泣かないで。ただ、そばにいて。
──── “命に代えても守ってみせる”と。
それほどまでに強い想いを抱いたのは、きっと生まれて初めてだった。初めての感情、初めての感覚、初めての決意。長らく忘れていて、それでいて今まで使わなかった心の隙間に、それは丁度良く収まったのだ。
その意志が固まったのが一体いつだったのかを、朧気ながら覚えている。無意識ではあったが、その感情が形になり始めた時を思い出せる瞬間がある。
《月夜の黒猫団》に所属して少し、メンバーに対して未だに警戒はしつつもある程度信用出来るかもしれないと、考えが変わりつつあったとある日の夜。盛り上がりを越して騒がしくなり始めた飲みの場の熱量に耐え切れず、堪らず宿の外に逃げ出した時だった。
このまま風に当たっていようと少し歩いた先で、ふと目線の先にあった、月の光が僅かに届く細道。
そこで淡い涙を流す、彼女の涙を見た時だ。
だけど、初めからそんな格好の良いことを考えていたわけじゃなかったんだよ。
ただ、俺は────
●○●○
「ふぅ……今日はこの辺にしとこうか」
夕暮れ時に差し掛かる少し前、予定より少し早めに切り上げようと言い出したのはリーダーのケイタだった。地道に着実に、何より慎重に力を身に付けることを方針としている《月夜の黒猫団》は決して無鉄砲に攻略をしたりせず、各々が互いの様子を見て状況を判断出来る慧眼を持っていた。
VR初心者であるアキトから見ても、今日は全体の連携精度は高かったし、レベリングの効率は良かった。今日だけでレベルを二つも上げた者もいる。だからこそ故の疲労もそれ相応に、ということ。彼らを見渡してから、ケイタは此方に向かって手を挙げる。
「アキトもお疲れ様」
「……お疲れ」
素っ気無く返すアキトの視線は、黒猫団から逸らされていた。
彼らの再三のレベリングのお誘いに遂に折れたアキトではあるが、デスゲームが始まってまだそれほど時間が経っているわけじゃない。アキトにとって、彼らが見ず知らずの団体であることには変わりなく、薄れたかどうかすら怪しい警戒心は未だその表情に現れていた。
隠す気ゼロのそれに、ケイタ達も仕方無しに笑うしかない。
「今日は結構稼げたし、何か美味いもんでも食わねぇ?買い出しついでに《ウルバス》行こうぜ」
「そりゃ良いけど、まだあの街そんな詳しくないしなぁ……」
ダッガーとテツオの会話を皮切りに、今からの予定を組み立て始める彼ら。アキトはそれを一瞥した後すぐ傍の木に寄りかかり、鞘から抜いた剣の耐久値を確認し始める。
同じギルドの仲間だというのに、アキトは我関せずを貫いていた。しかし、剣の耐久値が殆ど減少していない事実を処理すると、小さく息を吐いた。
それは、剣をモンスター相手に振るっていない証拠に他ならない。理解出来たのは、アキトは前衛を選んだにも関わらず、敵を前に足を竦ませる腰抜けだったという事実だけだった。
「っ……」
ふと、手に持った刃の向こう側───背景だったはずの黒猫団の中にいた一人の少女に視線が移る。ギルドの紅一点、サチだ。
瞬間的に脳裏を駆けたのは、つい先日の記憶。月に照らされ青く染まった街の影に一人、大粒の涙をとめどなく流す少女の姿だった。あれほどまで心を揺さぶられたことはなかったと、そんな感情まで思い出してしまい、アキトは慌てて目を伏せる。それまで考えていたことは全て吹き飛び、一度呼び起こされた記憶は、嫌なくらい張り付いて消えない。
そうなると、それ以上考えるのが嫌になる。彼女だけじゃない。最近、彼らのことを考える時間が多くなりつつある。何故か、とても恐ろしかった。
彼らから逃げるように、この場から離れる。すると、すぐさまその背中に声を掛けられた。
「あ、おいアキト!」
「……何」
自分でも驚くくらい、煩わしそうな声が出た。だが謝ることもせずに、アキトは振り返って声の主であるダッガーを見る。彼はそんなアキトの態度に言葉を詰まらせ、口を開けど言葉が出ずにいた。すると、隣りのケイタが小さく笑って前に出る。
「今ちょっとみんなで案出してるんだけどさ、良かったらこの後、アキトも一緒に───」
「パス。僕抜きで行きなよ」
「……そうか。けど、一人でフィールドには出ないでくれよ。俺達は同じギルドなんだし、レベリングはみんなでやるべきだ。それに一人だと危ないし」
