本音を告げるより、塗りたくった偽りの方が楽だった。
何も考えていたくないと、一心不乱に走り続けた。
とめどなく頬を伝っていく涙は、足を踏み締める度に後ろへ流れる。人や街、心と共に置き去りになっていく。
背中から呼び掛けられていた彼の声は街の喧騒に掻き消えて、外へ出た時にはもう聞こえなくなっていた。気が付けば《圏外》で、まだ未踏の迷宮区への道を進んでいる。
現在は97層。故にフィールドを出て暫く走るだけで迷宮区に辿り着いてしまう。それ程までに階層自体が狭まってはいるが、危険度が今までの比にならない分、態々攻略しようだなんてプレイヤーも攻略組以外では少ない。薄暗がりでひっそりとしていて、一人になるには都合が良い。静かで、誰もいない。しがらみから一時解放された気になってくる。何故か何処まで走ってもモンスターが現れないものだから、形振り構わずに、何も考えずに走り続けられて。
そこまで来てシリカは漸く我に返り、足を弛めた。
「はぁ、はぁ……」
この世界に身体的疲労はなくとも呼吸は荒くなるし、心臓は強く脈打つ。膝に手を着いて頭を垂れて、何かに落胆したような体勢で息を落ち着かせる。
けれど、今静寂になれば──冷静になってしまえば、思い返してしまうのは直前のこと。先程の《
「……っ」
────取り返しのつかない態度を、とってしまった。
謝罪をする絶好の機会だった。彼が何をしていようが関係無いはずだった。いつだって、何処でだって構わない。会えたのならすぐこの気持ちを伝えようと、謝ろうと思っていたのに。
嘘を吐かれてまで会うのを拒まれたのだと思うと、胸が苦しくて。そうして自分のいない場所でリズと笑い合っていた光景を目の当たりにした途端、どうにも堪らなくて。
最初に彼を拒絶したのは自分なのに、あの時自身が拒絶されたと考えただけで、何故あれほどまで取り乱して、感情に任せて言葉で殴り付ける事ができたのだろう。アキトだって、きっと同じ気持ちを味わっていたはずなのに。
「あたし、最低だ……」
自分勝手にも程がある。こんなのただの我儘だ。そもそも、謝る気があるなら
自分の謝罪したい気持ちなんて、気が付けばまるで口先だけの言い訳に成り下がっていた。何処までも卑しい自分が、惨めな程恥ずかしかった。
彼の手を払い除けたのは自分自身。あんな態度をとっておいて、彼が吐いた嘘を責めようだなんて。今までそんな彼の優しい嘘に甘え、これでもかと浸かっておきながら、よくもあんなことが言えたものだと、何度も何度も繰り返す。取り返しがつくはずもない後悔が、頭の中で駆け巡って。
「きゅるぅ……」
「っ……ピナ……」
震わせた肩に乗っていたピナが、ふわりと舞い上がってシリカの前で浮遊する。慰めるよう胸元に擦り寄ってくるピナを、優しく抱き留め、次第に強く抱き締めた。
孤独を埋めてくれる唯一の存在になってしまった小さな飛竜を、再び泣きそうになる気持ちを抑えながら抱えて、ゆっくりと歩く。ひっそりとしていて、周りに何も無い迷宮区が、今の自分に途轍もなく似合っている気がした。
「……」
────アキトは今、自分を探してくれているだろうか。
ふと、そんな考えが脳裏に過ぎる。逃げるように立ち去ったあの時も、彼は自分の背に向かって何度も名前を呼んでくれていた。圏外に、それも最前線の迷宮区にいると知ったのなら、きっと彼は必ず探しに来てくれる。確信があった。そんな優しさを持つ少年であることを、シリカはもう知っていたから。
────……知ってた。分かってたのに……。
あの日振り払った彼の右手。叩いた自身の手も、ジンジンと痛む。色褪せることなく残るその記憶は、シリカの表情を容易く歪める。
優しい彼に、あんな態度を取ったのは自分だけだった。アスナもリズ達も、あれほど幼いユイでさえ、変わらない態度をとっていたというのに。そう思うだけで、疎外感が増した気がした。自分だけがみんなと違うのだと、自分だけが孤独なのだと。
虫の良い話だ。アキトはずっと、今の自分と同じように、孤独を重ねて過ごしてきた。
他人に畏怖の目で見られることや、万人とは違うのだと突き付けられ、孤独を強いられたこと──それらを抱えた彼の姿を、シリカもうは知っている。自分を彼と比べる事すら烏滸がましいと、大分卑屈になっている自分に呆れて笑みさえ零れてきていた。
