君との未来はこの手から零れ落ちて。
人間だけではない。あらゆる生命体には、寿命はある。
だがそれが尽きる日がいつなのかと、考える者は少ない。この浮遊城に来て初めて、それを明確に感じ考えた者の方が多数だろう。どのような場面で、どのような状況で、どんな人達が傍に居て、どんな最後を迎えるのか。この世界なら想像に難くないからだ。
けれど浮遊城は、人々の生き死にによって変わることなどまるでなく、変わらず稼働を続け、今も尚世界に抗う人々を俯瞰し嘲笑うように空を漂っている。寧ろ死んだ人間のデータをそれ以上管理する必要が無くなる分、情報処理の効率が上がるという何とも皮肉な仕様だろう。
まるでこの世界の住人は、この城に捧げる供物のようだった。
「……あ、き」
眼前に聳え立つ《黒鉄宮》から、探していたはずの少年が現れても、アルゴは動くことが出来なかった。
墓地とも呼べるその建物が這い出たその少年は、彼女にとって見知った顔のはずだった。けれど彼のその姿を見た瞬間、彼の名を呼ぼうとしたその声は途切れ、誰にも届くことなく漂い消えた。
目を逸らすことさえ出来ずに彼を見やり、そして言葉を失った。
《圏内》にも関わらず満身創痍な姿がそこにはあったからだ。彼の装備も容姿も何一つ変わっていないはずなのに、一目見ただけで察するのは、彼のその表情は、絶望に打ちのめされて底まで落ちた人間のそれだったということだけ。
彼自身の優しさを体現したような純白のコートも、対象的な黒い刀も、アルゴがかつて抱いていたイメージと反転していた。彼の死んだような表情と相まって、まるで死神のようで。
足取りは今にも折れて崩れてしまいそうな程に頼りなく、触れれば事実そうなってしまうだろうことは容易に理解出来た。そしてそれを見て、アルゴは再び声を掛けようとしていたその口を噤んでしまった。
声を掛ければ、手を伸ばせば拒絶されてしまうのではないか。そんな恐れが彼女の全身を締め上げ、動けなくしていた。
《蘇生アイテム》の入手の為に躍起になっていた時のアキトとは、まるで別人だった。あの時の彼も酷いものだったが、まだ生きる為の明確な目的が確立されていた分、まだ生気が宿っていた。
だが今は、あの時とまるで違う。俯き、瞳が前髪に隠れたその姿を見てもなお、嫌なくらいに分かってしまうのだ。彼の絶望が諦観に変わりゆくその様が。
その手に記録結晶を握り締めた彼は、その頼りない足取りで雪の地をこそぎ、歩いていく。目的地があるようには到底思えない。こちらに目もくれず通り過ぎたその瞬間に、アルゴは彼の髪の隙間から覗く瞳を捉えてしまった。
もう何も宿さず、灯さない瞳。消えた蝋燭のようなか細さと、消えることのない闇が支配していた。
「……っ」
それを見た途端、気が付けばアルゴは精一杯の声を絞り出していた。
「────ど、何処に行くんダ!?」
咄嗟に零れたその言葉には、多くの意図が含まれていただろう。
これから、どうするのか。何処を目指しているのか。まさか、自ら命を絶とうだなどと馬鹿げたことは考えてはいないだろうかと、そんな想いが綯い交ぜになった問いだった。
既に、クリスマスボスが何者かに討伐された噂は流れ始めていた。誰もが血眼になって探していたボス出現エリアを見付け、誰をも出し抜いて報酬を手に入れた者。アルゴには、それが誰かなど既に分かり切っている。だからこその問いだ。
彼は素晴らしい実力を発揮し、とんでもない功績を残した。彼はボス級のモンスターを相手に帰って来たのだ。それもたった一人で挑みながら、だ。彼の偉業は数多のプレイヤーに賞賛されるべきもので、語り継がれるべきものだ。
なのに、何故。
どうして、誰もいないその道を進むのか。
彼は英雄となる道ではなく、誰もいない暗い雪道を進む。その先は暗くて、何が待ち受けているのかも分からない。その先こそ、彼の望む終末なのかもしれない。
羨望も憧憬も全てを棄て、孤独に歩いて行く。
光から、闇へと───。
アルゴの問いに応えるべく、少年は少しばかり振り返る。
淡々と事実だけを残すように、ただ告げた。
「────俺の戦いは、もう終わったんだ」
その瞳は虚ろの比喩すら生温い、深淵を見せていた。もう、引き返せないくらいに────
Episode.0 雪舞う月下に誓う猫
No.13 『
●○●○
クリスマスだというのに、帰る場所さえありはしない。
目指す場所すら定まらず、ただ歩いて。辿り着いたのは、何故か最前線より少しばかり下層の《圏外村》だった。マップの端も端。態々来ようだなんて酔狂な輩は少ないだろう。入り組んだ森の奥に、それはあった。
