勇気を出して部屋に戻った紫は、せんべいを食べていた。
水を飲み、喉は潤った。
万事OKである。
紫はそう思いたかった。いや、そう思う予定だった。藍がいそいそと外に出るような支度をしていない限りはそうだった。
何かを訴えるがごとく、目に入る範囲で準備をする藍に、紫はだんだん腹が立ってきた。
――いったい何なのだ。
当てつけなのか。そうなのか。
そうやって紫の内の何かが沸き立ちかけた時、ある不安がよぎった。
――まさか家出とか?
色んなものが一気に引っ込んだ紫は、おそるおそる聞いてみた。
「……藍、どこかいくの?」
うかがう様な紫の視線に、藍は冷たく返した。
「――紫様の後始末に行くんです」
視線だけでなく、声まで冷たかった。
――これはいけない。
上下関係はきっちりさせなければ。しかし、よくよく考えるとこれは藍が代わりに全てやってくれるということかもしれない。持つものは優秀な式。主人としても鼻が高いといえよう。
「じゃあ、あなたに任せていいのね」
ぬるくなったお茶をすすりながら紫はそう言うと、だらりと背を倒して寝転がった。一安心といった感じである。
藍は紫にずずっと近寄った。
「……ゆかりさま? 一緒に、協力して、共同で、ことにあたりましょう」
「え、でも……」
面倒くさい、それはギリギリ呑み込んだ。
「『でも』ではありません。先ほど紫様はなんとおっしゃいましたか?」
「ポテチ?」
「違います」
「じゃあ、あの、……アレがアレした感じのやつ?」
「意味が分かりません。そうではなく、『カリスマがあべこべになった』の件についてです。――これは早急に対応しなければいけません。これが事実ならば幻想郷内のパワーバランスが崩壊してしまいかねない案件です」
「その時は霊夢でも使って解決させればいいじゃない」
「あの春っぽい巫女は異変にならないと動きません。我々は異変になる前に手を打たなければならない、そうではありませんか?」
「……一理は、あるわね」
「百理くらいあります。このままでは下剋上が流行り、幻想郷内に戦国時代が訪れてしまうことになりますよ」
「戦国、紫の野望ってわけね。面白そうじゃない」
「何言ってるんですか。パズルゲーム以外は不得意でしょう」
「藍こそ何言ってるの? 私はこの間アクションゲームでボスを倒したばかりよ。貴方も見てたでしょう?」
「ええ、見ていましたよ。せがまれましたからね。しかし紫様、あれはボスには違いありませんが、あれは序盤も序盤、いってみればルーミアみたいなものです」
「何がルーミアよ。私はあれを倒すのに三日かかったのよ。ルーミアみたいなもののわけないわ」
「残念ですが、あのボスは橙が一時間で倒していました」
「あなたの式はゲームの才能にあふれてるのね」
「――いいからさっさと出発しますよ」
この冷たさはいったいなんなのか。紫は思わずそう思った。確かにやらかしてしまった責任はあるのかもしれないが、藍は式である。主人にもう少し優しくできないものか。
紫はあれこれとグチグチ言いながら、幻想郷の上空まで連れられてきた。
幻想郷はまだ昼過ぎといったところ。周囲はたいへん明るく、紫はスキマから日傘を取り出した。帰りたかった。
寝起きのように目を細め、だるそうにしている紫に、藍は逃がさないと言わんばかりに近寄った。
「まずはどこから行きましょうか?」
「……霊夢のところ、かしら。あの子に何かあってたとしたら色々と面倒だし」
「さすがは紫様。では、博麗神社へ向かいましょう」
「ええ」
紫はスキマを作った。
紫が中へ入ろうとすると、藍に引き留められた。
「紫様、この度は調査も兼ねていますので、飛行していきましょう」
面倒とか面倒とか面倒とか、色々思うところがあった紫だが、『さすがは紫様』と言われたこともあり、従者の意見にも耳を傾けることが出来る器量を優先した。
神社までの道のりは、『さすがは紫様』という音声を脳内で何度もリピートさせながらのものになった。例え棒読みっぽくても、嬉しい者は嬉しいのである。
それはともかく、上空から見下ろす幻想郷の風景に特に変わったところは見当たらなかった。案外問題なかったんじゃないのかと思い始めてきた紫である。
