1Lでたら死にますからね?
ざわざわと、まるであざ笑うかのように木々が葉をこすり合わせる音が、私の干上がった思考に突き刺さって恐怖心を増大させる。
まるで森そのものが一つの生物かのように思えてきて、その全てが私に敵意を向けているかの如き錯覚に陥る。
ひたすら前だけを見て走ってみても、左右や後ろから聞こえる音が怖くて怖くてたまらない。
「ハァ、ハァッ……!」
呼吸が乱れ、満足に息を吸うこともできず。しかし足を動かす速度を緩めるわけにもいかない私は、潰れそうな肺の痛みをなんとか無視しながら駆け続ける。
時折見かける木の根っこに足を取られないように注意しつつも、スピードを落とさずにひたすら前へ。迫りくる悪夢から逃げ切ろうと必死になっていた。
――がさっ
「――ッ!」
不意に聞こえた明確な物音に、思わず背後へと振り向いてしまう。そこに居たのは、異様に長い腕と異形な爪をもつ化物。
ぎらり、と赤く淀んだ瞳に歓喜の色をにじませ、喜々として迫ってくる化物に私は思わず小さく息を飲む。
大の大人が武器を持ったとしても敵いそうもない相手に、幼く非力な私が素手で勝てる道理もない。もしも立ち向かえば、もしも足を止めてしまえば。それは、私の純然たる死を意味する。
やってられるか。そう叫びたくなる気持ちを押さえ込んで、明確な脅威から逃げようと体を反らせる。
けれど恐怖ゆえに足がすくみ、乗り越えようとした木の根に足を取られて体勢を崩してしまう。
「あっ……!」
慌てるけどもう遅い。それなりのスピードで進んでいた私の体は、急な姿勢の変更に耐えきれずに大地へと投げ出されてしまう。
――ブォン
丁度その瞬間、私の背中ギリギリの場所を風圧とともに何かが通り過ぎる。
その正体が何だったのかは、異形な爪を振り抜いた格好になっている化物を見れば容易に想像がつく。もし今倒れ込んでいなければ、軌道上にあった私の体は哀れな肉塊になっていただろう。
だけど、状況は一切好転していない。
今の私には一度倒れ込んでしまった体を起こす気力も殆ど残されていないし、たとえ起き上がれたとしてもこの化物から逃げ切れる確率はほとんどゼロに等しい。
いわゆる『詰み』だ。運良く避けられたように見えたのは、単純に一瞬だけ私の死期が遠ざかっただけにすぎない。
それが証拠に……ほら。化物が爪を振り上げながら、こっちに向かって一歩二歩と近づいてきている。
それに対して、私にもはやできることはない。
できることなら、楽に終わらせてほしいな。でも、無理なんだろうな……
そんなことを考えながら、来るべき衝撃に身構えつつ目をギュッと閉じ。
「あらあら、困ったわね。女の子に手を挙げるなんて、お仕置きが必要かしら?」
バチィッ、という何かが弾ける音とともに聞こえてきたその声に、私は閉じていた目を開ける。
私に死をもたらすはずだった異形の爪は、何かに叩きつけたかのように大きくひしゃげてしまっている。その持ち主である怪物には憎々しげな表情すら浮かんでおり、その視線は私を通り越して後ろへと向いていた。
状況を飲み込めないままその視線の先を辿った私は、赤と白で構成された衣装に身を包んだ女性が、手に何やら長方形の紙を持って佇んでいることに気がつく。
「……ぇ、なに……が?」
「あら、混乱させちゃったかしら? でもごめんね、説明の前に片付けなきゃいけないことがあるから……」
そう私に微笑んでくれた女性は、化物の方に視線を戻すと紙を人差し指と中指で挟んだ状態で前へと突き出す。
その時、化物が怒りの咆哮を上げて私達の方へと突っ込んできた。その矛先が自分には既に向いていないということは頭で理解できても、あまりの恐怖に身がすくんでしまう。
「ひっ……」
「ふふ、大丈夫よ……『多重結界・剛』」
その声とほぼ同時に、女性へと異形の爪が振り下ろされた。先程使い物にならなくなっていた側ではなく、未だその異形さを留めた方の爪。
当たればいくら大人とは言え一溜まりもないだろうし、見た限り華奢とさえいえる女性では防御は絶対に不可能だ。巻き込んでしまった、そう考えて私は思わず目を背けようとしてしまう。
けれど、その寸前で見えた女性の顔。そこには迫りくる脅威などまるで意にも介していないとばかりに微小が浮かんでおり、事実化物の爪は女性の脅威至り得なかった。
先程よりも幾分か金属質な音を響かせながら、怪物の爪が何かに弾かれるように押し返される。
薄っすらと、本当に薄っすらとだけど、女性と怪物の間に立ちふさがるように幾重にも重ねられた不透明の薄い板が、まるで元から何もなかったかのように消えていくのが見えた。
「グ……オオオォォォォォ!」
「知性も理性もかなぐり捨てて、本能でのみ行動する。実に貴方達らしいとは思うけど……だめよ、本能に従うだけじゃ、いつかは破滅してしまうもの」
言いながら、懐から細い針を取り出す女性。それを、怪物に向けて投擲する。
その針は見た目に反して強靭なのか、硬そうな化物の皮膚を次々と貫く。苦しそうな唸り声をあげる怪物にいきつく暇も与えないつもりなのか、今度は懐から大量の紙を取り出すと宙へと放った。
「それじゃ、さようなら妖怪さん。『夢想封印』」
不自然に虚空を彷徨った紙が、怪物を取り囲んだ瞬間に何かを放つ。その矛先はすべてが怪物へと向かい、力の奔流に抗おうとした怪物の近くでそれらは爆ぜた。
ズン、というお腹に響く低い音とともに土煙が舞い上がり、それが収まったときには化け物の姿は何処にもなかった。
「うーん、まだちょっと扱いになれてないのかしら……っと、怪我はない?」
一転して心配そうな表情を浮かべる女性に、なんとか大丈夫だと伝えようとして体に力を入れた瞬間、一気に体中の力が抜けてしまい倒れ込む。
それどころか、意識に霧がかかったかのように目の前の景色がぼやけていき、かろうじて使える耳は慌てたような女性の声を捉えていた。
「え、ちょっと大丈夫!? って、体中傷だらけじゃない! そんな、赤い服だと思ってたけど、これってまさか全部血なんじゃ……!」
いや、服染めるほど出血してたら流石に私死んでますから。
心のなかでそう突っ込みつつ、安堵感からか津波のごとく押し寄せてきた眠気を前に、私は意識をあっさりと手放したのだった。