「よぉ、嬢ちゃん。一人かい? ヒマなら、俺と遊ばねえか?」
「んぬぃぇ?」
一月もそろそろ終わりだというのに、まだまだ正月ボケの抜け切っていないとある昼下がり。吐く息は白く、耳当てと手袋の欠かせない痛い程の空気に腕を擦りながら、柳洞時での商談を終えて帰っている時の事だった。
ナンパだ。
初ナンパ――この真冬に、半そでのにーちゃんに。
あまりの驚きに、変な音が出てしまった。
「ええと、貴方は?」
「あぁ、俺はランサーってんだ。で、どうよ嬢ちゃん」
「ランサー、さん」
唐突だけど、私には――がいる。――は私が生まれた時からそばにいて、滅多に起きる事は無かったけど、時たま”助言”をくれた。くれていた。
直近の助言は――”始まる。夜中は出歩くな”、だったかな。
死んでしまった両親も――の事を知っていて、――と両親は友人だった。それくらい信頼していて、それくらい、大切な存在だったみたいだ。
そんな――が。
“安心しろ”と。”大丈夫だから”と。”ランサーさんなら、信頼できる”と。
まるで初めから彼を知っていたかのような口ぶりで、珍しくも饒舌に。
だから、私は初ナンパに乗った。
「良いお店に連れて行ってくれるのなら」
「お、ノリがいいねぇ、気に入った。良い店、連れて行ってやるよ」
これが、”ランサーさん”との邂逅。
これから私は”横文字の人達”に沢山会う事になるけれど――その中でも、もっとも軽薄で、印象的で……一番楽しかった出会いだったのは、間違いないだろう。
喫茶アーエンネルベ。
落ち着いた雰囲気の喫茶店で、初老のマスターがポツンといるだけの、私では寄ろうとすらしないタイプの場所だった。店内に置いてあるアンティークはどれも良質で、丁寧な手入れがされている。骨董品店の店主としてはポイントが高い。
ただ、めちゃくちゃ高い。何がって、めぬーが。学生には手の出せないものばかり……。
「オススメは?」
「んー、ここならレディグレイとかいいんじゃねぇ?」
「ふむ。
じゃあコーヒーで」
私がそう言うと、ランサーさんはげんなりとした顔を造る。
いやだって。
レディグレイなんて飲んだことないし。
「……じゃあなんのために聞いたんだよ」
「ホントに常連かどうか確かめるためですよ。女の子にいいかっこ見せようとして、いつもは行かないような高い店選んだ見栄っ張りかもしれないじゃないですか」
「ほーぉ、案外強かなんだな。ま、常連かどうかって問われると難しいかもしれねぇが。俺もこの街に来たのはつい最近でね。フラっと立ち寄った喫茶店で、美味かったから覚えてたってだけだよ」
「くっ……そっちの方がオトナっぽい!」
なんだか自分の中の”大人像”がひどく子供っぽいような気がして、悔しかった。
コト、と。
コーヒーが置かれる。うーん、ブラック。
横に砂糖とミルクが置かれているけど、どうせ使わない。
「ここの店、砂糖もミルクも良いモン使ってるぜ」
「はぁ。でも私ブラック派なんで」
「……」
それは、目にもとまらぬ早業だった。
いや本気で。人間にこんな動きが出来るのか、ってくらい、早かった。
その素早い動きで――なんと、ランサーさんは。
「ああっ!?」
既にカップを持ち上げていた私のコーヒーに、無断で、砂糖とミルクをいれやがったのである……!
白く濁って行く暗闇。私の苦み一辺倒の珈琲。カッファが、白く汚されていく……!
「ほれ、これで飲まねぇ選択肢はねえだろ? それとも、捨てるかい?」
「……うぐぐ! 食べ物には……罪は無い……ええい、南無三!」
私は食わず嫌いである。
美味しいと感じたモノをずっと食べ続ける。あの苦味こそ至高なのに、なぜわざわざ甘ったるくするのか。理解不能。意味不明。
だけど、これを捨てるのは流石にない。食べ物を粗末にするのはダメだ。――も言っている。ちなみに、――も珈琲はブラック派らしい。
「ッ……。……?」
舌を這わせて、まず違和感。ん?
唇をつけて、さらに違和感。あれ?
