大妖怪。
その定義は、人、妖怪、神、それぞれ違うもの。
例えば風見幽香という妖怪。
彼女は自分のことを大妖怪であると思っているし、他者からもそう認知されている。
少なくとも彼女のことを弱小妖怪などと思っているような者はいない。
もちろん風見幽香も自身が弱いなどとは毛ほども思ってはいない。
だが、特別強いとも思っていなかった。
彼女の思う大妖怪とは、そこそこ長く生きててそこそこ力が強い妖怪くらいなもので、それなら自分も入ってるだろうくらいにしか思っていない。
彼女は力の強弱を感じるような経験が無かった。
自らの望みが力の不足で叶わなかったことが無かった。
思うがまま、感じるがまま。
そのように生きてきた。
それゆえ、彼女は他者からどういう風に扱われているかなど知るよしもなかった。
これは、ちょっと昔のお話。
アルティメットサディスティッククリーチャ幽香、と人里で恐れられていたころのこと。
人里のとある花屋に、幽香はいた。
用向きは花を求めに来ている。
本当は、花屋に来ずとも山や野に咲いている花でも良かった。だが幽香は、花を一人で愛でるのではなく、他の誰かと愛でてみたかった。
簡単に言うと、お花トークがしてみたかった。
ということで、目を付けた店員はいかにも花が似合う女の子。
幽香は手狭な店内を見渡し、話のネタを探した。
目が留まったのは、右手にあった小さな花。
小さな花が首をもたげていた。
「――ここ、折れてるわよ?」
幽香は、花をすくい上げると店員に見せた。
見栄えを考えると、これだけ切り取ってしまった方がいい。
人間ならそうするはずだと、判断した。
これをきっけかに仲良くなれるかもしれない。
幽香は笑顔を浮かべ、口を開いた。
「代わりに切ってあげましょうか?」
幽香と店員の目が合った。
その時、店員の頭の中に妙なアナウンスが流れた。
――お前の首ごとな!
ここに死期のフラワーマスターが誕生した。
「っひ、ひぃ……」
つい先ほどまでは可愛らしい接客スマイルで対応していた女の子は、尻餅をついた。
恐怖一色になった目から、涙があふれ出す。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
死を目前にしたような絶望の顔から、謝罪の言葉のみが出てきていた。
その様子に、幽香は眉を寄せ、
「……別に、いいわ」
と言うと、店を出て、そのまま里から出ていった。
帰路。
道半ば、オレンジがかってきた太陽を見上げる。
幽香の頬にきらりと光るものが垂れた。
頬を伝う妙な温かさに、思わず手をやった。
温かい滴が指先に触れる。
「……うそ」
涙。
今まで泣いたことなんてなかった。
「どうして――」
それもこんなことで。
動揺する自身に驚きながら、次々に涙は溢れてきていた。
今までは、ちょっと寂しく思うことがあっても、泣くようなことはなかった。
幽香は、太陽の畑に遊びに来た妖精や、周辺の花々を見に歩いてるときに遭遇した妖精や小さな妖怪を思い出した。
皆、目が合っただけで固まり、話しかけると逃げられた。
理由が分からなくて、笑顔のまま追いかけると、土下座された。「命だけは」と言われても、そんなつもりはまったくなかった。
しかしこれは、理解は出来なくとも、仕方ないことなのだと。
自然の節理なのだと。
でも、いつかは誰かと――。
など、一人、花を愛で、想像したりした。
逃げないでいてくれる花がいっそう愛らしく想えた。
でもやっぱり、その花を誰かと一緒に……。
「何でよ……」
うつむくと、地面に温かいものが数滴落ちた。
「私が何をしたって――」
その時だった。
物音。
遅れて気配。
幽香の優れた五感が、動揺により遅れながらもそれらを正確に察知した。
「だれっ――」
見られてしまった。
――誰、に。
顔を向けると――。
「ぁ、ぃや、私は何も、見て――」
顔を横に逸らしながら、前に出した手を小刻みに動かしている八雲紫がいた。
スキマ妖怪、八雲紫。
計算高く、隙が無い。何を考えているか分からず、胡散臭い。
考えれる限り最悪なやつに見られた。
そう思った。
「ち、違うの、私はただ散歩に」
窓でも拭いているのだろうかと思える手の動きに、幽香はちょっとずつ冷静になってきた。
