地噴の帯び手   作:観光

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2-1/2 「傲慢」

 

 

 大罪、という言葉がある。

 それはとある宗教において、人間を罪へと誘う欲望と定義されたものだ。

 クズキが生きた日本においては七つの大罪と呼ばれるものが有名であったが、実際には大罪というのは七つだけでなく、それ以外にも多々ある。

 もろもろと語り始めればこの手のことにきりはなく、興味のない輩にとってはどうでもいい話であるため、あえて深くは語らない。

 ただ、一つ覚えていてほしいことがある。

 それはクズキが生きるはるか三千年の昔にも大罪と呼ばれるものがあったのだということを。

 有識者でなくとも。その欲望を極めることが罪へとつながると、誰もが知っていたのだということを。

 

 そして大罪の概念を”徒”も持っていたということを。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 鬱蒼と生い茂る森の中。

 息を乱しながらひた走る存在がいた。

 だが奇妙なことにそれは世界のどこを探しても見つかりそうにない。馬の体だというのに、その全身はびっしりととかげのようなウロコに覆われていたのだ。

 それもそのはず。”決してわたり来ることの無い隣の世界”からやってきた彼ら——”(ともがら)"はこの世界の住人ではない。とある詩人によって紅世と名付けられた世界の住人なのだ。

 

 徒は全速力で森を走りながら、馬面に焦りを浮かべている。

 その様は捕食者から逃げる鼠のようだ。いや、事実そうなのだ。徒は自分を狙う『存在の力』を感じていた。

 それはおおよそ自分を狙うには不釣り合いな規模だ。小さいというわけではない。むしろ”王”ではない自分にはあまりにも力強すぎる。蟻を一匹つぶすのに完全装備の軍を使う。そんな規模の違いを感じる。

 

 これは討伐ではない。虐殺だ。

 あまりにも理不尽ではないか。

 いったい自分がなにをしたというのか。

 徒は喰われた人間が考えていたであろうことを思った。

 

 生への執着は徒の足を止めない。

 狙われ、逃げられないとわかっていても足掻かずにはいられない。

 一心不乱に駆ける徒はちらり、後方に視線をやる。

 それはすぐに目に入った。

 森の上空にぽつんと浮かぶ薄墨色の雲。それが徒の背筋を凍らせてやまない。

 必死で走る徒の奮闘を嘲笑うようにぴたりとついてくる。徒はそれが空に浮かぶ雲とは全く違うもので構成されていることを知っていた。

 自然にはあり得ない薄墨色の雹の群体、それがあの雲の正体だ。

 そして今まさに徒にとどめを刺さんとする致命の刃だった。

 

 雲が突如として動きを変える。

 漂う動きから、蛇がとぐろを巻くように。大きくうなったのだ。

 

「あ……」

 

 徒の黒曜石の瞳が大きく見開かれた。

 うねりを上げる雲がゆっくりと落ちてくる。

 いや、ゆっくりというのは比較対象が大きすぎるからそう見えるのであって、決してそれの速度は遅くない。どころか、徒の全力走行の数倍の速度を持っていた。

 

「やめろ……やめてくれ!」

 

 一つ一つが握りこぶしほどの雹が。

 まるで雨のように。

 

「く、くるな!」

 

 高速で徒へと落ちてくる。

 土砂降りの雨のすべてを避けることは誰にもできないように。

 

「くるなぁぁーー!」

 

 その徒はあまりにもあっけなく、雹の雨に飲み込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 地噴の帯び手 2-1 『傲慢』

 

 

 

 

 

 

 

 

 雹を生み出し自在に操る自在法『雹乱雲(ひょうらんうん)』。その術者である”剥迫(はくはく)(ひょう)”のフレイムヘイズ、『雹海の降り手』穂乃美(ほのみ)穂摘(ほずみ)は着弾地点を見下ろしていた。

 あの徒が死んだとも限らないため、空から生存を確認しているのだ。雹による乱射を受け大きく地面はえぐれ、わずかに徒の残滓の炎が揺らめいている。

 

「さーて、今日の仕事も終っわりー」

 

 穂乃美の左耳につけられた薄墨色の勾玉からオオルリのような声が響いた。

 契約者に力を与える紅世の王”剥迫の雹”の声だ。どこか軽さを漂わせる間延びした声に穂乃美はわずかに苦笑する。

 着弾地点を見る限り、しっかり討滅できたようだ。

 王でもないような徒に大人げない力を使ったのだから倒せていないと困るのだが。

 

「最近は仕事が多いのはいいけど、どうにも歯ごたえがないのがちょっとねぇ?」

「私としてはそもそも国に来てほしくないのですが……」

「無理ね! あの裂け目がある限り徒は来るわよ」

 

 裂け目とは落穂の国の東にある空間の裂け目のことだ。

 それは紅世関係者にとって強烈な存在感がある。基本的に徒は好奇心が強い。そのため裂け目に興味を持ち、近づいてきてしまう。

 結果として裂け目に近い落穂の国は何度も徒に襲われることになっていた。

 本来徒が町に来ることなぞ十数年に一度もないのだが、ここ最近の落穂の国には一か月にいっぺん徒が来ていた。

 これほどの頻度はさすがの”剥追の雹”も聞いたことがなかった。

 

「とはいえフレイムヘイズが常に二人もいる以上、これほど安心できることもないでしょう」

「どーでしょうねー? 徒だって複数で行動することもあるし」

「私たち二人だけでは難しいと?」

「実際、”ギャロップの袋”とか”ウートレンヤカー”とか、それなりの規模の徒集団はいたわけだし」

「しかし討滅されたのでしょう。他にできて主人にできぬ道理がありますか」

「そういう話じゃないんだけど……

 まぁあの手のやつは大体派手好きだから。人の多いギリシャとかそっちのほうで大暴れして『棺の織手』にボッコボコにされてるわ」

 

 『棺の織手』の話は穂乃美も何度か聞いていた。

 徒にとって人は食料である。それゆえにか、徒は人口分布と同じように分布している。食料の多い場所に集まるのは人も徒も同じことらしい。

 ”剥追の雹”がいうには今もっとも人の多い場所は「ぎりしゃ」とか言う場所らしい。

 そして『棺の織手』はぎりしゃを中心に活動するフレイムヘイズであり、『境界渡り』によって徒が紅世から渡りきた初期の初期から徒を討滅しているらしい。契約する紅世の王も強大であり、フレイムヘイズも経験豊富。求心力も高く、一匹オオカミ主義の多いフレイムヘイズの中心的存在でもある。

 

「『棺の織手』……一度は会ってみたいものです」

「『棺の織手』に限らず、他のフレイムヘイズには一度会った方がいいかもね」

 

 穂乃美たちがフレイムヘイズになってからすでに八カ月。裂け目に吸い寄せられた徒には幾度となく接触してきたが、今だ同胞には一度も会えていない。

 穂乃美自身、他のフレイムヘイズのことが気にならないわけではない。

 裂け目や国やら息子やら。もろもろの放り出せない事情から探し出そうとは思わないが、機会があれば聞いてみたい事がいくつかあった。

 

「とはいえ、ぎりしゃとやらの方角も分からない以上、『棺の織手』に会うことは難しいでしょう」「そーよねー。昔私は雪が深い国を中心に戦ってたんだけど、ここがどこかさっぱり。知り合いに助けてもらおうにもどうやれば会えるのやら……」

「さびしいですか?」

「まさか。狩り場から足を遠ざける狩人がどこにいるのよ」

 

 狩り場、とはよくいったものだ。

 穂乃美は眼下に見える落穂の国を見下ろしながら、眉をひそめた。

 裂け目に好奇心を刺激された近隣の徒はこの国に集まる。そしてその徒を狙うフレイムヘイズがいる。

 ここはよくできた狩り場だった。

 ただ、もっとも犠牲になる最弱の餌が国民であるということが、穂乃美の心胆を冷たいものとしていた。

 今日近くに来ていた徒はすでに討滅した。

 穂乃美は空を飛び、社へと向かう。

 

「あーっ! 穂乃美さまだー」

 

 穂乃美は静かに社の前に降り立った。

 空から降りてくる穂乃美の姿はすでに国の名物だ。

 穂乃美を目ざとく見つけた山菜摘みの女の子が歓喜の声を上げると、周囲の大人たちも彼女の近くに集まってくる。

 

「もうっ。指さししてはいけないと何度言えば……申し訳ありません、穂乃美様」

「かまいません。子供のすることですし、ね?」

 

 最初に近寄ってきた女の子の頭を撫でてやると、少女はうれしそうに歯を見せて笑った。

 彼女の腕には一匹のウサギがいる。

 東の麓には元々ウサギが多かったのだが、ここに村を切り開いたのを機に、ウサギの養殖が始まったのだ。腕の中のウサギは彼女の家で飼育しているものの一匹だろう。

 このウサギは繁殖力が強いので、どの程度の数が増えたのか気になるところだ。

 周囲を見れば、時おりうさぎがひょこひょこと顔を出している。

 随分とういものだ、と穂乃美は頬を緩めた。

 すると集まってきた大人の一人が困りげな顔で声をかけてくる。

 

「あの~……穂乃美様。わりーんだけど、相談がありまして」

「ああ、そろそろ畑に手入れをしないといけない時期でしたね」

「そうなんでさぁ。それでですね――」

 

