晴れ渡る空。
私は濁る視界で見上げて、小さく唸った。
頭上に広がる一面の青色。
私が知る限りでは早々お目にかかれないものだった。
普段の根城は洞穴で、偶に外へ出てきても、空は飛竜達が我が物顔で飛んでいる。私に翼が無い以上、そこに居る者達の気まぐれでしか、景色は変わらない。変えられない。
一重に、奇跡的な景色だった。
空は広い。
私の巨躯を持ち上げうる強靭な翼さえあれば、きっと私の知る世界はもっと広かったろう。
あの彼方へと、行けるものなら行ってみたい。
もしかするとその先に、私が悠々と過ごせる大地があるかもしれない。
いや、期待するのはよそう。
無いもの強請りも宜しくない。
何せ私は――。
私は生まれた時からひとりだった。
それを孤独と知ったのは最近で、嘆く事こそ無かったものだが……私と同じ
誰とも通じ合えぬ言葉を持ち、誰とも分かち合えぬ感情を持ち、今にして思えば、天涯孤独とは中々に残酷だ。知らぬ無垢さが、当時の私の救いだったのだろう。
そして、私は自発的に群れを成す事も無かった。
むしろ群れを成すという概念さえ、持ち合わせちゃいなかった。
目に見える全ては――食料。
私の本能はそう訴える。
子と妻を引き連れ、決死の形相で逃がそうとする草食獣を屠る。そして喰らう。
卵を背に、翼を広げて威嚇する緑色の飛竜を、『何故逃げないのか?』等と考えながら
満たす為なら何だってしてきた。
何だって喰らってきた。
時に私を屠ろうとして来たらしい人間を屠り、喰らい。
その味気無さに落胆し、腹いせとばかりにその仲間を蹴散らし。
思えば今までの人生、どれ程の肉を喰らったかが分からない。
そんな私の転機は、とある人間との出会いだった。
その頃の私は、各地を転々としていた。
満たされぬ腹に促され、より多くの獲物が居る土地を探し、歩き回っていた。
そして行き着いた密林。
兎に角木々が多く、歩き回るのには少々邪魔臭かったが、豊富な自然に相応するぐらいの獲物が居た。その頃の私にとっては、獲物の多さが絶対的な価値と言えただろう……邪魔臭いものは破壊すれば良しとして、暫くの間を過ごしていた。
ある晴れた日の事。
不意に空を飛ぶ飛竜を見上げて、私は涎を零す。
腹が減った……。
私は獲物を求めて、徘徊を始めた。
その日の狩りは順調で、すぐに灰色の皮を持つ草食獣の一家を仕留めた――仕留め損なうこと等、早々無いが――。彼等のよく脂がのった肉を喰らい、一通り満足する。
丁度その頃だった。
私が居た崖の上に、微かな匂いが漂ってきた。
自然と喉が鳴り、新たな獲物を見付けた……と、本能が訴える。
促されるままに、崖下を覗いた。
そして、私は落胆する。
そこに居たのは、若い人間の娘だった。
布切れで身体を覆っており……おそらく、成体になっていない者だった。
よく私を屠りに来る不味い着物を纏った者達ではない様子だ。
彼女は籠を提げ、背後の崖上から見下ろしている私には気付いていない。
どうにも急いでいる様子で、何かを探しているように見えた。
時折辺りを窺っているような様子はあるが……腰を降ろしているので、急襲に備えているようには見えない。
一重に、とても簡単な獲物だった。
――しかし、人間は不味い。
そんな概念を思い起こし、でも腹は減った……と、私は迷う。
喰うか喰わぬか……喰わぬならば殺す必要は無いし、このまま立ち去れば良い。下手に動いて、余計に腹が減るのは困りものだ。
私は小首を傾げ、自然と溢れてくる涎を味わう。
決して上物が目に留まっている訳ではないと言うのに、涎ばかりは溢れん程に出てくる。
有り体に言って、煩わしい。
これを拭う為ならば、あの人間を屠る事自体は、決して無駄ではないと思わせる。
しかし今は、理性が飛んでしまう程、腹が空いている訳では無い。
腹は何時でも空いているが……つい今しがた草食獣を喰らったが故か、動く事に対する損得勘定を働かせられる程だった。
それによると……実際の所、面倒臭いという感情が一番に出てきた。
あんな肉もついていなさそうな人間を喰らったところで、満足出来る筈が無い。特に人間の臓物はくせが強く、そこらの草食獣の方が余程美味なのだから。
諦めて踵を返そうと、私は頭を振るう。
口内で溢れかえった涎が煩わしいのは、帰り際に他の草食獣でも喰らう事にしよう……そう決めた。
と、した時だった。
「きゃあ!!」
理解出来ぬ叫びを聞く。
それは私の知る限りでは、人間が危機的状況に置かれた際に発する声だった。
む……見付かってしまっただろうか?