人目を避けるように居を構えていたその村は、とあるクエストを受注することによって一時的に現れるインスタンスマップだった。言わばクエスト専用に作られるエリアで、クリアもしくは中断すると強制的に追い出される。
個別に用意されている一時的なマップなだけあって、クオリティが高いものも少なくない。実際遠目から眺めると、意志無きNPC達がプレイヤーの有無に関わらず生活しており、一見普通の人にしか見えない。そんな彼らの住まう住居の中でも、旅人を泊まらせる宿のような小さな一軒家が端にあった。誰も使っていないだけに埃っぽいが、生活する分には困らない。
そんな一軒家のベランダに、彼は──
誇れる自分に変わりたいと《アインクラッド》に足を踏み入れ、そして出会った仲間達と共に研鑽を重ね、やがて全てを失ってしまった非業の少年。
狂ったようにレベリングを続ける中、彼は『死なせてしまった大切な人と再会したい』というたった一つの願いの為に、それだけを胸に抱き、戦い続けてきた。
無数の人々を助けられるような存在、かつて憧れた存在を目指し、見ず知らずの人を助けられるまでに成長していたはずの彼は、いつしか脇目も振らずに自分のことだけを考えて進むようになった。
幾度と無く努力し、戦い、世界に抗い続けた。全ては、ただ一つのささやかな願いの為に。それだけを手に握り締めた、クリスマスまでの数ヶ月間の果て。
その終着点、結末は、考えうる中でも最悪のものだった。
切なる望みはその手から零れ、落ちて砕けた。
一人で独りなその少年は、たった一人で森を、谷を、洞窟を彷徨い歩く。
そうして彼が行き着いたのは、あらゆるしがらみから隔絶されたこの地であった。マップ端の、深い森の奥の奥。その圏外村の中でも更に端に位置する埃だらけの家屋。そこがアキトの終着点だった。
どの層の街にいても、絡み付くしがらみが嫌になる。どの層で過ごそうとも、消せない想いがそこにある。フレンド登録しているプレイヤーなど数える程度だが、すぐに見つかるような場所にも居たくなかった。
この村に入る為だけにクエストを受注したが、特に行動も起こさず壁に寄りかかって座っていた。
「────」
物言わぬ屍のような顔で手元を見下ろすと、その手中には結晶が握られていることに気付いた。
プレイヤーに大きな恩恵を与えてくれる結晶アイテムのうちの一つで、音声や映像、写真を記録することが出来るもの。記録結晶がそこにあった。
だが、アキトは知っている。
ここに収められている声の主は、決して手の届かない場所にいることを。散々迷って苦しんだ末に見付けた一つの願いだけは、それ故に絶対に叶わないのだということを。
もう、何も願うことはない。
これ以上は頑張れない。理由もない。
それらは全て零れ落ち、失ってしまったから。
アキトが過ごす日々に、最早色彩は無かった。
「────」
ベランダから外の景色をぼんやりと見やる。
昨日に引き続き空は薄い灰色で覆われ、未だ止まぬ雪が辺りを彩ってくれる。おかげで今の彼にとって鬱陶しく感じてしまうNPCも家に入り込んでおり、外に出ている者も、こちらを気にせずシステムに従って村の中での生活に勤しんでいた。誰も寄り付かない場所なのにここまで丁寧に作られていることに感心していると、ふと視界端にいる数人の子ども達に視線が向いた。
「……っ」
途端に歪めた表情。その先には男女混じる子ども達。
性別の隔たりなど関係無しに、ただ純粋に笑い合い、雪に興奮して走り回っている。
その姿に、かつての景色が重なった。
(───ああ)
それを見るのが、途轍もなく嫌だった。
NPCだと分かっていても、この黒い感情が収まってくれなくて。嫉妬以上の憎悪と苛立ちがNPCに向いていた。
不思議なほど冷静な水面のような心で、『全て消えてなくなれば良いのに』と考えてしまう自分の心がとても恐ろしかった。
「……」
そんなことを考える自分すら嫌になって、逃げるように家屋内に戻る。すぐ近くのベッドに座り込み、右手の記録結晶を起動する。フワリと手元から離れて僅かに浮かび上がるクリスタルの輝きに、脆くなった心が奪われるのは早かった。
「……なぁ、サチ」
物言わぬ無機物に話し掛ける。当然何も返ってくるはずがない。けれど、それでもいいと。それすら気にならないと、そんな表情で微笑んだ。
ここには、プレイヤーは自分しかいない。自分を邪魔する者はいない。クリスマスに訪れるような輩もきっといないだろう。なら、今は自分と結晶の中の彼女と二人だけだ。
「さち」
