Fa#e/also sprach "FAKER" 作:ワタリドリ@巣箱
或る冬の一日(1)
一月末日。大寒の真っ直中とあってか、いつにも増して冷え込みの厳しい朝だった。
その日、
「……んー」
布団の中で、紘人はのっそりと身じろぎする。枕元に置いてあるスマホを取り寄せて時刻を確認すると、午前六時五十三分だった。アラームが鳴るよりも七分ほど早かった。残りの時間をこのまま悶々と過ごすか、それとも覚悟を決めて冬将軍に戦いを挑むか。
「…………」
三十秒ほど悩んだ後、紘人は身を起こすことを選んだ。もとい悩んでいる時間の方が無駄だと気づいた。さらば温暖なる天国、ようこそ寒冷なる地獄。今日という特別な一日が始まる。
かちかちと歯を鳴らしながら、手早く高校の制服に着替える。その後洗面所で身支度を調えると、紘人は階下――彼の叔母が営む喫茶店の店内へと下りていった。
〝紅茶とケーキがおいしいお店〟と評判の喫茶店〈あまりりす〉が位置しているのは、市の南部に位置する
ところで〈あまりりす〉では朝早くからモーニングセットの販売も行っており、これが紘人の朝食を兼ねている。家族用に別々のものを作るよりも楽だという、叔母のずぼらさの現れだ。
早朝の店内は、賑わっているというほどではないものの、それでも空席が目立たない程度にはお客さんたちが集まっていた。客層は出勤前やら夜勤明けやらのサラリーマンのほか、朝の散歩の途中に立ち寄るのだという老夫婦や、近所のアパートに住んでいる大学生だとか、とにかく様々だ。そして彼らの間を縫って歩きながら、朗らかな笑顔を無料で奉仕しているのが、店主の
「さすがは元アイドルだな。プロフィールの誤魔化し方とファンを手懐ける方法はよく心得ている」
呟きつつ、定位置になっているカウンターの右端の席に腰掛ける。すかさず理子が熱々のコーヒーを運んできてくれるが、彼女は営業スマイルを振り撒きながらも、額に薄らと青筋を浮かべていた。
「おはよう、紘人くん。ところで今……何か言ったかしら?」
「おっと、聞こえてたか。おはよう、理子さん。今日も綺麗だね、って言ったんだよ」
嘘ではない。事実、そういう意味も含めての発言だった。〝夢見るアイドルは永遠の十四歳!〟という謎の合言葉はともかく、理子の若作りの技術と努力に関しては素直に感心せざるを得ない。
「ん? そんなに短かったはずはないんだけどなぁ?」
顎に人差し指を当てながら、こくりと首をかしげる元アイドル、かつ四十代手前の中年女性。
ちなみに華麗なデビューを飾るや否やローカルアイドルとして県内と県外の一部を熱狂的に騒がせていたのだというその〝甲斐あやこ〟は、やがて結婚を機に惜しまれつつも引退、その後は一児の母として芸能界とは無縁の生活を送るものの、趣味でブログに写真を載せていた手料理の数々がネット上で評判になり、やがて料理研究家〝甘利理子〟に転身して〝再デビュー〟し、今度は全国の主婦たちの間でその名が囁かれるようになった――らしい。というか、目の前の当人が以前自慢げにそう話していた。どこまでが客観的事実でどこからが脚色及び誇張なのかは解らないが、とりあえずビル付きの土地を現金で一括購入したり、涼しい顔で紘人を含めた子ども二人を養っていたりするという、尋常ならざる経済力は本物だ。自分もその内大人になるわけだが、果たしてここまで稼げるだろうか。
何だかんだ言って――人を惹き付ける〝何か〟を持った人なのだろう。その太陽のように力強い笑みを前に、しみじみと紘人は思う。彼女が身近にいてくれて、本当に良かったとも思う。
そんな甥っ子の内心を知ってか知らでか、叔母は豊かな胸を張りながら高らかと謳う。
「私はね、別にみんなを騙しているわけじゃあないのよ? 夢を与えているのよ、夢を!」
「なるほど、物は言い様だね。勉強になるよ」
「……紘人くんの分のサンドイッチ、マスタード七割増しだから。異論は認めない」
最後まで一片たりとも笑みを崩すことなく、しかし物騒なことを言い置いて、理子は踵を返した。「やれやれ……口は災いの元か」と紘人は微苦笑を浮かべた。
料理の到着を待ちがてらスマホでネットニュースに目を通していると、
「おはようございます」
と、聞き慣れた少女の声に、ふと紘人は顔を上げた。お店の出入り口を振り返ると、隣家に住むクラスメイト――
「おはよう、紘人」
「おはようさん。珍しいね、こんな時間に真里花がお店に来るなんて」
「昨日の内に高槻さんから頼まれてたのよ。法事でご両親とも留守にするから、真里花ちゃんの面倒をよろしくってね」
紘人の問いに答えたのは、ちょうど二人分のサンドイッチとサラダを運んできた理子だった。真里花もまた当然のように紘人の隣の席に腰を落ち着ける。
「でも良かったです。実は前々からこのお店で朝ご飯を食べてみたいと思ってたんですよ。すぐ隣だと、かえってなかなか機会がなくて……」
「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない。このヨーグルトはサービスよ」
「あれ? 僕の分は?」
「減らず口を叩く子にはあげませーん」
「……紘人、また何か余計なこと言ったの?」
「失敬な。僕は素直な感想を口にしただけたったのに」
――などと、他愛ない会話に興じていると、不意に理子が小さく顔を顰めた。その視線の先には店内に備え付けのテレビがある。朝のニュース番組の真っ最中、男性キャスターが生真面目な表情で原稿を読み上げている。その背景には、紘人もよく見知った風景が映し出されていた。
[皆さんは覚えていらっしゃいますでしょうか。今日は――]
しかし皆まで言わさず、理子はチャンネルを変えてしまった。画面の中は打って変わって賑やかに芸能ニュースが展開する。
「……?」
真里花が不思議そうに理子を振り返る。テレビを見ていた他のお客さんたちも一様に怪訝そうな表情だ。が、当の理子は何食わぬ顔で注文を取りに行っている。
それを横目に、紘人はサンドイッチを一つ、口に運んだ。途端、猛烈な辛味が舌の上でタップダンスを繰り広げて、思わず咽せてしまった。視界が涙色に滲む。
「ひ、紘人? 大丈夫?」
「問題ない。こうなることは既に覚悟していた」
「無駄にかっこいいこと言ってるけど、はっきり言って意味不明よ?」
相変わらず、こうと決めたら容赦しない人だ、我が叔母は。その普段通りの有り様に、紘人も人知れず小さく胸を撫で下ろす。
ちなみに激辛サンドイッチは最初に手を付けた一個だけだった。腐っても料理研究家、食べ物で遊ぶようなことはしないのだ。