朝5時に起床する。
もはや慣れた……なんて事は全くない寒さに肌を摩りながら、シャッターを開けた。
冷たいシャッターが冷たい空気を招き入れ、渦巻いていた店内の空気が一斉に解放される。
同時にお向かいのワイン店のオーナーもシャッターを開いたようで、会釈。
自動ドアの油差し、結露を拭いて、動作確認。
ほぅ、と息を吐く。
振り返って、鏡を見る。
後ろに黒い人影があった。
「のわぁッ!?」
「あら、アナタでも驚くことがあるんですね」
「いや、オレ普通に少女なんで……あれ、もしかして開店時間まで待ってました?」
「いえ、そのようなことはありませんが」
「ならいいんですけど……とりあえずいらっしゃい、オルテンシア」
「ええ、宣言通り。アナタの店に立ち寄らせていただきました」
そこには言峰さんの後任――カレン・オルテンシアが立っていた。
テンノサカヅキに至れとアヴェンジャーは言った。
アインツベルンの秘宝、第三魔法・
その名を冠する冬の娘は、初めから全てのカラクリを知っていた筈だ。
長い廊下を抜けて中央に着く。
この城の空は常に曇り。例えあのサカヅキとても、こちらの聖杯が統べるこの城だけは覆えなかったのだろう。
そういえば誰かが、あちらには綻びがあると言っていたっけ。
「イリヤスフィール」
冬の娘に声を掛ける。焦りと諦めが、己の感情を欠如させる。
「もう、来ちゃったんだ。あぁ、来なくていいわ。そこにいて。
こんにちは、シロウ。わざわざ会いに来てくれたの?」
問い質す必要はないらしい。
事は手早く済みそうだ。
冬の娘――イリヤスフィールに問いかける。
衛宮士郎をこの城に近づけなかった理由。――俺がここに辿り着けば、全てが終わってしまうから。
続けられるのならいつまでも続けていたい。
同感だ。俺だって知らなければ、ずっと。
でも。
「イリヤ。テンノサカヅキってのはなんだ? それが聖杯戦争を再現してる聖杯なんだな?」
「ええ、そうよ」
イリヤは俺の態度に目もくれず、にこりと微笑む。
あっさりと、それを認めた。
冬木の聖杯戦争の賞品であった聖杯。アレは単なる魔力の渦で、その有り余る力で以て持ち主の願いを広義的に叶えるだけの、聖杯とは大凡呼ぶことのできない代物。
だが、テンノサカヅキは違う。大したコトは何もできないが――しっかりと持ち主の願望を聞き届け、自らの出来る範囲でそれを叶えようとする、願望器。
そしてソレはサーヴァントとして第三次聖杯戦争に召喚され、聖杯に取り込まれ、”人間の願ったとおりの悪魔”に成長した――ダレカ。
テンノサカヅキに、その悪魔の契約者がいる。
「そこに聖杯があるって事か。それは何処だ?」
「この街で一番高いところ。五回目の聖杯戦争にいなかった人は、そこから地上に落ちてくるのね」
三では辿り着く事の出来なかった。五になってようやく階梯を掴み得た。
この世界は作り物ではない。舞台は偽物だが、中にいる人間は本物だ。
遠坂も、一成も、慎二も。
「この世界にいる作り物、偽物は一人だけなの。
その人はこの街にいる誰かのカラを被って、この世界で聖杯戦争を再現している。自らの知らない五回目を経験するためにね」
だから、ソイツだけが四日間と共に消える。
五日目の待つ現実には行けない。剥離された名前と同じように、世界の記憶にすら残らない。
偽物が消えた後には、不純物を削ぎ落した本物が残る。
まるで元から、そんなものはなかったかのように。
だけど、少女は笑う。
例え作り物でも、偽物でも。
この四日間だけは、本物だった。それなら、本物だ。
その行動は紛れもない、本物だったのだ。
その偽物は「無」で。
その偽物の意志は、カラによって形作られたモノ。
「無」は「無」に戻るんだ。
湧き上がりかける
これは心から湧き上がるものではなく、カラから滲み出るものなのだと。
「――いいえ、わたしが認めてあげる。
貴方は貴方よ、アンリマユ。貴方はすぐに忘れてしまうだろうけど、わたしは最期まで覚えているわ。