「……分かった」
そう言って、彼らより先に帰路に立つ。もう振り返ることはしなかった。こんな態度を取り続けてもうすぐ二ヶ月になるが、彼らはよく嫌にならず絡んでくるものだ。
自分が原因だと理解していても、“一人”と“五人”、その間の境界線を踏み越えられない。何処かで歯止めを利かせてしまい、それ以上近付けない。彼らの態度に甘えてしまうこの現状が精一杯で、それ以上浸ってしまえば、もう戻れないような気がした。
────けれど。
「……」
此方から近付く勇気はないと色々言い訳している癖に。
あの日見た彼女の涙の理由を、足りない頭で何度も考えていた。
●○●○
「……何でいんの。ケイタ達と出掛けるんだろ」
「抜けてきちゃった」
何故か今、アキトはサチを隣りに《はじまりの街》を徘徊していた。いや、暫くは一人で宛もなくぶらぶらしていただけだったのだが、ものの数分で後ろからサチがやってきて、現在二人で街を回っているという図が出来上がっていた。
別にアキトとサチはそれほど仲が良い訳じゃない。当然、こうして二人で出歩く程の親密度じゃない。というのに、彼女は此方に何か言うこともせずに着いてくる。
「抜けてきたって……何か用があるとか?」
「ううん、別に。なんとなく、こっち来ちゃった」
「……何だよ、それ」
調子が狂う。
つまり態々抜けてまでアキトの元へ来たということ。それを他でもないサチ自身なら告げられたなら、少しは狼狽えるというもの。
なんて迷惑な話だ。此方は寧ろサチから離れる為に誘いを断ったというのに、無駄になってしまったじゃないか。
「そういうアキトこそ、断るくらいだから用事があると思ってたのに」
「煩いな。ただ、行きたくなかっただけ」
「ノリが悪いなー。そんなんじゃアキト、嫌われちゃうよ?」
「いっそ嫌ってくれたら楽なのにな。構ってこないでよ」
アキトが黒猫団に近付けない理由の根底、大半はそれだ。彼らがこの世界で初めて出会った自分を引き込んだ、その理由の不明瞭さだった。
基本ソロプレイは効率が良くない。だが、団体でのレベリングなら気心知れたメンバーで組んだ方が連携もとれるというもの。そこに見ず知らずの異物を組み込むのは上策とはいえない。ましてやデスゲームだ、やり直しがきかないこの世界において、チームの輪を乱すアキトは邪魔でしかない。メリットよりもデメリットの方が大きいのだ。
“善意”と呼ぶにはとても命知らずな選択だと、そう思わずにはいられない。それ故にある程度冷たくあしらっているというのに、彼らは何度も誘い、声を掛けてくる。
「ってかアンタもだよ。こっち来んな、どっか行け」
「ひ、酷いっ、口悪っ!そんな言うことないじゃん!」
「ケイタ達のとこ行った方が楽しいって言ってんの。……というか、二人で歩いてんの見られたら色々誤解されそう」
「みんななら二層に行ったから大丈夫だよ。《ウルバス》と……それから《マロメ》の村にも行くって言ってたから時間も掛かるし、かち合ったりはしないと思うよ」
「関係無いね。どっか行って」
「誤解がどうとかって言ってたのに!?」
隣りで一人騒ぐサチの連れだと思われたくなくて、僅かに歩く速度を早める。しかし結果は虚しく、サチはてとてと後ろを付いて来た。
アキトは溜め息。だがサチは我関せず。
「ねぇ、アキトはもう何度か二層に行ってるんだよね?」
「……行ってるけど、それが何」
デスゲームが開始して一ヶ月、漸く第一層のボスが討伐されてから、もう三週間近く経っている。
黒猫団は未だに一層のフィールドでレベリングをしているが、街は《圏内》なので一足先にと街並みを見て回る機会があった。彼らはテンションを上げながら主街区《ウルバス》を見て回っていたが、恐らく他の村はまだなのだろう。それはサチも同じだった。
「《マロメ》はどんな村なの?」
「……別に、大して面白味も無い村だったよ。ショップの品揃えも《ウルバス》と比べればイマイチだったし……NPC鍛冶屋も無いし」
「そうなの?みんなに教えてあげれば良かったなぁ……あ!《ウルバス》といえば、私アレ食べたい!《トレンブリング・ショートケーキ》!」
「めっちゃ美味しかった」
「はぁ!?食べたの!?ズルいよ!アレ凄く高いんだよ!?」
