜めろ。
女がそれを撃ち終えた瞬間、それが彼女の命運尽きる時だ。
パスン。
パスン。
乾いたような発射音。
それは私が睨んだ通り、大した事のない攻撃だった。
むしろ、先程まで撃ち込まれていたものより、ずっと弱い。
最早、哀れ。
せめて一思いに焼き尽くしてくれる。
そう、思った瞬間。
女が何発目かの射撃をした時の事だった。
――あ、あばばばばばばば!!!
猛烈な痺れによって、私の身体はぴくりと動かなくなってしまったのだ。
それどころか、喉の奥に溜めていたエネルギーが溢れてくる。よりにもよって、この瞬間に溢れてくる。
思考さえまともに出来ない状態で、身体の制御が利く筈もない。
ふとすれば、爆ぜた。
どふっという呆気ない音を聞いた気がする。
思考回路は当然のように停止。
おまけに喉が焼け付いて、痛いのか苦しいのかさえ分からなくなる。
私は思わず地べたに転がって身悶えした。
いいや、身体が痺れてしまって、それさえ定かではなかった。
ふと、視界に留まるひとつの人影。
フェイスガードを上げた女は、痛々し気に腹を押さえているにもかかわらず、顔だけはにやりと笑っていた。
その表情も、意図も理解できず、私は動けない。悶え苦しむばかり。
傍らまで接近されているのに、反撃のひとつも出来なかった。
自分がこのまま捕縛される可能性さえ脳裏に浮かべる事は出来ず、激痛に呻く。
痺れが取れない上に、ブレスが暴発したのだ。
今まで受けたどの攻撃よりも痛かった。
彼女にとっては、千載一遇の好機だったろう。
しかしながら、彼女は一回腰を下ろしてふうと息をつくなり、踵を返してしまった。
その頃になって、漸く思考が出来る具合になってきた。
苦痛に悶えながらも、私は彼女の行動に疑問を抱く。
何かを……されたのか?
何を……された?
しかし、横になったままでは分からず、彼女の背が平地の方へ向かって行くのを見送るばかりだった。
くそう。
と、腹立たしい気持ちを何とか堪え、女を追うべく立ち上がる。
逃がさぬ。
絶対に逃がさぬ。
そう思い、一歩踏み出した瞬間だった。
景色が、ぐわんと上に伸びた。
――え?
思わず間抜けな声を出して、自分の置かれた状況を確認する。
右を見て、左を見て、正面を見て。
先程まで軽々と吹っ飛ばしていた木々が、私の身の丈を超える程に高くそびえて見えた。
うん?
木が成長した?
いや、そんな訳がない。
ふと視線を下ろして、漸く気が付く。
私は穴に落っこちていた。
――え?
大人しく備考書くだけに留めようかと思いましたが、やっぱり嬉しいので書き残させて頂きます。
本日の日間ランキング。一位でした。
あまりの衝撃で何が起こっているか分かりませんでしたが、これも読者さんから頂けた温かい評価のお陰。一年以上も更新をサボった者に対して、勿体ないぐらいです。
本当にありがとうございます。
あまり長い話を想定していなかった為、もうそろそろ話が纏まってくるのですが、最後までお付き合い頂けると幸いです。
備考
・ジョーさんの行動が常軌を逸している件
咆哮で木を転がしたり、ブレスの余波だけでイノリを戦闘不能レベルまで追い込んでいますが、これらは特にジョーさんが異常個体という訳ではないです(飢餓状態ではありますが)。
木が転がったのは根っこが抜けた状態で瓦礫の上に転がっていて不安定だったから(それでもやりすぎかなと思ったのですが)で、ブレスに関しては『普通、吹っ飛ぶよなぁ……』と、原作プレイ時にフレーム回避してて思ったのです。
ブレスが暴発したのも当然そうなるなと想定したところを汲みました。
やたらと誇張してしまった知能については……まあ、ええ、ジョーさんが冴えてるって事にしてください。迷子にでもなったりしたら目も当てられませんので。
・イノリがやった事。
ブレスで吹っ飛ばされた後、麻痺撃って、落とし穴設置。
その場で戦わなかったのは、相応に痛手を負っている為。それ自体は秘薬を飲めば済む話ですが、地形的な不利が強く出ていると思った為、逃げの一手。
・シリア……ル?
ジョーさんがドジっ子したからシリアルって事にしてください。