貴方が自分の意志で、この願いを終わらせようとした事を」
図らずも俯いた顔が、それを捉える。
そうだ。まだこちらを聞いていない。
戻ってきそうになるその
「……これは、なんなんだ」
「………………」
傷だらけの雨傘。
あの、どこまでもおかしな奴が渡してきた、未知。
こんなものを残していては、終れない。
「……呆れたわ。まだ気が付かないなんて」
「わかるんだな」
「ええ。
それはね、傷が大切なの。傷だらけの雨傘じゃなくて――雨傘の傷。いいえ、より正確に言うなら――天笠の傷」
雨傘の傷。
アマガサノキズ。
天笠の傷。
テンカサノキヅ。
「……アイツ」
「それをシロウに渡した人は、余程貴方を飽きさせたかったんでしょうね。一番大きな未知が、それでわかってしまう」
そうか。
一番に最大の謎を耳打ちされていたようなものだ。
ひどいネタバレもあったものだ。
「ああ――――……」
「わたしがしてあげられるのも、教えてあげられるのも、これぐらい。今まで観測者にすぎなかった貴方が、これで人に認識してもらえたわ。
あとは簡単。貴方が忘れてもわたしが覚えているんだもの。
貴方は貴方として、あの月に昇れるわ」
「――ようやく、ここに至ったか」
イリヤスフィールの言う通り、か。
あの月に至る為の道具などない。
聖杯に昇れるのは、もとからその位置にいるアヴェンジャーの本体と、契約者であるバゼットだけなのだから。
「楽しかった?」
「ああ。ありがとう、イリヤ」
中庭を後にする。
瞬間。
目眩がして、ほんの少しだけ、前後の記憶が曖昧になった。
でも。
「ありがとう。また遊びに来てね、シロウ」
あれだけ綺麗な笑顔なのだ。
この一時は、イリヤにとっても、幸福なものだったに違いない――。
無言の時間が過ぎて行く。
オルテンシアに骨董を愛でる心があるのかは知らないし、あったとしても買う金はないだろう。冷やかしの客ではあるが、その眼当てが骨董ではなくオレにあるというのだから無碍にも出来ない。
何しろオレがこの街で両親を除き、もっとも親しくしていた人の後任だ。
どうして無碍に出来ようか。
「……なんだろうね」
オレは骨董を見ている客に話しかけると言う行為が嫌いであったはずなのだが。
この無言の空間には、耐えきれなかったのかね。
「確かオルテンシアも、現実のオルテンシアとは関わりの無い……この四日間が終われば消える存在なんだっけ?」
「はい。聖杯戦争の監視役という役割にカレン・オルテンシアという要因を送り込んだだけ。役割が終われば、この私は消え去ります」
淡々と言うオルテンシア。
それに怯えている身としては恐ろしい話だが、彼女にとっては何の不備も無い事なのだろう。
「……オレとオルテンシアは、ちょっと違うか。アンタは実体なんだもんな。オレは……はは、多分無いんだろうけど」
「今のアナタは、傷が創り出す影のようなもの。天笠の傷は、天笠が無くなってしまえば、消えてしまうでしょうね」
「はっきり言うなぁ。ま、遠慮する性格でもないか……。
そうだなぁ。確かに、うん。オレがいる場所も……そっか。じゃあ、
まったく……アーチャーさんに謝らなければ。あと、ランサーさんと、ライダーさんと、セイバーさんと、キャスターさんにも。バーサーカーさんには一応もう謝った、という事で。アサシンさんは……えと、ほら、うん。
「……いいなぁ」
あ、と。
口を慌てて抑える。
言わなくてもいい事だったし、言っちゃいけない言葉だった。
彼女の境遇は、たとえ彼女自身が恵まれていると思っているとしても――いや、そっちの方が失礼か。
あぁ、うん。
抑えたけど。
「幸せを、享受できるって……いいなぁ」
オレは出来そうにない。
いずれ消える幸せを、いずれ拒まなければいけなくなる幸せを。
託されるべきではない幸せを、受け取るべきではない幸せを。
オレが貰うなんて、幸福が過ぎる。
それがオレの欲望だ。
今ある幸せを手放したくてたまらない自分が。
つらくて、痛くて、邪魔で仕方がない――!