ギャーギャー騒ぎ立てるサチに、アキトは愈々頭が痛くなった。何だコイツはと、そう思わずにはいられない。大して仲が良い訳でもない異性が自分の隣りで、それこそどうでも良い話題で色々と喚いている。さっきのレベリングとは偉い違いだ。
普段、フィールドにいる時の彼女は死と隣接する敵相手に怯えに怯えまくっていて、正直に言えばこんなに煩くない。死が介在しない《圏内》だからこそ、彼女はこうして自分をさらけ出しいると思うと悪い気はしないが、時と場所、そして相手を選んで欲しい。
「……」
「ん?何?」
此方の視線に気付き、小さく小首を傾げてみせるサチ。今さっきまでの声量を抑え、キョトンとしつつも此方の様子を伺うような視線。悪ノリが過ぎたかと、そう尋ねるような瞳。
揺れるそれが、先日の夜に見た彼女の涙を想起させる。アキトは堪らず、口元を引き絞った。その記憶から逃げるように、彼女から視線を逸らした。
「……何でもない」
「えー、言ってよ。気になるじゃん」
「迷惑、帰れ」
「酷い!」
────これが、素の彼女だ。だから、あの涙なんて忘れてしまえばいい。泣いていたなんてとても思えない、この煩くて笑顔が眩しい彼女だけを見ていればいい。
口で言うほど迷惑だと思っていないこの思いで、昨夜の涙する彼女の記憶を上書きできるように。
「あ、アレ見てよアキト、大っきいツリー!」
「っ、は?ツリー?」
袖を掴まれて立ち止まり、サチの言葉につられて彼女の視線の先を追う。すると、少し離れた場所に巨大な樹木が一本聳え立っているのが見えた。
あんな巨大な木、はじまりの街にあっただろうか。訝しげに見上げていると、隣りでサチが説明してくれた。
「NPCが言ってたんだけど、この時期になると現れるって設定みたい」
「時期……ああ、今日クリスマス・イヴか」
「忘れてたの?ケイタ達その買い出しも兼ねて出掛けたんだよ?夜はパーティーだからね」
「俺はパス」
改めて見ると、確かにクリスマスツリーにするに相応しい見事な巨木だった。既に飾り付けも済んでいるようだ。
よく見ればただでさえ多くのプレイヤーが滞在している《はじまりの街》の人口が、心做しか普段より増加している気がする。もしかするとこのイベントの為に帰省、或いは攻略を中断しているのかもしれない。
現実と同じ時間が過ぎるとはいえ、数日も経たない内にクリスマスだなんて、今の今まで忘れていた。
「クリスマスの限定イベとかってあるのかなぁ」
「知らない」
「ね、サンタクロースっていつまで信じてた?」
「覚えてない」
「……私と会話楽しむつもりある?」
「あんまし無い」
別にクリスマスだからといって特別感じることなんてない。それは現実でも、仮想でも同じだ。イベントなど興味は無いし、サンタなんて信じてない。ましてや目の前の彼女と楽しめるような話題だって持ち合わせていない。
アキトの生返事に「もー……」と分かり易くむくれるサチ。しかしすぐさまクスリと、その小さな口元を綻ばせた。
「でも打てば返ってくるっていうか……何だかんだ返事はしてくれるよね」
「……」
「あ、だからって無視するのは良くないと思いまーす」
前を歩く此方の肩を、後ろからつんつんと小突いてくる。嫌そうな表情を向けてやるが、不思議と不快感は無くて、特に何か言うでもなくされるがままに歩く。傍から見れば、本当にカップルに見えているかもしれない。
これじゃあまるで、本当にデートみたいじゃないか───そこまで考えて、アキトはそれを振り払う。そうだとも、別に自分と彼女はそれほど仲が良いわけでもなければ頻繁に会話したりする機会だってない。彼女が自分に好意を抱いているとかそういう都合の良い思考だってするわけがない。
無理矢理突き放すことをしないのは……そう、彼女が女性だからというだけだ。それに、一応同じギルドのメンバーなわけだし。執拗い彼女に対して何もしないのは、もう言い返すのさえ面倒だからだ。そう無理に捲し立てて、誤魔化して。彼女の行動に深い意味は無いのだと、そう結論付けて。日が沈む先を見据えながら石畳を踏み締めた───が、身に付けていた装備の裾を小さくつまむ弱気な力にアキトはその足を止める。
振り返れば、変わらぬ表情のサチが楽しげに笑みを浮かべていた。
「ねえ、夜になるとライトアップするらしいから、ここで一緒に見ようよ」