 少女の髪を手で整えてやりながら、大人たちの言葉に耳を傾ける。

 それは周囲の環境の話であったり、稲作の予定についてであったり。あるいは病気についてなど多岐にわたった。それに逐一返答していく。

 今の穂乃美は落穂の神・クズキに仕える元神という立場だ。

 それゆえにか、おいそれと接することのできないクズキに変わって民と触れ合い、時に主導者として国を牽引する存在になっていた。

 

 夕暮れ時。

 穂乃美の周りに人が集まるのはすでに見慣れた光景だった。

 そうして隣の村の顔役と話をしていると東の社の奥、小高い山の頂点から落雷のような音が響き渡る。

 周囲の人間は一瞬だけ肩をすくませるが、すぐにまたかぁ……と顔をほころばせた。

 これもまた恒例のことだった。

 

「またクズキ様がなんかやったんべ」

「おお、ほれみろ。今日は炎の柱が立ってるぞ」

 

 唐沢山と名付けられた山の頂点に視線が向く。

 そこには空を焼き尽くさんばかりに立ち上る巨大な炎の柱があった。

 太陽色に輝くそれは、夕陽の中にあってなお美しい。

 ほれぼれする民と同様、それ以上に目を奪われた穂乃美だったが、柱はすぐに勢いを弱め、陽炎のように消えていった。

 その様子に穂乃美の耳にぶらさがる薄墨色の琥珀が文句ありげに震えた。

 

「まったく。あいつまだ『存在の力』をうまく操れないのねー。もう結構立つのに。あいつ才能ないかも」

「口を慎みなさい、”剥追の雹”。あの人は大きすぎる『存在の力』に少し手間取っているだけです」

 

 穂乃美は契約者の言葉を窘める。

 周囲には村の顔役もいるのだ。かつて下された神、という設定になっている以上、ある程度周囲を気にする必要がある。

 もっともいなくても穂乃美は窘めただろう。

 

「とはいっても。もう季節をいくつまたいだの? 穂乃美はもう十分立派にフレイムヘイズしてるじゃない」

「普通のフレイムヘイズはもっと長い時間をかけて成長していくのでしょう? ”地壌の殻”は決して主人が遅い方だとは言っていません。むしろ早い方だといっていたでしょう」

「そーだけどー」

 

 不貞腐れた声を出す”剥追の雹”に頬笑みながら、穂乃美は炎柱のあった場所を見やる。

 最近、この場所を訪れる徒の数は急増していた。最初の二か月ばかりは一匹かそこらだったのに、ここ一カ月は週一で徒が現れている。

 現状がそうである以上、クズキの戦力化は急務なのだが……どうにもクズキは使い物にならない。

 いや、今すぐに戦場にでて戦えるかと言われればもちろん戦える。

 半年前、”業剛因無”を蹴散らした力がある以上、王クラスの徒が来ようと十分に戦えるだろう。

 ただし、思わぬ爆弾も抱えることになるが。

 

 はっきりいってクズキは『存在の力』を繰るのが下手だった。

 

 体の外に放出した『存在の力』をまともに操れず、すぐに暴走させてしまう。

 今の炎の柱も、おそらく暴走させた結果だろう。

 暴走した炎は自分の体も焼いてしまう。怪我をしていなければいいのだが、はてどうだろうか。

 

 穂乃美は頬に手を当てて考える。

 どうしてあれほど主人は下手なのだろうか、と。

 

 その疑問はここしばらく悩みの種だった。

 放出された存在の力をうまく操れないまま戦いの場に出た時、頼るのは肉体強化の自在法だろう。

 だが、あの自在法には致命的な欠点がある。

 本来であれば自身をより強く顕現させることで肉体を強化するのが普通だが、クズキは直接肉体に膨大な存在の力を纏わせ強化するという方式を取っており、それに稚拙な自在式が重なり、肉体的反動が非常に大きい。

 かつて”業剛因無”との戦いで使った後、フレイムヘイズでありながら彼は数日寝込むことになった(これには未だ人間である、というクズキの認識も多分に影響している)。

 なによりもあの肉体強化の自在法では時間制限がある。無茶な自在法のせいで長時間戦えないのだ。あれでは不測の事態で長丁場になったときがまずいというのが、歴戦の”紅世の王”、”地壌の殻”と”剥追の雹”の判断だった。

 穂乃美の印象ではクズキという男は大体のことを鼻歌交じりにやってのけるので、存在の力だろうがなんだろうが容易いと思っていただけに、現状は意外というほかない。

 穂乃美自身は半年かそこらでお墨付きをもらえたので、余計にそう思ってしまう。

 

「きっと比較対象が穂乃美なのがいけないのよねー。ほら、あんた天才だし」

「そうでしょうか? 私は主人ほど強くはありませんよ」

「まっさかー。半年で私たちのお墨付きをもらえる新米なんて世界中探してもそうそういないわよぉー?」

「……ですが、そうであってもそうでなくとも……なにか変わるわけでもないでしょう。今はただ、国に襲い来る徒を滅すのみ。違いますか?」

 

 問いかけに”剥追の雹”は黙り込んだ。やはりこの娘は大当たりだ、と内心で喝采をあげながら。

 巫女としての教育の結果か、はたまたクズキの影響か。彼女はフレイムヘイズにしては珍しく、謙虚だ。新米フレイムヘイズには特別な力に酔いしれるものや、自信を過大評価するものもいるが、穂乃美にそれはない。

 彼女には多くの新米に待ちうけている死の罠が無意味なのだ。

 すでに五人目の契約者であり、うち三人を契約してすぐに失っている”剥追の雹”からすれば、穂乃美の精神構造は実に都合のよいものだった。

 それゆえの当たりである。

 

「『剥追』の距離も思ったようには長くなりませんし……」

「『剥追』は空間に手を加える自在法よ。そう簡単に距離が延びてたまるもんですか!」

 

 ”剥追の雹”はけらけらと笑いつつ、神器の勾玉を右に左に揺らした。

 

 穂乃美が思い返すのは半年前の戦い。強大な紅世の王”業剛因無”との戦いだ。

 襲い来る徒と戦ってきたが、あれほど苛烈な力をもつ王クラスの徒とは、今だ戦えていない。

 凡百の徒をいくら討滅しようと、王に通じなければ意味はない。

 神に仕え、伽ぎ、代弁し、守る巫女として。力はいくらあっても足りない。

 

「やはり私も精進あるのみ、ということでしょう」

 

 穂乃美は足元でにっこりと頬笑む少女の額をちょん、と押して距離をつくり、胸元でつつしまやかに手を振った。すると穂乃美の体が浮かび上がっていく。

 それなりの高度まで浮かび上がると、東に悠然とたたずむ唐沢山へと視線を向ける。

 標高はそれほど高くなく、小一時間もあれば頂上まで行けてしまう。その天辺に遠くからでもわかる開けた場所がある。そこには雄大にもそびえる巨大な社があった。

 穂乃美は遠くからでもわかる主人を祭った社を目印に、飛行の自在法を見事に操り、空を駆けた。

 

「あいつ、また腕を焼いてないといいけどね?」

「そのときはまた私が治癒すればいいのです。失敗は決して悪いものばかりではないでしょう。成功の礎に失敗は必要不可欠」

「その通り! ……でももう三カ月は続いてる。ちょっと教育方針変えた方がいいかもしれないわ」

「何を……その程度のこと、主人ならばいずれ克服することは間違いありません」

「はぁ……あれよね。穂乃美ってば意外と盲目的よね」

「この程度の期待、ただの一度として裏切られたことがないので」

「でもさー。私としては全幅の信頼があったとしても、疑うことはお互いのために必要だと――あれ?」

 

 耳元の勾玉が疑問の声をあげた。

 フレイムヘイズに限らず”紅世”関係者は同じ”紅世”の気配を感じることができる。二人の索敵範囲にその気配があった。

 

「うーん。これはフレイムヘイズっぽいわね」

「徒ではなく?」

「間違えることがないわけじゃないけど、これは間違いなくフレイムヘイズ。それも結構年食ってるわ」

 

 気配は次第に近づいてくる。

 穂乃美は空中で止まり、相手を待った。

 

「気をつけなさいよ。同じフレイムヘイズでも戦うときは戦うんだから」

「同じ目的を掲げる同士でも、時に戦うとは……」

「元人間。穂乃美のほうがよくわかってるでしょう?」

 

 ”剥追の雹”の問いに答える間もなく、上空の雲海から何かが飛び出してきた。

 それは青い馬だった。

 自然にはあり得ない青い馬が二頭。その馬にひかれるようにして四角い形状の箱のようなもの、つまり戦車に乗る男が一人。

 

「戦車に乗って空飛ぶフレイムヘイズ……ああ、ってことはあれ、『青駕(せいが)御し手(ぎょして)』ね」

 

 少しほこりにまみれたふわりと風になびく服を着たその男は、速度を落とすと穂乃美の前でぴたりと止まった。

 柔らかい印象の服とは違い、男の体は太くがっしりとしていた。顔の線も太く、顔は四角い。髪色は金、肌は白く、俗に言う白人であった。えりあしを適当に紐でまとめられたざっくばらんな髪型は、海の荒くれ者どもを束ねる男のようだ。

