目の前に居る達也と深雪の横を通って逃げることは出来そうにない。
紗耶香はそう判断した。達也の実力は知っているし、妹の深雪も首席入学。特別閲覧室にいた自分たちを一人で制圧した至言と同じだ。
彼女の頭の中にどうすればここから好転できるか、という考えが巡る。
「くっ!」
彼女は飛び降りた。降りるのと落ちるのとでは訳が違う。
紗耶香は飛び降りた際に自分に伝わる衝撃を逃がすように前転を行い、達也たちがどう動いてくるか後ろを見て確認する。
(どういうこと?)
二人は紗耶香を追うそぶりすら見せず、ただ無言でこちらを見ていた。
もしかしたら自分が下の階に降りたことは彼らにとってはイレギュラーではなかったのだろうか。
考えていても仕方がない、紗耶香はそう切り替えて正面入口に向かって走り出す。
この計画が失敗した場合は、学外にある組織の中継基地へと帰還する手筈となっていた。その為には図書館から抜け出すのが最優先だ。
自分の正面に見える図書館の入り口。そことの距離が徐々に縮まっていき、彼女は足を止めた。
「セーンパイっ。どこ行くんですか?」
柱の陰から一人の女子生徒が姿を現す。やけに楽しげな表情を見せながら紗耶香の前に立ちはだかった。
後ろに組んでいる両手には何かを隠しているのだろうか、確かめる術はない。
「……誰だか知らないけど、貴方には関係ないでしょう」
警戒心をあらわにして彼女に言葉を返す。
「そっか、自己紹介がまだでしたね。一年E組の千葉エリカです」
「別に興味ないわ。そこを通してもらえないかしら」
名前を聞いたわけではない、と不機嫌な声を出す。
エリカはそんな紗耶香を意に介さず言葉をつなげる。
「残念ながら通すわけにはいかないんですよねえ。一応任されてるわけだし……。あっ、でもどうです? あたしと手合わせして勝ったならそのまま通ってもいいですよ」
挑戦的な笑みと共に右手に持っている伸縮式の警棒をこちらに見せてくる。左手は未だに後ろに隠したままだ。
紗耶香は目だけであたりを確認する。が、めぼしい物は落ちていない。
相手は同じ二科生だ。なら、持っているCADで魔法を使えばこちらにも分があるのだろうか?
そう考えて紗耶香はすぐに考えを改める。
特別閲覧室では使う暇も無く終わってしまったが、彼女はキャスト・ジャミングを起こすアンティナイトを加工した指輪を身につけていた。
だが、自分が魔法を使うのだとしたらキャスト・ジャミングは使えなくなってしまう。
得物を探している紗耶香の目の前に一本の脇差が投げられた。
カラカラと音を立てて紗耶香の足下に投げられた脇差とそれを投げてきたエリカを見る。
「……どういうつもり?」
「得物が無くてお困りのようだったので」
だが、紗耶香は足下の得物を取る仕草を見せずにエリカを見つめている。
視線を向けられたエリカは呆れたように声を出す。
「別に拾った隙を狙おうだなんて姑息な真似はしませんよ」
自分の懸念していたことを姑息な真似と言われ、顔を顰める。
「後悔するわよ」
紗耶香は自分の剣の腕には自信を持っている。魔法は出来なくても剣の腕を磨くことだけは続けてきた。
「しませんよ、ちょうど戦ってみたいと思ってたので。壬生紗耶香センパイ」
自分の名前を当てられたことに紗耶香は不快そうに眉をひそめる。
「貴方、あたしのこと――」
「ええ、知ってます。一昨年の全国女子剣道大会で準優勝の経歴をお持ちでしたよね?」
経歴までも言い当てられ、自分の中の負の感情がさらに膨れあがった。
足下にある脇差を拾い、構えを取る。
自分の実力を知った上で『戦ってみたい』というのなら相応の実力を持っているのだろう。
紗耶香が脇差を構えたのを見たエリカは満足そうに笑みを深め、彼女も警棒を構えた。
「それじゃあ、始めましょうか。センパイ」
「怪我しても恨まないでちょうだいね」
自分の剣の実力。それだけは紗耶香にとって譲れない一点だった。
「もちろん、やれるものなら……ねッ!」
紗耶香の言葉を受け取ったエリカが、自己加速術式と自らが研鑽を重ねた脚運びを併用し紗耶香に肉薄する。
振るわれた警棒を反射的に構えた脇差で防ぐ。
目の前のエリカの姿がブレるのと同時に脇差に掛かっていた圧力が弱まる。自分の勘に従い、振り向きながら得物を振るう。
金属同士がぶつかり合う甲高い音が鳴り、自分の勘が正しかったことを証明した。