足を止めれば、思考を止めれば、呼吸をすれば。その一分一秒の刹那の間にも、彼の傷付いた顔が呼び起こされる。そして、そんな顔をさせたのは紛れもなく────
「……もう、やだ」
何度も同じ思考になる。行き着く先は収束している。堂々巡りを繰り返し、精神は摩耗する。
もう、いい。もう、疲れた。何かを考えて一喜一憂するのは、もう嫌だ。自分を苛む幻聴が、頭痛を引き起こす程に辛い。何より、ズキズキと痛むのは頭だけじゃなく、胸の奥に潜む心も同じこと。
今の自分を誰にも───キリトにだって見せたくない。自分の事ばかりでいっぱいいっぱいで、アスナやリズのように他人に気を回せる程の器量が自分には無いのだ。
アキトのあの姿を見て、すぐに平気だと割り切れるような強さなんて、持ってないんだ。そう、しゃがみ込んで踞ろうとした時だった。
「────」
何か、音がした。
ふと顔を上げて、目の前に広がる道を捉える。
迷宮の先は薄暗い闇が続いていて何も分からない。けれど、耳を済ませてみれば僅かに響くのは鋼の音。慣れ親しんだその音に、シリカは泣くのも忘れて聞き入っていた。
これは、剣戟の音。この先で、誰かがこの迷宮区を攻略している。それに合わせてモンスターの咆哮が、風も無いのに鼓膜に届く。
途端にシリカは、思わずしゃがみ込もうと地に着いた膝を再び持ち上げて立ち上がった。今の今まで自虐に思考を注ぎ込んでいた頭は、目の前の闇が続く道の先にある光景を思い浮かべていた。
「……」
その足は前へ、奥へと進んでいく。単純に気になったというのもあるが、危機的状況の可能性が万が一にもあるかもしれない。誰かが戦っているのなら、攻略組として状況を確認しなければと思った。
────或いはそれら全てが言い訳で、アキトにしてしまった行いの償いや、誰かを助けようとした自身を正当化する為の打算的行動だったのかもしれない。別の事に思考を移したかったのかもしれない。シリカ自身もそれに気が付いていた。それでも、動かないよりはマシだとどうにか言い聞かせて、肩に乗るピナに寄り添いながら未知なる道を踏み締めていく。
近付く程にモンスターの鳴き声や剣戟の音は鮮明になっていく。次第に大きくなる響音はシリカの脳内に渦巻いていた感情を振り払っていった。自責の念に駆られる事さえ許さない不協和音の中で、僅かに放たれた人の声にシリカは口を開く。
「……ストレア、さん?」
それが正しいのか確かめるべく、通路の角からその先を覗く。そこには、口に出した当人が数体のモンスターに取り囲まれて剣を振るう光景があった。
前回のボス戦以降姿をくらまし、自分達の前に現れる気配すらなかった彼女が、誰もいない最前線の迷宮区で歯を食いしばりながらその刃を振るっている。
その瞬間、目を瞑りたくなるほどの光が目の前に五つ顕現した。翼を持つ紅い悪魔達が視線を寄越し、彼女を獲物と認識するのにそれほど時間はかからない。別段新種の敵でもないがストレアに油断はなく、シリカにはその立ち振る舞いに恐怖さえ感じた。
敵と知るや否やその両翼を使って迫り来る一体を、流れるような刃の軌跡が捉えた。
「シッ────!」
紫電纏う剣を振るうと同時に、口元から漏れる空気。最適化された一連の動作に隙は無く、首元を斬り裂いた悪魔型の敵は再び光の破片へと帰る。続けざまに二体、剣を横に薙ぐ。今度は火の粉を振り払うように乱雑に斬り捨て、諸共その体力を消滅させた。
直後、背中からの気配に顔を上げる。耳を塞ぎたくなるほどの咆哮をその背に浴びながら、振り返る事もせずに上体を僅かに右へと傾ける。それだけで悪魔の鉤爪は目前を通り過ぎ、後はおざなりになった奴の腹にすかさずその剣を宛てがうだけで良い。悪魔の身体の上下が二分される直前、AIである奴のその瞳が驚きに満ちていた気がして、それを見たストレアが少しだけ嗤ったように見えた。
「次」
感触を確かめる事もせず行動を再開する。見開かれた瞳が残りの敵の行動分析を瞬時に終わらせ、飛行するその軌道を妨げるように眼前に躍り出る。上段に掲げた剣の柄を両の手で握り締め、上乗せされた力で振り下ろした剣は、敵の頭から下までをいとも容易く分断した。
肉体はそのまま通過し、背後で破裂音がする。闇篭もる空間が一瞬だけ光の粒子によって明るさを取り戻す。それがどうにも切なくて、僅かな光が再びその闇へと溶け込むまで、思わずその瞳を伏せた。
「────……っ」
