ソードアート・オンライン ──月夜の黒猫──   作:夕凪楓

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こんな風に、伝えたかった訳じゃない。





Ep.111 望まぬ告白

 

 

 

 

 

 

 今も時折夢を見る。とある背中に憧れて、理想を追い求めようとしたあの日の記憶、その夢を。守る為、縋る為に戦って。そうして積み上げていくしかなくて。心細さや臆病さをひた隠して、必死に強がって立っている。求めたのは何の面白みもない、他人からすればなんて事の無いものだったかもしれないけれど、喉から手が出る程に欲していた。そういう風に生まれてきた。

 

 目を背けてはいられない。ふと見渡せば、そこには助けられなかった命が屍という形となって夢の中で現界する。血みどろで生々しくも温かい、なのに身体は冷たくて。中途半端に開いた口と、何も移さぬ虚ろな瞳。歩んだ道を振り返れば、救えなかったものの方が多かった。

 後ろの方から陽炎のようにゆらりと現れる人の影。やや細身な身体、揺れる薄紫色の髪。何処か人を惹き付ける笑顔が美しかった。そんな彼女の声が、頭の中で囁くように。

 

 

 ────君の願いを、叶えるよ?

 

 

 失ってしまった命達の真ん中で手を差し伸べていた彼女は。

 ただ、笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 ────紅い剣が軌跡を描く。

 

 風を撫でるように流麗に、すれ違いざまに斬撃を浴びせる。浮遊する悪魔の翼を容赦無く斬り捨て、僅か数秒の内に四体を四散させた。群れを成して囲うように飛び交うデーモン種は迷宮区の暗闇に溶け込み、まるで吸血鬼の下僕。威嚇し眼光を浴びせる敵の内の一体に、躊躇いも隙も見せずに一閃。会心が入れば、一撃で沈む。返す形で向かってきた標的を葬る。もう何度目か知れない硝子片が飛び散る音。如何に高レベルのダンジョンとて、必要なのは情報。ソードスキルを放つタイミングさえ間違えなければ最早単純な作業でしかない。

 

 以前にもこうして黙々とレベリングをしていた時期があった。それは一年前のクリスマスイベントの報酬と噂された、蘇生アイテムを手にする為だった。その時はほぼ毎日十八時間戦闘なんて死に急いでいるとしか思えないレベリングをしていた。あの時もひたすらに無心で取り組んでいて、結果掴んだものは仮初だった。あの時間の中で手に入れたものがあるとすれば、ただ純粋な戦闘経験のみだった。

 

 「はっ───!」

 

 放つのは《ヴォーパルストライク》、瞬時に懐に侵入し心臓部分を穿つ。寸分の狂いも無い。だが敵はまだ五、六体ほど健在であり、故にまだ止まらない。刺した敵をそのまま盾にしてスキルの突進力で冷たい床を駆け抜け、続け様に数体を刺し貫く。HPがゼロになり、串刺しとなった敵共の身体から光が放ち始めるのを合図に斬り捨て、四散した硝子片を背に再び走り出す。

 

 残りの敵の位置とHPを横目で確認し、近付く敵はたった一歩で間合いを詰める。舞踏のように華麗に流した刃は二体のデーモンの腕と胴体を切り離した。背後から迫る不届き者には容赦無く蹴りを入れる。反動で飛び上がり、上空に逃げていた敵の視界いっぱいに接近、驚愕に彩られた敵を範囲技で屠るのは容易だった。無駄な動きなどしない。長年の戦闘経験から導かれた最適解を身体に刻み込み、脳が下す命令のままに身体を動かす。段々と機械染みた動作をするようになった自分に驚きながらも、敵を逃すようなミスはしなかった。

 落ちる先で待ち構えていた奴らを上段からのスキルで捩じ伏せ、足りない部分は《剣技連携(スキルコネクト)》で補って倒す。そうして急所を運良く抉り取った敵が、どうやら最後の一体だったようだ。

 

 「……」

 

 辺りに他の敵の気配は無い。一旦仕切り直しだ。リポップするのを待つか別のエリアへ行くか、どっちにしても時間は掛かる。

 アキトは剣を鞘に収めると、ふと両の手を見下ろした。目を閉じて精神を研ぎ澄ませても、湧き上がるような何かを感じる事は無い。開いては閉じてを繰り返しても、思い起こされたのは呪うようなあの日の声。