 穂乃美自身は生まれてこのかたこの島国を出たことがない。そのため異邦人を見るのは初めてだ。見覚えのない姿に思わず息をのむ。

 ”業剛因無”も金髪だったが、あの時は気にするだけの余裕もなかった。改めて異邦人の姿をじっくりと見れば、やはり物珍しさが顔をだす。

 しかしそれを外にはみせないよう腐心しつつ、穂乃美は『青駕の御し手』に言葉を促す。

 

「お初にお目にかかります。”剥追の雹”のフレイムヘイズ、『雹海の降り手』穂摘 穂乃美です」

 

 名乗りに対し『青駕の御し手』は興味深そうに自分の顎を撫でた。

 何か話すつもりは無いのだろうか。すると彼の肩につけられていた黄金のメダルが強く震える。

 

「懐かしい名。しばらくぶりである。因果の交差路で出会えたこと、感謝しよう」

「まぁこっちもあんたたちに会えたのは都合がいいし、感謝するわ」

 

 溜息まじりに”剥追の雹”が答えた。

 すると黙っていた男がずい、と一歩前に出た。

 

「”抗哭(こうこく)涕鉄(ていてつ)”のフレイムヘイズ、『青駕の御し手』アルタリ。このあたりで徒が活発に動いているという噂を聞いてきた……が。すさまじものだな、これは」

 

 アルタリは眼下を見下ろし、苦笑した。

 やはりすぐにわかるのだろう、あの裂け目の異常さが。

 

「なら下に行きましょうか、こっちは私たちだけじゃないし」

「ええ、フレイムヘイズとなれば主人も交えなければなりません」

「君は結婚しているのか?」

 

 ほう、と興味深そうな目になる。

 穂乃美は頷き、下に降りていく。

 クズキには三回ほど存在の力を活性化させ合図を送りつつ、社の入口へと降り立った。

 

 社はこの時代にしてはめずらしく、木で組まれた大型のものだ。

 ギリシャやエジプトのような高度な文明とは違い、古代――それも紀元前の日本の建築技術はお世辞にも優れていない。

 クズキも一般知識はあっても住居に関する知識はほとんどなく、さまざまな方面に手を伸ばしたが住居に関してはそのままだった。そのためあまり手間とお金をかけられない一般層では竪穴式住居がまだまだ現役である。

 それに比べれば東の山頂に建てられたこの社はかなり立派である。

 まず第一に高床式倉庫の技術を応用してあるため、竪穴式住居のように地面に穴を掘るのではなく、地面から上に浮く形になっている。

 また竪穴式住居のような斬った木をすぐに使うのではなく、一つ一つの木を綺麗に加工し、揃えたものだけを使っている。そのため床は地面でなく木張りの床である。

 そして建築技術の粋を結集してあるため非常に背が高い。山頂かつ社の背も高いため、非常に遠くからでもこの社は見ることができる。

 この時代では大きな自然――例えば滝や巨岩、大河は崇拝の対象だった。そのためか大きな建造物もまた神聖なものとして扱われていた。クズキ――つまり、崇拝の対象である神の社が大きいのはそんな理由のためであった。

 

 穂乃美は中に入ると、照明に火をつける。

 綺麗な床が光を反射し、全体がぼんやりと明るくなった。

 そこは一度に二十人ばかりを収容してもまだあまりそうなほどに大きい。現代に換算すれば10m x 10mばかりか。他の村の顔役も感嘆するほどの広さに穂乃美は満足そうに頬を緩める。

 ちなみにクズキ個人としては時代に不釣り合いなこの広さをあまり気にいっていない。神の社なので権威を落とさないためにあまり日常雑貨や家具を置くわけにもいかない。ただがらんとする広い場所はクズキの趣味ではないのだ。

 

 とりあえず一通りの謁見の準備を済ませると、穂乃美は再び入口から出て外で待っていたアルタリを中に招き入れる。

 

「見慣れない。石作りの家のほうが便利である。なぜ石で造らないのだ」

「そりゃ”抗哭の涕鉄”、あんたが活動してたあっちとは文化が違うのよ。地元が正義みたいな言い方しないでちょうだい!」

「しかし便利だ。耐久性も高い。ゆえにわからん」

「この石頭! むこうとは気候も季節も違うの、同じの作ったら不便で仕方ないわよ!」

「そうなのか。わからん。今は頷いておこう」

「あー、その話し方ややこしっ!」

 

 オオルリの鳴き声のような甲高い声を耳元で聞きながら、耳飾りにしたのは失敗だったかもしれない、と穂乃美は内心でひっそりと思った。

 しまっておいた座布団を取りだし、『青駕の御し手』にどうぞと進める。

 彼はそれをみると無言で腰を下ろす。失礼の一言もないのに穂乃美の眉が細まる。

 

(いえ、相手は他国の異邦人。こちらの道理が向こうの道理であるはずもなし。他意はない)

 

 穂乃美も座布団の上に腰を下ろす。

 これもまたクズキがもたらしたものの一つ。四方を閉じた布の中には細い竹を細かく切ったものが入っており、直接板の上に腰をおろすよりもずっと負担が少ない。布は貴重ではあるが、神の特別製を醸し出すのに一役買っている。

 ちなみに穂摘の国で着られている服はすべて麻でできている。クズキはあまりに服の技術が低く、着ていて痛かったのでどうにか良い服を作りだそうとしたのだが、今だに失敗し続けている。クズキの叔母は絹糸を蚕から作っていたので、これならできる!と意気込んでいたのは遠い昔の話。木綿なら最初から糸だし余裕!と思っていたのもずいぶん昔。やはり技術の流用はなかなか難しかったらしい。

 閑話休題。

 

 しばし契約者の会話を右から左に聞き流していると、社の扉が開いた。

 

「おう、遅くなって悪かった」

 

 右耳に琥珀色の勾玉をゆらし、白い貫頭衣に身を包んだクズキだ。

 堂々と胸を張って奥へ足を進めると、中央部に作られた神座に腰を下ろす。上座ではない。文字通り神座である。クズキは胡坐を組んだ。

 実に神らしい堂々とした姿だが、穂乃美はその袖口が焦げているのを見逃さなかった。

 

「クズキ様」

「わーってる」

 

 クズキは腕を組む。

 

「それで? あんたはどこのだれだって?」

「……」

 

 穂乃美は静かに溜息を吐かざるを得なかった。

 いつものように二人きりではないのだから、威厳のある話し方をしてほしかった。

 とりあえず相手は同じフレイムヘイズなのだから、と自分を納得させた。

 

 『青駕(せいが)御し手(ぎょして)』アルタリはゆったりとした服の袖あまりを一度はためかせる。石が服を着ているようだ、と穂乃美は思った。

 

「何処の誰であろうとどうでもいいだろう。我らはフレイムヘイズなのだから」

「しかり。同じ目的。共有するのならば国里の何に意味がある」

「それもそうか」

 

 納得するクズキをよそに右耳にかけられた琥珀の勾玉がきらりと光りを放った。

 

「それで? 君たちは何をするつもりなんだい、”抗哭(こうこく)涕鉄(ていてつ)”?」

「久しいな。強大なる旧友よ。これが時の流れの因果とみたぞ」

「相変わらずだよね? 君の話し方はまどろっこしくてかなわない。本題に入ろう、本題に」

「しかり。同意すべき事実だ。もう幾度となく言われたことでもある」

「だからね? 本題だよ」

 

 なげやりな”地壌の殻”の言葉には多分に面倒という気持ちが含まれていた。

 

「我らが理由。察するのは容易かろう。その違和感だ」

 

 引き継ぐようにアルタリが口を開く。

 

「それが何か……まではわからずとも、世界に与える影響は察することはできる」

「しかり。だが考察だ。近くにありし者に聞く以下よ」

「であるからには聞くのがもっとも適当。聞かせてはくれないか、『地噴の帯び手』よ」

 

アルタリの視線がクズキ達の背後へ向いた。

そこにはあの正体不明の裂け目がある。

しばし悩ましげな表情でクズキは唸り、「ま、隠すことでもないか」とあっけからんに笑った。

 

「あんたらは世界に裂け目ができていた……なんて言ったら信じるか?」

 

 

 

 

 

    ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 なるほど。

 クズキたちの説明に対し、『青駕の御し手』は大仰に頷いて、しばし考えにふけった。

 その間、クズキたちは無言で彼らの発言を待つ。

 そうそう簡単に整理できることではないし、解消できる問題でもない。クズキはわいて出た間で、穂乃美に視線を向ける。彼女は慣れたように立ち上がると社を出て行った。

 

「ふむ。であるならば。一つ聞きたい」

 

 黙りを続けるアルタリに変わって”抗哭の涕鉄”が口を開いた。

 

「なにを?」

「理由。留まるではない。国に関わる理由だ」

「……別にそう変な話でもないだろう?」

「その身分、世に交わり続けるものでもあるまい。ひいては使命にさわるものよ」

「あんたのその言葉はあれか? ”達意の言”が下手だからそう聞こえるのか?」

 

 クズキのちゃかしにアルタリが相貌を重苦しいものに変えた。言葉の節々に込められた存在の力が肌を震わせる。

 

「——ごまかすな」

「ごまかしたつもりはない」

「ならばなぜ。神の立場など無用の長物。フレイムヘイズは留まるべからず」

 

