「・・・嫌だよね」
暗闇の廊下を行く途中、真が呟いた。
彼女の後方に続く9人には、その言葉の真意が解らなかった。
「・・・何が?」
逸早く、後の春香が真情の披瀝を求めた。
春香は、先程の部屋から、意識を取り戻さない千早を負ぶって歩いている。
響や美希が所持していたハンカチで、顔と身体の汚れを或る程度拭き取ったが、顔色は一向に優れない。
春香はそんな千早を気遣いつつ、真の応答を待った。
「皆、部屋に残るのなんて、嫌に決まっている。だろ?」
今度は問い掛けの口調に変わる。
しかし口を開く者は中々現れなかった。
答える迄も無いとでも言いたいかの様に。
「ええ、左様です。誰一人とて残りたくは無く、残らせたくも無い」
沈黙の後、貴音が力強く言い放つ。
春香を含めた幾人かが小さく頷いた。
「真君、どうしてそんなことを言うの?」
列の後尾辺りから、真に尋ねたのは美希だった。
何故この時機に、仲間の不安感を焚き付ける様な事を口走ったのか。
春香や貴音達も、その事は気になっていた。
何か意図があるのだろうか、と。
「・・・安心して」
真は最初の呟きと同じ音調で、問いに答えた。
「えっ?」
思いも掛けない言葉に感嘆符を上げる美希。
この状況で、しかも自ら否定的な事を言っておきながら、彼女は何を安心しろと言うのだ?
美希達には理解しかねた。
しかし春香には、彼女の呟きからある疑念が脳裏を掠めた。
それとほぼ同時に、声が漏れ出していた。
「・・・ちょっと、まさか真―――」
視線を前方に注いだ儘で、真は春香の言葉を待たず語り出した。
「次の部屋が、残る人間をボクらで決められる様な仕掛けだったら、ボクが残る」
辺りが、どよめいた。
「ちょ・・・ちょっと、真、何を・・・」
戸惑う響。
「冗談はよしてください・・・!」
牽制する貴音。
他の面々も、同様の事を言いたげだった。
勿論、春香も。
何を言っているのだ。残ると云う事の指す意味を、判っている筈だろう。
その心情は、言葉には為らなかった。
「ばか・・・。そんな度胸も無いのに、ヒーローぶらないで欲しいの」
そんな中で、独り冷たく遇うのは美希だ。
さらに続ける。
「それに、こんな地獄はもう終わりなの。真君が残る場所なんてない」
「・・・美希」
春香は美希に小さく声を掛けた。
彼女の発言は辛辣さを含んでいた。
しかし、春香には、真に居なくなって欲しくないという想いの裏返しにも思えた。
先程も考えていた事だが、此の場所はまず地下と見て間違い無い。
道が「上り」でないという事は少なくともこの先は地上ではないのだ。
だから美希が次で終わりと気休めを言うのは、再び誰かが犠牲になる事を恐れているからなのである。
「まあね。その時になったら、怖気付いて逃げ出しちゃうかも」
振り返り、真は美希に答えた。その顔は笑みを浮かべて含羞(はにか)んでいた。
「・・・ふん」
呆れた様子で美希は俯き、軽く息を吐いた。
ただ、残ると宣言した時の真の表情は、揺るぎ無い信念に満ちていた様に見えた。
それから直ぐに視線を前に戻し、言った。
「ほら、扉だよ」
指摘通り目の前に現れた、見慣れたあの鉄扉。
この先に、地上へと続く階段があるのだろうか。
或いは、天国へと自分達を導く階段か。
「さあ、行こうか」
言いつつ、真が扉を開け放った。
その奥の部屋には、何も無かった。
本当に、何も無い部屋だった。
いや、正確には奥へと続く扉が在るには在る。
だが、其れ以外には、空間も椅子も、更にはあのモニターさえも見当たらない。
これ迄の部屋よりやや小さめの、正方形の部屋。
「何だ・・・?何にも無いじゃないか」
真は周りを見渡しつつドアに向かい、先への扉を確認した。
が、案の定開かない様で、首を横に振って部屋の中央に戻ってきた。
「しかし、モニターすら無いのでは何を行えばいいのか分かりかねます」
貴音が冷静に一言。