……本っ当に、この女は。
●○●○
SAOと現実世界の日付けや時間帯はリンクしている。その為季節に合わせた気象設定がされており、クリスマス間近となれば当然冬のような寒さがプレイヤー達を襲う。それは夜になれば尚更だった。
既に日も暮れて空は闇を訴え始める頃には、震える程の冷たさが辺りに広がる。周りの街灯が仄かに周囲を照らす中、クリスマスツリーの前の木組みのベンチに腰掛けるアキトとサチ。
「……てっきり断るかと思った」
「……別に。ただの暇潰し、ただの気まぐれだよ」
此方を覗き見るように前のめりになり、小さく微笑む彼女に対して、そんな簡素な返事を投げる。誤魔化すように出店で買ったお茶を飲み、クリスマスツリーを見上げる。
見れば周囲には、これから点灯するツリーを見に来たのか、プレイヤーがチラホラとその数を増やし始めていた。そこには勿論、男女の二人組もいるわけで。手を繋いでいたり、肩を抱いていたり。この世界の男女の比率は圧倒的だというのに、この場所に集まるプレイヤーは異性の組み合わせが多い気がする。思春期真っ只中のアキトには少しばかり刺激が強い。
「あ、ねぇアキト。あれってみんなカップルかな」
「……っ」
……本っ当にこの女は。
分かって言っているのか、そうでないのか。自分達も傍から見れば男女の中に見えるかもしれないというのに。
いや、偶に天然染みた言動をする彼女だ。意識なんてしているはずがない。ここまで二人で行動していたが、そう言った発言も行動も殆ど見受けられなかった。そこまで考えて話題を振っている訳じゃない。今の発言は、ただ純粋な疑問なのだろう。なら普通に会話すれば良いだけ。
「多分、ね。……お気楽な奴らだよ。デスゲームが始まってまだ二ヶ月も経ってないのに、よく知りもしない相手と色恋だなんてさ」
「元々、現実世界でカップルだったのかもしれないじゃん」
「まあ、そうだけど……」
「それに、あっちからも私達が恋人同士に見えてるかもよ」
アキトはお茶を吹き出した。そして噎せる。
……コイツ、完全に分かってて発言してやがる。余計にタチが悪かった。咳き込みながらサチを睨んでやれば、サチは少しだけ頬を赤らめてクスクスと笑みを零していた。
……馬鹿にしやがって。
「ねえ、アキトは現実世界に彼女とかいるの?」
「関係無いでしょ。その質問、今じゃセクハラだからな」
「その反応、居ないんだ〜?」
「……アンタこそ、彼氏いるの?」
「っ……え、えー?な、何、気になるの……?」
「別に。聞いてみただけ」
「……その質問、今じゃセクハラだから」
「何なんだよ」
同じ質問をぶつけただけなのに、心做しか不機嫌になったサチ。むくれた顔は再び周囲の彼らに向けられて───そして、僅かに羨望の眼差しを向けていた。
「けど……なんか、良いよね。ああいうの」
「どうかな……俺には、今あるこの現実から目を背けたがっているように見えるよ」
それは皮肉でも妬みでもなく、本音だった。何よりアキト自身、共感さえ覚える感情だった。
死の恐怖や現実に帰れない孤独から逃げる為の傷の舐め合い。心に空いた深い溝を埋めてくれる家族のような存在を求めて、互いに逃避の助力をしているようで。
そう見えてしまうのは、自分だけだろうか。捻くれているだろうか。腐っているだろうか。きっと、仕方のないことなんじゃないか。
だがサチは、左右に首を振った。
「そんなの、目で見ただけじゃ分からないよ。もしこの世界で見つけた、本当に大切な存在だったら、同じ想いを分かち合える存在だったら、一緒に過ごす内に好きになったんだとしたら……アキトは、どう思う?」
「……」
「私は少し、羨ましいかも。この世界って、どうしても自分本意になっちゃう時ってあるじゃん。そんな場所で自分よりも大切な何かに出会えるのって、凄く素敵なことだと思うから」
寒空の下で透き通るその声は、アキトの心を揺さぶるだけの言霊を乗せる。自分が間違っているのかもしれないと、そう思ってしまうほどに。
そんな想いの吐露から、もしや彼女もそんな大切な存在を求めているのではないかと、変に勘繰ってしまう。サチも自身と同じ価値観や思いを共有できる存在を探しているのかと、それとも見つけたのだろうかと、口を開けばそれを聞いてしまいそうになる。