 アルタリは腕を組んでクズキを睨む。夜盗のようなほりの深い相貌の睨みは剣を突きつけられるようだ。

 熟練のフレイムヘイズはそこにいるだけで強い存在感を発する。アルタリもまた熟練のフレイムヘイズ。その睨みは常人のものとは比べ物にならない。

 クズキの背筋に冷や汗が流れた。

 

「ごまかしたつもりはない」

 

 二度の言葉にようやく睨みを納めると、アルタリは目をつむった。

 どうやら交渉は相方に任せるのが彼らのスタンスらしい。一見話の通じずらい”抗哭の涕鉄”に話し合いを任せることを、クズキは意外に思った。

 

「……確かにフレイムヘイズが俗世——こういう言い方が正しいのかはともかくとして——関わり続けるのがいいとは俺も思ってない。いつ死ぬかわからないからな。長い時間生き続けたフレイムヘイズが俗世に深く関わって、それで消えたとなれば、影響は大きい——だが」

 

 フレイムヘイズは生きる時間が人よりも長く、扱える力も大きい。世に関わった時、その影響は人とは比にならない。クズキもそんなことはわかっている。

 

「今の状態をやめる気はない」

「却下だ。とはいえ事情はあるはず。聞かせてもらおう」

「それがフレイムヘイズとして動いていく上で、一番いいと考えたからだ」

 

 アルタリの髪留めから興味深そうな声が漏れた。

 そこで穂乃美が社に再び入ってくる。手にはおぼん。上には茶の入った器がある。穂乃美が全員に茶をまわすと、クズキはそれを口に含んでから、いいか、と前置きし、

 

「少なくともあの裂け目をどうすることもできない以上、ここに留まり続けるんだ。多少なりとも長い付き合いになって、影響はでる。だったらそれを有効活用すべきだ。

 現状、俺が国主として治めているこの国の人間は俺の力だ。数がいればそれだけできることも多い。応用はいくらだって効く」

「くっ……くく」

 

 真剣な顔で話すクズキの前で、じっと黙っていたアルタリが苦笑した。

 

「……何がおかしい」

「面白い話だ、と思ってな」

 

 アルタリは茶を口に含んだ。その口角は見間違えようもなく笑みを形とっていた。

 

「俺は何か変なことを言ったか?」

「ああ、いったさ」

「どこが?」

「人を力と言ったことが」

 

 アルタリの置く茶器の音がいやに響く。

 社の中は無音だった。

 主人を笑う男を前に穂乃美の目が細められる。

 そんな穂乃美を前に、アルタリは問題児を相手にする教師のような顔をしていた。

 

「人は力だ。数がいれば防御網を作ることも、砦も作れる。かく乱も……今は無いが、フレイムヘイズ同士の連絡だってまかせられる。人はいるだけで力になる。間違いない」

「——成ってから(討ち手になって)どれほどになる」

 

 唐突な話題の切り替えにクズキは訝しげに首を傾げた。

 

「まだ季節が一巡していない」

「だろうな。ずいぶんと人よりの考えをしている」

「……!」

 

 それがどうした!

 言おうとし、気づく。自分が人ではないかのような言葉だと。

 

「その通りだ。 フレイムヘイズは人とは違う」

 

 アルタリのありきたりな言葉は字面に反し、重いものだった。少なくともクズキがその意味を考えさせられるほどに。

 

「人が砦を作ったからどうなる。かく乱してどうなる。

 砦など徒にとって砂上の城だ。かく乱しようと前に出たのならそれは鴨が葱を背負ってくるようなもの。

 人が力になると?

 確かにその通りだ。だがそれは同じ土台の上の話(・・・・・・・・)。——紅世にその理屈は通用しない。人はただの燃料だ」

 

 今度はクズキがこう思った。なるほど、と。

 だがしかし――続く行動はアルタリのそれとは違う。

 どこか小馬鹿にした笑いだった。

 むしろ憐れんでいるようですらある。

 

「一つ聞いてもいいか? 例えばフレイムヘイズは遠く離れた場所に言葉を届けられるか?」

 

 クズキの問にアルタリは首をかしげる。

 

「……できるだろう。その手の自在法は多い。距離によっては多少の個体差はあるが、難しくはない」

「じゃぁ地平線の先ならどうだ? 影も形も見えない、朝と夜が入れ替わるほど遠い場所なら?」

「固有の自在法になるが、ないわけではない」

 

 答えながらアルタリはこの問にどんな意味があるのか分からない。

 だがクズキは無言の求めに対し、違う問いかけを投げかけた。

 

「じゃぁ小枝を折るよりも容易く、指先一つでいくつもの都市を焼き尽くす炎を、フレイムヘイズは生み出せるか?」

「……難しいだろう。それほどの規模となれば、それに見合った存在の力を使う。使えるものは絞られるだろう」

「そうか。なら次が最後だ」

 

 クズキは腕を掲げ、天井を指さし、

 

「人間を超えたフレイムヘイズっていうのは……あの空に浮かぶ月に――唯人を運ぶことはできるのか?」

「……不可能だ。フレイムヘイズならばまだしも、あの天に浮かぶ月に、唯人をつれてはフレイムヘイズとて辿りつけない」

「ああそうだ。その通りだ。それがフレイムヘイズの限界だ。――――しょぼいよな」

 

 クズキのアルタリを見る目は語っていた。

 ああ、その程度。それくらいしかできない。自分よりも上の存在をあざ笑う――なんて馬鹿なんだろう。

 

 だからアルタリは悟った。

 クズキは人がいずれ可能とすると確信している。

 遥か遠い場所へ声を届け、大地を焼き尽くし国を屈服させる炎を生み出し、いずれ唯人を月へと連れていく。

 人はそれができるのだと。

 

「今すぐできるとは言わない。だができない、なんてことはない。

 いずれ人は到達するぞ。なにせ――人って奴は俺たちが売り払ったこの世の可能性に満ちているからな!」

 

 予想を笑うことはできなかった。

 結びの言葉がアルタリの胸に重く突き刺さったからだ。ある意味で、紅世の王に殴られる以上の衝撃を受ける。

 だがすでに数百年、フレイムヘイズとしての道を歩いてきた。揺れたからどうした。これまでの道のりがアルタリの背中を支え、頭を冷やす。

 

「そうか、そうだな。人は力かもしれないな。――それで、だからどうした。論がずれているぞ。本題はお前が世に関わる正当性だ。

 現実、人が力だったとして――それはお前が人の世に関わり続けていい理由にはならない!」

 

 人が力であるか否か、が今の本題ではないのだ。本題はフレイムヘイズが「国主として世に関わった時の危険性」だ。

 アルタリはクズキの語る言葉に、実現した未来を幻視した。

 だがそれは今ではない未来だ。

 本当にクズキのいう力を人が持っているのなら、関わることもやぶさかではない。だが今の人にそんな大それたことはできない。ならば、それはクズキが関わってよい理由になりえない。

 

「いいや、理由はある」

 

 アルタリの言葉にクズキは強く断言した。

 揺らぎはない。己が思考に絶対の自信を持つ者特有の顔つきで、

 

「人は力だ。けれどそれは即物的な力だけを意味するものじゃない」

 

 クズキは穂乃美と視線を合わせる。

 そこには信頼する目と、信頼に答えようとする(・・・・・・・)目があった。

 

「支えがあるから俺は踏ん張っていられる。この国に関わって、俺が国主でいることで――俺はフレイムヘイズとして存在できる」

「――馬鹿なのか? どんなフレイムヘイズもいずれは散っていく。例外はない。だというのにフレイムヘイズの消滅の影響をより大きくしてどうする。

 国主として関わり、いずれその長きにわたって蓄積された情報が一気に消えることになれば……影響は計り知れない。個人のフレイムヘイズを切り捨ててでも、それは避けるべきことだ」

「その可能性に目をつむってでも、俺がフレイムヘイズでいる価値がある」

「根拠もなしに――」

「あるさ。なにせ、俺は――――最強だからな」

 

 にっ、と曇りない笑顔で笑った。

 おもわず呆気にとられる。

 魑魅魍魎、一騎当千ひしめくフレイムヘイズを知れば知るほど、そんな大言軽々しく言えないというのに。

 それを無知と笑うか、無謀と呆れるか、アルタリはどちらもできず、苦し紛れに溜息を吐いた。

 

「フレイムヘイズにとってやるべきことはなんだ?」

「そうだな……穂乃美、答えてみろ」

 

 問にクズキは答えなかった。代わりに傍に控える穂乃美の答えを欲した。意図はわからないがすかさず穂乃美が答える。

 

「徒の放埓な行動から民を守ることです」

「――違う」

 

 アルタリは首を振った。

 そして語る。幼い子供に教えるように、物事の本質を悟ってもらうように。

 

「フレイムヘイズは『世界の歪み』の発生を防ぐことで両界のバランスを守ることだ。フレイムヘイズが世界の歪みの原因を作ってどうするというのだ。それは存在意義を見失っている」

「いいえ。民を守らずして、何が超常の力だというのでしょうか?」

「話にならない」

「話にはなってる。俺たちにとってそれは正しいことなんだ」

 

 ここまで自分が正しいと開き直られてはどうしようもない。

 元々フレイムヘイズは一人一党の気質が強い。そういう意味ではクズキもまたフレイムヘイズの一人ではあった。

 

「よく聞くといい。例えばだ。強大な王がいたとしよう。それが人を狙うことで致命的な隙を見せている。こちらの選択肢は二つ。一つ、人を守る。だがそうすれば徒の隙はなくなり逃げられる。二つ、人を犠牲にし徒を討滅する。

 どちらが正しい?