 だが今は。

 

 

 「……何とも無い、か」

 

 

 頭痛も記憶の混濁も、湧き上がるような憎悪や高揚感も何も感じない。だが逆にそれが不気味で、不安が胸に張り付いて。思わず胸の辺りをぐっと握る。心臓の鼓動を感じて、その一定のリズムが何処か気持ちを落ち着かせてくれるような、そんな気がした。

 

 ───95層フロアボス討伐作戦。

 

 クリア目前の上層でありながらも犠牲者を出さずにボスを打ち破ったとして大々的に報じられた。ほぼ完封に近い形での勝利であった事実は勿論、中盤までボスとほぼ一対一での白兵戦をやってのけたアキトは《黒の剣士》として英雄視され、ヒースクリフが消えた穴を埋める新しい希望なのだと祭り上げられた。

 

 しかし、彼らには知らない事もある。あの場で起こった具体的な出来事など攻略組にしか分からない。そこで起こった問題、その本質も見えてない者達が大半だ。あの戦闘は、確かに今まで苦戦を強いていたボス戦とは違って効率良く戦えていたかもしれない。だがそれはあくまでも表向きの話であり、その詳細にこそ問題があるとするのは極一部の──アキト達だけだ。

 あの場にて起こった問題は二つ。

 その一つが────

 

 

(戦ってれば……また、“暴走”するのかと思ってたけど……)

 

 

 二日前のボスとの戦闘時に感じた、あの高揚感。時間が経つ程に研ぎ澄まされていく感覚の中に紛れ込んだ破壊衝動にも似た“何か”の胎動。剣を振る度に、傷付ける程に爽快感が駆け抜け、口元が歪む。ずっと戦っていられるような気分になった。培ってきた全てが報われるような全能感に浸り、立ち塞がる理不尽を跳ね除けたいと強く願う程の欲が剥き出しになった。

 

 顕著に現れたのはこれで二回目だ。一回目はアスナとフィリアと三人で訪れた《ホロウ・エリア》最深部でのホロウキリトとの戦いの時。あの時の事を、アキトは微かにだが覚えている。目の前の敵を殺す事だけが頭の中を支配し、破壊衝動に身を委ねていた。顕著に起こったのは二回だが、発生条件が絞れておらず未知の域を出ない。

 アスナ達からそれとなく様子を聞いてみて、前回のも今回のも客観的に見れば凄まじい戦闘能力だったろう事は理解する。だがあれは、アキトが感じたものじゃなかった。まるで恰も自分の感情であったかのように刷り込まれ、気が付けば身体を乗っ取られていたような、そんな感覚を覚えている。戦っている内に、それはどんどん深化していく。敵を倒すのに効率が良いのなら、案外悪い話じゃ無いようにも聞こえるが、少なくともアキトはそう思わない。

 何より、人を守る為に使うと決めたこの力を、破壊衝動に委ねて使用するなど、アキトが許せなかったのだ。

 

 

 「なあ、キリト…………ダメだ、返事が無い……」

 

 

 ────そして、懸念すべきはそれだけじゃない。

 ここ最近、ずっと聞こえていたはずのキリトの声が聞こえないのだ。《二刀流》を手にして暫く、やがて急に聞こえるようになった彼の声。初めこそ驚いたものの、温かさを感じる優しい声が、アキトにはとても頼もしく思えた。事ある毎に頭を駆け巡る。時には危険を知らせ、時には励ましてくれた親友の声が、もう一週間以上聞こえなくなっていた。

 

 それに代わるように聞こえ出したのは、自分の声。誘うように囁かれたその言葉には、何処か甘い匂いが漂っていて。気が付けばそれが自分の意思だったかのように、身体を操られている。

 この声の主は、まるでキリトの存在を押し潰して、脳内に割って入って来たように思えた。だからこれはきっと、誰かを傷付ける力だ。

 以前、《ホロウ・エリア》の最深部でデータであるキリトと対峙し、アスナが刺された際に起きた一回目の変貌。意識の中で出会ったサチは、この破壊衝動が『SAO内のプレイヤーの負の感情』が集合体によるものなのだと教えてくれた。彼女に手を引かれ、収まったと思ったのだが。