「……いつか死ぬって分かっていて、そんな関係を築くのって……怖くないの?」
だが、口から出たのはアキトでさえ思いもよらなかった言葉だった。サチでさえ、弱々しく本音を零したアキトに視線を戻していた。
「別れが必然なら……知ろうとしなきゃ良かったって、関わらなきゃ良かったって……出会わなければ良かったって……後悔、したりしないの?」
その思慕が本物だったとしても、もし自分だったらと思うと考えてしまう。
現実よりも死が近いこの世界では、フィールドに出掛けたきり戻らないなんて話は珍しくない。《圏外》へと赴けば、もうシステムは守ってくれない。現実と比べればとても死にやすい世界だ。
そんな世界で誰かと関わりを持ってしまったら。誰かを好きになってしまったら。この世界で出来た絆は、現実以上の危機がある分恐らく現実より強固なものになるだろう。
故に、もし大切な人を失ってしまえば、悲哀どころか絶望すら味わうかもしれない。そんなリスクを背負ってまで、大切な存在を求める必要性はあるのか。誰かと関わりを持たなければならないのだろうか。
だけど、サチは────
「私は……どうせ死ぬなら後悔しないように生きようって思うかな。いつかその瞬間が来た時、後悔や未練なんて無い方がずっと良いでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「ねえアキト、どうして私と一緒にツリーを見てくれる気になったの?」
「っ……そ、れは」
正論に、言葉が詰まってしまった。
本当は断るつもりだった。断って、距離を置くつもりだった。
これ以上彼女を知るのが怖かった。これ以上近付くのは、遅かれ早かれ死んでしまう自分達には無意味なことに思えたから。近過ぎて、目の前からいなくなってしまった時の絶望を、考えたくもなかったから。
────なのに彼女を振り払えなかったのは。独りにしたくないって思ったのは、あの夜の光景が目に焼き付いていたから。
「……一人にしたら、また何処かで泣いてるんじゃないかって思って……」
自分の考えと行動が矛盾していることなんて、とっくに分かっていた。つまるところ、この行動の結果が自身の本音なのだと、本当は気付いていた。
アキトはただサチに、“泣いて欲しくなかった”のだ。
結局、御託ばかり並べても《黒猫団》を脱退できないでいたのは、サチと同じ思想をアキトも持っていたから。自分の空虚な穴を、孤独を埋めてくれた彼らを、アキトはとっくに切り離せなくなってしまっていたのだ。それを認めてしまうのが怖くて。彼らが自分にとって、失ないたくないと思ってしまうほどに大切な存在となりつつある事実を考えたくなくて。
アキトの正直な答えと、表情に映る葛藤。それを見たサチは、仄かに頬を赤らめ微笑んだ。
「アキトは、優しいね」
「……そんなんじゃ、ない」
「ううん、優しいよ。……そっか、やっぱり見られちゃってたか……」
彼女のその言い草からすると、どうやらあの夜にアキトが見ていたことに気付いていたようだ。けれど、サチは少しバツが悪そうに苦笑するだけで誤魔化すことはしなかった。
星が煌めき出す夜空から逃げるように俯き、白い息を吐きながら、か細い声で紡ぎ出す。
「……時々、どうしようもなく怖くなる時があるの。ふとした時に、もうすぐ私はこの世界から消えてなくなるんじゃないかって、考えちゃう。怖くて堪らなくなって……気が付けばいつも泣いてる」
呟く彼女の横顔は、震える声音は、隠そうとも僅かに恐怖が見え隠れしていた。
「“どうせ死ぬなら”なんて言ったけど……私、ホントは死ぬの凄く怖いんだよ」
そう言って顔を上げた彼女と視線が交わる。憂うその表情に言葉を失った。何を言えば良いのか、その解を必死に探していた。
────けれど、何一つ見つからなかった。彼女の心に寄り添えるような言葉も、仮初でも安心させるような一言も、幻想でも夢を見せてやれるような“強がり”も。
「……ふふ、やっぱりアキトは優しいよ」
「っ、何、急に」
「だって、私に掛ける言葉を必死に探しているの、丸分かりだよ?」
先程とは打って変わって可笑しそうに、心の底から笑みを浮かべている彼女。するりと、隣り合うその距離が縮まる。アキトは僅かに動揺し、瞳が左右に動く。