そう思い、半ば直角に返していた踵を正す。
そして今一度崖下を覗き込んだ。
すると、やはり先程の人間が居た。
森林に囲まれた広場の端で、腰を抜かしたような体勢をしている。
折角拾い集めたものを、籠ごと手放してしまったようで、形振り構っていられない様子が見て取れた。
しかし、肝心な彼女の目は、私の居る方向を向いていない。
「こ、来ないでぇ!!」
私には理解しかねる人語で何かを叫び、彼女はやみくもに腕を振っていた。
その手は脇にある棒切れを掴み、投げ、草を引っこ抜いて、投げて……。
彼女の正面には、紫色の獣がいた。
その獣は少女を囲い、今に襲い掛かろうかと、喉を鳴らしていた。
きっと腹が減っているのだろう。
彼等も形振り構っている様子は無い。
彼女が人間である事に、何ら警戒した様子も見せていない……いや、ただ単に知能が低いだけか。
覚えは多いが、総じて筋肉で肉が硬く、悪食なのか臓物も大して美味ではないその獣。
生態系における立ち位置は低く、群れを成して行動する覚えがある。事実、その人間の前にも、特徴的な襟巻きを持った一際大きな個体に、襟巻きが無い者が三頭、引き連れられている。
しかしながら、体躯の大きさは私に及ぶべくもない。
彼等は捕食される事の方がずっと多い生き物だろう。
彼等が今、強く出ている人間が相手とて、多くの機会では屠られ、皮を剥がされている筈だ。……むしろあの少女とて、無為に襲ってはいけないだろう。人間は『復讐』をする生き物だ。
しかし、どうしたものか……。
何かするべきか、せぬべきか……。
私は小首を傾げる。
どうにもその少女自身は、紫の獣に成す術が無い様子だった。
元より人間も、群れを成す生き物の筈だ。知恵に富んだ彼等は、道具を用いてヒエラルキーを凌駕する。……成る程、その全てを失っている人間は、あんなにも非力なのか。それは私も知らなかった。私の背筋に癒えぬ傷を付けた猛者も、道具や仲間を失えば、あんな風に情けない姿になっていたのだろうか……。
「いやっ。痛い! 痛いぃ!!」
足を噛まれ、一際大きな声を聞く。
小型の獣に腹を突かれ、「いや! やめて!!」と、私には理解出来ぬ声を上げる。
どうやら紫の獣の食事会が始まった様子だ。
既に少女の身体に牙が食い込み、身体を力任せに引き千切らんと、あちらこちらへと引っ張られている。ああなると、数分ともつまい。
ふむ……。
しかしこうなると、腹の虫が煩くなってくる。
先程、一度は捨て置いた獲物だが、そこに新たな獲物がやってきて、横取りされるのは気に食わない。むしろ、私の前で獲物が減らされているのだ……決して許せた行為ではない。
そうだ……どのみち涎を静める為、後程草食獣を喰らう予定だった。
あれを変更し、あの紫の肉食獣を喰らうのも良いではないか。
お世辞にも美味いとは言えないが、溜飲も
「誰か、誰か助けてぇ!!」
血に染まる人間が、不意にこちらを見る。
視線が合って、彼女の表情は凍り付くようにも見えた。
何、構う事は無い。
人間の不味い肉に用は無い。
私が
私は崖を崩さん程の力で跳躍した。
喉の奥から溢れてくる涎にも構わず、腹の底から声を上げる。
自身の聴覚器官をも麻痺させんばかりの声に、今正に食事をしていた肉食獣がこちらに気付く。その目が見開かれた瞬間には……時、既に遅し。
着地の勢いに任せ、後ろ足を駆る。
そのまま口腔を開き、こちらを向いて呆気に取られている様子の襟巻きを喰らう。
脆弱な皮、肉、骨……咀嚼する必要性すらない。
強靭な顎の筋肉がもたらすままに、強引に口腔を閉じれば、口内に収まりきらなかった肉食獣の肉片が、辺りに散らばり飛んでいく。
ふむ……不味い。
口内に広がるのは血の味。
以前味わった個体とはまた別の味わいではあるものの、肉の臭みが酷い。
やはり草食獣の方がずっと美味だ。
私が口内に収まった肉を胃へ下すと、襟巻きの取り巻きが面を上げて威嚇してきていた。……あれは蛮勇か、はたまた長への義理か。
彼等を屠り、喰らうのに、鳥の鳴き声すら長い程だった。
ふう……。
口内に残る血の味を楽しみながら、ゆっくりと最後の一呑みをする。
ごくり。
そうして喉を鳴らせば、同時に木が折れるような乾いた音を聞いた。
うん?
