「伊織、ボタンを押して」
ぼそりと、千早が言う。
それは、今の春香には、『響を殺せ』と言っているように聞こえた。
おかしいな。みんな被害者なのに。美希や伊織の言った通り、仕方のないことの筈なのに。
「もう、間に合わないわよ、きっと。どちらにしろ私、ここで残るって決めたから」
「・・・貴女にしては、ずいぶんな心変わりね。伊織」
さらに、千早が訊ねる。
「自分でも不思議だわ。それに・・・恐怖も後悔もない。清々しい気分よ」
「美希のことが・・・伊織を変えたのね」
「・・・そうね。あいつのせいだわ。向こうに行ったら、文句言ってやんないと」
「いおりんっ・・・」
「い、伊織ぃ、じ、自分のこと、ひぐっ・・・助けて、くれたのか? そんなことしたら・・・」
「そうよ。ガラじゃないけど、そういう気分になっただけ」
ここで、漸く伊織のボタンが押された。
「あたしは美希みたいにダラダラ喋るつもりはないわ。さっさと次行きなさい」
その言葉を受けて、手元のボタンを見つめながら、千早が口を開いた。
「・・・もし美希がまだここに居たら、きっと二人とも同じことを考えて、それをお互い察して、いつまでもボタンは押されないんでしょうね」
「・・・は?」
「それで、伊織が押して、美希が押してって、二人して意地張り合って。ふふ、おかしい」
「ち、千早ちゃん・・・何言ってるの?」
「・・・でもそうはならなかった。ならないのよ。私じゃあ、ね」
「だ、だから、何が言いたいのよ?」
戸惑った様子の伊織や春香をよそに、双海姉妹が恐る恐る喋り出した。
「ね、ねえ・・・これ、なんで取れないの?」
「全員押したら外れるって、スピーカーの人言ってたよね・・・?」
「・・・あっ」
春香は、気づいてしまった。
そうだ。
あのアナウンスは確かにそう言った。
全員が押した「瞬間」に、脱落者以外の枷は外れる、と。
さっき、伊織がボタンを押してから、ゆうに30秒は経過している。
こんなに長い間隔を、果たして「瞬間」と言うのだろうか。
答えは否だ。
・・・あの時、ボタンを押していなかったのは。
伊織だけじゃなかったんだ。
千早ちゃん。
今、ボタンを押してないのは、千早ちゃんだけなんだ。
「千早ちゃん!! どうして!?」
少し前にも千早に投げ掛けた、どうして、という言葉。
しかしそこに込められた意味は、全く別のものになっていた。
「ある意味、賭けだわ。伊織が押す前に、私が押してないのを気付かれて躊躇いだしたら、私から折れて先に押すつもりだった」
「なっ・・・千早あんた!!」
「今更、どうしても何もないじゃない。同じよ。美希も伊織も、雪歩も真も、みんな・・・」
淡々と語る千早の言葉に、わなわなと震える伊織。
「何てこと・・・。私がどんな気持ちでボタンを押さなかったか分かってんの!?」
「ごめんなさい、せっかくの伊織の覚悟をふいにして。でも、これが私の選択だから」
そう言って、千早はボタンを押した。
・・・千早以外の枷が外れた。
「そ、そんな、ちはやぁっ・・・!?」
倒れ込みながらも、千早を心配する響。
「千早お姉ちゃんも・・・そうなんだ」
「優しすぎるよ・・・お姫ちんもミキミキも、みんな・・・」
「あんたふざけないでよ! せっかく・・・のわっ!?」
「ねえ! どうして!? どうして私に押させておいて自分は押さないの!? ねえ!」
伊織を押し退け、立ち上がることのできない千早の肩を揺さぶり、問い詰める春香。
「んなっ、何よ・・・びっくりした・・・」
春香のあまりの剣幕に、伊織も言葉を失ってしまう。
嫌だ。
失いたくない。
千早ちゃんを失いたくない。
まだ一緒にしたいこと、一緒に立ちたいステージ、いっぱいあるんだ。
置いて行けないよ。
置いて行かないで。
「・・・春香を、守りたかった」
「っ・・・」
「けど、この手はもう血塗れ。春香と一緒にここを出ても、同じ場所にいることはもうできない」
「そんなことない! 律子さんの事なら・・・」
「私、貴女と同じ舞台に立てて良かった。もう歌は歌えないけど、こんなに大切な友達ができた」