例え素人目であっても圧倒的と言わざるを得ないだろう戦闘振りに、シリカは思わず身を潜め、息を呑んだ。一切の躊躇も無く無慈悲に見えたその姿が、かつてのストレアとあまりに掛け離れていて。彼女の表情が、何もかもが楽しかった過去のものと微塵も重ならない。
今の彼女は、シリカにあの日のアキトを想起させる。敵を前にして僅かに微笑んだストレアの口元が、自分の首を締め上げながら乾いた笑みを零すあの日のアキトに良く似ていて────その場でへなへなとしゃがみ込んだ。
もう、あの頃のストレアとは違うのだ。そう理解した途端、彼女が別の何かに見えた。アキトに似ていると感じた途端、彼に対して抱いてしまったものと遜色無い恐怖が押し寄せて来て、足が震えて立っていられなくなってしまった。
気配を悟られぬよう口元を抑え、肩を震わせる。背の寄り掛かる冷たい黒曜石の壁、その角を飛び出せば直線上に彼女がいる。すぐに命のやり取りが起こる距離にいる。それだけで、涙が出そうだった。今もなお背を向けた先から斬撃の音とモンスターの断末魔が聞こえる。次は自分なのではないかと、錯覚してしまう程に近くで。
「っ……ぅ、ぁ……!」
────だがそんな恐怖は、突如苦しげな声が響いた途端に霞み始めた。それまで冷たい程に静寂を貫いていたストレアの呼吸が不規則に途切れ出したのだ。シリカは自ずと視線を角へと走らせる。
「……うぅ……うあ……ああ……っ」
未だ数体の敵の中心で、ストレアは脱力していた。
カシャリ、と手元から剣が抜け落ち、糸が切れたように膝を着く。右手は地に、左手は強く頭を抑えている。表情は苦痛を顕著に、口は言葉にならない声を漏らしながら震え、地を見下ろし蹲っていたのだ。
(っ……あの時と、同じ……!?)
頭を抑えて苦しみ出すあの姿を、シリカは前に一度目の当たりにしている。アスナやリズ、リーファと共に87層の迷宮区を攻略していた時の事だ。偶然にもソロでレベリングしていた彼女を目撃し、その時もストレアは突如頭を抑えて苦しみ出した。
時々起こる頭痛で、動けなくなる程だと言っていたのを思い出す。まさか、それが今起きたというのか。シリカの視線は、ストレアから彼女を取り巻く敵へとシフトする。このままでは、形勢は一瞬で逆転すると言ってもいい。
瞬間、不気味な妖光が再び周りに湧き出した。近くにいたストレアは、その痛みの所為で辺りを見渡す事は愚か顔を上げる事すら不可能ではあったが、その光と音が絶望を連れて来たのだと理解するのは、シリカとほぼ同時だろう。
気配は六つ。その影を見るに先程斬り潰した悪魔型と同種だった。まるで仇討ちに来たかのようにその牙を剥き出し怒りにも似た表情を顔面に貼り付けている。各々の双眸と鋭利な両の五指が崩れ落ちるストレアへと向けられ始め、その距離は次第にゼロへと近付いていく。
(助けなきゃ────っ)
だが、咄嗟に腰の鞘からダガーを引き抜こうとして──その手が止まった。そして、今の今までアキトと変わらぬ恐怖を抱いた対象に、改めて瞳を向けた。
変わらず頭を抑えて苦痛に顔を歪めるストレアは、自分達のかつての仲間であり───前回のボス討伐で多大な被害を生み出した元凶である。彼女によって攻略組な死者を増やし、精神的な痛手さえ負っている。目的も不明なうえに、問答にも応じない彼女の姿勢は嫌という程に痛感している。話し合うだけ無駄なのかもしれないと、きっと誰もが感じてる。
けど。けれど。
そんな中で、ふと。
助けるべきなのかと、そう思った瞬間に。
「────……」
考えてはならない事が頭を過ぎってしまった。
人として絶対に辿り着いてはいけなかった思考、一瞬ではあったけど、それでも至ってしまった悪魔の誘惑。
これ以上恐怖に支配されることなく、自分が惨めにならない為の策。みんなの為だと誤魔化せば、実行できてしまいそうな程に甘美な響き。
(もし、このまま)
────
それを自覚した途端に、身体は突如として動かなくなってしまった。糸が切れた人形のように、ただ一歩の歩みすらままならない。動かない
(ダメ……そんな、の……考えちゃ……)
決して許されない感情だ。けれど同時に、これ以上ストレアに攻略の邪魔はさせられないとも思った。それは、シリカでなくても考えてしまうかもしれない、躊躇い迷い、揺れてしまう程の分かれ道だった。思考が埋没し、他の事なんて考えられなくなる程に、一つの答えへと理性は収束する。