 

 

(これじゃあ、サチが何の為に……)

 

 

 ───ただ、片鱗は、もっとずっと前からあった。

 目を逸らしていたのか、はたまた自覚が無かっただけか。ただ眼前に佇む敵に際し、気が付けば『死ね』と、そう呟いて剣を振っていた事は事実だ。頭の中がクリアになって、もっとずっと戦っていられるような……殺戮を楽しむ獣のような姿に変貌を遂げたのは、何もいきなりの事じゃ無かったのだ。頭の中で声がするよりも以前から、きっと侵食はあった。歪んだ感情がまだ脳にこびり付いている気がする。剣で抉った手応えが、まだこの手に。

 

 気の所為なのだと思いたかったから、そんな思いを振り払うべく、検証を兼ねて赴いた攻略だったのだが、ここまで変化を感じないのも何かの前兆のような気がしてならない。不安を払拭しようとして不安が重なるなら、これ以上は逆効果でしかない。

 

 「……帰ろ」

 

 湧いていたMobは全滅した為、リポップには何時間かかかるだろう。別エリアに行けばその限りではないが、既に迷宮区に篭ってから三、四時間近く経っている。最前線というのもあり、精神的な疲労は否めない。

 それに────少しばかり眠い。視界の端の時計を見据え、目を細めて欠伸する。

 

 

 「……五時、か」

 

 

 それは、午後ではなく午前の五時だった。

 

 

 

 ●○●○

 

 

 

 発光に目が眩み、思わず目を細める。光が消え目が慣れ始めた頃に視界いっぱいに広がるのは、これまた見慣れた景色だ。76層の街《アークソフィア》は、時間が時間なだけにいつもの賑やかさはなりを潜めていて、プレイヤーは一人として認識出来ない。

 

 十二時半という妙なタイミングで目を覚ましたアキトは、それですっかり目が冴えてしまった。日を跨ぎ午前一時頃に店を出ると、迷宮区へと赴いた。そこから三、四時間───つまり五時。この時間帯にアキトのような行動を起こす輩は殆どいない。故にこの静けさは当たり前なのだが。

 早朝という事もあり、朝日すらまだ登ってはいない。冬が過ぎ行く季節の境目でも肌寒さは健在で、足元に棚引く霧は一寸先を闇にしていた。まるで知らない街のようで、ほのかに不気味さが漂っていた。転移門を出てすぐの階段付近で足を止め、夜に近い空を見上げると、もうすぐ朝日が昇る時間帯だと思えない程の星達が、自分の居場所を主張していた。

 予想以上に気温が低いせいか思わず身震いし、腕を擦る。

 

 

 「……珈琲飲みたい。エギル起きてるかな……ん?」

 

 

 ピタリと、その動きを止めた。

 不意に、前方から何かの気配を感じたのだ。

 顔を上げるも、霧のせいで何かが見える訳も無い。しかし、段々と近付いて来ているそれは、どうやらこちらに向かっているようだ。

 

 

(こっちに来てる……って事は、転移門に向かってる……?こんな時間に攻略……?)

 

 

 人の事を言えた義理じゃないはずのアキトが思考を巡らせている間にも、気配は強まっていた。

 ブーツの音が静寂な空間で響く。目を凝らせば、広がっていた霧の奥から人らしき影が近付いて来ているのが見て取れた。一定のリズムを刻みながら谺響する、石畳を蹴る音と呼吸音。どうやらこちらに向かって走って来ているようだ。

 この時間帯で走って転移門まで来るとは、急ぐような用事があるのだろうか。それもこんな時間に。

 

 

 「……え、あれ……!?」

 

 

 しかし、霧から出てその人影が顕になった時、アキトは目を見開いた。そこにいたのは、アキトがよく知る人物だったから。

 肩に掛からない程の黒い髪、細身の身体に翠を基調にした装備。何より、腰の短剣と背中の大きな弓。本当は、霧から見えたシルエットでなんとなく分かっていたのかもしれない。だがこんな時間に外に出る筈ないと、勝手にそう思ってしまっていた。

 

 

 「し、シノン……!?」

 

 「あ、アキト……」

 

 

