紫の髪の乙女、という者がいる。
ギリシャ、北欧、ケルト、中国、インドと言ったユーラシアの広範に分布する各神話に登場する共通項目を持った人物達であり、各神話の様々な時代と場所で多くの英雄英傑らと語り合い、時に助言や予言を残して流浪し続ける人物だ。
彼女達は常に翼の生えた馬と巨躯とそれに見合う剛剣を携えた偉丈夫を連れ、多くの知識と技を有していると言う。
そんな彼女達の正体は、各神話よりも更に古い時代、その地にて信仰されていた地母神を始めとした土着の神やその巫女達ではないかと言われている。
これには生命や不死、転生の象徴である蛇を彼女達が眷属として用いていた事からも窺える。
そのためか、彼女達は多くの神々や人々からも追われていたと言う。
特にギリシャ神話では女神メドゥーサとして登場し、女神としての地位を返上し、人に零落した後は人々に迫害され、最後には大魔獣となってギリシャ中の英雄英傑に退治された。
だが、此処で一つ疑問が残る。
どうして彼女達は、そんな目に遭っても旅を続けたのだろうか?
多くの神話で追われたからこそ、安住の地を求めて放浪していたのだろうか?
それとも単に遊牧民の様な旅を続ける事そのものが生活様式だったのだろうか?
多くの学者・識者が論じてきたものの、その答えは出ない。
そこで、新たに一つの説を提唱してみよう。
全く根拠もなく、仮定の話ではあるが……彼女達は何かに備えていたのではないだろうか?
ギリシャ神話の悲劇の予言者ことカッサンドラの様に、彼女もまたその予言の力によって何か大きな災厄を予知していたのではないだろうか?
事実、ギリシャ神話における紫髪の乙女は自身と近しい存在であるゴルゴーンの復活を予言し、ギリシャ中の英雄達を鍛え上げた上で、一つに纏め上げて対処させた。
もしこの説が正しいのならば、彼女達は一体どれ程の災いを予見してしまったのだろうか?
他の多くの神々や人々から迫害されようとも、それでもなお奔走し、流浪する必要があったのではないか?
彼女達の困難極まる旅路は、果たして実を結んだのだろうか?
疑問は尽きる事はないが、しかし、解り切っている事だけは一つある。
全ての答えはきっと彼女達しか知らないと言う事だ。
……………
間桐邸の地下、修練場と言われる魔術工房、その本質は人食い蟲の死徒の巣。
そんな場所で、10年ぶりに英霊の召喚が執り行われた。
「サーヴァント・ランサー。召喚に応じ参上しました。」
ソレは圧倒的な美と神秘の化身だった。
紫紺の髪は艶やかに波打ち、身に纏う純白のキトン(内衣)をその上から纏う灰地に黒く細かい刺繍を施されたヒマティオン(外衣)は一目で超一級の概念礼装である事が分かる。
そのたおやかながらもしなやかな力強さを感じさせる右腕には、鈍い鉄色の槍が握られている。
薙刀にも似た婉曲した片刃の穂先を持つソレは、彼女が生前冥府において金剛鉄と冥府の水を用いて鍛え上げた「不死殺しの刃」だ。
同様の武器はギリシャ神話において天空神ウラヌスの去勢に巨人アルゴス、ペルセウスの怪物退治にも使用されており、有名な持ち主ではヘルメス、作成者にはヘパイストスが挙げられる。
だが、そんなもの等どうでも良いと言わんばかりに、最も目を引くのはその美貌だろう。
黄金律とでも言うべきか、その美貌は誰の目からも明らかであり、その全身のほぼ全てが黄金比と言われる絶妙な比率を持っており、老若男女問わずに魅了する程のものがあった。
これぞ正に神々が愛した美貌、神造の美と言えるものだった。
では、それを真正面から見た者は一体どうなるだろうか?