今の自分は、今のストレアを────敵となった彼女の為に命を懸けられるだろうか。彼女の為に、死ねるだろうか。
アインクラッドに幽閉されてから二年、この世界で人々は多くのものを失った。時としてそれは友であり恋人であり家族でもあった。予告無く理不尽で、笑える程容易に、目の前で奪われてきた。喜劇よりも悲劇の方が圧倒的に多い中で、数多の挫折や後悔を繰り返し、そうして積み上げてきたものが報われる時が、もうすぐそこまで来ている。限界に近い精神は、次第に楽な方へと歩み出す。
ストレアが生み出した────憎しみや怒りによって穿たれた亀裂が、修復されることは決してない。そしてこの胸の中にある彼女への恐怖が、消え去る日など想像できない。
アキトと、ストレア。この二人への恐怖を、この世界が終わるその日まで抱いたまま耐える事なんて、できるのだろうか。
(あたし、は)
────どうすれば良い?
かつて目の当たりにした、苦しむ姿。過去に見たどのストレアよりも、今目の前でうつ伏せる彼女が最上だった。いくら実力があろうとも、辿る結果は見えていた。万全でないのなら、あと数分もせず彼女は死ぬ。考える暇なんて、理不尽の権化たるこの世界は与えてくれない。
「はあ……はあ……っ」
────けれど、身体が、動かない。
震えて震えて、思うようにならない。だから仕方がないのだと自分を正当化し、思考は次第に闇夜の方へと進んでいく。ストレアが敵に囲まれ、爪を立てられ、傷付けられるのをただ眺めるしかないのだと。身体が動かせないのだから諦めるしかないと。
「はあ、はあ……っ!!」
呼吸は酷く、荒くなる。上下した肩がガタガタと震える。その間、人として踏み外してはいけない境界、それを隔てる柵を飛び越えるまでの道が見えた気がした。一撃、また一撃と彼女と身体に赤い輝線が刻まれ、血飛沫にも似たエフェクトが飛び散るのを目の当たりにしながら。
死神の迎えが近いのだと理解したストレアの表情を角で見据えながらも、動けない────動か、ない。
このまま、いっそ。いっそのことこのまま。
彼女が事故的に死ぬのならば、それは正当化されるものの気がしたから。みんなの邪魔をされなくて済むのだと思い込めば、誰も傷付かずに済むのだと割り切れば、この行いは許されるような気がしたから。
そうすれば、少なくとも恐怖から一時、解放されるような気がしたから────
(……だ、め……助け、な────っ)
────刹那、シリカのすぐ横を
「……え」
振り返るよりも先に、その影はシリカの視界を外れ、すれ違いざまに透き通るような鈴の音を残す。とても良く聞き慣れた、どこか安心するその音色は、シリカのこれまでの思考、感情全てをいとも容易く消し去った。
一瞬だけ、僅かに視界端に映ったのは、暗闇の中でも確かにその存在を主張する、黒いコートの切れ端だった。過ぎ去ったそれは突風のようにシリカの髪を揺らし、目を瞑らせる。
「ストレアあああああああ!!」
その直後、彼女の名を叫ぶ声と同時に、角の向こうからモンスターの奇声と、硝子が割れるような破壊音が数回響いた。
「────っ」
剣技発動時のサウンド、光によって暗闇を浄化する熱を背中越しに感じる。瞑った瞳をゆっくりと見開き、後光の先へと振り返る。
再び覗き見た曲がり角の先には、未だ蹲るストレアを庇うように剣技織り成す一人の剣士がいた。シリカの視界の中心で、それは流麗にも剣を振るい、それでも尚必死な表情で、迫り来る脅威に対処していた。右手の剣が悪魔型の胸を貫き、左の拳は輝きを放ちながら別のモンスターの顎を砕く。
ただひたすらに、ストレアを守るように戦うその姿を見て、シリカはただ、その人の名前を呼んだ。
「……アキト、さん」
ストレアを助けるか、助けまいか。自分の恐怖に負けて、そんな選択を頭の中でぐるぐると巡らせていたシリカの横を。
少年は────アキトは、いとも容易く選択し、飛び出したのだ。損得も、敵味方も、脅威の度合いも考えずに。
彼のその表情には、怒りや苛立ち、殺意とは別の、それでも鬼気迫るものを感じた。
そこに裏なんてなくて、思惑なんてなくて、見返りなんて求めてないかのような、ただストレアを救う為だけの行為。そんな、物語にしかいない、空想上の存在だと思っていたヒーローのような姿を目の当たりにして。
それまでアキトに感じた恐怖が僅かに薄れ、
(────あたし、は)