 ────現れたのは、シノンだった。

 何故かほぼ全力で転移門(こちら)まで走って来ていた彼女は、階段の上に立つアキトを視界に収め、漸くその足を止めた。アキトを見て目を丸くしていた彼女は肩を上下に揺らし、その呼吸は荒かった。

 しかし、とても慌てていたように見えた彼女の表情は、アキトを捉えた瞬間に霧散していた。緊張が解れたような、安堵したような、そんな表情だった。

 

 

 「ど、どうしたの、こんな時間に……」

 

 「ソレ……こっちのセリフだから……アンタ、こんな時間に何、して……」

 

 「だ、大丈夫……?」

 

 

 力が抜けたのか、シノンは両手を膝に着いて息を吐き、呼吸を整えようと必死だった。アキトは思わず階段を駆け下りて、彼女の元まで向かう。ここまで全力疾走だったのだ、スタミナの概念が無いこの世界でも精神的にも疲れただろう。それに、どうやら焦っていたようにも見えた。

 けれど、アキトを見た瞬間────

 

 

 「……もしかして、俺を追って……?」

 

 「っ……そ、そんなんじゃないから。偶々目が覚めたらアンタが攻略に出てたから、丁度良いと思って……」

 

 

 走ってきたせいか、それとも図星だったからか。彼女の顔は少し赤かった。彼女は誤魔化すようにして目を逸らしたが、アキトは悟っていた。こんな日も出ぬ暗闇の中、彼女が装備一式揃えて転移門まで駆けて来た理由を。

 彼女は、アキトが宿にいないと知るや否や飛び起きて、こうして転移門まで走って来てくれたのだ。前回のボス戦だけじゃない、彼女はアキトの異変をもっとずっと前から知っている。

 だからきっと、心配してくれたのだ。

 

 「……ありがと、シノン」

 

 嘘を吐き続けているこの口から紡がれる感謝に、意味なんて無いのかもしれない。けれどそれでシノンに伝わるならと、そう誤魔化して。

 シノンは何も言わなかったが、それでも少しだけ頬を赤らめて答えた。

 

 

 「……別に。結局、間に合ってなかったみたいだし」

 

 「あー……シノンさえ良ければ、攻略に行く?」

 

 「何言ってるのよ。アキト今帰って来たんでしょ?何時からやってたのよ」

 

 「……1時くらいから」

 

 「いちっ……なんでそんな時間から……」

 

 「何かその、眠れなくて」

 

 「……ったく。なら、帰るわよ。これ以上アンタに無茶させたくないし」

 

 

 溜め息を吐くシノン。夜中に攻略なんてするアキトに少なからずの怒り、けどそれ以上に、仕方無いと呆れ苦笑を浮かべている。心配が重なって、彼女に早起きまでさせてるとなると愈々頭が上がらない。

 

 ────本当に、甘え過ぎている。

 

 くるりと背を向けて先行する彼女。その華奢な後ろ姿が頼もしく見えるのは、彼女が強くなったからだろうか。《射撃》スキルなど関係無い。シノンは、本当に強くなった。

 故に、いつもクールですまし顔な彼女に心配を掛けてしまうのは本当に申し訳無い。心配いらないと、大丈夫だからと言っても、彼女は納得しない。そうさせたのは、他でもないアキトだ。

 何かお詫びが出来ないだろうか。

 

 

 「……ねえ、このまま帰る?」

 

 「え?」

 

 「シノンも二度寝って感じじゃないでしょ?」

 

 「……まあ、眠気は覚めちゃってるしね。でも、エギルは今日珍しく寝てたから、帰っても珈琲は無いわよ」

 

 「っ……察しがよろしくて……」

 

 

 アキトは、驚きで言葉に詰まった。店に戻った後の予定を彼女に完璧に悟られてしまっている事に苦笑いしか起きない。しかし、確かにエギルがこの時間に起きてないのは珍しい。折角の予定が潰れてしまった。

 何か食べるにしても早過ぎるし、このまま帰るしかないのではないか。そう思った時、ふととある場所の事を思い出した。

 

 

 「……あ、じゃあ少し歩くけど、良い場所があるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 「76層にこんなところがあったのね……」

 

 

