蝉の声が、大きすぎた。
隣にいる彼女の声でさえ聞こえにくく、全く聞こえないときもある。
その逆も然り、俺の声が彼女に届かないこともあった。
風物詩の讃頌が、全方向から蠢いているみたいだ。
蠢くと言うと、少々語弊があるだろうか。
特有の不快感と気だるさが、多少だが薄れている。
炎天下の気温を全身に吸い込んだ熱風が、ゆっくりと服の中に入り込む。
体中が暑くて仕方がないが、そこまで苦ではない。
何しろ、隣の彼女を見ると、その涼しげな姿に自分さえも涼しくなってくるのだから。
不思議なものだ。本当は何も変わらないはずなのに、見た物の印象で感性が変わるとは。
「はい、もうすぐ市場に着きますよ? この向こうにあります」
「お~、本当だ。見えてきたな」
今度は立ち止まることもなく、スムーズに到着しそうだ。
随分と遠くに見えているのにも関わらず、人々の賑やかな声が飛び交っているのが、ここからでもわかる。
そして何より目を引くのは、中央付近に佇む巨木と、その隣に力強く流れる大滝。
一体、樹齢はいくつくらいになるのだろうか。少なくとも、千年は下らないだろう。
柔風に流れる多量の緑葉が、互いを擦った音で覆う。
そこかしこで起こる囁き声の横では、心臓に響く水の音。
遥か上空に位置する川から流れる水は、空間すらも揺らす轟音を巻き上げながら、水面に叩きつける。
白く散らばった波紋の後を残しながらも、絶え間なく激流は続いた。
「やっぱり、ここの滝はすごい大きい音ですねえ」
「ああ。正直、驚いたよ」
掠れた音と大きな残響を掻い潜り、突き進む。
辿るにつれて人も多くなり、自然と互いに繋がれた手は強く握られた。
はぐれないように、離れないように。
巨木の木漏れ日を浴びながら、少しの涼しさを堪能する。
心と体を落ち着けながら、手元にメモを取り出す。
この大衆の中で、一々買う物の確認なんて、していられるわけがない
今の内に覚えておくのが、得策だろう。
「え~っと、じゃがいもになす、ズッキーニにピーマンとオクラ……何の料理の材料だと思う?」
「これは多分、夏野菜カレーですかね? 人参はうちの畑で採れますし、ルーは家にあったと思いますから」
「おっ、カレーか。大体の家に畑があることは知っていたけれど、人参を作ってたのか」
「ええ。この時期になると、夏野菜カレーを作ることは多いんですよ?」
木陰での冷気が恋しくなりながらも、陽の下へ肌を晒す。
弾けるような暑さに痺れながらも、人混みの中をくぐり抜けて、八百屋へ。
辿り着いた八百屋は、いかにも『八百屋』といった雰囲気だった。
店頭には夏が旬の野菜がずらりと、しかし綺麗に陳列されている。
白いタオルを額に巻いたおじさんも、その雰囲気に馴染んでいると言えるだろう。
聞くところによると、八百屋の野菜陳列にも、ある程度の方法があるんだとか。
美味しく見えるような置き方で、手に取られやすくしているらしい。
実際、八百屋だけがやっている工夫ではないのだろうが。
「おっ、お嬢ちゃんにお兄さん、いらっしゃい!」
「すみません、じゃがいもとなす、ズッキーニとピーマンとオクラをください」
俺が覚えてしまったメモの内容を告げようとすると、隣から声が飛んだ。
買うもののメモは、彼女にはまだ見せていない。
ということは、彼女が買う物を知ったのは、ついさっき料理を予想したとき。
「さ、さっきの一言で覚えたのか?」
「はい。覚えようと意識しましたし、そんなに覚えられない量でもありませんよ」
「それで、野暮なことを聞くようだが……その隣のお兄さんは、お嬢ちゃんの彼氏さんかな?」
「ち、違いますよ!」
彼女の慌てた否定が、何とも可愛らしい。
それでも、握った手を一向に離そうとしないのが、また嬉しくもあった。
半分ほどからかいの意を込めつつ、少しだけ手を握る力を強くする。
少しだけ驚いた表情を見せながらも、彼女も同じくらいに強く握り返してくれることが、さらに幸せだった。
「でも、いつも来るときは男なんて連れてこないだろう?」
「そ、そう、ですけど……」
「はいよ、いつもの分だけ入れといたよ」
手際よく陳列された分の野菜を、量も的確にバッグに入れてくれたおじさん。
彼の言い草からして、いつもここで、この分の買い物をしているのだろう。
お金を支払おうと、取り出したとき。
彼が俺にだけ、その瞬間に告げたのだ。
短い、けれども、何かの意味が孕んだ言葉を。
「あの子のこと、ちゃんと助けてあげなよ?」
「はい……? はあ、わかりました」
「毎度あり! また来てな~!」
取り敢えずで生返事をした。
実際のところ、俺にはその意味がよくわからなかった。
靄がかかったまま、彼女と共に帰路に着く。
女性は助けろ、という意味だろうと片付ける。
その雑な片付け方が、正しいのかどうかさえもわからない。
しかし、何か意味があってのことなのだろう。
その時が来たならば、助けるとしようか。
どんな意味であれ、彼女を助けるべき状況が目前に広がったとして。
支えたいと、助けたいという気持ちは本心であり、言われるまでもないことは確かだ。
できることなら、そんな環境が訪れること自体、ない方がいいのだろうが。
「どうか、しましたか?」
「う、うん? どうしてだ?」
「さっきから無言ですし、手が何というか……自信がなくなったみたいな感じがしたんですよ」
鋭いような、そうではないような勘。
俺にとってのそれは、あながち笑いものにならない。
『助けてあげろ』の真の意味がわからない以上、彼女自身から告げられるのはまずい。
幸先が悪いどころか、最早頼りない。
「いや、何でもないさ。ありがとうな」
「むう。だから、それが一番気になるんですよ!」
「本当に何もないんだって! 誓って嘘じゃない!」
「いいえ! 何か隠しているに違いありません! はっきり言ってください!」
そんな馬鹿げたような口論とも言えない小さな争いが、俺には楽しくて仕方がなかった。
無意識に、笑みが溢れてしまう。
それは、俺に言える話でもなかったらしい。
彼女も、穏やかな笑いを浮かべて見せてくれる。
気のせいか、先程までの暑さがやわらいだ。
薄紅になりかけの太陽を眺めながら、そう遠くない家へと帰る。
彼女の歩幅を合わせながら、着実に歩を刻む。
少しだけ、歩く速度が遅くなった。