────シリカは、再びその場でへたり込んだ。今度は恐怖からではなく、失意や絶望、後悔に近い負の感情からだっただろう。一言で言い表せない程の自己嫌悪と後悔に苛まれ、気が付けば視界は歪んでいた。
彼が真横から飛び出した直前に、自分は何を考えただろうか──?脳がその答えを明確に形を成して突き付けてくる。蘇るは鮮明に、モンスターに襲われHPを減少させるストレアの姿。頭痛に苦しみ、攻撃に表情を曇らせ、そんな光景をただ眺めている自分の視界だ。アキトが来てくれる少し前の、愚かな自分が────助けに動こうともせずに見ていた光景だった。
「そんな……っ、そんな、つもりじゃ……」
誰も聞いてない場所で、言い訳のように繰り出す言葉。だがそれを、膝元にいたピナだけはしっかりと耳にして、不安気に此方を見上げている。本当にそれで良いのかと訴えている気がして、罪悪感が胸を貫いた。
今の逡巡の中で、人を一人死なせていたかもしれない。それも、かつては笑い合った仲間をだ。意思一つで、躊躇を見せるだけで、こんなにも呆気なく誰かを死の間際まで追い詰める事ができるのだ。
何より恐ろしかったのは、身体が動かなかった理由が単純な恐怖や勇気の不足なんかではない事だ。確かにそれも含まれてはいるが、あくまで自身を正当化する為の言い訳だった。
あの瞬間、シリカは明確に、ストレアを助けるべきかを己の中で問い掛けた。そして、それに裏打ちされた結果が全てを物語っている。人として在るべきものを、人間性のようなものを捨てた瞬間を、他でもない自分が実感し、目の当たりにしていた。
────自分は、ストレアを見殺しにしようとしていたのだ。
その事実が、脳内で徐々に形となっていく。自身が犯した過ちの大きさが自覚できるものになっていく。身体が今まで以上に震え上がり、瞳孔は開き切って、目の前で此方を見るピナですら朧気に見える程に、焦点が合わなくなっていく。呼吸が苦しく、額には汗が滲み出て、罪の重圧を生々しいその背に感じた。
自分は、助けに行くのが怖かったんじゃない。ストレアに近付くのが怖かっただけだったんだ。モンスターよりも、アキトや彼女の近くにいる方が死と隣接した恐怖を感じてしまうから。取って付けたような理由で誤魔化して、果ては襲われていたストレアを見殺しにしようとした。アキトが来てくれなければ、もう少しで取り返しのつかない結果へと続いていたかもしれない。
なんてことはなかったのだ。ただ自分が、人より弱かっただけ。それはアスナやリズ達と違って、命の恩人に対しての仕打ちが全てを語っている。
彼らよりも自分の方が弱くて、我が身可愛さに他者を傷付けようとした。それだけだ。周りよりも、自分がただ薄情だっただけ。
それをアキトやストレアのせいにして。普通じゃないと恐怖して、差し伸べてくれた手を払って。何を勘違いしていたのだろう。
自分だけが子どもの癇癪のように喚いて、独り善がりに叫んで、そうまでしてアキトとストレアを傷付けた理由なんて、たったそれだけだったんだ────
「ぐぁ……!」
「……っ、アキ……」
苦鳴滲ませる彼の声に、シリカは思わず覗き見る。幾らアキトに実力があっても、ストレアを庇うように立ち回っている分不利な事に変わりはない。多勢に無勢、アキトは次第に数による敵の翻弄に傷を負っていく。今が好機だと、進化するモンスターのアルゴリズムに刻まれているのだろうか。
自分の恐怖の対象である二人が、ジワジワと死に近付いている。それは恐くて怖くて堪らなかった彼らから、解放されるという意味でもあった。
ずっと、この恐怖から逃れたかった。消えて無くなれば良いと何度も思い、願っていた。
────けれど。
────だけど。
「……なんで」
今もなお震え続け、立ち上がる事すらさせてくれないその膝に苛つくのは何故だろう。今になって、自分の行いが間違っていると気付き、行動を起こそうとしているのは何故だろう。
愚かにも、今ならまだやり直せるだなんて思い上がっているのだろうか。この期に及んで、アキトに許しを乞おうとしているつもりなのか。
そうでなくとも、此処で動かなければ何も変わりはしない。この光景を目の当たりにすれば嫌でも思い出す。《迷いの森》で自分の命を救ってくれたキリトの表情を。
そして、どんなにやめてくれと振り払っても、ピンチになった時に必ず助けてくれるアキトの背を思い出す。ああそうだ、こんな時、彼らは絶対に救いの手を差し伸べてくれる。
「っ……!」
