如月千早の眼前に広がる光景は、修羅場と言うに相応しかった。
ゆっくりと、しかし確実に沈み行く天井。
その下で鉄柵に獅噛み付いて藻掻く少女。
最早、事務所で会う明るいアイドルの面影は何処にも見当たらなかった。
それも至極当然である。
あの儘、天井が下がっていけば、間違い無く過重な混凝土の下敷きになるだろう。
「吊り天井」━━━━誰もが、フィクションの世界にしか存在しないと思っていた。
それによって、高槻やよいは死ぬ。
先程の映像の様な不確定な死や、虚構、演技などでは決してない。
紛れも無く、死亡する。
絶命。圧死。惨死―――。
やよいのその姿は、凡そ殺処分を待つ獣の其れで。
「ひ・・・ひぃぃ・・・!」
耐えられなくなり、奥の壁に背を預け、耳を塞いで俯く千早。
「あぁっ・・ああああっ・・・」
何も聞こえない様にと、声を漏らす。
必死に、目の前の惨劇からの逃避を試みる。
自分は助けに行けないから。自分には何も出来ないから。
勿論、最初は鉄柵を開こうとした。
しかし、所詮は無力だった。
大人の腕程の太さもある鉄柵を女の力で捻じ曲げられる筈が無いのだ。
既に、本来の高さの丁度半分ほどの位置まで、天井は迫って来ていた。
恐らく、数分後には、自分の目の前で、高槻やよいは・・・。
そんな未来が過った時、千早の脳髄に、再び嘔吐感が込み上げて来た。
「うう゛・・・うげぇぇぇっ」
目前の絶叫と地鳴りに、びちゃびちゃと自らの液体音が混ざり合う。
「・・・千早ちゃん!大丈夫!?」
隣から天海春香の気遣う声が聞こえたが、それに反応する余裕など無かった。
三浦あずさの映像を見た時に内容物を粗方戻していた為に、今は胃液しか吐き出せない。
しかし、嘔吐感は止め処無く襲い掛かり、汗、涙、洟、涎といったあらゆる体液と共に溢れ続ける。
そしてそれは、目の前で泣き叫ぶやよいも同様だ。
「ち、千早さん!千早さんっ!たっ、助けて!助けてよ!死にたくないよぉぉぉ!!」
塞いだ手の隙間から、自分を呼ぶ声がする。
どうして自分を呼ぶんだ、と千早は思った。
目に見えている人間を呼ぶのは妥当ではあるのだが。
「ああああ・・・ああああああああっ・・・」
千早は、聞こえない、振りをした。
聞きたくなかった。
どうせ救えないのだから。
嫌だ。辛い。
吐瀉物の悪臭と口腔内の残滓の酸味が、千早の気分を更に悪化させる。
涙が止まらない。
噛み締めた唇から、新たに真紅の体液が伝い落ち、白濁の水溜りを色付けた。
千早に考え付く選択肢は唯一つ。
祈り続ける事だけだった。
この修羅場よ、如何か直ぐにでも収束して―――。
「嫌っ!こんなのやだあああっ!誰かああああ!!」
天井だった混凝土は今や空間の2/3を埋め尽くしている。
やよいは床に身体を伏せ、叫び続ける。
「伊織さんっ!真さんっ!何で誰も助けてくれないのよぉぉおお!?」
「やよい!やよいっ!!」
「やよい・・・!」
他の者達には、名前を呼び返す事しか出来なかった。
大丈夫、落ち着け等という言葉すら掛けられない。
寧ろ、声を掛けるのはやよいに名を挙げられた数人だけで、他の誰も口を開こうとはしなかった。
名を呼び、励ましの言葉を掛ければ救われるのなら幾等でも声を掛けるだろう。
この檻を潜り抜け、助けに行けるのなら誰もが一秒でも早く行っているだろう。
自分達もやよいと同じ様に閉じ込められているのだから無理だという事は誰にでも分かる。
本人にだって理解し得る筈なのだ。
しかし、此の非常事態では、思考は正常には働かない。
呼んでしまう。
絶対に現れる事の無い、親友の名を。
「やだやだやだぁ!!もう駄目っ!死んじゃうっ!天井に潰されて、私死んじゃうよぉぉぉ!」
その涙声は完全に嗄れ、まるで老婆の呻吟の様でもあった。
叫んでいるのが本当にやよいなのかどうかすら判らなくなって来る。
声を聞いた全員が、思い描いた。
高槻やよいが堅牢な混凝土に圧し潰されて行く様を。
さっと血の気が引いていく。