見えてきた神社もどことなく春っぽい感じがした。
パッと見たところ、人の姿がなかった。
「中かしら?」
霊夢は境内でホウキを左右に動かす運動をしていることが多い。落ち葉なんかは隅にやっときゃ目立たないの精神である。気になるくらいに溜まったら、どこぞの天狗をしばきたおして風をおこさせ集めさせ、その後魔理沙がどっかの姉妹から頂戴してきた芋を使い、魔理沙が八卦炉で火をおこし、魔理沙が芋を焼く。やきいも美味しい。
紫は中へと入った。
昼過ぎであるが、あの巫女は寝ているのかもしれない、紫はそう思った。
「れいむ~? あ、いた」
布団の中で涎を垂らしながら、ぐっすり熟睡している巫女を見つけた。
半ばあきれながら、紫は布団を剥ぎ取った。
「霊夢? 起きなさい」
霊夢の目がぼんやり開いた。
「……ぅん? 紫? ……何か用?」
霊夢の目はトロンとしていて、全体的に締まりがなかった。
「……もうお昼の時間よ。たるんでいるのではなくて?」
のそのそと起き上がった霊夢は、ぐぐっと背伸びした。
「いいじゃない。平和なんだし」
「平和であるということは、平和でなくなるということもあるということよ。あなたは博麗の巫女、そこを忘れてはいけないわ」
「うっさいわね。別に忘れてなんかいないわよ。ただ良い陽気でしょ? どうせ起きてても昼寝するんだから、起きなくても同じじゃない」
たしかにもっともかもしれない。そう同意しかけたが、後ろから狐の鋭い視線が刺さったので話を進めた。
「貴方、何か変わったことはない?」
「別に何も変わらないけど? 見てのとおりよ」
「……そのようね。邪魔したわね」
「――え、もう行くの?」
「やることがあるのよ」
「あっそう。何かあったら言いなさいよね。私は博麗の巫女なんだから」
「はいはい、言われなくてもそうするわ。――それじゃあね」
紫は神社を出た。
付き従う藍に、紫は振り返った。
「とりあえず霊夢には異常がないみたいね」
「そのようですね。少しは異常があった方がいい気もしますが」
「それは、……今はいいわ。――それより、霊夢の様子を見ての私の推測なんだけど」
「はい」
「異変が生じた者はおそらく、カリスマが際立った者が影響を受けている。そう考えられるわ」
「さすがは紫様。ご明察かと」
紫の鼻が高くなった。
実際は、自分のやらかした事なのでおおよそのことは分かっているだけでもある。
「では、まずはどこへ向かいましょうか」
「え? そんなの適当に飛んでれば何かにあたるんじゃないの?」
藍が何か残念なものを見る目で見てきた。
「……紫様」
気まずくなった。
紫は無言で適当な飛行を開始した。
適当な飛行といえども、八雲紫という存在はかなり目立つもの。人里を歩けば、口には出さないものの多くの人間が「あ、八雲紫だ」「今度は何しに来たんだろう」などと思うのである。彼女の余裕気な笑みは何か裏を感じさせるし、何よりあの美貌である。
おしゃべりで、胡散臭い。そんな印象の八雲紫であるが、嫌われているわけではない。
当然、人里人間等関係なく、そのへん飛んでるだけでも目立つ。
紫に寄ってくる者がいた。
緑の髪の妖精。
他からは大妖精と呼ばれている存在である。
「――あ、あのっ」
大妖精は、緊張したおももちで紫に声を発した。
それに対し紫は、余裕のある態度で対応した。
「何かしら? おおかたの想像はつきますけれど」
「――はい。あの、チルノちゃんが、えっとその……」
言いよどむ大妖精、紫は察した。
「実際に見た方が早いようですわね」
「助かりますっ」
急ぐ大妖精に案内され、霧の湖までやってきた。『霧の』というだけあって、霧が立ちこんでおり視界はすこぶる悪い。とはいえ妖精や妖怪にとってすれば、さほどのことではない。
「冷えるわね」
紫の帰りたい度がぐんと上がった。
春のうらら、家が恋しくなった。
しかし、藍の一言で現実に戻された。
「紫様、あれを――」
藍が指した先には、大きな氷柱に囲まれた氷の妖精がいた。
チルノである。
視線が交差した。
「ほう、我に仇成す者か。それとも我が軍門に下るか?」
腕を組み、のけ反りながら、氷の妖精チルノは「フハハハ」と高らかに笑い出した。
「紫様」
