-
--
---
すでに時間は深夜0時に差し掛かろうという頃。
とある世界の学園都市第七学区に建つ病院の診療室の一室には、白衣を着た恰幅のよい初老の男性医師が電話で会話している姿があった。
その医師の正式な本名は誰も知らないが、カエルに似た平べったい顔をしている事から『カエル顔の医者』と呼ばれている。また、一部の女子中学生からは『リアルゲコ太!』と親しまれている。
そんな彼には『冥途帰し』という異名がある。
その理由は、医学の常識からすれば異常といって過言ではない医療技術を持っているからであり、どんな負傷や病気でさえ、決して患者を見捨てず、あらゆる手段を用いてほぼ確実に治療してしまうためだ。
もし彼が存在しなければ、ツンツン頭の少年の長い長い物語が紡がれることは決してなかったであろう。
そんな彼の元には、つい数週間ほど前にも頭に拳銃の銃弾を受けた瀕死の少年が運ばれてきた。
そこら辺の医師であったなら、彼の状態をみて執刀しようなどとは全く思わなかったことだろう。
しかし、『カエル顔の医者』は臆することなく、自分が面倒をみている別の患者の力も借りて、その彼の手術を見事成功させたのだった。
そんな彼であるが、今浮かべている表情はとても暗く、疲労困憊気味だった。
『なぜ、このような事態になったのか。説明してもらいたい』
電話口から出てくる声は、男性のようでも女性のようでもあり、子供のようでもあり老齢な人物のようでもあった。だが共通しているのは、相手に有無を言わせない、圧倒的なカリスマのような強さが感じられることだ。
それもそのはずで、この電話の相手は学園都市を束ねる統括理事長を務めるアレイスター・クロウリーその人である。
「・・・できれば、僕の方が説明してもらいたいくらいなんだけどね?」
『カエル顔の医者』はため息をついて、同じ説明を繰り返す。
「さっきから言ってるね?彼の手術は無事成功した。後遺症は残ってしまっているが、彼女らの協力でその問題はクリアしている。だから、彼の意識が戻らないというのは、ありえないんだね?これまで多くの患者を救ってきた医師としての自負に誓ってもいい」
『つまり、貴方はこう言いたいのか。「まるで意識の根源たる魂だけが抜けてしまっている」と』
「どう解釈するかは難しいところだね?他ならぬ君の言葉だけにそれが真実に近いのかもしれない。なんにしても、そういう風に考えないとこの状況を説明することはできないね?少なくとも今の僕には」
『意識が戻る可能性について、貴方の見込みは』
「わからないね?1分後に目覚めるかもしれないし、1週間後かもしれない。もしかしたら1年後というのもあるかもしれないね?」
『・・・現状では、彼の肉体の生命活動を維持しておく他、手はないということか』
「そういうことだね?僕としては歯がゆいことだね」
『貴方がそこまで言うのだから、この件はひとまず保留にしよう。私はこれから早急にプランを練り直さなければならない』
「・・・アレイスター。君のプランそのものに口出しするつもりはないが、これからも彼ら彼女らを巻き込むというのなら、僕にも思うところがあるんだね?」
カエル顔の医者の表情には強い意志が伺えた。
もちろん言葉にもその意思は乗せられているはずだが、この電話の相手にどこまで届いたのか、それは全く読めないことだった。
『忠告として留めておこう。だが・・・あぁ、そうか、なるほど。くっくくくく。これは、また、愉快なことを思いついてしまったものだ。私にもまだ突飛なことを思いつけるだけの余裕があったのか』
「どういうことだね?なにかわかったのかい?」
『・・・貴方が知る必要のないことだ。彼については引き続き任せる。それでは』
回線は一方的に遮断された。
いつものことではあるのだが、今日はとくに酷い。
カエル顔の医者は、受話器から聞こえる「ツーツー」の音を確かめてから、受話器を戻した。
「彼は困った患者だね?」
カエル顔の医者は椅子から立ち上がり、奥の流しの横にあるコーヒーメーカーで新しくコーヒーを入れ直し始める。
-
--
---
--
-
コンコンコン
彼が新しいコーヒーを手にして席に戻ったのと同じタイミングで、扉をノックする音が響いた。
彼は「今日はお客さんの多い日だね?」と思いながら、その扉を開けた。
そこには、眩いばかりの純白なドレスに身を纏った長い金髪の女性が立っていた。
その美貌は、この世の者とは思えないくらいに美しく、神々しいほどだった。
ただ彼はそのように美しい女性を前にしても全く態度が変わらなかった。
「・・・こんな時間にどうしたんだね?急患なら、別の部署が担当のはずなんだが」
「突然の来訪申し訳ありません。冥途帰し・・・いえ、親しみのある名前の方がよいですか?『リアルゲコ太』さん」
「・・・とりあえず、ここじゃなんだから、中に入りなさい」
この突然の来訪者がいったい何者なのか、なにが目的なのか。
そして、どうしてその特定の者からの呼ばれ方を知っているのか。
疑問は尽きなかったが、彼は、この来訪者が今のところ敵意を向けているわけではないこと、そして、今日という日がまだ自分に睡眠を与えてくれそうにないことだけは確信していた。
-
--
---
--
-
「こんなものしか出せないが構わないかい?」
突然の来訪者だったため、彼の部屋には客をもてなす類のものはほとんどなかった。しいて言えば、先ほど利用したばかりのコーヒーメーカーくらいしか使えそうなものはなかった。