舌を戻して、液体を転がして。
喉を鳴らして、呷ってみて。お、おや?
「……美味しい」
「だろ?」
ランサーさんは、ケラケラと笑う。子供のような笑み。
私が女の子好きでなければコロっと行っていたかもしれない。女の子好きなので全くいかないのだが。
「……いや、いや。いや、うん」
舌で転がす液体は、今までのツンと刺す苦味ではなく、甘く、労わる様なほろ苦さ。
いや、いや。
いや、本当に。
おいしー……。
「気に入ったみてぇだな」
「それはもう」
ふむ……これは良いな。
こんなに良い物と出会わせてくれたのだ。何か返さないと。
「あぁ、いいよ。俺が奢るさ。年下の嬢ちゃんに払わせたとあっちゃ、流石に男も廃る」
「いえ、そうでなく、何か別の……お礼をしなければ、と」
「お礼ィ? ……んじゃ、今度会った時で頼むわ。今は、何か貰っても飾る場所も置いておく場所もないからよ」
「ん、了解しました。あぁ、さっき言ってましたもんね。この街にきたばかり、って。それじゃあ、新居で荷解き中とかなんですか?」
「……まぁ、そんなトコだな」
さて、と。
ランサーさんが立ち上がる。
ランサーさん、何も飲んでないけど、いいのかな?
「……一応、忠告しておくぜ、嬢ちゃん。
最近の夜は物騒だ。出歩かない方が良い」
「あ、やっぱりそうなんですね」
「あン? ……まぁ、知り合いもいるか。
そんじゃあな、嬢ちゃん。もう会う事は無いと思うがよ、もし会ったら、また茶でも飲もうや」
「え、もう会えないんですか……って。
いないし」
既に会計は済まされていて。
ランサーさんは、いなかった。近くの路地裏なんかを捜しても、影一つ見つからない。
まさか、実はユーレイだった、とか?
心の中で、――が面白そうに笑った。
あぁ、そうだった。
そんな出会いだった。
くるくると回る視界で、暗闇の中に思いを馳せる。
何も見えないこの場所で、落ちている感覚だけがある。
走馬灯のように思い出される記憶は、オレの物ではない。
野場飛鳥が経験した、オレが経験したと思い込んでいた、本来の記憶。出来事に対する心情も、感動も、彼女のものだ。
あぁ、だけど――。
「懐かしいと、感じられるんだな」
経験した事の無い映像であればそうは思わなかっただろう。
だから、オレは、確かにあそこにいたのだと実感できる。
出来た。
この夢の終わりがまた、近づく。
段々、ここがどこなのかわかってきたんだ。
ここがどういう場所で。
今が、いつなのか、が。
「……ランサーさん。また会えるとは、思っていなかったよ」
知っていても。
知らないままに、終ると思っていたから。
でも、良かったな。
お礼がちゃんとできて。
あぁ。
「そんな夢を見たワケなんだけどね?」
「暗闇から落ちて行く夢、ねぇ……陳腐な夢占いで言うのなら、『あなたは心に不安を背負っています』ってヤツじゃないか?」
「私、不安があるタイプに見える?」
「全然?」
弓道部元主将・美綴綾子と廊下で駄弁る。
細部は覚えていないが、延々と続く暗闇を落ちて行く夢。どこか悲しくて、どこか懐かしくて……どこか、切ない夢だった。
「まぁ、睡眠はしっかりとってくれよ? 野場には大事な役目があるんだからさ」
「……んぁにぇ? 役目とは」
「おいおい、本当に忘れちゃったのか? 劇だよ劇。柳洞寺の合宿許可を得る為に理由にした劇をやるにあたって、野場も参加してくれるって話だったじゃないか。文化祭、寝坊して役欠け、なんて許さないからね?
やるからには完璧にやらないと」
……そんな約束しましたっけ私。
いや、そもそも柳洞寺の合宿……とは? ん? ん? 何の話?
あ、んー? そいえばやったような……やってないような……風魔小太郎……覚えているような。
「が、ガンバルヨー」
「おう! 期待してるよ」
ダメだー、棒読みネタが通じないー!
助けてシュ……ん? シュ?
シュ――……ピーゲル?
「
確かローテーション今日だったはず。
あれ。
何を思い出そうとしていたんだっけ。