暫くの話をした後、昼食の時間はあっという間に訪れる。
話は自然と弾み、彼女からも笑顔が溢れ出ていた。
昨夜に訴えた心痛の陰りは片鱗すらもなく、一人の女性として心から笑っていた。
垢抜けている爽やかな彼女の笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも素敵だと思う。
昨日と同じくして、彼女が昼食を食べ終えるまで待つ。
それを待っている間だって、どうにも飽きない。
ゆっくりと流れゆく時間が、どうにも愛おしく感じた。
彼女はどうやら、いつもの格好で外出するらしい。
着替えが終わった彼女の姿は、まだ目新しい桜色の寝間着から、もう幾分見慣れた白のワンピースに。
可愛らしい服もいいが、清楚な白の服がやはり一番似合う。
どちらにせよ、俺にとっては目の保養・眼福であることは変わらない。
外に出た時間は、昼食が少し遅かったことも重なって、もう午後三時を回っていた。
日差しは強さは最高潮。吹き付ける風さえもその温度を吸い取った。
肌を優しく撫でる風の、自らの体温になっている。
不思議と、蝉の鳴き声の煩さがあまり気にならなくなった。
気に留まらないのではなく、そもそもの蝉の数が減っている故に、蝉の鳴き声が聞こえないことに遅れて気付く。
それが、他ならない夏の終わりを告げている気がして、乾いた地を踏みしめる足が重く感じた。
思いの外、過ぎるのが異常に速く、名残惜しい夏だった。
記憶を辿るとかなりの風景が蘇るはずなのに、どこかそれ以上のものを求めている。
もっと多くこの記憶の、続きが欲しい。
そう思わずにはいられない、と言わんばかりだ。
「えっと、これは一体どこに向かっているのですか?」
「いや、俺にもさっぱりわからん。見当すらつかない」
「それ本当に大丈夫なんですか!?」
「それさえもわからん。迷うかもしれんし、迷わんかもしれん」
「今までで貴方を一番心配することになりそうです……」
彼女からしたら、それはそれは不安極まりないだろう。
自分の手を引いている相手が、己の気の赴くままに歩を進めているのだから。
夢見村の地理を知っているならまだしも、来て数日の俺ともなると、不安は募る一方だ。
一応ではあるが、ささやかな候補は一つだけ上げたのだ。
ただ、はっきりと道がわかるわけでもないが、方角くらいなら予想がつく。
しかしながら、方角すら絶対に正しいと言えない上に、その先に何があるのかも理解できていない。
遅くなったが、彼女にその旨を伝える。
「いや、本当は山に向かっているつもりなんだが、こっちであっているのかどうかわからない」
俺が電車で降りたときに見えた、一つの大きな山。
そこに行こうと思い、こうして炎天下の中で彷徨っているわけだ。
いや、厳密にはまだ彷徨っていることはないのだろうが、そんな未来の背中が見えかけている。
「あ~……なるほど、どこの山かは予想ができました。それで、今はどこの辺りにいるのかわかりますか? 何か目印になりそうなものは?」
「ん~、そうだな。周りには民家と畑が沢山ある」
「わぁすごい、全くわかりません!」
こんなにノリの良い冗談めいた彼女の言葉は、初めて聞いた。
それを聞いて、ついふっと笑いが出てしまう。
それに加えて、様子も声も途轍もなく可愛らしい。
綺麗な見た目とのギャップが、さらにぐっときてしまう。
「……と言われても、他に目印になりそうにもないんだよな」
「それでは、家から出た後、最初に右に曲がりました? 左に曲がりました? それとも、真っ直ぐに進みました?」
「確か、左に曲がったはずだが」
「あっ、まるで反対ですね。山に向かうには右に曲がらないと」
俺はどうも、無意識ながらに遠ざかっていたようだ。
結構な時間を歩いて、判明してほしくない事実が発覚する。
これ以上進んでも、時間も労力も無駄なので、直ぐ様来た道を逆戻り。
ついさっき見たばかりの光景が、戻っていくにつれて次々と広がる。
景色だけでなく、音も通ったときと何ら変わりない。
その感覚が、俺の中に巻き上がる罪悪感を増幅させた。
「その、ごめんな。ちゃんと道は聞くべきだった」
「いいんですよ。私は貴方といられるなら、それだけでも嬉しいんですから」
涙が出てきそうなくらいに嬉しい。
俺は今日限りで、この村を去らなければならない。
仕事も関係してくるので、どうしても延期ができないことだ。
明日に訪れる彼女との別れは、避けられない。
けれども、それは彼女からも同じことが言える。
俺と彼女の別れは、当然だが俺と彼女の二人のものだ。
決して俺だけのものではない。
「あっ、そうです! いいところを知っているんですよ。貴方に見てほしい景色があるんですよ。一度、家に帰りませんか?」
「わかった。けれど、もう一回外出するとなったら、夕食の後になるだろうから夜になるぞ?」
「えぇ、それでいいんですよ。むしろ、夜じゃないと意味がないんですから」
今日の夜だけに上げられる、特別劇場の幕。
その上映時間の開始を、密かながらに待ち焦がれることだろう。