応える声はない。けれど、構わずに話し掛ける。
膝に顎を乗せ、柔らかな笑みさえ浮かべて瞳を細める。彼女の声が眠る結晶を見つめながら。
そこにあるのは彼女の声だけだという事実に、気付かないフリをしながら。
「……君に、話したいこと、沢山あるんだ。ここに来るまで色々あってさ……けど、話す時間は充分にある。どこから、話そっか」
ぼんやりと淡い瞳の奥には、記録結晶の光が揺らめく。外の子ども達の笑い声さえ、今は殆ど気にならない。
誰もいない独り言、それが傍から見た事実。だがこの行いに意味があるかどうかは彼にとって問題ではなかった。ただ二人の空白を埋めるかの如く、大切なものを紡いでいくように口を開くアキトは、あらゆる絶望を一時忘れたような優しい笑みをしていた。
何の脈絡もなければ、唐突に切り出される話題の数々。言葉は空虚なまま宙に放たれ、雪のように溶けて消えゆく。淡々と零れる彼の言葉には、まるで熱など感じなかった。その場しのぎのような、場を繋ぐような焦りが見える
何か喋らなければ。沈黙が生まれてしまえば。彼女の死を事実として受け入れてしまうような気がしたから。
「────あ、あと、それから……えっと……それ、から……っ」
だが《黒猫団》が死んでからはひたすら目的の為に戦い続けていた彼が、些事とも呼べる出来事の数々を一々覚えているはずもなく、記録結晶に語りかけるような話題はすぐに尽きた。
焦れば焦るほどに周りは見えなくなり、思考は単調になる。やがてアキトは瞳を左右に動かした後、俯いて口を噤んでしまった。
「……ぁ、っ……」
記録結晶に映る自分の顔を見やる。瞬間、現実に引き戻されたような感覚に陥った。
途端に自分のしていることがあまりにも滑稽に映り、情けなくなってしまった。記録結晶に向かってどれだけ言葉を重ねても、虚空の彼方に届くはずもないと、分かっているのに。
それでも、この現実を受け入れることが出来なかった。
独りぼっちだなんて。
誰もいないだなんて。
彼女──サチがいないだなんて。
彼女のことを、今でも鮮明に思い出せる。
僅かに頬を赤らめて笑う顔も。こちらの名を呼ぶ透き通るような声も。華奢な身体に、偶に見せる女の子らしい仕草も。狂おしいほどの優しさも、過去のものだなんて割り切れるはずがないのだ。
この世界でのサチは明るいとは言わずとも、笑顔を見せてくれる少女だった。優しげで柔らかで暖かな笑顔が、いつもアキトの冷たい心を包んでくれた。
その一方、恐怖を抱えて生きる彼女が時折見せる悲しげで寂しげな表情は、雲の隙間から覗く月明かりのようで、アキトの胸を締めつけるのだった。
そんな顔をさせたくないと思い、戦い続けてきた。
出会ってからの一年間、強がりを張り続けたのはひとえに彼女を守れる強さを手にする為だった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
「……っ」
心を締め上げるほどに容赦の無い孤独感。大切な存在が、それだけの為に作られたこの身体が既に虚ろであるかのような感覚に、込み上げてくる何かがあった。
記録結晶を見つめる彼の表情は実に複雑で、気を緩めただけで眼に涙が溜まり始めていた。口元を引き絞りどうにか泣くまいと堪えても、やがて溜まりに溜まった水滴がポロリと頬を伝った。
「くっ……ぅ、ぁ……」
嗚咽を漏らしながら、縋るように。
誰もいないこの場所で独り、見放されたような切なさに埋もれて涙した。誰もここには居ない。来てはくれない。励ましてはくれない。慰めてはくれない。
もう、誰もいないのだ。
分かってる。分かってるつもりだった。
いつかは受け入れなければいけないということだって、理解している。
────それなのに。
ベランダに続く開いた扉から、未だに子ども達の声が耳に入り込んだ。何も知らないシステム如きが、幸せそうな声を放つ。アルゴリズムに従って動き、そこに意思などありはしない。それだけにとても耳障りに思えた。
「……る、さい」
彼らは、何も知らずに笑っている。自分達には関係無いと言わんばかりに楽しげに走っている。彼らにとってはこの村だけが自分の世界。故に外でどんな不条理で理不尽なことが起きようと、システムに従って笑みを浮かべているのだ。
それがとても気に入らなかった。腹の中で、ふつふつと煮え滾る熱い何かが駆け巡っていた。
「……まれ」
俯いた口元から、歯軋り音が聞こえる。何かに堪えるように噛み締め、されど身体は震えてる。形容し難い激情が、数歩外に出れば視界に入るであろう、忌々しいオブジェクト共に向いていた。
