完全に、自然は夕焼けに呑まれていた。
呑まれるというよりも、一体になっている、という意味合いの方が強いだろうか。
透明硝子越しから弾ける、橙色よりの虹色の弱閃光。
さらに、その煌めきが部屋へと直接降り注いでいる場所もある。
蜜柑色の光は、雲に邪魔されることもなく、地へと届く。
この部屋が柑橘に染まりきってしまう前に、夕食の準備は終わった。
メニューは、彼女の予想通りに夏野菜カレー。
夏が旬ものばかりが入った、彩りと栄養に秀でたカレーライス。
今日は、彼女も夕食は一緒だった。
ただ、俺が早く食べ終えて片付けを済ませた後、ご両親が入浴を終えた後にシャワーを浴びたのだ。
彼女はやはり食事の速さが少し遅く、結局はあまり見合って食事をすることができなかった。
かといって、合わせて遅くすると、かえってご両親に迷惑がかかる。
食事も片付けも、入浴も終わってから彼女の部屋へ。
彼女が入浴の間、俺は夜の月光を浴びながら、小説の内容を考える。
明日で帰るというのにも関わらず、まだ一文字すら書いていない。
はっきり言って、一体俺は何をしにきたのかわからなくなりそうだ。
そんなことを、つい昨日考えていた上で、書いていないところが俺らしい。
メモ紙に思いつく限りのことを走り書きするが、どうにも筆の動きが鈍い。
夢見村で起きたことを、そのまま題材にしてしまおうかとも考えた。
「何をしているのですか?」
「あぁ、今小説の内容を、考えて、いて……」
絶句。良い意味での絶句だった。
今まで彼女はいつも白のワンピースを、家の中でも外出先でも着ていたのだ。
帰宅して着替えた後でも、わざわざ別の白いワンピースを着用。
不可視の何かに拘るように、はたまた、執着しているかのように。
しかし、今の彼女の服装はどうだろうか。
全身がピンク色の、通気性のよさそうな半袖半ズボン。
つまるところ、これはパジャマだとか、寝間着だとかの類の物だ。
「あの、これ……どうですか?」
彼女がゆっくりと、俺の前でくるりと回る。
まるで妖精の踊りのような動きは、俺の視線を捉えて離さない。
美しい限りの舞踏を、写真に収めたいとも思えた。
「え、えっと、聞こえてますか?」
「え? あ、あぁごめんごめん。こういう可愛いのも似合っているよ。白とか青とか大人しそうな色が合うと思っていたけれど、可愛らしい」
「あ、ありがとう、ございます。母に用意してもらったんですけど、あまりこういう色は着たことがなくて……」
最近訪れる回数の多くなった、静寂。
言葉が断絶された空間には、相応の雰囲気が漂い始める。
気まずいような、それに似ている別の感覚を僅かに憶えた。
もじもじしながら、恥ずかしがる彼女。
元々着慣れていないのだろうか、黒髪の奥に隠れた耳まで赤くなっている。
「なあ。どうして君は、あんなに白のワンピースに拘っていたんだ?」
俺の素直な疑問を、彼女に尋ねる。
あそこまで執着する理由が、俺にはわからなかった。
ただ好みの問題かと言われると、どうにも言い難い。
彼女が自分の『好き』を貫徹するような性格かと言われると、そうでもない印象がある。
では、何がそこまで彼女を駆り立てているのか。
俺は純粋に、それが気になったのだ。
「私が小さいときに、祖父母から似合うと褒めてもらったのです。それがもう、嬉しくて嬉しくて」
「それは、その、そうか」
祖父母さんが話に出ると、やはり弱くなってしまう。
彼女の懐かしむような、どこか物悲しげな表情が目に入ってしまうから。
思い出させないべきなのか。そう考えるものの、どこで穴を開けてしまうのかわからない。
だからこそ、こうやって不意に話題に上がると動揺が隠せないのだろう。
先程よりも、ずっと明確な重苦しい雰囲気が流れる。
黒雲の向こう側へと顔を隠した月光は、光量が少なくなった。
風も吹かなくなり、夜になると演奏を始める鈴虫さえも、それを中止したように流れる、静謐。
不可逆的だと思われた空間は、彼女によって打破された。
「ですから、そんなに重くならなくてもいいんですよ。それに、もう一つ理由もあるんです」