「私が泣いてるのを見て心配してくれた。元気づけようとしてくれた。こんな世界でも人に優しくできるアキトには、誰とも関わらない生き方なんて、きっと無理だよ」
「……そんな、綺麗なものじゃないよ」
そんな綺麗なものじゃない。僕だって、誰だって、我が身が大事だ。死ぬのは怖い。それは、サチと同じなんだ。この胸が感じているのは、認めてしまったのは、彼らが自分にとって大切な存在なのだという事実なんかじゃ決してない。あってはいけない。ただ彼らに恩を感じているだけだ───と、そう言ってしまえたらよかったのに。
目の前の、自分より怖がりな癖に笑う彼女が。
弱虫で泣き虫な自分を押し殺している彼女が。
自分のことよりも誰かを心配する彼女が、どうしようもなく────。
「もう、頑ななんだから。いつかアキトにも、私達が大切な仲間だって思ってもらうからね」
屈託なく笑う彼女が、どうしようもなく格好良く見えた。死の恐怖に怯え、フィールドではまるで腰抜けなはずの彼女に、この時アキトは確かに目を奪われたのだ。
「あ、見て!ツリーが光ってるよ!」
サチの言葉に我に返り、アキトはサチの視線の先───あらゆる色の光が放たれた巨木を見上げた。
天ノ川のように星々の煌めきを体現したようなライトに、辺りを眩く虹色に染める装飾品の数々。頂点の星は、今宵の夜空に負けない程にその存在を主張している。荘厳とした巨木が一瞬でクリスマスツリーと化した瞬間だった。こんなツリーは、一度も見たことがなかった。
「わぁ……綺麗……」
「……うん」
隣りでキラキラと瞳を輝かせてツリーに見惚れる彼女の横顔。先程の暗い表情も感情も、まるでツリーの光が消し去ってくれたのではないかと思わせる程に。
心まで奪われてしまうのではないか──そう思えてくる程に、綺麗だと感じた。
彼女は臆病で、弱虫で、嫌でも嫌とは言えなくて。そんな自分を抑え込んで、でも耐え切れず一人涙して。誰にも相談出来なくて、想いを心に溜め込んで。自分のことで精一杯な癖に、他人にこうして手を差し伸べてくれる。
この残酷な世界でもなお優しさを失わない、臆病でも誰かを想える心の強さを持っている。
「ね、来年は黒猫団みんなで見ようよ。きっと、忘れられない思い出になるよ」
「……ああ。そうだね」
────きっと、この時だ。
“泣かせたくない”から始まった、淡い想いの始まりは。
●○●○
────彼らのいない、初めてのクリスマスだった。
笑える程狂おしい、死にたくなるような一日だった。
こんな最悪な日が、よりにもよってクリスマスだなんて。おかげで思い出してしまったじゃないか。あの、ただの口約束を。
そう、“約束”した。またみんなでツリーを見ようだなんて、約束を。
「はぁ、はぁ……っ、はぁ……」
静寂が包む森の中で、不規則な呼吸の連続で肩が上下する。散りばめられた光の破片の中心で雪を踏み締めていたアキトは、漆黒の刀を構えて狼型のモンスターの群れを睨み付けていた。
「……アキ、ト」
目の前に飛びかかってきた獣を屠った突然の乱入者に、思わずアルゴはその名を呼んだ。フード越しにこちらを見上げた途端、その表情は変わる。それもそうだ。彼女が気にかけていた存在が、こうして目の前に現れたのだから。
彼女の無事に安堵するも束の間、アキトはただ泣きそうな顔でアルゴを見下ろして告げた。
「何、やってんだよ……君も、俺も……」
アルゴだけじゃない、自分への問い。
どうして走ってしまったのだろう。どうして必死になって助けたんだろう。生きる理由なんて、もう何処を探したって無い。死にたい理由の方が圧倒的に多いのに。
もう良いと諦めて、俯瞰して、世界の真理を解明した気になって。それでも、この行動に意味を見い出せない。
ただこの身体が、この足が。この胸の苦しみと痛みと、切なさが。何より、必死になってる自分自身が、立ち止まるのを許してくれないんだ。
「はな、れろっ!」
刀単発技《旋車》
引き抜いたと同時に横薙ぎに一閃。
丁度アルゴに飛び掛かろうとしていた狼の腹に刀身を食い込ませ、そのまま斬り払った。
半ば無理して使っていた下層の刀の為、一撃とまではいかないと思っていたが、幸運にも今のスキルは会心だったらしく、食らったモンスターはすぐさま破片へとその姿を変えた。
「Gu──Aaaaaaaaaa!!」