両腿を、思い切り叩く。深く呼吸を繰り返し、壁に両手を着いてふるふると震えながらも膝を立てる。膝元で心配そうに鳴くピナに大丈夫だよと優しく笑い、その口元を引き絞って立ち上がる。そうして、睨み付けるように標的を見据えた。
また、光景が重なる。キリトと────そしてアキトの、眩しいくらいに憧れるその在り方を思い出す。
「……アキト、さん」
────そんな資格が無いと知っていても、彼の名を呼ばずにはいられない。
右へ、左へ、統率が取れたように見えて不規則な敵の動きに、頬や肩、脇腹や足と次々に傷を刻まれていく痛ましい彼の姿を見て、問わずにはいられなかった。
「どうして、なんですか……」
拒絶しても、変わらない態度でいようとしてくれる彼。
裏切られて、傷付けられて。誰よりも痛みを知っているからこそ、ストレアに真に憎むべきはアキトではないのか。自分を棚に上げてそう問い質したくもなる。
なのに彼は、仲違いしてた頃のアスナにも、PoHに操られていたとはいえ自身を罠に嵌めたフィリアにも、自分や仲間を殺しかけたストレアに対しても、同じように手を差し伸べるというのか。そして、
「く、うっ……!」
彼を見る度、思い出す度、恐怖する度、憧れを抱く度、本当に自分が嫌になる。だけど、どれだけ恥を上塗りしたとしても、貴方がそんな在り方だから。
今からでも、自分もそうしなければって────
「っ……う、ああああああああぁぁぁ!!!」
そう思わずにはいられないじゃないか。
「っ、シリカ……!?」
角から飛び出したシリカに、アキトはすぐさま反応する。此方に視線を向ける余裕すら無いほど切迫した状況だというのに、此方に思考を傾けてくれるその優しさに、胸が締め付けられる程に痛かった。
こんな人の手を、自分は叩いたのだと、振り払ったのだと、その光景を思い出し、吐き気が止まらない。
「はああああっ────!」
腰を屈め、低く姿勢を保ちながら二人の元へひた走る。その小さな身体と、軽い体重と、割り振られたステータスが、一瞬だけモンスター達の視界から自分を消してくれる。
アキト達を囲う悪魔型の敵の一体が上体ごと振り返り、その爪を立てた瞬間、地を蹴って勢い良く真横に飛んだ。そうして近付いた壁を再び蹴飛ばし、アキトの死角で飛ぶモンスターの喉元にその短剣を突き立てた。
「Gu──Gyaaaaa!!」
悲鳴に近い咆哮を他所に、シリカはその首を吹き飛ばした。見事に分断された頭と身体を流し見、次の標的へと視線を向ける。一連の動きに目を丸くするアキトの表情が、ほんの少しだけ嬉しかった。
あれ程恐怖していた筈なのに、助ける為にと行動した途端に、そんな感情は戦闘による焦燥や闘争心で押し潰されて無くなってしまった。そんな事よりも、この場の全ての敵を屠り、アキトを生かす事だけに集中する。次の行動を考え、予測し、余韻に浸ることなく即座に切り替える戦い方──それを、シリカはアキトを見て学んだのだから。
「っぶねっ……!」
今度はシリカの死角から滑るように近付く悪魔。逸早く気付いたアキトがそれを袈裟斬りにする瞬間を、横目で見たシリカは苦しげに眉を顰めた。守ってくれたのだと、そう理解した途端、胸が高鳴った。そのまま、ズキズキと断続的に痛む。
(……やめて)
彼を見上げたその視線を、堪らず逸らす。目じりから涙が溢れそうになるのを感じて、慌てて顔を伏せた。僅かに聞こえる吐息の音や、視界端に捉えた彼の影や、背中に感じる熱がその存在を主張してくる。
アキトが傍にいるだけで、残りの敵を一掃できる気がして、そして誰一人欠ける事無くこの場を切り抜けられる確信めいたものが、安心感すら与えてくれる。
(……あたしを、助けようとしないで)
だからこそ、それが堪らなく辛かった。
何故、どうして。こんな人を自分は────
(……そんな優しい目で見ないで)
そんな瞳を向けられる資格なんて、自分には無くて。それが心地好いのだと、感じてはいけなくて。まだ謝罪も出来てない愚かな自分を、守ってなんて欲しくなくて。優しくして欲しくなくて。
もう、一人でいい。独りでいいから。
(だから────)
────それを脳内で呟く前に、アキトとシリカのソードスキルが交差し、全てが終わった。それぞれが残り二体の体力を刈り取り、それが光の破片となって飛び散る時には、その闇色の空間には二人の荒れた呼吸音だけが聞こえていた。
(終わった、の……?)