 そんなシノンの感動混じりの声を聞いて、アキトは満足気に笑った。76層を拠点とするプレイヤーでも知ってる人がいないであろうアキトのお気に入りの場所。

 路地裏を抜けた先にある小さな畔。《アークソフィア》の一番端に位置しているであろうその場所は、見渡す限りの水面が広がっている。歩いている内に段々と霧が晴れ、到着した頃には綺麗に霧散していた。そのおかげで、どこまでも続いている湖は天井の景色を映し取り、水平線と空の境界線はいずれ昇るだろう太陽の光でオレンジ色に変わっていた。

 軽く頬を撫でるような風と共に共鳴する草原の音。耳に残る心地好い感触に、シノンは目を細めた。

 

 

 「ここ、昇る朝日と沈む夕日が見える時間帯に来ると絶景なんだ。俺の秘密の場所」

 

 「秘密の場所……そんな場所、私に教えちゃって良かったの?」

 

 「当たり前じゃん。だから連れて来たんだし」

 

 「そ、そう……ま、光栄って言っとくわ。黒の剣士様?」

 

 「はは……」

 

 

 冗談めかして、澄ました顔をしているシノンだが、何処か嬉しそうに見えたのは、気の所為だと思いたくない。

 湖に続く小さな斜面を下り、アキトは息を吐く。肌寒さは未だ健在で、アキトは腕を擦った。

 

 

 「他に、誰が知ってるの?」

 

 「ユイちゃんとストレアと……あとアスナかな」

 

 「……アンタ、女の子をここに連れ込んでるの?」

 

 「酷い言われよう……い、言っとくけど、ちゃんと紹介したのはユイちゃんだけだから。ストレアは知ってたみたいだし、アスナは勝手に付いて来ただけだし……」

 

 「……ふぅん」

 

 

 急に声のトーンが低くなったシノンの声に、身体を震わせる。どこからそんな声出してるんだと言いたくなったが、酷い誤解を取り敢えず撤回した。

 じっと目を細めてアキトを見下ろすシノンだったが、やがて小さく息を吐くと、景色を見渡しながら告げた。

 

 

 「でも、本当に良いところね、ここ。薄暗がりの空の下でも、綺麗だって本気で思える。もっと早く知りたかったな」

 

 「……そう、だね。独り占めするくらいなら、みんなに教えようかな」

 

 「ここには、良く来るの?」

 

 「最近はそんなにかな。ちょっと落ち込んだ時とか、スキル上げしたい時とか、気分転換したい時とかに来るんだ。あと昼寝」

 

 

 後付けしたように呟いたが、ここに来る時の大半は昼寝が目的だったりする。最後の一言にピクリと反応を示したシノンは、そよぐ風を感じながら納得したように頷いた。

 

 

 「昼寝……へえ、私もしてみようかな」

 

 「ここで寝ると凄く気持ち良いよ。その日の予定全部すっ飛ばして寝ていたくなる」

 

 「ふふ」

 

 

 何気無い会話。特に面白い事を言った訳ではないのに、何処か楽しくて、笑えてくる。顔を見合わせて笑うのだが、アキトは不安が胸を貫いた。

 自分は今まで、ちゃんと笑えていただろうか。気付かれたりしてないだろうか。記憶が曖昧で、はっきりしない。けれど明確に思い出してしまえば最後、きっと受け入れられない何かが待ち受けているような気がした。

 

 ───シノンは、何も聞いてこない。

 

 これまでも、そうだった。アキトが頑なに話そうとしないから、仕方無く黙っているのかもしれないが。

 この世界で恐らくたった一人だけ、アキトの状況を曖昧ながらにも掴んでいる少女。アキトの身に何が起こっているのかは、ある程度の予備知識から断片的な事しか分からないだろうが、秘密を知られている点でいえば一番近い存在だった。

 そんな彼女が、前回のボス戦のアキトの様子を見て何も感じないはずが無い。今までもこの時間帯に攻略する事はあったが、今日の様にシノンが飛び出してくる事は無かった。故に彼女のこの行動は、95層での出来事に起因していると考えるのが筋だった。

 彼女がこれまで聞かなかったのは、アキトを気遣っての事だ。アキトはそれに甘えていた。心配させるだけさせて、返せるものは何も無い。それでもシノンは何も言ってこない。

 

 ───有難い。

 素直にそう思う。こんな自分でさえ訳も分からぬ現状を他人に話すのは気が引けた。だが彼女はアキトの異変に気付いている。言ってしまえば、誤魔化す振りは無意味なのだ。

 