 答えは一つ。討滅すべきだ(・・・・・・)

「そうか。その心は?」

「たった一人の歪みを今許容するだけで、これからの将来喰われるであろう数百人分の歪みを無くすことができる。取捨選択だ。人の犠牲を認めようと、両界のバランスを守ることを優先すべきなのだ」

 

 穂乃美は手に力が入ったことを自覚する。

 彼女は徒に復讐するためにフレイムヘイズになったわけではない。ましてや両界のバランスのためになったわけでもない。

 ただ夫を守るために(・・・・・)フレイムヘイズになった。ひいては国のためを思うから。

 

 だというのに。フレイムヘイズの倫理はそれを認めない。

 存在意義を見失うとすら。

 

 穂乃美からすればそちらのほうがおかしいなことだ。

 確かに徒を倒すことはバランスを守ることにつながる。それはわかる。

 だが、だからといってそれは守ることより優先すべきことなのか?

 穂乃美は倒すことよりも守ることを胸にすべてを捧げたのだ。ならば、問いに対し、守る以外を選ぶことこそ存在意義(アイデンティティ)を見失ってしまう。

 

 穂乃美は先達との僅かな会話の応酬に、フレイムヘイズとは何か、大切なものを見失いそうだった。

 そんな穂乃美を横目にして、クズキも黙りこんだ。

 原作に置いても御崎市のミサゴ祭りにおいて『儀装の駆り手』カムシン・ネプハーブはミサゴ祭りで行われた”探耽求究”ダンタリオンの実験を阻止する為に町ごと吹き飛ばすことも視野に入れていた。

 それは世界のバランスを守るフレイムヘイズとしては正しい行動倫理なのだ。

 

「ふむ。良きかな良きかな。これも因果の交差の上のこと」

「僕としては? 君が口をはさまなかったことが意外だよ?」

 

 契約者”抗哭の涕鉄”が口を開くと、相対するように”地壌の殻”も口を開く。相手をするのは自分がよいだろうと漠然と感じたからだ。

 てっきりもっと口をはさんでくるかと思っていたが、”抗哭の涕鉄”は相方に任せるばかりだった。彼自身もいいたいことは多々あったろうに。

 それにクズキの言い分もひどいものだ。

 先達の教えを完全無視して、自分は死なないから大丈夫……などと、生意気にもほどがある。

 古今東西、この手の自分に自信がありすぎる奴というのは早死にが常。それは”抗哭の涕鉄”もよくわかっているはず。それをツッこまないのはクズキに大物の気配を感じたからか、それともただのきまぐれか……どちらにしても見逃してもらえるならそれに越したことはない。

 

 ”地壌の殻”の個人的意見を言わせてもらうのならば、クズキが国主として世界に関わり続けるのは反対だ。

 ただ、それをするだけの価値がクズキにはある。だから認めているにすぎない。

 とはいえ、その価値はクズキの未来の話を聞き、そして内包する存在の力を知らねばできないだろう。ゆえに、多少荒事になることも覚悟していた。

 それがなくなったのだから多少の安堵も溢れよう。

 ただ”地壌の殻”には一つ気になることがある。

 

「ところで、君たちはどうしてここに来たんだい?」

「知れたこと。活発な徒の話を耳にしただけのこと。後は使命に準じたのみよ」

「ああいや、ね? 別にそんなことはわかってるんだよ。聞きたいのはどうして徒が活発にここを目指しているのか、それをどこで誰に聞いたのか、だよ」

「相も変わらず。どう言うものか。揺れるこの葉のようで、されど鋭い奴よ」

 

 大したことではない。

 ただ疑問に思っただけの話。

 クズキ達が守る”裂け目”は見る者に強烈な違和感を与える……が、それはあくまで近隣の者のみだ。決して世界の歪みのように遠くからでもわかる、というものではない。あくまで近くに来た者にしか気づけないものなのだ。

 だが、ここ最近遠くからも徒がやってくる。それは明らかに異常なことだ。

 近くにこないとわからないのに、遠くの者がやってくる。それはつまり、どこかで誰かが噂しているということ。

 気づいた徒は全て討滅してきた。現状、これを知るのはクズキ達だけのはず。クズキ達は今までフレイムヘイズに会うことはなく、他の誰かに話すことはなかった。だが噂になっている。少なくともフレイムヘイズであればこれを知っていて放置はあり得ない。

 つまり――徒側で誰かが知っているということだ。

 

 この「徒の誰かが知っている」というのが問題だった。

 それはつまりかつて討滅した”万華胃の咀”が、厄介な仲間たちに情報を教えていた可能性があるということだから。

 

 聞かなければならない。

 その情報の大本に誰がいるのか。

 あの極めつけに厄介な徒集団――

 

「――”大罪”は動いているのかい?」

 

 

 

 

    ◇◆◇

 

 

 

 

 

 歴戦のつわもの共に重苦しい沈黙が溢れた。

 長きを生きる四人にとって”大罪”の名は口をつむぐに足るものだった。

 

 その意味を知らない穂乃美とクズキは首をかしげるほか無い。

 特にクズキは大物の名を覚えていた自信があっただけに、殊更混乱する。

 ”大罪”、そんな名前は聞いたことがない。

 そもクズキの知る大罪は三千年の今よりも千年以上後になって作られた基準だ。この時代には似合わない言葉と思う。

 暴食、傲慢、怠惰、色欲……合計七つの罪へ誘う感情、大罪。

 大それた名に、重い沈黙。おのずとクズキも敵の巨大さを悟る。

 

「”大罪”って奴らはね。私たちフレイムヘイズも……徒でさえも恐れる集団の名前。ええ、本当に恐ろしい奴らよ」

「知っているのですか?」

 

 実際に見たような実感のこもる声で”剥追の雹”が呻いた。

 騒がし屋な彼女は珍しく、答えるために口を開かず呻くにとどまっていた。なにかそこ知れぬ因縁があるらしい。

 話せない彼女に代わり、”地壌の殻”が引き継いだ。

 

「知ってるも何も? 君たちだって知ってるよ。会ったことだってある」

「俺たちが、一体いつ? いやそもそも、その”大罪”ってのは何をして、誰がいるんだよ」

 

 説明の下手な彼に頼るよりも”抗哭の涕鉄”の話を聞いたほうがいいのかもしれない……と思ったが”抗哭の涕鉄”も負けず劣らず話下手な徒だ。

 それに嘘を教えてくることもないだろう、という信頼に任せて言葉の続きを待つ。

 

「彼らはね? それはもう恐ろしいことをした。何が恐ろしいって、普通思いついてもやらないことを大真面目にやったことが恐ろしいんだ。

 ……紅世にはこの世界にいない神様、本物の神様がいるとは話をしたと思う」

 

 紅世。

 弱肉強食の激しい『決して歩いてはいけない隣』の世界。

 そこには神がいる。

 決しておとぎ話や空想、祈りの中の産物ではない。

 確固たる世界法則の一つとして神が存在するのだ。

 創造・伝播・天罰……様々な事象を体現する存在。それが紅世の神だ。

 

「例えば? 有名な神に天罰神がいる。彼は神として審判と断罪を司っているのだけど……ここからが問題で、彼が神としての権能を発揮したとき、どんなの強い徒でも彼には勝てない」

 

 それは天罰が『天からの罰』であり、避けられぬものだから。故に誰も勝てない。世界はそうなっている。

 

「君たちからすれば? 信じられないかもしれないけど? 神は確固たる存在として世界にあったんだ」

 

 しかし、

 

「だからこそ? 余計に紅世の人間はこう感じる。この世界に神はいない、ってね

 でも何をトチ狂ったのか、大罪の奴らはこう考えたんだよ。ここが隣り合う似て非なる世界だというのなら神がいないのはおかしい。だから——自分たちが神になれるのではないのか? なんて、全く論理的じゃないことを本気で考えて、実行したのさ。あるかわからない空席の座を求めて」

「馬鹿げている。ふざけている。だが奴らには強い力があった」

「本当にね? ”大罪”は強かった。たった六人、けれどそのすべてが強大な紅世の王で構成されていたんだ」

「当時”雹海の降り手”として私も活動していたわ。でもフレイムヘイズは群れないから。圧倒的強さに数が揃った”大罪”はそりゃもう大暴れしたの」

「しかもだよ? ”大罪”の首領は頭が良かった。どんな目的があったのかはわからないけれど、とても効率的だったんだ。——”万華胃の咀”を覚えているかい?」

「あの体中に口がついてた徒だな」

「”万華胃の咀”は”大罪”の一人だけどね? すこし特別だったんだよね? あれはすべての徒の中で唯一人以外の物質を存在の力に変えて吸収できたんだ」

 

 本来、徒は人以外の存在の力を吸収できない。

 それは徒という存在が人に近しいものだから。

 もし土や木などの無機物を吸収すれば、存在の意思総体が薄れ、遠からず消滅することになる。

 だが何事にも例外があるように、抜け道があった。

 徒たち——というよりも紅世の関係者はまだ知らないことだが――無機物も徒が吸収する方法は存在している。それは無機物を変化させて得た存在の力を超高品質の力にすることだ。未来において都喰らいを行った徒は、これで町ごと存在の力に変えて絶大な力を得ている。