「――分かっているわ」
状況は良くない。二人ともそう判断した。
冗談のつもりが本当に幻想戦国時代になりかけている、そう思った。
止めるには、まずここでチルノの野望を砕かねばならない。
藍が紫の前に出た。
チルノは値踏みするような視線を藍に送った。
「まずはうぬか。冬眠程度には加減してやろう」
明らかな挑発に藍の目が細まる。
強い妖力が藍から発せられ、九つの尻尾がふわりふわりと怪しく揺らめき始めた。
それを見るチルノに、恐れの表情はない。
「中々だと褒めてやらんでもない。だが、最強たる我が力には及ばないようだな」
「――何だと?」
妖精の分際で口がすぎる、藍は牙と共に敵意をむき出しにした。
藍の力は間違いなくトップクラスである。それを実際に感じているはずなのに、恐れのひとつもないというチルノに紫は疑問を持った。
とても強がりには見えない。
――これは良くないかもしれない。
紫は藍に近寄り、藍の肩に手を置くと、
「――ここは私がやるわ」
交代を告げた。
「しかし、紫様!」
抗議の意を込め、藍は紫を見た。
藍が見た紫は真剣そのもので、管理者の顔をしていた。
藍の忠義が意思をしりぞけ、頭を垂れさせた。
藍が後退すると、紫は日傘をスキマへと収納し、代わりに扇子を出した。
扇子を広げ、悠然と微笑みながら、ゆるやかに扇ぐ。
「存在の枠を超えてしまうのはいけないことよ。境界からはみ出してしまえば、それは貴方を不幸にすることになる。それすらも分からないようなら、一度消えてしまうのもいいのかもしれないわね」
扇子に描かれた黒い蝶が怪しげに揺らめいた。
それでも、チルノの態度は変わらない。
「――問答はいい。我、最強。真理はそれのみ」
紫の最後通牒を受け取ったチルノは闘志をむき出しにした。
紫は氷の妖精を見やると、酷薄な表情で妖力弾を放った。
――情報収集。
紫はチルノをそういう対象で見た。
紫の放った妖力弾は、以前のチルノがぎりぎり当たるレベルに加減されたものだった。
チルノは迫り来る妖力弾に対し、余裕をアピールしながら左へと避けた。が、ぎゅるんと曲がり、霧を散らしながらチルノを追尾しはじめた。
チルノは自分の中の最高速度で辺りを飛び回り、追尾から逃れようとしたが、いかんせん妖力弾の速度が速く、振り切れそうになかった。
チルノは対処の仕方を変えた。
身を反転させ、向かい撃った。
「我、最強! 故に、――最強っ!!」
チルノが眼前にまで迫った妖力弾を打ち落とそうと、力を溜めた時、妖力弾は即座に反応、加速し、チルノの抵抗を許さず、その身に到達した。
「ふ、不覚――」
チルノはその一撃で沈んだ。
紫は二、三度、目をぱちくりさせた後、後ろへ振り返った。
「……どういうことかしら?」
傍観の立場にあった藍はその答えが出ていた。
「カリスマ”だけ”あべこべになった。そういうことだと思われます」
「……そうみたいね」
本当は、即座にその答えを導きだした紫であったが、認めたくない心がその答えを拒否した。だが、超高性能な頭脳をもつ紫は否定できないでいた。望みをかけて藍に問いかけてみたが、やはりその結果は変わらなかったのだ。
何ともいえない表情で固まったの紫に対し、藍は解決を急いだ。
「紫様――」
紫はそれだけで理解した。
「分かっているわ。手分けした方がよさそうね」
「はい」
「私は力の強い方を回るから、あなたはああゆうのをお願い」
紫は湖に沈んだチルノへと視線を向けた。
まったく無駄な苦労をしてしまった。紫はこれからの苦労も考えると肩が重くなるのを感じた。
「まったく――」
一体誰のせいでこんな面倒ごとに。そこまで考えると、紫の超高性能な頭脳は、わざとらしくその機能を停止した。
「……このまま帰ったら、ご飯抜きかしら?」
誰かにたかろうかと思ったが、ご飯を用意してくれそうなのが霊夢くらいしかいなかった。さすがの紫もそれはためらった。
やはりたかるのなら、金持ちからである。
ちょうど近くであるし、そう決めた。
妖精が増長するくらいであれば問題ないが、逆であれば本当に下剋上がおきてパワーバランスが崩れかねない。
開いたスキマの先を我が家にしようか本気で迷ったが、覚悟を決め紅魔館へと繋いだ。