「昨日は、つい甘えてしまいました。ごめんなさい」
「謝ることじゃないさ」
朝食を食べ終わって、彼女の部屋に戻った後。
彼女からは、謝られていた。
当然、俺が言うように謝ることではない。
甘えることは、決して悪いことではないのだから。
「それに、俺が君にできることなら何でもするよ」
「やっぱり、貴方は優しいです。つい甘えたくなってしまいます」
「まあ、俺ほど優しい人間となると、世界中探しても片手で数えるくらいしかいないだろうけどな?」
「もう、さすがに言い過ぎですよ」
少しおちゃらけながら、笑い合う。
心躍るような、相当に楽しい出来事なわけでもない。
年に数度しかない、貴重なイベント事というわけでもない。
しかし俺にはこの何気ない、殆ど意味すらないような会話が、楽しくて仕方がなかった。
真っ白な雲を掻い潜って、切れ目から朝の陽光が漏れ出している。
清々しく、純度の高い可視光は、この部屋の灯りの役割を担った。
雲も自然のアトリウムとなっていて、少しだが灰色の光が雲の向こうに見える。
堂々と佇む木々の合間を縫う風で揺れる風鈴の舌。
心地良い硝子音は、小さな椀の中で反響した。
音の波は湾曲面から遥か遠くへと飛び出して、俺達の耳に届いている。
「この風鈴、実は私が選んだんです。音が、とても好きでした」
「へぇ、案外、俺と君は音の感性が似ているのかもな。俺も硝子製の風鈴の方が、音が澄んでいる気がするよ」
景色は見えなくとも、音は同じものを聞いている。
何が制限されるでもなく、全く同種の音楽が共有されるように聞こえているのだ。
それが、個人的には嬉しく感じられた。
目の前の人間と置かれる環境が同じでも、相手と同じ五感情報を受け取っているとは限らない。
共通した音や視界が広がることが当たり前。そう思うのは大きな間違いだ。
現に、彼女は過去数人の旅人から、
無意識の抑圧ほど、
無自覚の圧力ほど、相手を困らせるものはない。
彼女が盲目であることを知ったときの態度は、少なからず彼女にとって圧力だった。
せめて、彼女が俺と話しているときくらいは、気の向くままにしてほしい。
それだけでなく、一寸の光陰軽んずべからずとも言う。
楽しむのならば、文字通り徹底的に楽しむべきだろう。
「で、君は今日、何がしたい?」
「貴方と一緒なら、どこで何をしても私は満足ですよ」
「そう言われてもな~……あれだ。何でもいいっていう答えが一番困る」
料理においても、行きたい場所においても、何でもいいという返答が最も困ってしまうものだ。
自分の希望を控える謙虚な部分も垣間見えるが、困るときは本当に困ってしまう。
俺はこの村にどんな場所があるのかを、殆ど知らない。
知っているとしても、行ったことのある向日葵畑や市場、後は駅くらいだ。
二度目も悪くないのだが、せっかくなので新しいところへ行きたいとは思う。
「そうは言いますが、今日で最後なのですよ?」
「まぁ、そうなんだけどさ……」
こうして考えている間にも時は刻一刻と過ぎゆく。
時間は駆け足に、やがて疾走するほどに加速することだろう。
生憎ながら、時間は待ってくれない。
足を止めてくれるというのなら、いっその事楽な話なのだが。
「よし。午前中は何か話して、午後になったら外に出かけよう」
「わかりました。では、外出は手を引いてくださいね?」
「勿論だとも。というより、今までもずっと手は繋いでいただろ」
「そう、ですね。だって、手を繋いだ方が落ち着きますから」
彼女は俺の胴体から、探りながらに手を辿って繋ぐ。
落ち着くのは、何も彼女だけではない。
俺自身も、触れた手から暖かみが全身へと巡る。
「やっぱり、手を繋いだ方が、危険はなくなって安心するのか」
「あっ、えっと、それもそうなんですが……貴方だからでも、あるんですよ」
今度は、俺の片手を彼女の両手で握られる。
手のひらも甲も柔らかな感触に包まれて、心臓は跳ねた。
俺はたった一つだけだが、不安があった。
それが、彼女が俺と手を繋ぐ理由だ。
彼女が何故、いつも俺の手を握りたがるのか。
それを考えると、全盲だからという結論が一番に頭を駆けた。
実際、それが一番の理由なのだろうと納得もできたはず。
しかし、同時に少し残念でもあったのだ。
一人で勝手に舞い上がって、手が触れ合う度に喜んだ。
そんな過去の自分を思い出すと、恥ずかしさと残念感があった。
彼女は俺と手を繋ぐことを、どう思っているのだろうか。
それを考えると、不安だったのだ。
「そうか。ありがとうな」
「こちらこそ。貴方には、支えてもらってばかりなんですから」
「たった数日のことだし、ばかりってわけでもないんだろうけどな」
けれども、俺にできることはやったつもりだ。
彼女のためを思った結果、彼女が助かったのなら万々歳。
笑っている彼女が見られたならば、それは十分過ぎる見返りというものだろう。
「いいえ。私は貴方がいなかったら、きっと辛いままでしたから」
「……まぁそれなら、よかったよ」
「あっ、照れていますか? 照れていますよね? その声は照れている声ですよ」
「う、うるさいなぁ。いいじゃないか、別に」
「ふふっ、意外と可愛いんですね」
可愛いと言われると、余計に羞恥の念が巻き上がってしまう。
ただ、嬉しさ半分、複雑さ半分というものでもある。
男性が可愛いと言われているのは、あまり恋愛対象として見られていない感じがする。
女性の感情はわかりかねるが、本当のところはどうなのだろうか。
愛しさなどの気持ちを男性に持つのか、俺としては気になるところである。
「あの、失礼ですが、女性との交流は多かったのですか? あまり慣れているようにも見えない、と言いますか……」
「そういえば、機会の数は言ってなかったか。いや、平均的にはあったな。そう信じたい」
「あ、あはは……」
彼女の呆れた笑いが、乾いて聞こえた。
しかし、自分でも平均がどれほどなのかの区別がつけられない。
交際の経験だってないわけではないし、そういう意味では平均なのだろうか。
「だ、大丈夫ですよ! 母も、恋愛に期間は関係ないって言っていました。きっと数にも同じことが言えるはずです!」
「慰めかよ……」
結局、何を話しても笑いに行き着いてしまう。
話しているだけで楽しいのは、本心だということ。
それが、深く実感できた。