この家と外が、まさに不幸と幸せの境界線で、惨めな自分が際立って思えた。そして何より、笑っていられる彼らがとても妬ましかった。
そして気が付けば、その足はベランダに向かっていた。
「黙れええぇぇええ!」
────それは、悲痛な心の叫びだった。
静かにしてくれないと、幸せそうなその声を聞くだけでどうにかなってしまいそうだった。その笑顔を視界に入れてしまえば、何もかもを壊してしまいたくなった。
けれど、大人気なく泣き叫ぶアキトのその声にNPCである彼らが反応を示すことはなく、変わらず雪の絨毯を駆けずり回っている。
「……っ、ぁ」
それに気が付いて我に返ったアキトの瞳は見開かれており、せき止められるものがなくなった涙滴はとめどなく零れ落ちていた。
「……みんな、消えちゃえばいいのに……」
叫んだことで乱れた呼吸は荒く、唇は震えていた。
決して寒さからではない。NPCとはいえ、人の姿をした存在にあんな怒号を八つ当たりも同然にぶつけた事実が情けなくて、思わず泣きそうになるくらい悲しくなったからだった。
────NPCに嫉妬するだなんて、とことん追い詰められてやがる。
自嘲気味に笑う───いや、最早笑うことすら出来ない。今のアキトには、へらへらと笑みを浮かべることすら難しかった。この数ヶ月、笑おうとして笑ったことがなかったからか、まるで笑い方を忘れてしまったように、心はひたすら虚無だった。
「……サチ。ケイタ。テツオ。ダッカー。ササマル」
ポツリと、彼らの名前が零れた。思いを馳せるように、大切な宝物を撫でるような優しさが滲み出たその声は、身体同様に震えていた。
アキトは雪積もる木々だけの景色を前に、白い息を吐き出しながら問う。
「……僕は……ひとつでもみんなに……恩返し、出来たのかな……」
あの日、自分を見付けてくれた彼らの為になりたいと、そう願って生きてきた。強くなって頼られるような、みんなを守れるような存在になりたかった。
いつしか、助けてくれた彼らを、助けられるような存在にだ。
彼らが迎えてくれるあの場所がアキトにとっての世界で、全てだった。それだけを望み、求めていた。みんなの笑顔を守れるような存在にと、強くなる自分を夢想して。
けれど、それはもう叶わぬ望み。
「っ……まだ、だよ……何も返せてない……こんなにも早くいなくなるなんて……思いもしなかったんだっ……!」
ただ強くなりたかったわけじゃない。それはあくまで手段に過ぎなかった。
アキトはただ、《月夜の黒猫団》のみんなとずっと一緒にいたかっただけだった。だからこそ、強さが必要なのだと思った。その所為でみんなとの時間を疎かにしてしまったことに、今になって後悔した。
だがもう、決してやり直しは出来ない。
●○●○
《クエストを中断しますか? Yes/No》
「……」
開かれたウインドウが問う内容を理解すると、躊躇うことなく《Yes》の選択肢に指を這わせた。途端にウインドウが閉じ、瞬間その身が村から追い出されるように一瞬で転移した。
瞬きすると同時に景色は様変わりし、少しばかり視線を動かせば、先程の村に訪れる前にいた森の真ん中に直立していた。未だ降りやまぬ雪が辺りを白く覆い、アキトの身体を一瞬で冷たくしてしまう。
アキトはクエストを中断したことで、圏外村であるインスタンスマップから追い出され、再び森に戻ってきていた。これからまた、誰も来ないだろう場所を探し歩くことにしていた。
今のアキトにとって、NPCとはいえ彼らの笑う顔はとても眩し過ぎて、とてもじゃないがあの村には居られなかった。
不幸の真っ只中にいる自分の目の前で、我関せずと動く人の姿。声を聞くだけで、視界にいるだけで、アキトはどうにかなってしまいそうだった。
もう少し決断が遅ければ、刀を抜いてしまっていたかもしれない。斬ったとしてもたかがNPCだと、そう思ってしまうほどに心は病んでいた。
ふと振り返り、かつてそこにあったはずの村を見据えてから、虚ろな瞳を細めて踵を返す。
人気のない場所を探してここまで来たのに、NPCでさえ目障りで耳障り。プレイヤーが来ないことは折り紙付きだったかもしれないが、クエストを中断して出て行くことには躊躇も不満も後悔もなかった。
────何もかも消えてしまえばいい。そう思った。
村のクエスト内容は、村を脅かす凶悪なモンスターの討伐。そんなところだった。よくある古典的な設定に面白味なんて感じるはずもなく、訪れた当初も話を適当に聞き流して目的の宿に向かったのはほんの数時間前の話だ。