「そうだね・・・」
春香が応える。
確かに、此処まで「こうしろ」だとか「残って頂く」等の案内がモニターによって為されていた。
其れが無くなってしまったのでは、八方塞になってしまう。
「一旦、休憩にしよう。千早も心配だし、落ち着く為にもさ。それに、待っていたら何かあるかも」
真がその場に座り込み、仏頂面で頬杖を突いた。
「う、うん」
「ええ・・・」
と、響達もそれに従った。
春香もしゃがみ込み、背負っていた千早を自身の膝枕にそっと寝かせた。
そして、なるべく優しい手付きで頬を撫ぜる。
早く眼が覚めます様に、と願いを込めて。
稍あって、美希が近付いて来た。
「春香・・・この部屋の事なんだけど」
「美希?」
やり場の無い目を伏せたまま、美希が不安げな口調で春香に耳打ちをしてきた。
「今までの事から考えて、一つの部屋で一人が残るのだとしたら、何も指示されてないこの部屋では・・・」
「何・・・?」
「ここで誰か一人が弱って倒れるまで出られない、って事なんじゃ・・・」
「えっ・・・」
どくん、と心臓に氷水をあけられた様な嫌な気分になった。
思わず、膝元の千早に視線を落とした。
「何言ってるの、流石にそんな事・・・」
在り得ない、とは言い切れなかった。
こんな事を企む悪辣非道、残虐且つ冷酷、悪趣味な犯人の事だ。
其れ位の凶行は平気で仕掛けて来るかも知れない。
それでも親友を不安にはさせまいと、春香は詭弁を弄した。
「・・・いやでも、それならこっちを確認するモニターか何かが必要なはず。でも、見た感じそれらしい物はどこにもない。だからきっと、それはないよ」
その言葉を受けて、美希はきょろきょろと天井と壁を見回した。
「ん・・・確かに、それもそうだね。でも凄いね、春香は。こんな時でも冷静で」
不器用に笑いながら、美希は春香を労った。
「うん、まあね。皆で出られるって信じているから」
既に一人、痛ましい犠牲者が出た事を忘れた訳ではないが、春香にはそう言う他無かった。
春香も笑みを返して、美希に訊き返す。
「それに、美希だって落ち着いて見えるけど」
「いや、ミキは駄目なの。もう、怖くて、怖くて、心が押し潰されそうで・・・」
言いながら、ギュッと自らの胸元を掴む美希。
その手は震えていた。
「うん、そうだろうね。皆もそうだと思う」
彼女が努めて普段らしく、溌剌として大人っぽい『自分』を振舞おうとしているのは分かっていた。
しかし、その中身は至って普通の幼気な乙女なのだ。
春香には、彼女に圧し掛かる恐怖が手に取る様に感じられた。
「きっともうちょっとで出られるよ。頑張ろう」
ただ、励ましの言葉を繰り返す。
自分には、それしか出来ないんだ。
皆を勇気付ける事しか。
「・・・ありがとう、春香」
励まされる度、美希は感謝の言葉を述べる。
春香が美希の顔を見詰める。
その碧色の瞳は鮮やかに潤んでいた。
「・・・はあ、此の儘じゃ埒が明かないな。壁かどこかに仕掛けがあるんじゃないの?」
何かが起こる気配も無いこの状況に、痺れを切らした真が立ち上がった。
「ああ、確かに。隠し扉みたいなのがあったりして」
応えつつ、春香は一旦千早を膝枕から下ろし腰を上げる。
それを見て、隣の美希も一緒に立つ。
「うん、そうかもね」
「よし、じゃあ部屋を探ってみるか。春香たちは右側の壁を調べてくれる?」
「ん、分かった」
真が願うと、春香達はすぐさま次のドアに向かって右手側の壁に歩いて行った。
他のアイドル達は、部屋の中心に座ったままで、真や春香の動向に注目していた。
貴音は、しきりに中央付近の床や天井を注視している。
「よし。とりあえず壁を叩いたり押したりしてみよう」
真は部屋の手前の端から、こんこんと手の甲で混凝土の壁を叩いていく。
しかし、特に変わった様子は無く、冷たく固い感触しか伝わって来ない。