「……………。」
真正面から直撃してしまった間桐慎二は至極分かり易かった。
あんぐりと口と目を開け、魂消た様に呆然自失していた。
「こりゃ、慎二。」
「は!?」
それこそ、臓硯が杖で殴らない限り正気に戻れない程度には。
斯く言う臓硯は忘れてしまったものの、凄まじい恋心故にこの程度では動じなかった。
「…やはり、私の顔はこの時代の人間には刺激が強すぎる様ですね。」
そう言って、ランサーはヒマティオンに付いていたフードを被り、その美貌を隠してしまった。
まぁ無理もなかった。
神話の時代、本当の美や芸術の女神達が存在する時代においてもなお、その美貌と料理の腕を讃えられた女神の成れの果てが彼女なのだ。
伊達に多くの人間達から迫害(と言う名の捕獲作戦)され続けていた訳ではないのだ。
「そうだ!お前の名前は?何処の英雄なんだ?」
これ以上臓硯の前で失態は見せられないと、正気に戻った慎二は制服の上から羽織っていたコートを肌寒い地下室で全裸だった桜にかけると美貌のランサーへと疑問を投げた。
「私は形無き島に住む三女神の末。神籍を捨て、放浪を続け、遂には怪物に成り果てた者。」
その言葉で、知識にだけは長ける慎二と齢五百を超える老練な魔術師たる臓硯は目の前の存在が何であるかに気付いた。
「名をメドゥーサ。この時代でも、私の名は伝わっているかと。」
「マジかよ…。」
余りのビッグネームに、慎二は呻いた。
メドゥーサ。
その名は魔術に関わる者にとって、重大な意味を持つ。
ギリシャ神話に登場する女神、その中でもギリシャ神話成立以前に起源を持つ古い地母神の系譜であり、神秘的な意味でも彼女の成した功績は多い。
魔術の女神ヘカテーに師事し、生涯に渡って研鑚と努力を惜しまなかった彼女は、その結果として多くの知識や技術を身に着け、後世へと弟子や師匠達を通じて多くの影響を残した。
その功績は蟠桃と言われる中国神話に由来する仙桃の輸入・栽培・加工を筆頭に、当時のギリシャ内外を問わぬ多くの知識や技術を体系化し、青銅版や石板、粘土板等にそれらを記録し、後世へと残した事だ。
特に彼女の得意とする料理に関する記述は多岐に渡り、純粋に美味いだけでなく「食べただけで長期的な魔術的恩恵を受けられる」事もあり、多くの魔術師の研究対象となっている。
その中でも胎盤となる女性への効果は著しく、衰退著しい魔術師達は中世の頃より挙って彼女の残した粘土板や青銅版、石板を探し集めていると言う。
無論、散逸してしまったものや翻訳版に未だ世間には公開されていないものを含めれば、その総数は未だに不明である。
そんな魔術師として絶対に無視できない存在が、その一側面だけとは言え、目の前に存在しているのだ。
凡百の魔術師ならば、ここで令呪全画を用いてでもその知識を吐き出させる価値があるだろう。
(これはまた、とんでもない大当たりじゃな…。)
この望外の幸運に、臓硯は内心でほくそ笑んだ。
元より、通常の英霊が善悪問わず自分に従うとは思っていない老獪な魔術師の考えることは、慎二と桜を用いて、如何にランサーにやる気を出させる事だけだった。
(本来は次々回こそが狙いだったのじゃが…。)
だが、呼び出されてきた者は余りにも破格な存在だった。
何せほぼ神霊であり、同時にギリシャ世界最強の怪物の双璧でもあるのだ。
凡そ臓硯の記憶にある限り、間桐が呼んだサーヴァントとしては間違いなく最強だった。
(器の仕上がりもよく出来ておるし…賭け時、かのぅ?)
腹の内で様々な算段を立てる老人を余所に、慎二は魔力を消費した桜を気遣っていた。
「桜、歩けるか?」
「は、はい…何とか…。」
「ランサー、早速で悪いけど桜を部屋まで運んでくれ。」
「分かりました。では失礼しますよ。」
ひょいと、猫の子でも抱える様にランサーは軽々と桜を抱えて蟲蔵から出る階段へと向かう。
その道中、先程まで我が物顔で周囲を這っていた蟲達はランサーとの根本的な格の差を本能的に悟ってか、必死に蔵の端へと這って行った。
(根源を目指す魔術師とは、やはり何処まで行っても愚かですね。)
腕の中のか弱い温もりに、ランサーは内心で愚痴を零す。
あの蟲の翁はどう控えめに見ても人食いの類だろう。
それを黙認する協会も、割に合わないと退治しない教会も、彼女にとっては唾棄すべきものでしかなかった。
まぁ、優先すべき事が他にあるので、具体的な行動はしないのだが。
(取り敢えず、この二人との相互理解が大事ですね。あの蟲は暫くは放置で。)
とは言え、腕の中の少女に巣食う蟲の排除は隙を見て行うつもりだった。
それは血の繋がりが無いとは言え、兄と妹の確かな情を確認できたからこそだった。
声無き声で助けを呼んでいた妹への同情、そしてそれを助けようとも力及ばず打ちひしがれる兄への、彼女なりの報い方だった。
これがもし原作の様な在り様であれば、ランサーは少女を助け、蟲の翁を殺し、大聖杯を完全に破壊した後にとっとと冥府へと帰っていただろう。
だが、この世界線においては、慎二はかなりまともに兄として振る舞っていた。
どんな理由があったかは定かではないが、それは彼女が兄妹を助けるのに十分な理由だった。
「そう言えば、二人の名前を聞いていませんでしたね。」
「間桐…桜です…。」
「間桐慎二。一応この家の跡取りだよ。」
おずおずと言う妹と、虚勢を張って告げる兄の凸凹な様子に、ランサーはほんの僅かに頬を緩めた。
「それでは慎二に桜、今後暫くは宜しくお願いします。」
これは少しだけ面白くなりそうだ、とランサーは内心で期待を抱くのだった。
ふぅ…久々に長文書くと疲れるな(汗
今回は長々とプロローグでしたが、次回は人理焼却までサクサク巻いていく予定です。