だがクエストを進めるつもりなんて更々なくて、誰も来ない場所が手に入りさえすればよかった。故に、このまま余生を過ごすだけの人生だった。
「……」
受注することを決めた時の村人達の嬉し泣きのような感謝の表情を、アキトら何故か思い出していた。何奴も此奴もNPCの癖にどこか人間味があって、こちらの良心に訴えかけてくるような表情を見せ付けて。
もしかしたら、あの時既に憎悪を向けていたのかもしれない。たかがNPC相手に。
────“クエスト、やらないの? ”
ふと、頭の中で声が響いた。
透き通るように甲高い、女性の声だった。
(……また、この声)
思えば、サチ達の危険をいち早く知らせてくれたのはこの声だった。どういう理屈か、まだ見ぬスキルなのか、何が目的なのか知らないが、あの時のことは感謝しなければならないのかもしれない。
結局、誰一人助けることは出来なかったけど────
「……ただのクエスト、それもゲームだろ。NPCだけの村がどうなろうと知ったことじゃない」
そう、もう人助けだなんてどうでもいい。誰が傷つこうが死にそうだろうが知ったことじゃないのだ。それが出来る存在になろうとみんなから離れた結果が今の自分だ。
他人の為に時間なんて使ってられない。ましてやNPCだなんて斬っても壊しても湧いてくるし、それにクエストはこのゲームの世界観が生み出した設定に過ぎない。決められた言葉しか喋らない機械的な存在に意味なんてない。それに時間を費やすのも馬鹿らしい。
そして、意思無きオブジェクトだからこそ、こんな嫌な感情すら吐露出来た。
「……みんな、死んじゃえばいい」
そう、何もかもを守れるくらいに強くなろうとしたから、零れてしまったものがあった。拾えるものを全て拾おうだなんて欲張りだった。
キリトに惨めに嫉妬なんてせず、身の丈にあった強さで満足して、みんなと共に歩み続けていれば良かった。サチの隣りにずっといてあげれば良かった。
そうすれば、全滅なんて最悪な未来だって防げたかもしれない。
そうでなくとも、死ぬ時は一緒だったかもしれない。
誰かを守れるくらい強くなろうだなんて、烏滸がましかったのだ。
───“っ、でも、アキト強くなりたいって……『強がり』を強さに変えたいって……! ”
「黙れよ。何も知らない癖に知ったような口を」
こんなにも冷たい声が出るなんて、自分でも驚いた。だがこの声に聞き覚えも心当たりもない以上、アキトにとってこの声は他人だ。だが、別に何者でも関係無い。ただ、自分をイラつかせるだけだ。
誰一人としてこの絶望を共有出来たりしないのだから。誰にも、この気持ちを理解することは出来ないのだから。
確かに、声の主の言い分は最もだ。
だが最早、理由や理屈じゃなく本能と感情が告げるのだ。
“もう、嫌だ”と。
あの日に全て思い知ったのだ。どれだけ頑張ろうとも、届かないものがある。手の届いたはずの場所ですら、救えないものがあると。
───“でも、でもね、アキト……”
「……もう、話し掛けるな。耳障りだ」
何かを告げようとしたその声を切る。どんな正論が飛んでこようとも、奴の言葉に耳を傾けることはしないという意思表示。
まだNPCの村人達の笑顔を思い出してしまう辺り、未だ躊躇いが残ってるかもしれない。良心がザワついてしまってるかもしれない。今ここで、励ましや再起の言葉なんて聞きたくもなかった。
「……最前線、行くか」
誰もいない森の最奥から最前線へ向かおうとするアキトに気力はなく、その足取りは重かった。
イベントボスとの戦闘で既に精神は摩耗し、肉体を酷使したアキトに対しても、この層に棲息する狼型モンスターの群れは容赦無く襲ってくる。
荒い呼吸や鳴き声は、静寂たるこの森ではよく響く。索敵を使うでもなく即座に位置を特定すると、アキトはただの一撃で一匹、二匹、三匹と、その全てを仕留めて見せた。
誰もが進む先にある道を阻む。だが、アキトにはそれが不思議でならない。
────この道を進んだ先にだって、未来なんてないのに。
それでもアキトは、襲い来る全てのモンスターを斬り捨て屠る。邪魔されて困るような急用も目的もないのにと、自虐しながら。
アキトが使用出来る刀スキルは限定されていた。刀は両手で放つスキルが多いというのに、彼は左手に記録結晶を握っていたからだ。
愛する者の声が収められた、アキトに唯一残された宝物の一欠片。それを抱え、片手が塞がっている為に上手く立ち回れず、その為アキトは何度も手傷を負うが、逃すこと無く即座に仕留めた。
そして自動回復のスキルが何度もアキトを癒す。肉体だけが回復し、変わらず精神は削れていくも、彼は構わず前に進んだ。