「……るせぇ!」
振り向きざま飛びかかった影、その腹を両断する。荒くなってしまう口調がその心情を垣間見せる。砕けたモンスターの破片をその一身に浴びながら一歩踏み出し、周囲で喚く同種共を再び睨み、叫んだ。
「───全員、ぶっ殺してやる!」
その怒号を合図に次々と飛びかかる獣の群れ。背後のアルゴからヘイトを移すように、彼らの視線を集めながら器用に敵を翻弄する。それでも、連携を織り成す狼相手にみるみるHPは減少していく。
獣のような雄叫びと共に刀を振り払う。喉が焼けるように熱く痺れる。増え続ける傷は嫌に熱を帯び、寒さを誤魔化すには丁度良く感じ始める。
何してるんだ。何やってんだ。
何で────
「らぁっ!」
気持ちとは裏腹に、身体は自然と動く。アルゴを守る為に必死に行使されている。
やめろ。もう戦わないって決めたんだ。死ぬって決めたんだ。なのに、どうして身体は言うことを聞いてくれないんだ。
「きゃっ……!」
「っ!」
小さな悲鳴。意志とは裏腹に反射的に振り返る。
そこでは、アキトが斬り損ねた狼共が、動けないアルゴに牙を向け爪で切り裂かんとしていた。アルゴのHPが危険域に差し掛かるのを見て、アキトのその瞳が見開かれる。
「チィ……っ!」
アルゴの元へと勝手に動く身体。しかし、仲間の邪魔はさせないと言わんばかりに、大量の獣が押し寄せてくる。次から次へと飛びかかってくる灰色の毛並みは、キリがない程に増殖を初めていく。
「があっ……!っ、らぁっ!」
背中、腹、もも。連携で死角や隙を的確に突いてくる。アルゴ同様、アキトのHPも危険域に突入し、視界が赤く染まる。けたたましくアラートが鳴り響き、死神が手招きをしてくる感覚が襲う。
何をこの身体は必死になって戦っているんだ。どうしてそんなに抗っているんだ。もういいだろ。充分だ。レベルは高くても数で劣る。もう勝てない。俺もアルゴも助からない。
────アルゴは関係無い。彼女だけでも助けないと。
そんな、正義感ぶった自分の声が聞こえる。無理だよ、と即答する。もう頑張れない。そもそも俺じゃ勝てないよ、と。虚ろな心は何度も同じ答えを機械的に放つ。
なのに。
無理だって。無駄だって、思っているはずなのに。
どうして。
「……ル、ゴ」
アキトはただ、雪敷き詰める大地に倒れ込んだ。
『───アキト』
その声が耳に張り付いて、離れない。
懐かしくも忘れられない、大切な人の声。
もうこの世にいない彼女に縋っても、虚しいだけだと分かっているのに。これ以上は頑張れないと、頭で何度も叫んでいるのに。
『やっぱり、アキトは優しいね』
アキトは彼女の想いを知っている。
他でもない彼女が告げてくれたのだ。知っているはずだ。
『あそこだよ、アキト!行こう、絶対に損はさせないから!』
彼女が何を伝えたいのか、彼女なら何を言うのか、もうとっくに分かっている。
聞きたくない。だが耳を閉じても、脳内で木霊する。自分がやらなきゃならないことを、残酷にも突き付けてくるのだ。けれど、そんな彼女に笑える程救われたのは、いつもアキトの方だった。
彼女が好きだった。何よりも大切だった。
彼らが大切だった。他にない宝物だった。
もう何一つ残っていない。これ以上は戦えない。
一人は寂しい。独りは怖い。もう嫌だ。戦いたくない。
相反する二つの声がせめぎ合う。静か過ぎる森の中で、頭の中で響き合う。
このまま死んでしまったら、きっと永遠に悔やむことになるぞ、と。
『私は、アキトは黒、似合うと思うな』
胸が痛い。苦しくて、辛くて。今にも泣きそうな程に。
嗚咽混じりの声が、森の中で弱々しく響き始める。身体は震えていて。けどそれは恐怖ではなくて。悲痛に歪んでねじ切れそうな程に痛い。
辛い。苦しい。死にたい。
『アキトって、ヒーローみたいだね』
的外れも良いところだ。自分がヒーローであるはずがない。
けれど、せめて彼女の前ではそうありたいと願った。強くて気高くて、絶対に泣かせない強さを求めていた。
彼女を笑顔にする為なら、なんだって。
“強さ”が欲しい。
何もかもを守り切る強さが。
目の前の人を助け出す強さが。
“強がり”を現実にする“強さ”が。
「俺、は」
声がする。いつの間にか手に握られていた記録結晶を見下ろせば、雪のように透き通った声を思い出す。