 

 ”万華胃の咀”の場合はそれとも少し違う。

 というよりも都喰らいを抜け道とすれば、”万華胃の咀”は本物の例外だ。

 彼は本当の意味で無機物を喰らうことができたのだ。

 どういう原理か調べた者も多く、真似をした徒は多々いたが、後にも先にも”万華胃の咀”のみだろうと有識者の間で一致を見ている。

 

「”大罪”はね? ”万華胃の咀”が吸収した存在の力を、彼を介すことで”大罪”の間で受け渡したんだ。

 人はまばらに分布していて、そんなに簡単に大量には食べられない。けれど地面ならどこにでも大量にある。——やつらはね? とある山を丸ごと存在の力に変えたんだよ」

 

 山まるごとを存在の力に変える……それは莫大な存在の力を手に入れたことは想像に難くなく、スケールの大きさに穂乃美は息を飲んだ。

 ただ事前知識を持っていたクズキは冷静に問いかけた。

 

「待ってくれ。普通それだけの存在の力を手に入れたとして……その徒は意思総体を保てるのか?」

 

 徒という存在は基本的に存在の力によって体を構成されている。

 存在の力というものは基本的に意思総体と呼ばれる——人間で言うところの心——によって制御するのだが、何事にも分相応というものがある。船に積み荷を乗せすぎると沈むように、あるいは自分の力量以上の道具を使って怪我をするように、分を超えた存在の力は持ち主に牙をむく。

 しかも意思総体の消失——つまり自身の消失——という形で、だ。

 だから徒は存在の力があればあるだけ強くなることを知りながら、それでも自分の力量以上の存在の力を集めないのだ。

 山規模の存在の力を一個人の徒に扱えるなどと、クズキには到底思えなかった。

 

「さぁ? その辺りは知らないんだ。なにせ”棺の織手”や当時の”雹海の降り手”が徒党を組んだときには綺麗さっぱり足取りがつかめなくなってたんだ。だから実際彼らが何をしたかったのか、わかってない。あくまで推測だけ」

「後は散発的に目撃情報があるだけ。生きてるのはわかってたけど……ね? その偶発的な遭遇で私は契約者をやられて……」

「”剥迫の雹”……」

「ともかく……奴らは強く、それに長く暴れてるの。やったことも到底認められないし、最悪の部類。だからフレイムヘイズは奴らを恐れてる」

 

 いつもより心なしか小声の”剥迫の雹”。

 ここに恐るべき奴らが来る。出会ってきた紅世の王は例外無く死の危機をつれてきた。

 今の自分たちが必ず勝てる保証はない。

 気づけば穂乃美は腕に冷たさを感じていた。

 しかしすぐさま横から伸びた手が穂乃美の掌を握る。

 恐ろしさはそれだけで吹き飛んだ。掌にはあの夕日に照らされた稲穂畑の心地よい暖かさがある。

 それだけで穂乃美には十分だった。

 瞳にいつもの怜悧さを取り戻し、問題を引き連れてきた『青駕の御し手』と視線を合わせた。

 

「それで、その”大罪”とやらはどう動いているのですか?」

「”大罪”の一人に”頂立(ちょうりつ)”という徒がいる。我らはあれを追ってきた」

「”頂立”がここに? どうやらあれは本格的に”大罪”がらみなのかもしれないわね」

 

 ”剥迫の雹”の吐いたため息からは彼女の内心を推し量ることはできそうにない。

 彼女はちゃかしながら話していたが、クズキは強い因縁のようなものを”剥迫の雹”から感じていた。今までの会話から推測するに”業剛因無”との遭遇時にかつての”雹海の降り手”をやられた、というところだろう。

 その因縁が変にからまり、穂乃美を窮地に陥れることがなければいいのだが……

 

「それにしても……”万華胃の咀”に”業剛因無”ときて”頂立”ね……ますますここを移動しづらくなったわね」

 

 ”剥迫の雹”がなんとなしに口の端に乗せた名に、”青駕の御し手”が眉をひそめた。

 待て、そんな話は聞いていないぞ、と目には書いてあった。

 

「まだ言ってなかったけど、もう大罪は二人ここに来たのよ」

「驚愕の事実。しかし謎がある。いかにして奴らを切り抜けた?」

 

 ”抗哭の涕鉄”の驚きに”剥迫の雹”は笑みを深めた。

 

「フレイムヘイズが徒を切り抜けたとしたら答えは一つでしょう——討滅したのよ」

「——事実か?」

「嘘じゃないわよ、なんて陳腐な言葉を言ったら信じてくれるの?」

 

 驚く、ことを通り越して訝しげにアルタリが顔をしかめた。

 かつてより数百年。古今東西徒は多けれど、あれほど強力な徒は数少ない。名実ともに”強大な紅世の王”である”大罪”の二角落とした——それも新人のフレイムヘイズが——などと到底信じられることではない。

 

「……信じよう。信じられぬことだとしても。他ならぬ”剥迫の雹”が名にかけて真実とするのなら」

「ありがと。——誓って。事実よ」

 

 アルタリはその宣告に腕を組んだままうつむいた。

 『青駕の御し手』の先達として活躍していた”剥迫の雹”を信じようとしているのだ。

 だがアルタリには”大罪”と浅からぬ因縁がある。その経験が単純に事実と認めることを難しくしていた。

 

 怒り狂う巨人。

 すべてを喰らう大蚯蚓。

 麗しき売女。

 見下ろす球体。

 ——恐怖を引き連れた怠惰。

 

 あの一瞬を。アルタリは忘れない。

 

「——それで?」

 

 過去へ踏み込んだアルタリを”地壌の殻”が呼び戻す。

 

「君は? これからどうするつもりなんだい?」

「少しの間だがこの辺りに逗留させてもらいたい」

「へぇ——?」

「追っていた徒が目指していたのはここだ。ならばここで迎え撃つことも可能だろう」

「なるほど? それで、その徒、名前はなんて言うんだい?」

「”大罪”を追っている、といった」

「ああ、つまり? 残っている”大罪”で追える徒となるとアレだね」

「そう——他者をおとしめ、特別とされることに執着する徒、大罪が一角——”頂立”だ」

 

 

 

 

 

 

    ◇◆◇

 

 

 

 

 

 現代と比べてずいぶんと月が大きい。

 見上げた空に浮かぶ、満月にクズキは記憶の風景を重ねた。

 

 すでに時刻は深夜。

 民は寝静まり、森が引きづり込まれるような闇を胸に抱えた時刻。クズキは社の縁側で空を見上げていた。

 さきほどまで話していた『青駕の御し手』はすでに唐沢山から下山し、下の客用の家に案内してある。

 会話の熱気で満ちていた社は冷たい静寂に乗っ取られ、クズキは一人だった。

 ああ、いや。この場合二人、というべきだろう。

 クズキの耳につけられた琥珀色の勾玉が淡い光を点している。

 

「——それで? 君としてはどうするつもりなんだい?」

「さぁ——? とりあえずこの国に来るなら、討滅するさ。ここは俺の国だからな」

 

 クズキはここ最近作ったばかりの新しい土器——中には並々と酒が注がれているそれをぐぃっとあおった。

 喉をやけるような酒気に体が熱を持つこの一瞬に心地よさを覚える。

 

「しっかし話に聞くだけなら恐ろしい”大罪”をまさか二角も落としてたとは……脅かさなくてもよかっただろう」

「君の場合? いろいろいいことが重なってのことだろう? それで鼻をのばされても困るからね」

「俺は謙虚の意味を正しく理解してるつもりだが?」

「そうだね? なにせまだ存在の力をうまく扱えないわけだし?」

 

 くつくつと笑う”地壌の殻”にクズキはいやそうな顔をした。

 

「おい……別に俺が使えてないわけじゃないだろ。ただ……」

「君の最大の特徴——使い切れないほど大量の存在の力を全面に押し出そうとすると失敗する……かな?」

 

 クズキは無言で手に持った酒気を再びあおる。

 全く持ってその通りだった。

 なにやら”剥迫の雹”は誤解しているようだが、クズキは決して存在の力を操ること、それ自体が苦手なわけではない。

 確かに比べられる穂乃美ほど——というより穂乃美は別格なので別勘定として——うまくはない。だがそれほど下手、というわけではない。

 ただクズキの最大の武器である膨大な存在の力を有効活用しようとする——つまり一度に大量の存在の力を使おうとすると、制御の手を離れ、自在式が失敗してしまうのだ。

 

 どうやらクズキは一度に出せる存在の力が保有する量に対して、それほど大きくないらしい。

 それを無理矢理大量に出そうとすると、どうしても制御がおろそかになり、結果失敗してしまう。

 そもそも存在の力の総量は『時間軸に左右されないあらゆる可能性』によって決められるが、一度に出せる量に『時間軸に左右されないあらゆる可能性』は関係がない。

 今のクズキは個人所有の海を前に如雨露片手に立ち尽くしているようなものだ。

 存在の力保有量は人並みはずれているのに、一度に放出できる量は人並み。あまりにも不釣り合いな力だった。

 

「どうにかしないといけないってのはわかってるんだが……」

「かれこれ半年かな? そろそろ解決の手がかかりでも見つけたいところだね? これだといつ君が死んでしまうかと気が気じゃないよ」

 

 例えるならクズキは無限のガソリンを持つ一般車だ。

 無限のガソリンを持つからいつまでだって走り続けていられる。どんな車もこれ以上に走ることはできない。

 それはすごい。

 だがもし勝負をすることになって、それが『短距離走』だったとしたら?