と、私は振り向く。
「ひっ、ひゃぁぁぁ!!」
両手で顔を庇い、蹲ったような、膝を立てたような……私には出来ぬ体勢で、少女が震え上がっていた。
腰が抜けて逃げられなかったのか、はたまた傷が痛んで動けないのか……。
少女の身体には、私が今しがた喰らった獣のものか、彼女自身のものか、赤黒い血液がこびりついていた。
それが、私の鼻腔を
未だ溢れ出てくる涎と共に、更なる食欲を掻き立てる。
ふむ……。
やはり、喰らってしまおうか?
血の匂いは食欲を促す。
多少の運動もしたのだから、尚の事だ。
私の腹の虫が鳴ったような気がした。
「やだぁ……ママぁ、ママぁぁ……」
少女はぐずるように泣く。
何と言っているかは分からないが、恐怖に怯えているのはよく分かった。
そう……彼女も正しく理解している。
私は決して彼女を助けたのではない。
ただ単に生かしただけなのだ。
その二つの間には、満たし難い溝がある。
よし、喰らおう。
私は手早くそう決めると、少女の方向へと向き直る。
その動作にいちいち反応してか、彼女はびくりと肩を跳ねさせて、顔の前にかざしていた両手を僅かに退けた……そして、表情に出てくる絶望の色。
他の生物のそれはよく分からないが、人間のその表情ばかりは、よく覚えている。喰らうのに手間が掛かる相手だと、印象に残り易いものなのだ。
じり、じり、と少女は後ずさる。
それをたったの一歩で埋め、私は彼女に向かって後ろ足を振り上げた。
――ん?
と、そこで私は不意に目を見開く。
ハッとして、足を少女のすぐ横へ下ろし、自らの鼻腔が察知した気配を辿った。
辺りを二度、三度と見渡して……やがてハッとする。
目に留まったのは、少女が先程放り投げた籠だった。
逆さになっていて、中に何が入っているかは、全く見えない。
だが……私の鼻腔は、『それ』ばっかりには敏感だ。
少女の事はさておいて、私はその籠へと僅かな距離を詰める。
そして一度ばかり振り返って、何が起きているのか分かっていなさそうな彼女へ『これを貰う』と伝える。……無論、理解される訳がないのだが。
やおら向き直ると、口腔を開き、籠ごと喰らった。
――っ!?
その咀嚼の一回目で、かつて無い衝撃を覚えた。
口内に広がる香ばしい匂い。そして軽く噛んだだけで、旨味が汁となって溢れた。
ナ、ナンダコレハ!!
思わず顎を震わせ、私は今一度咀嚼した。
籠が砕け、中に入っていた他の代物と共に、口内に突き刺さるが……そんなものは気にしていられない。
口内に広がるのは弾けるような香ばしさ。
やっと直に味わえた『肉』は、これまで味わったことのない食感。
これは……これは……本当に『肉』なのか!?
「あ……ハンターさんに貰った……こんがり肉……」
後ろで少女が何事かを呟く。
ハッとして振り返れば、彼女は小さな悲鳴をあげて、身を竦ませた。
彼女を見詰めながら、私は尚も咀嚼する。
溢れんばかりの汁は、未だ私の口内を満たす。
涎の味なんて、もうどこかへ消えてしまった。
ただただ見目を開いて、香りと食感、奥深い味わいに身を委ねる。
何だ……何だこれは……。
確かに肉の香りがしたが、これは果たして本当に肉なのか!?
――おい。これは肉なのか!? 何の肉なのだ!?
と、問い掛けたいものの、私に言葉は無い。
不意に上げた咆哮の所為で、余計に少女を怯えさせるばかりだった。
いや、それどころか、彼女が我に返ってしまったらしい。
ハッとした様子で、地面に手を突いて、よたよたとしながらも必死に、私から逃げて行こうとしていた。
ま、待ってくれ!
食べない。食べないから!
この肉のような何かの正体を教えてくれ!!
私は必死に追いかける。
「いや、いやぁぁ!!」
少女は決死の形相で逃げる。
待てと言われて待つ筈も無い。
むしろ待てと言われているとさえ、思っていないだろう。
彼女は被捕食者として、必死に逃げていた。
ああ、くそぅ!
思わず、私は彼女の身体を咥えた。
絶叫し、暴れるのも何のその。
そのまま噛み砕かないようにだけ気をつけて、私は踵を返したのだった。
備考
(一人称で描写出来ない設定等)
・イビルジョー
雄。通常種。
何処にでもいるイビルジョーの筈が、グルメになった。
・少女
名前は……シャンヌでいいか。
一五歳くらいで。
・紫の獣
紫の……獣?(ジョーさん視点だから……)
イビルジョーの牙に掛かることで有名な毎度おなじみドスジャギィ。
密林にはいないけど、未知の樹海(下位限定の探索)にはいる。つまり、下位個体。
・密林
主観がジョーさんだし、エリアとか詳しいことは考えてない。
言及するつもりも無いし、そこは読者さんの脳内補完にお任せ。