死んで、しまうのか。
今、此の部屋で、掛け替えのない仲間が。
此処まで一度もその現場を目撃していない。
だからこそ、全員が気力を保って居られた。
しかし、この流れではもう疑い様も無い・・・。
ついには、やよい以外の全員が黙り込んでしまった。
「ねえ!誰か!何とか言ってよ!怖いよぉぉ!死んじゃうよぉぉぉ!」
誰も答えない。
「ひどいっ!私なんて如何でも良いんですか!?死んだって良いって思ってるのっ!?」
・・・誰も、答えない。
「もう嫌あああああっ!お母さああああああん!死にたく・・・グエッ!」
―――ついに、その時が訪れた。
「ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!ぎい゛い゛い゛っ・・・」
唐突に、それ迄の叫びは異様な呻きへと響きを変えた。
昆虫の鳴き声にも似た奇声に。
同時に、みしみし、と何かが軋む音。
「・・・!やよいっ!?」
春香が咄嗟に様子を窺おうとする。
しかし、其れに応えるのは、怪音だけだった。
「ふぎい゛い゛い゛っ」
ぼきん、と何かが折れる音。
その音の正体は、全員が直感した。
骨が、折れたのだ。
恐らくは、頭蓋骨か脊椎辺りが。
「ググッ、ググウッ」
猶も続く奇声と、軋み。
最中、奇声は段々と弱々しくなり、軋みは鋭く折れる音へと変化する。
「や・・・よい・・・?」
今度は力無く、春香はその名前を呼んだ。
答えは無い。
「これは、まことに・・・現実の出来事・・・なのでしょうか・・・?」
異変が起きてから全く口を開かなかった貴音がやっとの事で喋り出した。
やがて、やよいの声は消え、混凝土の振動音と、不快な骨の軋みと、肉が潰される様な、ぐちゃぐちゃと粘り気のある音が部屋に谺した。
更に、鼻を突く、強烈な悪臭が漂い出す。
そして、この地獄を目の当たりにする、千早。
正確に言えば顔を伏せ、見ようとはしていない。
目前で人間が潰されている、それだけが千早を極限状態に追い詰めるに値する現実だった。
それでも、そっと顔を上げ、顔を覆った指の隙間から元々やよいが居たその場所を細目がちに眺めた。
視界の先には、つい先程まで親友が居た空間は無く、壁だけが在った。
鉄柵の間から飛び出した、血溜りに染め上げられた二本の華奢な腕を除いては。
「あ・・・あぁ・・・」
千早は、自分の下半身がじんわりとした温もりと湿り気を帯びていくのを感じていた。
そのまま、失禁すら気に留める暇もなく、自分から流れる体液が染み込んだ混凝土に身を落とした。
異臭と絶望感の中、全ての音が止んだ。
それから数十秒後、がらがらと鉄柵が大きな音を立てて上がっていった。
「・・・千早ちゃん!やよい!」
春香は真っ先に檻から飛び出し、千早たちの居る右側を振り向いた。
一瞬、息が詰まった。
「きゃああああぁぁぁぁぁあぁ!」
途端に腰が抜け、派手に尻餅を搗いてしまった。
左を向けば、檻から飛び出した二本の腕。
右を向けば、口から血を流し液体の上に横たわる親友。
異常だった。
「大丈夫!?」
「何が起こってるのよ!?」
真や伊織たちも空間から戻ってくる。
そして、全員がこの異常を認知した。
「うっ・・・!?」
「ひぃ・・・!」
「きゃああああ!!」
「う、うわっ・・・!ああっ・・・!」
春香と同じ物を目撃し、同様の反応をする亜美、真美、貴音、響達。
本当に、死んでしまった。
間違いなく、此の場で。
「静粛にしてください!再び取り乱してどうするのです!」
「あ、慌てないで!今みたいな狂騒こそ犯人の思う壺なんだよ!良いのかよ、それで!」
貴音と真が必死に場を収めようとする。
「・・・千早ちゃん!千早ちゃん!!」
恐怖と絶望に煽られた儘、何とか立ち上がり、春香は千早の許へと駆け寄った。
そして、身体を揺すってみる。
返事は無い。
どうやら失神しているようだ。
千早の肩を抱いた手に、ぬるりとした粘り気を感じた。