「そしたら、なんか、あなたの姿が、――あ、いや、えっと私は何も見てないのだけど。そう、見てないのだけど? だから、その――」
――なんでこいつが一番動揺してるんだ。
幽香の冷静さがどんどん高まっていく。
「……えっと、八雲紫、だったわよね?」
「え? ち、違うわ、私は――」
――いや、違わないだろ。
「何も見てないもの!」
――そっちか。
「だから、私――」
なんか涙目になってきた。
よく分からないがなんとなく分かった。
「もういいわ。別に気にしてないし」
出来るだけ平然と言った。
「え、そうなの?」
紫が顔を上げると、きょとんした顔が見えた。
そして、
「――じゃあ、なんで泣いてたの? 教えて?」
と聞きいてきた。
デリカシーとは何か。
その変わりように、幽香は口が開けなかった。
「ねぇねぇ、なんで? 気になるわ」
詰め寄ってきた。
――何こいつ。
幽香は今までのイメージとはまったく違う八雲紫にどうしていいか分からなくなった。
もっというと、調子が狂った。
つまり、
「実は――」
理由を話してしまった。
聞き終わると、紫は深く頷いた。
「――分かったわ!」
目を輝かせる紫。
幽香は不安になった。
「私があなたを親しみやすくしてあげる!」
何言ってんだこいつ。
自信満々の面もむかついた。
「里でも親しみのある私が指導するんだから、効果は間違いなしよね」
「は?」
「でも、私のレッスンは生易しくはないわよ? 覚悟することね」
やる気に満ち溢れ、ぐっと拳を握りしめる紫。
紫はスポコン系に憧れていた。
せっかくの機会である。
何から始めるか。
紫は思案し始めた。
「まずは――」
紫は得意気に幽香を見やった。
「そうねぇ……」
上から下へ、下から上へ。
じっくり、困惑気味のフラワーマスターを観察する。
「うーん……」
何も思い浮かばない。
しかし、流れ的に何か言わなければならなかった。
「う、腕立てとか?」
「何でよ」
即座に突っ込む幽香。
付き合うのが面倒だから適当にいなそうと考えていたのに、突飛な言葉に思わず突っ込んでしまった。
発言した紫も、頓珍漢なことを言ったことを自覚していた。
ということで、取り繕おうとした。
「……じゃあ、笑顔とか?」
幽香は呆れ、ため息が出た。
「そのくらいもう試してるとは思わないの?」
「……じゃ、じゃあ見せなさいよ笑顔」
口を尖らせる紫。
後に引けない気になっている。
「…………」
幽香は躊躇った。
というか別に笑顔を見せること自体が嫌なわけではない。ただ、この状況だとどうにも気が進まないだけ。
「ほら早く。笑顔、笑顔」
催促。
幽香はむかついた。
――誰がするか。
と思ってはみるも、やるまでしつこいだろうということは容易に想像出来た。
気が進まないが、仕方ない。
「別に口角上げるだけよ。わざわざ見せるものでもないと思うけど――」
などと、ぐだぐだと前置きを置きながら、幽香は笑顔を作った。
瞬間。
「ひぃっ」
短い悲鳴。
紫は二歩程後退った。
顔は引きつり、上体は後ろへ引いている。
「……何よ」
紫の様子に、真顔に戻った幽香がそう聞いた。
「――何って、こっちが聞きたいわ。何よ、あれ」
「何って言われても、――笑顔でしょ?」
幽香はまた笑顔を作った。
「ぅわ――」
紫は顔を背けた。
「どうゆうこと?」
幽香は気づいた。
「……もしかして私の笑顔に何か問題があるわけ?」
少し不機嫌そうな顔つきになった幽香だったが、
「そうよ。その通りよ。今の眉間にシワが寄ってる方が、マシなほどにね」
「普通に笑ってただけじゃない」
「頭蓋をかち割る音が子守歌ですって顔してたわよ。それが普通の笑みなら、血より紅い素晴らしい日々を過ごしていらっしゃるのね。そりゃ人間はどうしようもないわ。管理者として言うけど、心臓麻痺とかで勝手に人間の数を減したりしないでよね」
幽香の凄惨な笑み。
その笑みを向けられた者は、即座に自身の肉体のミンチを想像してしまう。
普通の人間ならば、抵抗するなどは思いつきもせずに、ただひたすらに嵐が過ぎるように時の流れを待つしかない。
「……どういうことよ」
幽香の瞳に水分が多くなってきた。
「……とりあえず、自然に笑えばいいんじゃないかしら?」
「自然にって、さっきのやつは違うの……?」
「あれが自然って、あなたは極悪閻魔かなにかかしら? まぁ、幻想郷の閻魔は小うるさいやつだけど」