 

 「……ねえ」

 

 

 ────そう、思っていたのに。

 

 

 「……な、何?」

 

 

 この空気、この静寂。さながら嵐の前の静けさ。

 その声音から出る真剣さに、身体は敏感に反応を示した。ゆっくりと後ろを向くと、シノンは躊躇いがちに俯いていて、切り出そうとする度口を噤んでいた。何処か女の子らしさを感じてしまうその仕草に、アキトは唾を飲み込む。

 

 

 「この前のボス戦……アンタ、明らかに様子が変だった。動き方とか表情とか……前とは違って、キリトじゃない別の“何か”を、私は感じたの」

 

 「っ……」

 

 

 素直に驚いた。そんな、もはや核心を突いたシノンの発言。

 キリトではない、別の“何か”の侵食。それを彼女は理解している。アキトは分かりやすく目を見開いた。

 そして何を聞かれるのか、もう検討がついてしまった。いや、あれから数日経つが、誰もアキトにそれを聞こうとはしなかった事が、寧ろ不思議なのだ。

 95層での豹変。あの一瞬だけなら誰もが気の所為と切り捨てるかもしれないが、シノンは違う。もうずっと前から、アキトの身に起こる何かしらの現象を少なからず知っている。驚くべきは、その現象が以前のものと違っている事にさえ気が付いている事だ。そんな彼女に知らぬ存ぜぬを貫くのは、もう不可能だった。

 アキトは、彼女が何を言い放つのか、強張った表情で待ち受けた。

 

 

 「身体は、なんともないの?」

 

 「へ……」

 

 

 しかし彼女の口から出たのは、そんな拍子抜けな一言だった。待ち受けていた答えとまるで違っていて、理解が遅れる。固まって反応を示さないアキトを怪訝な表情で見つめたシノンは、再度口を開いた。

 

 

 「目眩がするとか、頭が痛いとか、そういうのはないのかって聞いてるのよ」

 

 「え……あ、うん。今のところは、なんともないけど……」

 

 「……何、その反応」

 

 「い、いや、もっと具体的な事を、根掘り葉掘り聞かれるのかと思ってたから……」

 

 

 あの状態は、動き方は、経験によるものなのか。スキルや技術的なものなのか。それとも何かしらの介入があるのか。エラーなのか。危険は無いのか。何故そんな目に合っているのか。少なくとも最初の質問は、そういう類のものだと思っていた。しかし、彼女の懸念はその現象によって引き起こされるであろうアキトの体調不良だった。確かにこのところ、アキトは攻略による疲れで何度か倒れる事があった為、周りからすれば心配されるのは当然で。

 しかし自覚の無いアキトの素朴な疑問は、ただただシノンに溜め息を吐かせていた。

 

 

 「それが分かってたら、アンタ苦労してないじゃない」

 

 「……はは」

 

 

 その通りだ。自分で原因が分かっているならすぐに対策出来る。けど、目を逸らしていただけで、この状態はずっと前から続いていた。今になって分かりやすく表れ始めただけだ。分からない事を楽観視しながらここまで来た事によるツケが回り始めていたのだと自覚した。それに、分かっていたとしても解決出来ない可能性だってある。引き伸ばして来た結果がこれでは、あまりにも笑えない。

 

 

 「確かに……分かってたら、こんな事にはなってないよな……」

 

 

 遠くを見据える瞳で、まるで他人事のような言葉が口をついた。

 そっか、と心中で納得した。シノンがこんな時間にアキトを追い掛けて来た理由に改めて合点がいったからだ。やはり彼女は、アキトが戦闘をする際に、再びあの状態になる可能性を危惧したのだ。だからアキトが宿にいないのを知るや否やこんな早朝から飛び出して来てくれたのだ。

 本当、至れり尽くせりで頭が上がらない。故に情けなかった。もうずっと隣り合わせに感じている、胸の中の“何か”に少なからず怯え続けているこの現状が。

 

 

 「……まだみんなには言わないの?……言っても解決しないかもしれないって思ってるんでしょうけど……」

 

 「いや……単純に心配させたくないんだ。勝手な言い分だけど、知らない方が良いのかなって思って……幸いこの前のボス戦も、みんな気にしてなかったみたいだし」

 