同時に自分の体勢が不利なことを理解した紗耶香は、そのままエリカの警棒を弾くように脇差を上に跳ね上げ、後ろに飛び退く。
一瞬の静寂。
エリカに取られた先手だったが、紗耶香はその一手によって一つの疑問が生まれた。
「貴方、渡辺先輩と同じ……?」
紗耶香の確認するかのような物言いに、エリカは、
「悪いけどあたしのはあの女のとは一味違うわよ」
不敵な笑みを浮かべ、そう答えた。
○
階下ではエリカと紗耶香による剣戟が行われている。
数度のぶつかり合いの後に二人が会話を交わし、紗耶香が指にはめていた指輪を投げ捨てる。
そんな様子を二階にいる達也と深雪は眺めていた。
二人の間に会話はなく、言葉を発することをせず階下の戦いに注目していた。
図書館に金属音が幾度となく響き、そして――
「あっ」
深雪が小さく声を上げたのと同時に紗耶香が膝をつく。紗耶香の手にはもう脇差は握られておらず、自分の右腕を押さえていた。
「お兄様」
「ああ、決着だ」
深雪の呼びかけに達也は短く答える。
紗耶香はそのまま気を失ったように倒れ込み、その身体をエリカが丁寧に抱き起こした。
エリカが正面入口の方に声を掛けると柱に隠れていた幹比古が姿を現す。その後に二階に居る達也たちに気がつき、軽く手を振る。
「邪魔しないでくれてアリガトね。ついでにミキも」
降りてきた達也たちにエリカは感謝の言葉を投げかける。
「エリカに任せるべきだと判断しただけだよ。それとエリカ、僕の名前は幹比古だ。ミキって呼ばないでくれって言ってるだろ」
小さく笑いながらではあるが、それでいて少しつっけんどんな幹比古の文句をエリカは軽く聞き流す。
「それよりも達也くん。特別閲覧室だっけ? 行かなくていいの?」
自分の主張を『それよりも』と置いていかれた幹比古は不満げな表情を見せるが、エリカの達也への問いかけに反応を示す。
「それならさっき夏目先輩から通信があったよ。特別閲覧室の敵は逃した一人以外は鎮圧済みだってさ。それで、逃がした一人って言うのは……」
幹比古はエリカが支えている紗耶香に目を向ける。
「壬生先輩、というわけか」
達也の言葉に幹比古は小さく頷いた。
〇
同時刻。正門付近。
剣道部主将の
すでに図書館に潜入した部隊が拘束されたと知っていた彼は、自身の義理の兄であり、ブランシュ日本支部のリーダーでもある
しかし、学校の敷地内で外部に通信を掛けるような真似は出来ない。学校側からすれば今は非常事態だ。そんな状態で外部に連絡を取っていればあとで足が付くかもしれない。
外敵が入らないように部外者の立ち入りはチェックされているが、生徒の下校を妨げるわけはない。とりあえずは外に出て連絡を取ろう。
そう考えた司だったが、正門から出ようしたところ近くから声が掛けられる。
「よう、司。ちょっといいか」
声の主は司と同じ三年生。筋肉質な体格で風紀委員の腕章をつけている生徒。
「辰巳……どうしたんだ」
自分の立場と相手の立場を考えてなるべく動揺が表に出ないように対応する。
「ああ、ちょっと訊きたいことがあってよ」
「訊きたいこと?」
「つってももう分かってんだろ? こっちが訊きたいことくらいはよ」
バレている。
司は直感的にそう理解した。
そこからの司の行動は早かった。高速移動の魔法を使用し、辰巳の横を抜けて正門に走る。
しかし、すぐに足を止める羽目になる。
「司先輩! 大人しくご同行願います!」
辰巳と同じ風紀委員に所属する二年の沢木が彼の行く手を阻む。
「……お前達二人ほどの実力者が何故図書館ではなくこんなところに」
辰巳と沢木に挟まれる形になり思わず悪態をつく。少なくともこの二人はこそこそと監視をするよりも、侵入者を片っ端から薙ぎ倒す仕事を任される人間だ。
「図書館には夏目が行ってるぜ。俺はお前の監視で沢木はアイツの知り合いの後輩の護衛だ。安全な所に避難させたみたいだから手伝ってもらってるがな」
辰巳から返ってきた言葉を聞き流す。元々時間稼ぎの為に口にした言葉だ。
今の内に逃げ道を探さなければならない。校舎内に戻るのは悪手、ならば目の前の沢木を強行突破するしかない。
自分が一番うまく扱える剣は持ち合わせていない。
そうなるとアドバンテージの一つであるキャスト・ジャミングを使うしかないだろう。
自分の立場がバレているのなら大手を振って使うことが出来る。
司は右手に巻かれたアンティナイトのブレスレットをかざし、キャスト・ジャミングを発動した。