 その勝負にガソリンの量なんてさほど関係ない。あるのはどれだけ強い最高速度を出せるかだ。そこが勝負を分ける。

 徒との戦いもそうだ。

 クズキは補給なく戦い続けられるが、一瞬の差が勝負を分けることなど普通にあり得る。

 残念なことにクズキの一瞬の放出量は並みで、上を見れば切りがないほど多い。

 どうにかすべき問題だった。

 

「あれだけど?……頭下げて知恵でも貸してもらうかい?」

「ありっちゃありだけど」

 

 クズキは酒器をおろし、社に近づいてくる人に視線を向ける。

 青墨色の巫女服に身を包んだ穂乃美だった。服の色が黒に近いため夕闇から抜け出すように彼女は現れた。

 晩酌の途中に近づくとなれば、何かつまみでも持ってきてくれたのだろう。クズキはいそいそと彼女の酒器も用意しようと腰を上げ、彼女の腕の中にいつもとは違ったものが抱え込まれていることに気がついた。

 大事に彼女の腕に包まれているのは自慢の我が子だった。

 すやすやと眠る我が子と、抱きしめる妻の姿に心が暖かな温度に満ちていく。

 

「……いいのか? 夜に連れ出して。おばばに怒られるぞ?」

 

 穂乃美は微笑む。承知の上のことらしい。

 

「どうか、抱いてやって下さい」

 

 差し出された我が子受け取り、ゆったりと揺すってやる。

 生まれてからすでに一年と少し。生まれたばかりよりずっと重い。ともすれば落としてしまいそうだ。フレイムヘイズの肉体であっても、自分の子は重かった。

 

「ずいぶんとまぁ……大きくなったなぁ……」

「知らぬ間に子は成長するのですよ。知っていますか? つい先日つかみ歩きを始めたそうですよ?」

「そっか、もうそんなころか。……歩き回るのも遠い話じゃないな」

「ええ。ただ他の子供に比べて少し遅いらしく、先代様はすこし心配していました。実際どうなのでしょう……話すのも遅くなったりしてしまうのでしょうか……」

 

 心配そうに腕の中の子供を覗き込む穂乃美。

 いつもは鋭い視線の穂乃美だが、二人っきりか子供の前ではいつもこうだ。こんな一面を見れることをうれしく思う。

 クズキも少し困った顔で微笑んだ。

 自覚はなくとも、彼もまた子供の前では表情が柔らかい。そんな彼を見れることに穂乃美もまた幸せを噛み締める。まったくもって似たもの夫婦とは彼らのことをいうのだろう。

 

「その手のことは俺もあんまり詳しくない……ああ、でも確かかなり個人差があって遅い子供は二歳になってもあんまりしゃべれない……っていうのは聞いたことあるな」

「……この子は大丈夫でしょうか?」

「大丈夫。ちゃんと俺たちが話しかけてあげればしゃべれるようになる。時期はあくまで個人差が大きいって話なわけだ。ゆっくり、あせらず……な?」

 

 落ち着くように目で穂乃美に語りかける。

 すると放っておかれたと感じたのか、子供がむずかって動き始める。

 

「あー、あー」

「うぉっとっと」

 

 どうやら完全に起きてしまったらしい。ゆりかごのように揺らしてなだめようとするが、どうにもいけない。声が涙混じりになった。

 クズキはあまり子供に触れた経験がない。

 生まれてからもずっと国主として仕事をしていたし、フレイムヘイズになってからは国主不在となった国を平定し、唐沢山の麓を開発してきた。子供とふれあう時間はそれほど多くなかったのだ。

 もちろん忙しいからなどと理由を付けて避けていたわけではない。むしろ主夫が存在していた時代出身のクズキとしては積極的に育児に関わりたかったのだが、先代の落穂の巫女や穂乃美がさせてくれなかったのだ。

 なんでも育児は女の仕事です! 国主としての責務を果たしなさい! とのことだ。どうにもそのあたり頭が固くていけないと思う。

 

 子供が泣きそうになるにつれ、クズキの顔も泣きそうになっていく。

 見かねた穂乃美がクズキの腕の中から子供をひょいと奪い取った。すると子供はすぐに泣き止み、寝静まる。今度は違う意味でクズキが泣きそうになった。

 

「まったく? こうなるとフレイムヘイズも形無しだね?」

「クズキってこういうのホントだめねー」

 

 二人の契約者がクズキの顔を見て笑う。

 クズキは頭をがしがしとかいて、そっぽを向く。

 

「いいんだよ。俺は親父にしかできないことができるんだから。適材適所だ」

「そうです、”剥迫の雹”。これは妻の仕事、夫ができなくても良いのです」

「そーうー? 私はできるにこしたことはないと思うけどねー?」

 

 まったくもって同感である。

 ”剥迫の雹”の軽口にため息を吐いて、クズキは隣の空席を軽く叩いた。穂乃美は失礼します、といって隣に座る。

 

「お酒を?」

「いい月だからな」

 

 穂乃美は空に浮かぶ月を見上げた。わずかな雲が余計に月に美しさを引き立てる。感嘆の息が漏れるほど美しい月だった。

 

「あなたの隣にして見る月は……本当に綺麗」

「……それは誘ってるのか?」

「はい……?」

 

 不思議そうな穂乃美に、いいやなんでもないと言い返して、手元にあった酒器を掲げる。穂乃美はクズキの行動に目を丸くした後、頬を赤くした。

 フレイムヘイズは人間よりもずっと強靭な体を持っているが、酒を飲めばしっかり酔うことができる。いつものクズキなら彼女に酒を勧めはしなかっただろう。これから子供を抱えたまま麓の村まで帰る必要があるからだ。整備されているとはいえ、夜道の山道を酔ったまま歩かせるわけにはいかない。

 だがクズキは勧めた。

 酔ったら帰れないのに、だ。

 つまりはそういうことだった。

 

 小さな声ではい、と頷きながら酒器を受け取り、一口だけ飲む。

 そして穂乃美は腕に子供を抱いたままクズキに寄りかかる。

 隣の大切な人の体温を分かち合いながら、しばし二人の間に静寂が満ちた。風に揺れる木の葉の音がさらさらと流れ、自然のオーケストラが夜空に歌を歌う。

 

 クズキは思う。

 これがきっと俺の守りたいものなんだ、と。

 

 それは穂乃美も思っていたのだろう。

 彼女はクズキのほうへ顔を向け、ゆっくりと近づけて——

 

「こういうのは、ずいぶんと久しぶりだな」

「このところ忙しかったものですから……それに——」

 

 避けていたでしょう?

 無言の言葉にクズキは肩をすくめて答えとした。

 

「そういえば……一つ聞いてもいいでしょうか?」

「何を?」

「どうしてこの子にミツキという名をつけたのでしょうか?」

「ああ……そういえば言っちゃいけないんだったな」

「はい。しきたりですから」

「しかし変なしきたりだよな。名前の意味を誰にも言っちゃいけないなんて」

「意味を知られると悪いモノに入られやすくなるそうです」

「……それ、穂乃美は聞いていいのか? 本人と名付け親しか知っちゃ駄目なんだろ?」

 

 穂乃美は腕の中のミツキの頬を愛おしそうになでた。

 

「子供の名の意味を知りたがらない母はいません。それに……あなたの話を聞いていると、悪いものには意味を隠しても意味がないのでしょう?」

「悪いものっていうのが病気をさしてるなら」

「では……私が知ってもいいではないですか?」

 

 この時代の人間は理解できないことを想像で補った。

 病気やその最たる例だろう。病原菌を悪しき霊とし、防ぐ方法を迷信に頼った。このしきたりもその一つのなのだろう。

 

「……俺の時代には三本の矢って話がある」

「三本の矢?」

「詳しい話は避けるが……簡単にいうと、一本の矢は折れやすくとも三本まとめれば折れにくい。だから矢と同じように人も協力すれば折れにくいんだ、って話だな」

「なるほど……素晴らしい話ですね」

「俺もそう思う。この世界に来て、余計にな」

 

 クズキはこの世界に来てフレイムヘイズになるまで国主として国を発展させ、守ってきた。だがそれが一人でできたかと言えばそうではない。むしろ多くの人間の力を借りてきた。だからこそクズキは人のまとまりの力が強いことをよく知っていた。

 

「それにあやかったんだ。ただそのままだと三ツ矢……ただ矢は結局のところ武器だ。国主に武器の名前を入れるのはどうかと思ってな。矢を構成してるもの、つまり木にいいかえて三ツ木(みつき)

 こいつは神の子供の子供だからな。将来的に人を率いる立場になるのは確実だ。だから人のまとまりの力のことを忘れないように……って願いをかけて」

「……そうですか、そんな意味が」

「……ただ、今の俺は人間じゃないし、一人で大群も相手にできる。……なんの皮肉だよって、成長したときに言われそうで……すこし怖いな」

 