そう理解するのに数秒かかったけれど、堪らず息を吐き出すと、途端に張り詰めた緊張感が一気に解け、糸の切れた人形のように再びへなへなとその場に座り込んでしまった。
「あ、あれ……」
不思議そうに声を漏らすシリカ。思わず視線を落とすと、ダガーを持つ右手だけでなく、左手も、そして両足も小刻みに震えていた。今頃になって、と僅かに苦笑する。そうして、視線の先にあった影へ自然と瞳が移ろい、そうしてその先に立つ主へと上がっていく。
息を切らしながらも、肩を少し上下させるだけで、アキトは此方を見下ろしていた。驚きや困惑、その表情からは色々なものが読み取れた。けれどシリカにしてみれば、そこに含まれたどの感情も、今はただ都合の悪いものだった。
「……」
「……」
アキトの瞳に耐えかねて、顔を伏せる。けれど、そんなのは問答の引き伸ばしに過ぎない。こんな時間が長く続く訳じゃない。いずれ話し合わなければならない時は絶対に来る。その時、自分は彼に何を言われるだろうか。
罵倒か、失望か、何にせよ良い感情は抱かれていないだろう。そう思うと、途端に彼の声を聞くのが怖くなった。再び恐怖が身体を支配する。だがそれは、アキトに対する恐怖というよりも、彼に拒絶されるかもしれないという恐怖だった。
「……どうして、助けたの?」
「え……」
突如、アキトの後ろから声がした。思わずアキトは振り返り、シリカも視線を傾ける。そこには、表情を曇らせてアキトを見上げるストレアの姿があった。未だ立つことも出来ずに両手両膝を冷たい床につき、頬に伝う汗で不快に顔を歪めながら、困惑が混じる声を響かせた。
シリカは、ただアキトとストレアを交互に見やった。
アキトを見つめるだけで苦痛が伝わる彼女の表情は変わる事無く、床に着く両腕はまだ震えていた。そんな状態にも関わらずストレアはアキトを見上げて、乱れた呼吸のままで聞き続ける。アキトは此方に背を向けた状態なので表情は伺えないが、ただ黙ってストレアを見ているようだった。
「自分の命が危ないかもしれないのに、どうしてそんな事ができるの……?」
「……当たり前の事をした。それだけだよ」
再び繰り返された問いに、当然のようにそう答えた。きっとアキトにとって、答えなんて一つしかない。人として当然の事をしてるだけだと、その背が語っているように、シリカには見えた。
ああ、そうか。そんなに簡単な事だったんだと、シリカはただ純粋にそう思った。
「理由なんて……目の前で誰かが襲われてたら、無視なんてできないだろ」
「それがアタシでも……?」
「誰でも一緒だよ」
「……はは」
その答えに対し返って来たのは、掠れた声で絞り出される乾いた笑み。ストレアは戦慄く口元で無理矢理弧を描きながら、アキトを羨望するような瞳で見上げていた。
「凄いね、アキトは……本当に、ヒーローみたいで……」
「ストレア……」
「アタシには、分からない……分からないよ……!う、ぐうぅ……」
「っ、ストレアさ────」
シリカがそう呼び掛けるより先に────再び頭を抑えるストレアへ、アキトは思わずといった様子で駆け寄っていった。96層で起こったいざこざなど考えてもいない様だった。彼女を休憩させる事を第一に考えたのか、彼女の身体を横抱きに持ち上げると、部屋の中心から離れて壁へと運んでいく。そうして壁の近くで彼女を下ろし、そこへ寄り掛からせた。
思わず、言葉に詰まった。理屈なんてまるでなくて、自然と身体が動いているみたいで。何も、言えなくなってしまった。
「シリカ!」
「シリカちゃんっ!」
すると、角の向こうから聞き慣れた女性の声がした。半ば慌てて振り返れば、此方を見て血相を変えたリズとアスナが全力で駆け寄って来ていたのだ。その間、二人はアキトと───さらにはストレアにも気付き、一瞬だけ目を見開くが、すぐさま此方へと歩み寄ると、二人して強く抱き締めて来る。
「こんのバカ!心配したでしょーが……!」