 

 95層でのボス討伐作戦において、アキトは今までに無い無類の強さを誇っていた。何せ、最初から最後に至るまでボスと相対し、その中でもかなりの長時間ボスとの一対一を熟してみせたのだ。それがアキトにとっては良くない事だとしても、何も知らない周りからしてみれば、ただアキトの強さに魅せられただけのボス戦だっただろう。故に誰もアキトの異変には気付かない。

 そう、高を括っていた。なのに、シノンの次の一言で、心臓が高鳴った。

 

 

 「アスナは、多分気付いてるわよ。アンタの異変」

 

 「……ぇ」

 

 

 ────アスナ。

 その少女の名前が出た瞬間、胸の鼓動が強く響いた。これまで何度も隣りで支えてくれた少女の名前。何度も助けられた。身を呈して守ってくれた事もある。夢の中でも記憶の中でも、涙する彼女の表情が頭から離れない。親友であるキリトの、忘れ形見。

 そんな彼女が自分の異変に気付いてる。それを聞いたアキトは、思わず顔を上げて聞き返した。

 

 

 「あ……アスナが?」

 

 「ええ、多分ね」

 

 

 物憂げな表情を浮かべながら、シノンはアキトの隣へと腰を下ろした。その間アキトは脳内で、彼女から告げられた事実をグルグルと巡らせる。瞬間、感じたのは僅かな焦燥。よりにもよって一番知られたくない人に感づかれてしまったとは。

 だが、それも当然だった。彼女には以前にも《ホロウ・エリア》最深部でのホロウキリトとの対戦で一度、同じ現象を見せてしまっている。寧ろそれで気付かない方がどうかしている。

 しかし、それならそれで疑問が残る。

 

 

 「……だったら……だったらなんで、何も聞いてこないんだ……?」

 

 

 あれから数日経つが、彼女がアキトに何かを聞いてくる様子は無い。ボス戦後倒れ、目が覚めた時は安堵したように笑い、攻略に行く際は付いて来てくれた。何気無い会話の中でも無理して笑っている様子は、少なくともアキトからは感じられなかった。ただ、ふと見せる横顔、その憂いた表情だけは目に焼き付いていて。

 行動派のアスナなら、真っ先に聞いてくるのではないだろうか。けれどなのに何も聞いてこない。

 けれどそれが何故なのかは、分かる気がした。

 

 

 「……多分、待ってるのよ。アキトが話してくれるのを」

 

 

 ポツリと、隣でそう告げたシノン。

 

 

 「けど、聞いたところで力になれないかもしれないとも思ってる……だから聞くだけ無駄かもしれないって、そう思って……怖くて、聞けないだけ」

 

 「……」

 

 「っ……誤魔化せるかもだなんて、絶対に思わないで」

 

 「────!」

 

 

 彼女の鋭い瞳、彼女の最後の一言が、胸を貫く。何も言わないアキトを見て、唇を噛み締めるシノンの姿に瞳が揺れた。

 これまで何度も嘘を吐いてきた。ずっと強がってきた。この世界に来る前から、そうしてきた。いつだって自分が我慢すれば、耐えていれば、何事も無く済むのだと思っていた。けれど、もう後には引けないのだと自覚する時が来てしまったのだ。アスナに正直に話しても、話さなくても、傷付けないなんて事は有り得ないのだと理解した。

 傷付けさせないと決めたはずなのに、結局こうなってしまうのか。自分はただ、アスナに笑っていて欲しいだけなのに。

 

 

(……っ、だけど……)

 

 

 言える訳が無い。キリトの声が聞こえないだなんて。心の中にキリトを感じないだなんて。希望を散々持たせた後で、そんな事を告げるだなんて無慈悲な事を、キリトを想うアスナに。

 

 これまで《二刀流》を使用する度に、キリトの記憶が上書きされていくような感覚を覚えていた。そして、それに反してアキトの記憶が朧気になっていく。恐怖はあった。けどそれでもアキトは戦う事を止めたりはしなかった。この世界から脱する為に必要な事だと思っていたから。寧ろ憧れと共に道を切り開いて行く事に、少なからず喜びさえ感じていた気がする。

 