日本の忍者屋敷に代表される、くるりと回転する壁の仕掛けは良く聞くが、
この様な混凝土ではそれも考えられないだろう。
「前みたいに、床にも何かあるかも」
春香は、壁だけでなく天井や床も注視した。
しかし、何もおかしな所は無い。
「・・・あのさ」
「どうしたの、響」
「なんていうか、さ・・・その・・・じっとしてようよ、もうちょっと」
地面を見つめながら、我那覇響が淡々と言葉を発する。
「このまま待ってたら・・・きっと、救助が来るかもしれないさ。下手に動くより、それを待つほうが・・・いいかなって」
調べている春香たちの顔を見ようとはしない。
「・・・うん、だから響はじっとしてていいよ。ボク達がなんとかするから」
真は、努めて優しげに、そう返した。
「だから・・・真たちも危ないし・・・みんな何もしないで待とうよ」
涙声で訴える響。
「・・・うるさいなあ」
ぼそっと、しかし確かに、真がそう呟いた。
「えっ・・・」
響が顔を上げる。
「いいよ、僕がみんなを助けるから。じっとしてるより、雪歩たちの生存に賭けて早く前に進まなきゃ」
そう語る真の顔は、響の瞳には何故だか恐しく映った。
響はすぐさま目を逸らし、おずおずと、こう呟いた。
「・・・生きてるわけ、ないじゃん・・・」
途端、真が向き直り、響の元に歩み寄った。
響の応答を待たず、真はその右手を振り上げる。
ばちん、と痛烈な音が鳴った。
思わぬ光景に他の者達も動きを止め、固唾を呑んで二人を見つめる。
「ぐうっ・・・!うう・・・まこ・・・」
「あのさ、そういう事言わないでくれるかな。ボクもみんなも恐怖に負けないように必死なんだよ」
「ひぅ・・・うぅ・・・えぐっ・・・だって、怖いもん・・・分かんないんだもん・・・」
子供のように嗚咽を漏らし泣きだす響。
「ま、真!響ちゃん、大丈夫?」
春香が思わず制止に入る。
「響は、もう黙って座っていて。怖いならさ」
「そんな言い方って・・・」
「春香も早く家に帰りたいだろ?誰かがやらなきゃ、ボクらはずっとこのままだ。だからボクはやる。それだけなんだ」
それだけ言うと、真は壁を調べる作業に戻った。
「・・・ミキも、もうちょっと調べてみるね」
美希は、響を庇う春香にそう告げて、先程まで調べていた方へと戻った。
泣き止まない響を見つめながら、春香は思った。
「動かない」仲間達の事を。
部屋の真ん中で真達を手伝おうともせず黙々と傍観している仲間達を。
彼女達は恐ろしいのだろう。
死が。その恐怖が。
失神している千早と、冷静に皆を制御してくれている貴音は兎も角として。
少なくとも響や伊織達はそうだ。
ずっと自分の許に擦り寄っていた亜美と真美も、今は真ん中で響達と共に自分を見ている。
要するに、死の危険性を回避したいのだ。
出来る事なら、危険を伴う探索は、他の人間に任せていたいと願っている。
もしくは、他者の迂闊な行動によって自身に危害が及ぶことを危惧している。
だから動かない。
共に探索するという選択肢もある筈なのに、それをしない。
それに関しては、当初春香は仕方が無い事だと思っていた。
極度の恐怖に曝されれば、誰でもそうなるものだと。
しかし一連のやりとりの中で、狡猾、卑怯いった侮蔑の念も抱きつつあった。
この耐え難い死の恐怖を撥ね除けて、自分達を生かしてくれた人物が居る。それなのに。
雪歩に較べて、この人たちはなんて薄情なのだ―――、と。
無論、そんな感情が全てでは無く、今は未だ信頼の方が強いが、春香は僅かな不安を抱えていた。
彼女達は、いつか私や仲間達を蹴り落として助かろうとするのだろうか・・・。
「・・・うーん、こっちは何もないみたいなの、たぶんだけど」
そんな事を考えている内に、美希は自分側の壁、床、天井を調べ終えた。
美希は真の方を振り向いた。
「真君、そっちは・・・」
「うわっ!!」
突如叫んだ真の半身が、消えていた。