わけも分からず、進む道も見い出せず。
そう、彼にはもう生きる目的が無かった。全てを失った今、こうしてモンスターに抗う理由なんて何も無い。あるとするならば、ほんの僅かな死の恐怖だけ。だがそれも、みんなと同じ場所へ行けるならと、徐々に薄れ始めている。
最前線に向かおうとしているのだって、上層はそもそも人が少ないうえに未踏の地が多い故に人が少ないだろうという、たったそれだけの理由だった。だが最前線だけあって死の確率だって大きい。今のアキトでは無駄死にだ。向かう理由も、目的らしい目的ですらない。
この場で戦うのを止めれば。諦めてしまえば楽になるはずの道だ。目の前にいるのはかなり上層の敵だ、最前線など行かなくとも刀を下ろせばすぐさまHPをゼロにしてくれる。呪いばかりのこの現実への憎悪、悲哀、後悔や苦痛から解放されるのだ。
サチは、みんなはもういない。これ以上無いほどに打ちのめされたはずだ。
ほんの少しの糸の解れが、ボタンのかけ違いが、変えようのない運命として絶望を運ぶのだと、骨の髄まで理解したはずだ。
いつだってそうだ。
運命が我々を嘲笑う。
翻弄する。
ならば、今ここで死んだとしても同じことだ。自動回復が間に合わぬくらいに傷を受け、ここで命を潰してしまえば、最前線に行かずとも事実として残る同様の無駄死に。
それなら何故獣に刀を向ける? どうして最前線へ向かう?
もう何も残されていないアキトがこの道を進む道理が、一体どこにあるというのだろう。そんな崇高な理念も理由も、ありはしない。
そんなもの、彼女達を失ったあの日からあるわけがない。
初めから、存在しなかったのだ。あるのはただ、諦念のみ。どこで死のうが構わないという、そんな意志のみが心にあった。
「っ……!」
どれだけレベルを上げようとも、やはり上層で群れを成すモンスターの相手にソロは危険だった。隙を見せぬようにと立ち回っていても、摩耗した精神を前に身体は擦り切れる。徐々に減りつつあるHPを表情一つ変えずに見上げたアキトは、この時既に意識も半ば朧気だった。
視界がぼやけるのは哀しみの涙からか。或いは身体と精神を酷使した報いか。
それでも道の先を見据えていたのは、何の為だっただろうか。
事実を受け入れる為?
命の終わり方を探す為?
人生の末路を黒鉄宮に刻む為だろうか。
否、そんなものはどうだってよかった。
アキトはただ、静かな場所に行きたかった。
誰かの助けを無視出来る場所、誰にも手を伸ばす必要のない場所に行きたかった。
憎しみも哀しみも、怒りも妬みもない。争いも闘いも、そこから生み出される悲劇すら隔絶した場所へ。
守るべき人も、何も知らない赤の他人も、煩わしくなる要素を全て排斥した孤独な世界。昔──いや、現実の自分がいた世界に近しい場所へ、サチの分身たる記録結晶を持って。
その為に。ただその為だけに。
アキトは、それが無意味なことだとは思わなかった。
この世界で一年の時を過ごし、必死に生きて、努力を続け、誰かを助け、仲間に救われ、時に喧嘩し、傷付いて、誰にも見せぬよう一人で泣いて、強がって、戦い続けて。そして全てを失ったこの人生に見合うだけの価値を、アキトは感じていた。
「……」
ずっと同じ場所をグルグルと回っているのではないかと思わせる程に広大な森の中で、アキトはふと立ち止まる。見据えた先には未だ雪積もる木々が連なっていたが、歩いた時間と距離を実感した途端に白い息を深く吐き出した。
……かなり歩いたな。
もうすぐ、街かもしれない。
そうすれば転移門を使って、そのまま最前線に向かおう。
そうしてアキトは一歩足を踏み出し────そこで止まった。
「……人」
人の気配を感じた。そして更に、モンスターの存在も索敵で探知する。
────誰かが戦っている。もしくは襲われている。プレイヤーではなくNPCが襲われている可能性だってある。その場合、もしかしたらクエストの類かもしれない。
どちらにせよ、今日はホワイトクリスマスの昼間だというのに、よりにもよってこんな辺境の森に来る輩がいるとは、正直驚きだ。
アキトは再び、その歩を進めようとした。
誰かは知らないが、精々頑張ってくれ、と。
「……」
────そう、思い込もうとするも。
もし、本当に襲われているのだとしたらと、考えてしまう。
索敵を信じるならばプレイヤーは一人のようだ。敵は複数、恐らくアキトが戦った狼型の群れだろう。こんな上層でソロで群れ狩りとは思えないが、レベリングならば相当の手練が身の程知らずだ。
そうでないならば────何故この森に?