 苦笑いと共に酒器を空にする。

 穂乃美があわてて酒を注ごうとするが、手はミツキで埋まっている。クズキは手で制して自分で酒器に注いだ。

 酒はうまい。だがクズキの表情は苦虫をつぶしたような顔だった。

 

「……俺はフレイムヘイズになったこと自体は別に嫌じゃない。ただ後悔していることがいくつかある」

 

 今までクズキはフレイムヘイズに悪感情を見せたことはない。

 内に秘めていた後悔の発露に、契約者が耳を済ませる。

 穂乃美の腕の中のミツキの頬を突っつきながら、

 

「俺はこの子に国主の座を譲ってやりたかった。ちゃんと年取ってな。今のままじゃ、結局俺が神として上司に居座り続けることになる。

 ……ミツキには自分の国としてこの国を譲って、一番上に立つ醍醐味って奴を味合わせてやりたかったよ。今更の話だけどなぁ……」

 

 やっと寝たミツキがくすぐったそうに顔をゆがめた。また起こされてはたまらない。穂乃美が肩を壁にしてクズキからミツキを隠す。

 そんなやりとりに穂乃美とクズキは二人して笑った。

 

「ええ、私も人としてやり残したことはあります……けれど、あなたと同じになれたのなら、それで良いのでしょう。ですが……」

 

 穂乃美はミツキを包んでいた布の位置を直しながら、

 

「やはり『青駕の御し手』の言うフレイムヘイズの使命には納得できません」

「——言ってることは間違ってないと思うけどな」

「はい。私も巫女として国を動かす上で犠牲を容認してきました。自分はそんなことできない、なんて知らない振りはもうできません」

 

 これまでの数年でもクズキは人の犠牲を良しとしたことがある。

 例えば他国との戦争時、あるいは奇形児が生まれた時、クズキは国の長として命の取捨選択を行った。

 今更『そんなことできない』……なんて言う資格はすでにない。

 

「「世界のバランスを守ることは決して人を守ることではない」と『青駕の御し手』は言いました。ですが私はこう思うのです。人を守ることが世界のバランスを守ることにつながると」

「……」

「フレイムヘイズは数えきれない月日を戦いに費やすと聞きます。ならばいずれ私たちも選択の問題に直面するはず。どちらも世界のバランスを守ることには変わりません。ですが私はどちらの手段をとるべきなのでしょうか……私はまだ悩んでいます」

 

 穂乃美の独白をクズキは黙って聞いていた。

 お前は巫女だ。俺の選択についてこい。——なんて言葉は簡単に言える。

 穂乃美は巫女としてその言葉を飲み込み、使命としてくれるだろう。

 だがクズキはこれから——少なくとも数千年の永きに渉って戦い抜くことを決めている。その膨大な時間、人から与えられた言葉で戦い抜けるのだろうか。クズキはそうは思わない。

 人から与えられた答えで生きるには——フレイムヘイズの一生は永すぎる。

 だからクズキは黙って穂乃美が答えを出すのを待ち続けた。

 ただ穂乃美は黙したまま語りださなかった。

 

「——来たわ」

 

 考え込む穂乃美の耳元で”剥迫の雹”が緊迫した声でつぶやいた。

 すぐさま集中すると二人の感覚に徒の反応があった。しかしずいぶんと――遠い。

 唐沢山の麓から以前住んでいた穂畑の村、さらにその向こうの山の向こう辺りに徒の気配を感じる。

 空を飛んでも数十分はかかるだろう。探知範囲ぎりぎりの位置にその徒はいた。

 

「——変だね?」

「ああ、動いてない(・・・・・)。こいつ何やってるんだ?」

「さぁ? あの辺りに人はいたかな?」

「いや、あの辺りは山がきつい。近くに平野もある関係で人は住んでいなかったはず」

「——『青駕の御し手』も気がついたみたい。あっちは行く気よ」

 

 クズキはそれほど探知が得意ではないが、穂乃美は自在法の関係か、この手のものが得意だ。視線を向ければ響くように答えがきた。

 

「……少し遠いため、詳しくはわかりませんが……かなりの気配。少なくとも王かと」

「ということは? あれが噂の”頂立”かな?」

「いや、待て——気配が遠くなっていく」

 

 徒の気配が勢い良く遠くなっていく。

 焦ったように『青駕の御し手』が速度を上げるが、ほぼ等速。追いつけはしないだろう。

 

「——今回は様子見か?」

「”頂立”はあんまりいい噂を聞かないわ。もしかしたら何か余計なことをしてくるかも」

「そうだね? もしあれが”頂立”だとしたらこっちを観察していたのかも?」

 

 今までに出会った徒はどれも猪突猛進で面白そうなものがあれば突っ込んでくるような奴らばかりだった。

 だが様子見で情報を集めるような徒ともなれば、それなりに知恵が回るのだろう。どんな仕掛けをしてくるのやら。

 仕掛けられる前に討滅してしまいたいが、こちらは拠点防衛を義務づけられた身。”裂け目”がある以上後手に回るしかない。

 やっかいなところだ、とクズキはぼやきつつ、

 

「……これは今までとは違う戦いになるかもしれないな」

 

 これまでとは違う戦いの予感に身を震わせた。

 

 

 

 

 

    ◇◆◇

 

 

 

 

 

「ふん……ずいぶんとあの女は有能だったらしい。危うく見つかるところだった」

 

 クズキか厳しいと言った山の奥深く。緑の深い森の仲に場違いな風体の青年がいた。

 金の王冠に、赤のマント。褐色のはだに借り上げた短髪。鋭い相貌は自信に満ちあふれている。

 上半身裸の上にマントの男には奇妙な色気があった。目を離せないような……そう、まるで上位の王族と相対するような、そんな気分になる。

 それもそのはず、青年は”強大なる紅世の王”にして”大罪”の一人、”頂立”なのだから。

 

「それで……”兎孤の稜求”。あの『討滅の道具』のどれが”万華胃の咀”をヤッたというのだ?」

 

 誰もいない森の中で虚空に語りかけると、景色が歪み人型を取った。

 現れたのは体のラインがはっきりと現れるワンピースを着た女だった。金色の艶やかな髪をなびかせる彼女もまた徒。”強大なる紅世の王”にして”大罪”の一角、”兎孤の稜求”である。

 

「”万華胃の咀”は知らないわ。”業剛因無”と戦ったのは女といた男のほうよ」

「あれが? 偉そうではあったな」

「ここ一帯の国の王よ」

 

 ほう、と青年——“強大なる紅世の王”にして”大罪”の一角”頂立”は周囲を見渡した。

 遠く、眼下の平野に見える村々——国は生気に満ちている。国民の誰もが明日を疑わず、太陽の恩恵の下に日常を繋いでいる。だが多くの国を見てきた”頂立”には文明の段階がまだ幼いことがよくわかる。高床式住居が残っているのを見て、鼻で笑った。

 

「所詮は極東の国の王よ。絹も無く、巨大建造物も無い。数も少ない。国を名乗るのもおこがましい」

「評価するのは気楽でいいわね」

「ふん、俺に評価されるだけでありがたいと思うべきだろう」

「……あなたも珍しい徒よね」

「お前には言われたくないがな。人と交わる徒などお前くらいだろう」

 

 侮蔑の視線を”頂立”は仲間に向けた。

 この世に跋扈する徒は大多数が人に対して評価するほどの価値を感じていない。とある徒は人を麦の穂に例え、喰らうことを収穫と表した。またある徒は人を虫と区別できないと言った。それが徒にとっての人間だ。

 食料に対し、特別な視点を持つのは一部の風変わりな徒だけだ。

 その点では文明に特別な価値を感じる”頂立”は変わり者と言えるだろう。

 だが風変わりという点では”兎孤の稜求”は”探耽求究”にも劣らない。”兎孤の稜求”は人と交わる徒なのだ。

 人で例えるなら豚と交わるようなものだ。風変わり、という侮蔑を受けるのも仕方ないだろう。

 

「あら、それで満足してるのよ、私は。”大罪”に変わり者なんて当たり前のこと過ぎて侮蔑にもならないわ。あなたは嫌でしょうけどね」

 

 ふん、と——おそらく癖なのだろう——鼻で笑う。

 

「一応聞いておきましょうか。手は貸しましょうか?」

「いらん。あの程度のフレイムヘイズなど俺一人で十分。貴様らは俺が手に入れた『欠片』を前に、頭を下げる準備をしておけばよい」

「そう、期待してるわ……ああ、あの男を殺すなら言い訳は考えておきなさいよ。じゃないと——”業剛因無”に殺されるわよ」

 

 きびすを返し、再び虚空へと消えていく”兎孤の稜求”。

 完全に消えたことを確認して、

 

「ふん。しぶとく生き残ったクズに俺がいったいなぜ言い訳などという低俗な行為をしなければならん」

 

 遥か遠く、唐沢山の山頂に据えられた神社には二つの気配。

 それなりには強そうではあるが……

 

「所詮は人。分相応の力を得て舞い上がっているだけの愚民、地をはう毛虫よ。”業剛因無”と”万華胃の咀”はどうにかしたようだが……この”頂立”を前にすれば、ふん。言うまでもないことよ。……ふ、ふふ。ふはーはっはははは!」

 

 

 

 

 

 

 


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