「とんだ三文芝居だと思わないか、オルテンシア。オレはオレに怒ってるんだ……笑っちゃうよな。コレが他人に向けたモノだったらオルテンシアに傷でも出来るんだろうけど……残念、これは悪魔祓いじゃ祓えないよ」
一人で嗤う。
ピクリとも表情を動かさないオルテンシアの視線の前で、自分を嘲笑う。
おかしくもなんともないし、なんだったら怖くて泣きたいくらいだ。
でも笑ってないと。
自分ですら笑いものにしていないと、今すぐにでも、崩れてしまいそうだから。
「――何故」
そんな負の連鎖に、一条の光が入り込んできた。
疑問。
彼女に目を向けても、そこにあるのは疑念だけ。
侮蔑や嘲りは見られない。ただ。わからないという瞳。
「何が」
どろっと、冷たい声が出た。
初めて出したくらいの低音。何に怒ってるんだオレ。冷静になれよ、相手は少女だぞ。
深呼吸だ。吸って、
「何故――アナタは、誰かを恨まないのですか?」
飲み込んだ。
ごっくん。ぷふぅ。
「え……いや、だって、誰も悪くないし」
至極真っ当な答えが自分の口から漏れ出でる。
むしろその問いかけは、彼女にこそ与えられるべきだ。
聖痕なんてものを背負わされ、被虐霊媒体質などというけったいなモノを神に押し付けられ、それを良い様に利用されて。
何故恨まないと、問われるべきだ。
「だって今、貴女は、苦しいのでしょう?」
ぞわり。
背筋に冷たい物が走る。総毛立つ。
いま、この女は、誰を見て喋っている?
「……ッ」
一歩。
オルテンシアが後ろへ下がった。
妙に心音が大きく聞こえる。
「……OK、オルテンシア。大丈夫だ。すまん、悪かった。全面的にオレが悪い。いつのまにか、悪くなっていたようだな」
「――ッ、いえ、問題はありません……」
「しっかし、そうか……そうだよな、野場飛鳥にとってオレは……
脇腹を抑えたオルテンシアを見て、ハハ……と乾いた笑いがこぼれる。
いやぁ、まいった。
まいったね。
そりゃあそうだ。
どこの誰とも知れない男の意識など――少女にとって、悪霊以外の何物でもない。
なんだ、いや、むしろありがたいな。
これでようやく、オレがいらないものなのだと認識出来たじゃないか。
「それは、違います」
「いーや、違わないね。違わないでいてくれなきゃ困る。オレが必要な存在なら、オレはもう踏ん切りをつけられなくなるだろ。よしてくれよ、なんど決意を踏み割らせる気だ。
決心して、決意を固めて、それでも簡単に砕けるんだ、オレの意思って奴はさ。
でも、オレがオレを悪だと断ずる事が出来るんなら――話は別。
辰巳と縁の、オレの一番大事な友人の忘れ形見を害する存在がオレだっていうんなら……」
オレが悪いと、言ってくれるなら。
余計な幸福を享受せずに済むし。
余計な未練も全部捨て去れる。
「ハハ、あとはアイツと対面するだけだ。悪魔と悪霊。似た者同士だな」
芝居がかった口調で言う。
大丈夫、クサいのはわかってる。
でも、オレは
「もし」
「うん?」
オルテンシアは、此方を見て言う。
少しだけ笑っているようにも見えなくはないが、さて。
「現実で、私がこの店を訪れたら――割引、してくれますか?」
「……ああ」
その時、オレはいないだろうけどな。
それはようやく、口に出さなくても良い事。
口に出さずに済んだ言葉。
「待ってるよ、オルテンシア」
「はい」
今、アイツはアインツベルン城にいるから。
ここでの会話は、オレとオルテンシアだけのものだ。
あぁ。
それはなんて――心地の良い響きだろうか。