(……俺を探しに?)
その可能性は考えられた。
既にクリスマスのイベントボスがソロプレイヤーによって倒された事実は広まっている。個人を特定出来ているかどうかは不明だが、情報を買った何者かが盗賊よろしくこちらに奇襲をかけようとしている可能性は充分にあった。
実際、イベント報酬は凄まじいものだった。不要と即座に判断したアキトは、売却すら面倒で殆ど廃棄してしまったが、それでもレアリティの高いアイテムは幾つか手元に残っている。
仮にそいつらがやって来て、武器を手に斬りかかろうとするならば。
────今のアキトは、その犯罪者共を斬り殺すことに躊躇いを感じることはあるのだろうか。
何もしていないサチが、みんなが死んだのに。犯罪者共を生かしておく道理なんてあるか。
そんな奴らの一人や二人、この世界から消したところで何か変わるだろうか?
と、そのようなことを考えてしまったアキトは、思わず目を見開き、首を横に振った。
「……はは、何考えてんだろ、俺。頭までイカれてやがる」
どちらにせよ、奴は今モンスター達に襲われている。
ならば、隠蔽スキルを使ってその横を通り過ぎるだけでいい。気付かれたら、襲われたら、その時に剣を抜けばいい。
そうしてアキトは、ゆっくりとその足を動かして、木々の陰に隠れるように移動を始める。
戦闘の音が徐々に近付いてくる。モンスターの威嚇が聞こえる。エフェクトやプレイヤーの姿が明確になるのは、それからすぐのことだった。
「ぐぁ……っ!」
瞬間、アキトの目が見開く。その耳を疑った。
────女性の声。それも、とても聞き覚えのある声だ。
アキトは思わず遠くの木陰から、その戦闘を覗き見た。そして、モンスターの群れと相対しているプレイヤーを見て、身体が凍り付いた。
犯罪者でも、NPCでも、そのどちらでもなかったのだ。
全身が赤みがかった切り傷に覆われたその少女は、アキトがよく知る人物だったのだ。
大切な人達を失ってから数ヶ月の間、ずっと陰ながらアキトの傍にいたプレイヤー。
どうして。
何故、こんな森に。
「……アルゴ……?」
そこには、いつものようにフードを深く被り、左右に三本髭のペイントを付けた情報のパイオニアが。
アルゴが、いた。
多くのモンスターに囲まれ、傷だらけになりながらも武器を構える彼女がいた。震える身体をどうにか起こし、乱れた呼吸をどうにか正し、恐怖と焦燥を振り払うようにして立っていた。
「っ……な、んで……この場所に……」
なんでこの場所に。
どうしてこの時に。
一体、何の用事で。
────どれだけ疑問を重ねても、本当はもう、とっくに分かっていた。
彼女は、アキトを探しにこの森に来たのだ。
登録したフレンドリストから位置情報を検索し、自身のレベルでは危険だと分かっていても、実力に見合わないこの上層にたった一人で。
それは友人としての義務だろうか。
情報屋としての責任からだろうか。
キリトに頼まれでもしたのだろうか。けれど彼女がここにいるのは、紛れもなくアキトがこの場所にいたからだった。
そんな彼女が、モンスターに襲われている。身動きが取れず、身体は震えるばかり。
自分を探しに一人でここまで来て、その命を落とそうとしている彼女を見ても何も出来ず、HPが赤く染まり、あと数秒と足らずにその身を消そうとしているアルゴをただ見ていることしか出来ない。
「────」
────瞬間、アルゴがサチと重なった。
“……ねえ、アキト”
途端に、あの時の声が聞こえた。
助けろと、そんなことでも言いたいのだろうか。
そんなの無駄だ、無理だと、アキトはそう決め付けた。
アルゴが噛み殺されるその瞬間がスローモーションになって見えるというのに、助けに行こうだなんて考えが湧かない。
“アキトなら、必ず助けられるよ”
よくそんなことが言える。見ていただろう、半年前のあの悲劇を。
自分は間に合わなかった。彼女を助けられなかったんだ。きっと今回も同じだ。アルゴは死ぬ、それは避けられない。