「……すみま、せんでした」
「本当に良かった……シリカちゃんが無事で……」
このまま泣いてしまうんじゃないか。そう思ってしまうほどにか細い二人の声を聞いて、漸く安心したのか、気が付けば溜まっていた涙が溢れてしまっていた。こんなにも心配させてしまったのだと、ただただ申し訳なくて。言葉にならない謝罪を、何度も心の中で繰り返していた。
「アスナ、リズ。シリカをお願い」
「……アキト君は?」
アスナのその問いに、アキトが答える事は無かったけれど、その真意はシリカにも伝わった。アスナを見上げれば、彼女の視線はアキトからストレアに向いていた。未だ苦しげに眉を寄せ、目を瞑る彼女を揺れる瞳で見つめながら、やがて小さく息を吐くとただ一言、「分かったわ」と呟いた。
未だに足が震えて思うように立ち上がれないシリカを、リズが仕方なさそうに笑って背負ってくれる。
そんな最中にも、シリカの瞳はアキトを映していた。ストレアへと向けられたその優しげに表情が、此方に向く気配は無い。とてもじゃないが、今は謝罪なんてするタイミングではなかった。
話したい事が今になって沢山あるけれど、私情は捨てなければと、リズの肩に顔を埋めた時だった。
「────シリカ」
優しげな声が、もう向けられる事は無いと覚悟していたその心に浸透する。帰路に立とうとしたリズの足が止まり、シリカも思わず頭を上げた。見開いた目と口を彼に向ければ、アキトは変わらず此方に背を向けていた。
けれど、何処か気不味そうに頬を掻いた後、
「……無事で、良かった。助けてくれて、ありがとう」
「────ぁ」
その一言を聞いて、シリカは。
何も口にすることは無く、噤んだまま再びリズの肩に顔を埋めた。リズもまた、仕方なさげに息を漏らすと、「じゃあ後でね」とアキトに告げて進み始めた。
アスナもリズも、きっとストレアに言いたい事が沢山あっただろう。それでも、この場はアキトに任せると決めたのかその足取りはスムーズで。けれど、ストレアに対してではないけれど、自分もアキトに言いたい事が沢山あったのだ。
なのに、アキトのあの言葉を聞いた途端に、何も言葉に出来なくなってしまった。何も言えずに、ただ見つめるだけで、アキトとストレアが視界から外れていく。やがて角を曲がり、二人が完全に見えなくなった瞬間に、わなわなと肩が震え出した。
アキトの言葉が何度も脳内で繰り返されて、堪らなくなってしまって。
「……がうんです」
「……シリカちゃん?」
────思わず口から零れ落ちた音は、否定の言葉一辺倒だった。
「違うんです……違う……違うの……っ」
けれど言葉にはならなくて。ただ、何度も頭の中で否定と拒絶を繰り返していた。身体が動いたのは貴方に突き動かされたからであって、自分の意思なんかじゃ決してない。そんな、優しい理由があったからじゃないんだと。
けれど、言葉になんてなりようがなくて。
───ただ、子どものように泣きじゃくることしか出来なかった。
Episode.122 『
アキト 「そういえば黒猫団のみんなに拾われる前は、このまま第一層のボス戦に参加してダイナミック自殺してやろうとか思ってたなぁ……はは」
ケイタ 「救えて良かった……」(震え声)
END√(辿る道にさほど変化はないが、導く結果は変化する)
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√HERO(キリトが主人公ルート)
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√BRAVE(アキトが主人公ルート)
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√???(次回作へと繋げるルート)
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全部書く(作者が瀕死ルート)