どうやら笑顔がいけないらしいことは分かった幽香。
「……どうしたらいいと思う?」
こんな奴に聞くのかという思いはないわけでもなかったが、精神ダメージが大きかったせいか目の前のスキマ妖怪を頼ってしまった。
「そんなのは簡単よ。私の言う事を聞く、――それだけでいいのよ」
自信満々に言い放たれたその言葉。
先ほどの動揺がまだ残っていて正常な思考が出来ないでいる幽香は、そのまま頷いてしまった。
その様子に、紫は満足気に笑った。
「そうね、まずは真似から入りましょうか」
「真似?」
「ほら、例えば……」
立てた人差し指がくるくると回る。
「そうねぇ……」
その回転は次第にふらふらと迷うように。
「…………」
止まった。
「――私とか?」
お前かよ。
幽香は喉まで出てきた言葉を飲み込んだ。
紫は自分の出した答えが気に入った。
「そうね、ここは私よね。というか私以外の誰がいるの? って話よね」
何故か紫の中で自信が溢れてきた。根拠はない。
「…………」
幽香は何も言えなかった。
このうっさんくさい生き物の何を真似をしろというのか。
帰るか。
幽香は紫の存在を気にしないことに決めた。
背を向け、ふわりと浮かぶ。
いつものように低速で風がそよぐように。
「――あ、ちょっと」
ゆっくりと飛ぶと、肌に柔らかな風が当たり気持ちがいい。
「ちょっと、待って待って」
花と風が戯れるような、そんな心地で空を行く。
慌てるような飛行は、生き急いでる人間のような者がする行為なのだ。
幽香はその全てを愛でるような心地で、空を――。
「あ、家でやろうってこと?」
――ちょ。
動きが止まる。
――やめて。家にまで来ないで。
現実に呼び戻された幽香は動きを止め、振り返った。
「……何かしら?」
幽香の心境など知らない。
もう行く気満々の紫は決め顔で、
「私、紅茶がいいわ」
と、言った。
幽香は、
「帰れ」
と言い、紫を無視して、家に帰ろうとした。
いつものようにゆっくりとした飛行ではなく、急いで。
風? 花? 嵐が来ているのにゆっくりなんてしていられない。
後ろからついてくる鬱陶しい嵐が気になって仕方がなかった幽香であった。
家に着いた。
否、着いてしまった。
速度まで上げて帰っているのに、このまま帰りつかなければいいのにとさえ思った。
――はぁ。
幽香は、沈んだ心持ちで家の扉の取っ手に触れた。
幽香の家の扉には鍵がついていない。
つける必要はなかった。
だが今、その必要性をひしひしと感じている。
「へー中はこうなってるのねー」
それも、さも当然のように中に入ってきたスキマ妖怪のせい。
例えカギをかけたとしても、スキマでも作って中に侵入してくることは分かってはいたけども。
そもそもどうしてこんなことになってしまったのだろうか、幽香は考えても無駄な思考をすぐに止めると、疲れ切ったように脱力した。
「で、紅茶は?」
いつの間にか椅子に座っている八雲紫が、くつろぎ顔で幽香を見ている。
幽香はなんかむなしくなった。
紫の問いには答えず、帰ってきたばかりだというのに出口にへと向かった。
癒されたい。
その一心で、扉を開ける。
扉が開くと、一面には太陽の花の大パノラマ。
心が安らぐのを確かに感じた。
足が一歩、二歩と、意思とは関係なく、歩み出す。
空気が体を抱擁し、体もまた抱き返す。
「ねぇ、どうしたの?」
紅茶はどうなったのかと、わざわざ前にまで回って顔を覗き込んでくる八雲紫。
目が合った。
ちょっと驚いたような顔が見えた。
もうわけが分からない。
「――あ、元に戻っちゃった」
「は?」
「せっかくいい笑顔してたのに」
「誰が?」
「あなたよ、あなた」
「……私?」
「そう」
意味が分からない。
「よく分からないけど、今あなたが感じていたことを思い出して笑えば、人里でもうまくやれるんじゃないかしら?」
「…………」
花を見ている時のような顔。
自分では分からないが、もしかしたらそうなのかもしれない。
試してみる価値はあると思った。
だが、この場で八雲紫に言葉に出して礼を言うのはしゃくだった。
そんなこと。
昔のこと。
「――っていうの、おぼえてる?」
「おぼえてないわ」
「ちょっと、この紅茶ぬるくない?」
「帰れ」
そんなこと。
今のこと。