どれだけ頑張ろうとも、届くはずなんてなかったんだ。
“……なら”
その女性の声が震える。
今にも泣きそうな声音に、アキトの心は揺れた。
“なら、アキトはどうして強くなろうと思ったの……? ”
「────ぁ」
────ドクン
心臓が脈打つ。今までよりも強く。
思い出すのはかつての憧憬。誰よりも憧れたヒーローの背中。
そして、《月夜の黒猫団》のみんなの幸せそうな笑顔。
キリト。
ケイタ。
テツオ。
ダッカー。
ササマル。
そして、サチ。
彼らを守る為の強さを持つキリトが、羨ましかったのは。妬ましかった、その理由は。
誰にも負けない力を求めたのは────
「────くっ!」
────気が付けば、その木陰から飛び出していた。
何故かは分からない。でも、考えるより先に身体が動いてしまって、どうしようもなかった。
木々を掻き分けて進むのは、たった一つの道。アルゴの元だけだ。
脳に囁くその声は、今もなお変わらず問い掛ける。
“強くなりたかったのは、ヒーローになりたかったから? ”
(逆だ。強いから、ヒーローになりたかったんだ)
“誰かを守れる力が欲しかったから? ”
(それは、あくまで手段だった。本当に、俺が欲しかったのは────)
そう。
ずっと望んでた。ずっと求めてた。
本当はずっと、ずっと前から────
“アキトの、一番欲しいものは、何……? ”
────その問いを聞いた瞬間、アキトは忌々しげに唇を噛み締めた。
ああ、本当に。本当に人の神経を逆撫でする声だ。会ったら一度、ぶった斬ってやりたい。
「……くそ……くそっ、クソッ!」
なんで、なんでこんな人間になってしまったんだろう。
どうして赤の他人すら放っておけないんだろう。助けてあげたいと思ってしまうんだろう。
絶望を知ったのに。誰よりも不幸だと思い込んでいるのに。みんな、同じ目に合えばいいと願っているのに。妬んでいるのに。
どれだけ助けようとも、善行を積もうとも。
あの日の罪は無くなりはしないのに。大切な人達は、二度と戻らないのに。
(何奴も此奴も気に入らないんだよ)
幸せを振り撒くように笑う奴らも、同情したような声を脳内で響かせるこの声も。
誰も本当の意味でこの哀しみや痛みを知ることなんて出来やしないのに、誰も彼もが分かったような口をきくから────
「シッ!」
一瞬で距離を詰める。雪を飛ばし、前を見据える。
目指す先はたった一つだけ。それだけでいいんだ。
ただ、ただ彼女の元へと走れ。
(みんな死んじまえばいいって思うよ)
サチが、みんなが死んだのに。
関係無いという風に他のプレイヤーも、村にいたNPC達も今を生きている。それがとても理不尽なことのように思えたから。
「……くそ」
弱々しい、今にも泣いてしまいそうなか細い声。
腰の鞘から抜き放ったのは、雪の光に照らされて輝く、鮮やかな漆黒の刀。大切な仲間から貰った、最後の宝物。
この武器に誓った。この刀で、みんなの力になると。
(なのに、どうして俺は)
こんなにも憎んでいるのに。狂おしいほどに妬んでいるのに。
全部、何もかも消えてしまえばいいと思うのに。
なのに、それなのに────
「アルゴぉぉぉぉおおおぉぉおああああ!!」
どうして、俺は。
更新が大分遅くなってしまったことへの謝罪を致します。お待ち頂いた方々、大変申し訳ありません。
決してエタったわけではなく、最近とても忙しいのと、アイデアが思い付かないのと、オリジナルの制作とスパイラルが続きまして……三ヶ月も経ってしまいました。
これからは少しずつまた投稿していけたらと思います。
既に知っている方もいると思いますが、現在SAOとALOの繋ぎの物語として、「ソードアート・オンライン ──歌姫と白猫──」の方を先行で2話ほど投稿しております。
現在オリジナルのキャラしか登場しておりませんが、感想やアドバイス、質問などを頂けると書くモチベーションが上がります。どうか、応援よろしくお願いします。