彼は、この女性に自分と同じコーヒーを差し出す。
「えぇ。もちろん大丈夫ですわ。感謝します。『リアルゲコ太』さん」
「・・・その呼び方はやめてほしいんだが」
「え?でも、あなたを最も親しみを込めて呼んでいる名前だと聞いたのだけれど」
「どこから聞いたのかは置いておくとして、時間も時間だから手短にいこうじゃないか。君は、僕になにか用があるんじゃないのかい?まさか、僕とお茶するためだけに来たということはないだろ?」
「・・・この場合、どう答えたらいいのかしら・・・『カエル顔の医者』がまさかこの人だったなんて・・・私に気づいているのかしら・・・」
なぜか、この女性は下を俯いてブツブツと呟くだけで、ここに来訪した理由を答えなかった。
「まぁ、無理に話す必要はないね?ここには、様々な種類の患者が来る。なかには頭蓋骨を開いてスタンガンでショックを与えてまた閉じたとしか思えないような怪我を何度もする少年もいるしね?」
「な、なんと壮絶な・・・」
「そう。ここには、そのように壮絶な思いで苦しんでいる彼らがいる。だが、彼らはここで築いた『何か』を大切に想い、ここで過ごすことを決めたんだ。逃げるためでなく、生きていくために。そして、その『何か』を守るために。だから、僕はここにいるんだね?それに、中には『リアルゲコ太』と親しんでくれる子もいるしね?」
「・・・」
彼の言葉に聞き入っていた彼女は、彼に何も返さない。
ただただ、彼の言葉に耳を傾けている。
「君が何を目的にして、ここにきたのかはわからない。だが、もし彼らに対して、『何か』するつもりなら、僕は黙っているわけにはいかないね?」
彼の言葉に、彼の表情には一切の迷いはなく、そこにあるのは、医師として誰よりも頼もしい強き意思だけだった。
「そうですか。貴方は、強いのですね。とても安心しましたわ」
「なんだかよくわからないが、君の悩みが解決したのなら、それはなによりだね?」
「あと、私は彼らに何かするつもりはありません。彼らの可能性を信じてみたいだけなのです」
「・・・そうかい。ならば私からは何も言うことはないよ?」
「・・・」
「・・・」
彼が発した言葉を最後に、しばらく、二人の間には沈黙が流れた。
沈黙が10分くらい続いていたが、突如としてその沈黙は破られることになった。
「・・・そうそう、忘れていました」
それは、彼の言葉を受けて、彼女が告げることを決意したからだった。
自分の名がもたらす意味を、誰よりも深く理解した上で。
「私の名前は、テッラ。この地球を司る女神テッラです。以後、お見知りおきを。冥途帰し、いえ『リアルゲコ太』さん」
「この歳になると若い者の冗談に疎くてね?」
「簡単に信じてもらえないことはわかっておりますわ」
「では、なぜ名乗ったんだね?」
「私にとっての大切な『何か』を守るためですわ」
「・・・」
「・・・」
また、二人の間に沈黙が流れる。
しかしこの沈黙はそう長く続かなかった。
今回は、冥途帰しによって破られることになった。
「・・・聞いた話によれば、君たちにとって、名前を名乗るということは、とても重要な意味があるんだね?」
「よくご存じで。私は、それでも、貴方に知っていてもらいたい・・・うーん?ちょっと違うかしら。すでに知っていることを知ってほしい。そんな感じかしら」
「さっぱりわからないんだね?」
「恍けるのがお上手ですわね。なんにしましても、お元気そうで安心しました。貴方がついているのなら、私が手を出す必要はありません」
冥途帰しは肩をすくめるだけで取り合おうとしなかった。
このことが、彼女の何かに触れたようで、クスクスと笑いだしてしまった。
彼女の忍び笑いが部屋に響いていたが、時計の短針がちょうど1時を指そうとした頃、彼女は笑うのに飽きたのか、テーブルに置かれたコーヒーを一口で飲み干すと、すくっと立ち上がった。
その表情には迷いなど一切なく、優しげな微笑みだけが浮かんでいた。
「楽しい時間をどうもありがとうございました。『リアルゲコ太』さん」
「もう行くのかね?」
「えぇ。私も多忙の身ですから」
「そうか。僕も不思議な時間を楽しませてもらったね?女神テッラ殿?」
女神テッラは、彼のその反応に満足したようで、歩を部屋の入り口へと進める。
手を扉にかけたところで、テッラは振り返った。
「あぁ。そうでした。貴方にお伝えしないといけないことが」
「なんだね?」
冥途帰しの反応を伺うように、少しだけ間をとって、この場で最も伝えるべきことを口にする。
「あの子は、元気に楽しくやっていますよ」
「・・・それは、どういう意味かね?」
「さぁ。貴方なら、すでにおわかりなのでは?あら!もうこんな時間。急がなくては。それでは失礼します、『リアルゲコ太』さん。またお会いしましょう!」
彼女が素早く呪文のようなものを唱えると、彼女の足元に円形の魔方陣が突如としてあらわれた。その魔方陣から発せられる光は彼女の身体を包み込み、一瞬の内に消え去ってしまった。
彼女が去り際に『さて。次は可愛い可愛い我が子の様子でも、見に行ってみましょうか』と呟いていたのだが、彼の耳に聞こえていたかは、定かではない。
-
--
---
--
-
「・・・『お元気そうで安心しました』か。それは僕のセリフだね?・・・元気そうでなによりだ。テッラ」
椅子に深く背を預けた彼の表情は、ここ数週間の中で最も穏やかだった。