「とも・・・だち」
「その人を救って死ねるなら、こんなに嬉しいことはないわ」
「・・・千早ちゃん、私さっき酷いこと考えちゃった。千早ちゃんが、響ちゃんのこと見捨てたんじゃないかって。千早ちゃんのこと疑ったの。そんなこと言わないで・・・言わないでよ・・・」
「・・・亜美、真美、それに響。『守られる』っていう事は、決して恥ずかしい事じゃない。無理に守る側になろうとしなくてもいい。ただし、『守ってくれた人』の事は絶対に忘れたら駄目よ。いいわね」
笑ってはいないが、その言葉は、温かかった。
「うん・・・千早・・・かなさんどー・・・」
「千早お姉ちゃん、亜美絶対忘れないよ」
「忘れられる訳ないよ。真美、千早お姉ちゃんの事大好きだよ」
「そう、よかった。・・・春香、泣いているところ悪いけど、耳貸してくれる?」
「・・・なに?」
「背中の、シャツの裏。春香にあげるわ」
「背中? ・・・あっ」
そういえば、何か背中に仕込んでいたのを見た。
それを見つけて春香は、ごくり、とつばを飲み込んだ。
千早が律子から手に入れた自動拳銃。
「千早ちゃん・・・これ」
「どこかに隠し持っていて。万が一にも暴発しないように気を付けるのよ」
無言で頷いて、こっそり、春香は服の下にしまい込んだ。
「・・・仇、私が取れれば良かったんだけど。春香の事だから、きっとそういうこと考えてたんでしょう」
「・・・すごいや、千早ちゃん。その通りだよ。この手で裁いてやりたいって思ってた」
「できることなら、こんなもの使うことなく元の生活に戻ってほしい。でも、私にそれを願う権利はないわ。決めるのは春香。辛い役目になるかもしれないけど、無茶だけはしないで。お願い」
「千早ちゃん。・・・大好きだよ」
「春香。・・・好きよ」
春香。
私の大好きな人。
あなたに嫌われる前に、私は飛び立てる。
かけがえのない弟を失って。
その穴を歌で必死に埋めようとして。
でも、決定的に足りなかった。
その穴に。
あなたはひょっこり入り込んできた。
弱い部分を曝け出しても、どれだけ冷たく拒絶しても、
その場所からどいてくれなかった。
放っておかないでいてくれた、春香。
ありがとう。
私はきっと、律子たち、そして優のところへは行けない。
業火の燃え盛る煉獄で、永遠に身を焼かれるのだろう。
それでいい。
そこが、私にお似合いの場所。
プロデューサーと、春香がくれた翼で。
醜くもがき続けてみせる。
そうだ。
せっかくなら地獄を、私の歌声て満たしてやろう。
鬼たちや閻魔様にも、私の歌を認めさせてみよう。
そうすれば、もしかしたら。
私を、皆の待つ遥か彼方まで押し上げてくれるかも。
まあ、なんでも、いいけれど。ふふっ。
・・・ねえ、神様。
最期に、春香が、好きだと言ってくれた。
私は赦されたと思って良いのですか・・・?
立ち上がり、春香は伊織に行った。
「・・・さあ、行こうか」
「な、何であんたが仕切ってんのよ。別にいいけど」
「えっと、確か、次で、最後なんだよね・・・亜美たちここまできたんだね・・・」
「終わらせよ、はやく・・・みんなの為に」
「自分・・・結局、みんなに助けられてばっかりだったな・・・」
「ほんっと、感謝しなさいよね。私だって何度も死にかけてんだから・・・」
「うん。次が・・・最後だよ。絶対」
後ろから、千早ちゃんが、くすくす、と笑う声。
なんだろう。
何だか私も、あんまり怖くない。
何とかなりそうな気がする。
やっと気が付いたから。
今まで味わってきた、不協和や懐疑。
それらすべてが、憎むべき敵に仕掛けられた幻だとわかったから。
初めから私たちの絆は、崩壊などしていない。
本当に大切な感情は、まだ失われてはいなかった。
この先何を失うことになっても、私たちは。
私たちのままでいられるはずだ。
私たちはまた泣くだろう。叫ぶだろう。悲しむだろう。悩むだろう。
それでも、絶対に、負けない。
圧倒的で理不尽な悪意という怪物に。
二度と、負けない。
密やかに覚悟を決め、春香は、次への扉を開いた。