彼女は変わって、嬉しそうに語り始める。
俺は思う。彼女に、鬱な雰囲気や表情は似合わない。
そんな女性自体、少ないのだろうが。
しかし、俺が言いたいのはそういう意味ではないのだ。
本来あるべき、動くべき歯車が、抜け落ちてしまうから。
欠けたり、潤滑油の欠如ではなく、そのまますっぽりと全部がなくなってしまいそうになるような。
そんな別種の虚無感が、彼女には絶対に合わない。
パズルのピースが、明らかに違っている。
「好きな方に可愛いと、綺麗だと言われたいのですよ」
俺はその言葉に、言葉を詰まらせる。
胸は苦しみの声を上げ、締め上げられた。
縄でがんじがらめにされたような、窒息にも近い感覚。
海に重りを付けられて放り込まれたような、息苦しい感覚。
「ただ、そんな単純な願いでもあるんです。幻滅、しましたか?」
「まさか。少なくとも、君を綺麗じゃないとか、可愛くないとは思わないはずだよ、そいつも。俺だって君を、めちゃくちゃ可愛いとも、綺麗だとも思う」
「あ、あぁ……では私は、どうやら正解だったようです。幸せ、ですよ」
俺は彼女の言っている意味がわからず、問おうとした。
そして、部屋に響く。
吹き抜ける風で揺れて、軽快な音と共に、机の奥から倒れた棒を。
元の場所に戻そうと、手を伸ばして掴んだその瞬間。
――自分の目を、疑った。
さすがにそんなことはないと、疑いを否定。
ただ、何の意味もない棒なのかもしれないのだから。
そんな素振り、一度も見せられた覚えもないのだから。
「……なあ。これって、一体何なんだ? どういう物か、俺に教えてほしいんだ」
「え、えっ? その……これ、とは?」
俺は、心の奥底では、否定しきれていなかったのかもしれない。
決して失望だったり、落胆だったり、絶望だったり、彼女への想いが変わるわけでもない。
ただ、俺は動揺していた。思考が、若干だが揺れ動いてしまった。
だから、こんなにも意地が悪い、腹黒な質問をしているのだろう。
突然に言い放つわけにもいかない。
どれだけ俺が悪者にでも、彼女にとって憎まれる対象になろうとも、この質問が最善だと思われた。
彼女と過ごした数々の出来事を思い返せば、これは俺の義務でもあるのだろう。
俺が最後まで気付かなかった、自分への戒めのような何かでもあったのだ。
「だから、これだよ、これ。俺にもわからないんだよ、名前が」
「で、ですから、『これ』だけでは、わか、り、ま……」
彼女のハットは、また目深の位置へと戻される。
肩は震え、手は震え、声は震え、嗚咽まで聞こえ始めた。
その声に、俺は心が今までとは比にならないくらいに、心が痛む。
一度捨てたと勘違いした疑問が、目の前で象られた瞬間だった。
放ったと思われた、黒い竜巻のようにうねる悪意ある疑いが、現実となっていたのだ。
本当はやめるべきだったのかと、後悔の念に駆られる。
「やっぱり、か」
俺はいつの間にか、無意識に呟いていた。
その呟きの直後に、彼女の泣きは激しさを増す。
この一帯の全ての音は、彼女の泣き声以外を残して消え去った。
色さえも、彼女以外は身を引いていたのだ。
夜空に揺蕩う、俺と彼女の持つ心。
奪われるわけでもなく、ただ呆然としているわけでもない。
何もない、『白』だった。
空虚に飲み込まれた、『黒』でもあったのだ。
どちらでもあるのか、または『白』か『黒』かのどちらかなのか。
「やっぱり君は、
――先程拾った、手に持っている
はい。この女性、盲目者です。
少なからず、疑問や不快感などはあるでしょう。
一言、申し訳ありません。
言い訳がましいと言われそうで怖いですが、一応タグにシリアス要素ありとは書いてあったので、大丈夫かな……? と。
ともかく、申し訳なかったです。
次回で、彼女の目について詳しく書いていきます。
もしかしたら、二話分くらい続く……かもしれないです。
そして、一話からの伏線です。
彼女視点のときから見ると、よりはっきりとわかるかと思います。
彼女の『視覚の』描写、ないはずです。