変わるなら今だぞ、と。そう告げるように、段々と大きくなっていく。
『私、アキトに会えて幸せだったよ。君が、私のヒーローなんだって、そう思えたんだ』
やめろ。
『キミはどんどん私達のレベルに追い付いて、追い抜いて……気が付けば私みたいな弱虫を置いて、黒猫団に無くてはならない存在になってたよね。いつの間にかみんなを守る、カッコイイ立場になって。けど、全然悲しくはならなかったんだよ?寧ろ安心したの……キミがみんなに黙ってこっそりレベルを上げて、守る為に私達の傍に居てくれる。守ってくれる。その事実が、私の心の支えだった。』
やめてくれ。
『君は強いよ。私なんかよりも、ずっとずっと。だから、君ならきっとこの世界を生き抜く事が出来ると思う。いつか、黒猫団が攻略組の仲間入りをする。もし私が死んじゃったら、きっとその夢は叶わない事になるのかもしれない。でもアキトとキリトなら、きっと攻略組としてみんなの役に立てるような、凄い人になれると思うんだ』
頼むから、やめてくれ。
俺のせいで、君は死んだんだ。
俺のせいで、アルゴは死にそうになっている。
『どう?黒猫団、抜けなくて良かったでしょ?』
いつ、どんな時でも輝いて見えたキリト。
どんな困難でもひっくり返せるような強さを持った、アキトの理想の姿。
ずっと憧れていた。彼のようになりたかった。
「……ぅ、ぁ」
多くの獣が、狩りに終止符を打とうと迫る。
倒れ伏す自身の目の前で、命の蕾が消え行こうとしていた。四方から牙と爪を光らせて、彼女の元へと収束しようとしている。
彼女の姿が、想い人と重なった。
諦めるのか、助けるのか。
ああ、そんなの。
「……ああ、そんなの、決まってる───」
────そうだ。誰かを見捨てるなんて、初めから出来るはずなかったんだ。
アキトは勢い良くその腕を地面に突き立て、一気に上体を起こした。その瞬間、黒刀が呼応するかのようにその光を強めていく────。
「──、──────」
何かを、告げた。
それはきっと、強さを求めた彼が唯一父に授かった魔法の言葉。
同時に、辺りに迸り始めた光が線を描き───瞬間、アキトの周りの狼共を霧散させた。
アルゴに迫っていた彼らの動きが僅かに止まる。
見つめたその先で、アキトがその顔を上げた。浮かび上がる形相に、獣達は震え上がる。だが、もう遅い。
彼は歯を食いしばり、刀を構え、ライトエフェクトを纏わせた。
初めから、決まってたよ。分かってたよ。
今はただ、彼女を助けること以外に考えるべきことなんて。
何一つ、ありはしないだろう────。
「ああああああああぁぁぁあぁぁぁああ!!」
絶叫と共に雪を蹴り飛ばした。刀を手に現世界最速の一撃が奴らを追従する。
刀奥義技《散華》。乱れ狂うように、それでいて舞うような流麗な剣技が、アルゴの周りで展開されていく。獣の悲鳴を無視し、あらゆる命を散らして行く。
数多押し寄せてきた獣は、それだけで全てが絶命した。斬り飛ばした破片の向こうで、アルゴがほんの僅かに涙を溜めた瞳で此方を見上げる。
「……大、丈夫?アルゴ……」
「ぁ……」
言葉を失っている彼女に、アキトは今出来る精一杯の笑みを浮かべた後、その場に崩れ落ちた。
「アキト!」
「は、はは……ゴメンね、身体動かなくって」
今、泣きそうになっていないだろうか。
あらゆる諦めを切り捨て、死別した存在と完全に決別したような感覚がアキトを襲っていた。もう、彼らと道を共にすることはないだろう。その事実が、堪えることさえ難しい悲痛に変わりつつあった。
「っ……」
────ふと、アキトの頭が何かに抱えられる。
言わずがもがな、アルゴだった。その胸に彼を抱き寄せ、優しく包み込む。
思わず、その瞳が見開いた。
「あ、アルゴ、何して……」
「……泣いて良イ。泣かなきゃ駄目ダ……」
────その一言が、決定打だった。
「っ……ぁ」
堰き止めていたもの全てが決壊し、とめどなく零れ落ちる涙。何に対しての悲しさかも虚しさかも曖昧で、色んな感情が混ざって何考えられなくなって、気が付けば身体を震わせ、声を漏らしていた。
────ああ、なんて最悪なクリスマスだと、アキトはアルゴの胸の中で、ただ子どものように泣きじゃくっていた。
────枯れ果てたと思っていた涙。
今だけは、とめどなく流れろ。