「そういえば、まだ名前も何も聞いていなかったわね」
「え……? あっ」
お腹もいっぱいになって満足していたところで、女性が本題といったふうにそう切り出してきた。そういわれれば、お互いに名前を知らないばかりか素性さえわからない状況だ。
助けてもらった上に、ご飯や寝床まで提供してもらっているのに自分の身の上を話さないなんて、なんとも不義理なことだ。
という訳で、早速居住まいを正すと女性に向き直る。
「えっと、私の名前は……」
「名前は?」
「名前は‥…なんでしたっけ?」
「まだ聞いてないから、ちょっとわからないわね……」
あれ、おかしいな。自分の名前がどうしても思い出せない……?
いや、もしかしたら気が動転していて、一時的に忘れちゃってるだけかもしれない。という訳で名前はひとまずおいておいて、他のことから話していこう。
「……って、あれ? そもそも私ってなんであそこにいたんでしたっけ?」
「何も覚えてないの?」
「えっと、そうみたいですね……」
心配そうな女性の顔を見ながら、私は必死で自分の持っている記憶のお糸を手繰り寄せようとする。
気を失う直前、この女性に助けてもらったことは覚えている。それより少し前、あの化物から必死になって逃げていたのも思い出せる。
――なら、そもそもあそこに居た理由は? 化け物に襲われたきっかけは?
「ぜ、全然思い出せない……」
おかしなことに、私が覚えている記憶の中で一番古いものは、
まるで生まれたときから追われていたと錯覚するほど、追われ始めた記憶がなくただただ記憶の始まりは逃走の部分から。
いくらなんでも、この頭記憶領域がガバガバすぎじゃないだろうか? 逃げてる最中は疑問にすら思わなかったけど、いくらなんでもこれは酷い……
「一種の記憶喪失、かしらね……自分に冠することは、何も思い出せない?」
「あの化物に追われているところから前には、なんでか遡れないです……」
「そう……まぁ、それならしょうがないわね」
優しげな視線を向けてつつ頭をなでてくれる女性に、私は自分の中での混乱が不思議と和らいでいく感覚を覚えた。
撫で方自体は少し恐る恐るといった体で、慣れている感じはしなかったけれども、雰囲気で包み込まれるような、見えないけれども温かい何かのお陰で自然と表情がほころぶのを感じる。
「まぁ、あなたが記憶を失ってしまった不思議ちゃんだってことがわかっただけでも収穫ね」
「ごめんなさい、自分のことなのに……」
「大丈夫よ。さてと、今度は私の自己紹介と行きましょうか」
私を撫でる手を止めてそのまま腰に手をあてがうと、まるで自慢するかのようにその豊満な胸を張って自分の名を名乗り始める女性。
どうでもいいけど、その行動は私を含め世の一部女性達に対する宣戦布告と見ていいのだろうか。
「私は博麗神社の巫女。この近くにある人里の監視者にして守護者。そしてあなたの命を救った腕のある妖怪退治の専門家よ」
「随分肩書が多いんですね……それでえっと、お名前は?」
「んー、皆に巫女巫女言われたせいで、肝心要の本名が思い出せないのよね……だから、気軽に巫女さん、またはお母さんって呼んでもいいのよ?」
「そ、そうなんですか……ええと、それでは博麗さんで」
「お母さんって呼んでもいいのよ?」
「は、博麗さんで……」
何故か笑顔のままこちらに寄ってくる博麗さんにおののきながらも、流石にお母さんと呼ぶのは抵抗がありすぎるのでやんわりと拒絶の意志を見せる。
それを悟ったのか、少し残念そうに顔を話した博麗さんは、ピッと人差し指を立てて私を指差した。
「そしたら、今度はあなたの名前ね。名前がないっていうのは不便だろうから、思い出すまでの間代わりに付けてあげるわ」