混凝土上に溜まった液体の臭いが、春香の鼻腔を刺激する。
「うっ・・・」
此処で春香は彼女が失禁と嘔吐をした事に気が付いた。
無理も無い。
目の前でこれ程の惨劇が繰り広げられたのだ、通常の神経ならば失禁だって失神だってする。
春香はぐったりとした千早の身体を背に担ぎ、部屋の中央に戻った。
「・・・行きましょうか」
中央にやよいを除く9人が集まり、真達の働きにより僅か乍らも喧騒が収拾した所で、貴音が先へと促した。
彼女も顔面蒼白、心神喪失といった様子だったが、誰かが促さなければ始まらないと思ったのだろう。
春香達にとっては、尊敬に値する責任感だった。
しかし、今回ばかりは貴音の指示通りにはならなかった。
「亜美・・・もう、歩けないよ・・・足が、震えて・・・」
「真美も・・・」
亜美と真美が弱々しく呟く。
「・・・自分、死にたくない・・・」
ちらっとやよいの肉塊を見遣り、響が続けた。
矢張り、口を突いて出るのは「死」と云う言葉。
誰もが同じ気持ちだった。
「あのさ」
真が一言。
「えっ」
些か怯えた様子で、響が声を上げた。
それに真が答える。
「確かに・・・やよいは、どう見たって駄目だよ。だけど・・・前の部屋に残った子達が死んだなんて決めつけられない」
「それは・・・」
気休めだ、と誰もが思った。
真自身も、気付いている。
現にこうして死人が出たのだ。
これはもう疑う余地など無い。
残ると云う事は、死ぬ事だ。
犯人は、本気で自分達を一人ずつ消していく心算なのだ。
目的など解らないし、知りたくも無い。
だが、今は落ち込んで居る場合ではない。
進む道が有るなら、進んで行くしかない。
希望が残されている限り。
その事を、真は伝えたいのだろう。
親友達にはそれは伝わったが、死の恐怖を拭い去る事は出来ない。
「でも・・・下手に行動して、また誰かが犠牲になるのは・・・」
今度は美希が問う。
「少なくとも、何かのアクションを起こさない限り、仕掛けは動かない。今まで全部そうだったしね。移動、するだけしてみようよ」
「ん、確かに・・・」
「・・・ええ、今はそれが得策でしょう。この悲劇も此処で終わるとも知れません」
真の発言に、貴音が賛成する。
貴音は更に付け加えた。
「さらに、先刻も申し上げた事ですが、未だ雪歩達が救出を待っているはず。僅かでも前進しなければ」
やや強めの口調。
それに美希が不安そうな調子で返した。
「万が一の場合は・・・その部屋で待機するって事もあるの?」
「かもね。けど、もしボクらの家族が警察に通報したとしても、此処まで助けに来るとは限らない。だから、ボクは自力で行きたいんだ」
真の考えは的を射ていた。
窓も無く音の一欠けらも聞こえない事を考えると、恐らく此処は何処かの地下施設だろう。
日本国内ではあろうが、この場所すらすぐには発見されない虞がある。
その上、例の厳重な扉や仕掛けが張り巡らされた中を進むのは警察と雖(いえど)も容易では無い筈だ。
だから、出来るだけ自分達で前に進みたい。
真はそう言いたいのだ。
「うん・・・分かったの」
親友の熱弁に、美希は納得した様子だ。
他の皆も、次の部屋に入るくらいなら、といった面持ちで居る。
「・・・決まりですね。・・・春香、如月千早を背負って歩けますか?」
ずっと千早の様子を見ていた春香に、貴音が尋ねた。
依然として千早は昏睡状態だ。
無論、春香だけでなく、残った全員が千早を心配してくれている。
「うん、大丈夫」
春香は成るべく気丈に答えて見せた。
「よし、行こう。皆の為に」
真が立ち上がり、ドアを開け放つ。
「もう嫌・・・早く帰してよ・・・」
「ひぐっ・・・えぐっ・・・死にたくないよう・・・」
それに重い足取りで続く少女達。
次こそ出口だ。次こそ―――。
春香は胸の内で唱え続ける。
希望からは、未だ手を離さない。
肉塊に成り果てた「元」仲間を遺して、9人は部屋を後にした。
死という名の怪物が、いよいよ少女達の心を蝕み始めた。