八月の夢見村   作:狼々

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炎天下の買い物

 蝉の声が、大きすぎた。

 隣にいる彼女の声でさえ聞こえにくく、全く聞こえないときもある。

 その逆も然り、俺の声が彼女に届かないこともあった。

 

 風物詩の讃頌が、全方向から蠢いているみたいだ。

 蠢くと言うと、少々語弊があるだろうか。

 特有の不快感と気だるさが、多少だが薄れている。

 炎天下の気温を全身に吸い込んだ熱風が、ゆっくりと服の中に入り込む。

 

 体中が暑くて仕方がないが、そこまで苦ではない。

 何しろ、隣の彼女を見ると、その涼しげな姿に自分さえも涼しくなってくるのだから。

 不思議なものだ。本当は何も変わらないはずなのに、見た物の印象で感性が変わるとは。

 

「はい、もうすぐ市場に着きますよ? この向こうにあります」

「お~、本当だ。見えてきたな」

 

 今度は立ち止まることもなく、スムーズに到着しそうだ。

 随分と遠くに見えているのにも関わらず、人々の賑やかな声が飛び交っているのが、ここからでもわかる。

 そして何より目を引くのは、中央付近に佇む巨木と、その隣に力強く流れる大滝。

 

 一体、樹齢はいくつくらいになるのだろうか。少なくとも、千年は下らないだろう。

 柔風に流れる多量の緑葉が、互いを擦った音で覆う。

 そこかしこで起こる囁き声の横では、心臓に響く水の音。

 

 遥か上空に位置する川から流れる水は、空間すらも揺らす轟音を巻き上げながら、水面に叩きつける。

 白く散らばった波紋の後を残しながらも、絶え間なく激流は続いた。

 

「やっぱり、ここの滝はすごい大きい音ですねえ」

「ああ。正直、驚いたよ」

 

 掠れた音と大きな残響を掻い潜り、突き進む。

 辿るにつれて人も多くなり、自然と互いに繋がれた手は強く握られた。

 はぐれないように、離れないように。

 

 巨木の木漏れ日を浴びながら、少しの涼しさを堪能する。

 心と体を落ち着けながら、手元にメモを取り出す。

 この大衆の中で、一々買う物の確認なんて、していられるわけがない

 今の内に覚えておくのが、得策だろう。

 

「え~っと、じゃがいもになす、ズッキーニにピーマンとオクラ……何の料理の材料だと思う?」

「これは多分、夏野菜カレーですかね? 人参はうちの畑で採れますし、ルーは家にあったと思いますから」

「おっ、カレーか。大体の家に畑があることは知っていたけれど、人参を作ってたのか」

「ええ。この時期になると、夏野菜カレーを作ることは多いんですよ?」

 

 木陰での冷気が恋しくなりながらも、陽の下へ肌を晒す。

 弾けるような暑さに痺れながらも、人混みの中をくぐり抜けて、八百屋へ。

 

 辿り着いた八百屋は、いかにも『八百屋』といった雰囲気だった。

 店頭には夏が旬の野菜がずらりと、しかし綺麗に陳列されている。

 白いタオルを額に巻いたおじさんも、その雰囲気に馴染んでいると言えるだろう。

 

 聞くところによると、八百屋の野菜陳列にも、ある程度の方法があるんだとか。

 美味しく見えるような置き方で、手に取られやすくしているらしい。

 実際、八百屋だけがやっている工夫ではないのだろうが。

 

「おっ、お嬢ちゃんにお兄さん、いらっしゃい!」

「すみません、じゃがいもとなす、ズッキーニとピーマンとオクラをください」

 

 俺が覚えてしまったメモの内容を告げようとすると、隣から声が飛んだ。

 買うもののメモは、彼女にはまだ見せていない。

 ということは、彼女が買う物を知ったのは、ついさっき料理を予想したとき。

 

「さ、さっきの一言で覚えたのか?」

「はい。覚えようと意識しましたし、そんなに覚えられない量でもありませんよ」

「それで、野暮なことを聞くようだが……その隣のお兄さんは、お嬢ちゃんの彼氏さんかな?」

「ち、違いますよ!」

 

 彼女の慌てた否定が、何とも可愛らしい。

 それでも、握った手を一向に離そうとしないのが、また嬉しくもあった。

 

 半分ほどからかいの意を込めつつ、少しだけ手を握る力を強くする。

 少しだけ驚いた表情を見せながらも、彼女も同じくらいに強く握り返してくれることが、さらに幸せだった。

 

「でも、いつも来るときは男なんて連れてこないだろう?」

「そ、そう、ですけど……」

「はいよ、いつもの分だけ入れといたよ」

 

 手際よく陳列された分の野菜を、量も的確にバッグに入れてくれたおじさん。

 彼の言い草からして、いつもここで、この分の買い物をしているのだろう。

 お金を支払おうと、取り出したとき。

 

 彼が俺にだけ、その瞬間に告げたのだ。

 短い、けれども、何かの意味が孕んだ言葉を。

 

「あの子のこと、ちゃんと助けてあげなよ?」

「はい……? はあ、わかりました」

「毎度あり! また来てな~!」

 

 取り敢えずで生返事をした。

 実際のところ、俺にはその意味がよくわからなかった。

 靄がかかったまま、彼女と共に帰路に着く。

 

 女性は助けろ、という意味だろうと片付ける。

 その雑な片付け方が、正しいのかどうかさえもわからない。

 しかし、何か意味があってのことなのだろう。

 

 その時が来たならば、助けるとしようか。

 どんな意味であれ、彼女を助けるべき状況が目前に広がったとして。

 支えたいと、助けたいという気持ちは本心であり、言われるまでもないことは確かだ。

 

 できることなら、そんな環境が訪れること自体、ない方がいいのだろうが。

 

「どうか、しましたか?」

「う、うん? どうしてだ?」

「さっきから無言ですし、手が何というか……自信がなくなったみたいな感じがしたんですよ」

 

 鋭いような、そうではないような勘。

 俺にとってのそれは、あながち笑いものにならない。

 『助けてあげろ』の真の意味がわからない以上、彼女自身から告げられるのはまずい。

 幸先が悪いどころか、最早頼りない。

 

「いや、何でもないさ。ありがとうな」

「むう。だから、それが一番気になるんですよ!」

「本当に何もないんだって! 誓って嘘じゃない!」

「いいえ! 何か隠しているに違いありません! はっきり言ってください!」

 

 そんな馬鹿げたような口論とも言えない小さな争いが、俺には楽しくて仕方がなかった。

 無意識に、笑みが溢れてしまう。

 それは、俺に言える話でもなかったらしい。

 彼女も、穏やかな笑いを浮かべて見せてくれる。

 

 気のせいか、先程までの暑さがやわらいだ。

 薄紅になりかけの太陽を眺めながら、そう遠くない家へと帰る。

 彼女の歩幅を合わせながら、着実に歩を刻む。

 

 少しだけ、歩く速度が遅くなった。


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