目の前の沢木はマーシャル・マジック・アーツの使い手ではあるが、それはあくまで魔法で肉体を補助して戦う魔法の技術だ。魔法を使えなくしてしまえばこちらにも勝ち目が見えるはず。
だが、短い時間で彼が出した結論は一瞬にして覆された。
司が打ち出した手刀をいなされたと理解したのと同時に腹部に激痛が走る。
自分の身体が崩れ落ちるのを止められずにその場に倒れ伏す。
鈍い痛みが身体の芯に残り、まともに動くことが出来ない。
それでも身体を引きずってでも逃げようとする司を沢木は何も言わずに拘束した。
〇
保健室では、治療を受けた紗耶香の事情聴取が行われていた。
生徒ではない学外の侵入者は教職員が警察に引き渡すために拘束を行い、監視している。
そのため、保健室には真由美、摩利、克人と校内での有権者が集まることが出来た。
「入学してからすぐに司先輩に声を掛けられたんです。それで――」
紗耶香が語るのは自らが入学してから受けた勧誘について。
彼女が言うには既にその時点で剣道部には司の同調者がいたらしい。そして、剣道部だけではなく自主的な魔法訓練サークルの中でも思想教育が行われており、少しずつ皆の思想が固まっていくのと同時に背後にいたらしい反魔法団体のブランシュが接触してくるようになったとのことだ。
「今にして思えば、あたしは『剣道小町』なんて呼ばれていい気になっていたんだと思います」
自らの心情を吐露していく紗耶香。
だが、彼女が話していく内容に摩利が焦ったように声を出す。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。確かにあたしはお前の申し出を断ったが、そんな風に断った記憶はないぞ?」
摩利の剣技を見て手合わせを申し込んだ際に無下に断られたと言った紗耶香だったが、摩利の記憶と食い違っている箇所があった。
「あの時あたしはこう言った。『あたしの腕では到底、お前の相手は務まらない。それよりお前の腕に見合う相手と稽古してくれ』と」
摩利の記憶は確かな物だった。紗耶香もそう言われればそうだったかもしれない、と混乱する。
そもそも摩利が修めているのは魔法を併用するのを大前提とした剣術だ。単純な剣技のみでは紗耶香の方に分がある。
「それじゃあ…………あたしの勘違い、だったんですか……?」
呆然と呟く紗耶香の目から涙が零れ始める。
居心地の悪い空気が漂う中、至言が言葉を発する。
「勘違いではないだろう。そこまで互いに食い違うことはそうないだろうからな。壬生、いつからだ?」
「え?」
「初めからそう思っていたわけじゃない、というのはなんとなく理解しているのだろう? ゆっくり記憶を辿れ。いつから渡辺先輩の言葉を書き換えられた?」
紗耶香は目を閉じて自分の過去を思い返す。
だが、どうしても答えが出てこない。気がついたらそう感じていたのだ。
いつから、と考え始めると、その考えがすぐに消えてしまう。それは消えるというより何かにかき消されるような感じがした。
「わからない……あたし、いつから……?」
考えても分からない、と混乱したような声を出し始めた紗耶香を至言は止める。
「分かった。充分だ」
そう言った後に真由美、摩利、克人の三人の方を見て言葉を繋げた。
「何かしらの魔法の影響下にあったと思われます。精神干渉系か、それに準ずる魔法でしょう。特に記憶のすり替えの場合はその境目があやふやになることが多いので」
至言自身も扱える精神干渉系だとしたら簡単に洗脳をすることもできる。
勘違いではなく魔法での洗脳。その可能性を示唆された三人はそれぞれ険しい表情を見せた。
「夏目先輩、一つお聞きしたいのですが」
そんな中、達也が至言に問いかける。
「どうした」
「夏目先輩は奴ら――ブランシュのアジトをご存じですよね?」
至言の目が細められる。至言が周りの人間に共有した情報はエガリテに所属している生徒の情報だけだ。
達也は何も言わない至言に対してさらに言葉を重ねる。
「生徒についての情報を集めた際に一緒に調べたと思ったんですが、違いますか?」
「……確かに情報としては持っている。だが、それを知ってどうするつもりだ」
「叩き潰すんですよ。洗脳の手段を持っている可能性があるテロリストを野放しにするのも可笑しな話でしょう」
至言の問いかけに対する達也の返事はとても過激的な物だった。