 けれど、今は違う。キリトの心を、声を感じない。

 それにとって代わるように侵食するのは、感じるのは、“何か”の胎動。 憎悪を綯い交ぜにした暴力と、それを振るう事で得る快感から生じる薄気味悪い狂気の笑み。他でもないアキト自身が、それを感じていた。だからこそ不安になるのだ。

 まさかキリトは、その“何か”に押し潰されてしまったのではないか、なんて予感ばかりが頭を過ぎって。

 それを、キリトの仲間である彼らに伝える──?そんな選択が有り得るだろうか。

 そんなのは、無理だ。

 

 

 「……アンタは、いつもそうよね」

 

 

 ユラリと、シノンは立ち上がった。何処か震える声と身体。見上げる形になった彼女の表情は、悲しげで、それでいて苛立ちを帯びていた。その矛先は、他でもないアキト自身で。

 

 

 「いつも言葉が足らなくて、肝心な事は何も言ってくれなくて……初めて会った時のアンタだって“別に”とか“関係無い”の一点張りで……頼ってくれない側の気持ちを全然考えてない」

 

 「そ、そんな、こと……」

 

 「私、前に言ったわよね。いつまでも守られてるつもりは無いって。大切に思っているのは、アキトだけじゃないって。アンタあの時、『ありがとう』って、そう言ったじゃない。なのに、今アキトが言った事って、全部自分の都合でしかないじゃない……!」

 

 

 捲し立てる彼女の言葉の一つにさえ、反論の余地は無い。全てその通りだった。あの時確かに、考え方を改めたはずだったのに、いつの間にか元に戻っていた。また自分一人で守る気になっていた。

 シノンの言葉が伝えんとする事を、アキトは何度も聞かされてきた。何度も諭されてきた。なのに、一度としてそれが活かされた事は無い。

 “頼って”、“信じて”、“守らせて”と、そんな言葉は何度も聞いた。その度に頷いて、なのにその度に裏切って。結局、最後は一人で抱え込んできた。何一つ、自分は変わっていなかったのだ。

 

 

 「どうして色んな事が分かるのに、それが分からないの……?」

 

 

 ────そうやって、精一杯怒りを押し殺そうとしても。滲み出る悲しみと苛立ちがアキトを突いてくる。シノンの言葉の一つ一つが、ただただ心を乱していく。

 浴びた風がより一層冷たく感じる。揺れた前髪から覗くシノンの瞳は、真っ直ぐアキトに向かっていた。睨み付けるように細く、鋭く。

 アキトは、何も言えなかった。変わらず芝の上に座り込んで、動揺を隠せずシノンを見上げるだけ。そんな情けない姿に、シノンは歯軋りしていた。

 しかし、瞬間その顔から強張りが消え去り、何処か諦めたような力の無い溜め息と、薄ら笑いがシノンに張り付いた。

 

 

 「……私、最初は少しだけ嬉しかったのかもしれない。不謹慎だけど」

 

 「……え?」

 

 「アンタとの秘密を共有したみたいでさ。何処か優越感に浸っていたのかもしれない。特別な何かを感じてたのかも」

 

 「……何、言って」

 

 

 つらつらと語るシノンに戸惑いを隠せない。

 話が見えなくて、アキトは口を開ける。彼女は少しばかり坂を下ると、くるりと振り返って自嘲気味に笑った。

 

 

 「……けど、気付いた。馬鹿なのはアンタじゃなくて、私の方だったんだって……骨の髄まで理解した。私だけが特別だなんて、そんなの、目の前の現実から目を逸らす為の言い訳だった」

 

 

 何もかもを悟ったように、シノンは唱える。

 

 

 「だって本当は……分かってたから。何を言ったって、アキトは変わらないんだなって。ずっとそうだったもの」

 

 

 そして、シノンはアキトへと詰め寄った。正面に立ったシノンがアキトの視界を覆い、焦ったのはアキトの方だった。

 空と水平線の境界線から、光が少し顔を出す。眩しい光に目を細めると、眼前に立つシノンの真剣な表情がよく見えた。

 

 

 「だから、もう耐えるのはやめにする。我慢するのは性に合わないし。貴方に期待したって、多分貴方には伝わらないもの」

 

 

 一瞬だけ目を閉じる。そして、ゆっくりと開いた。そこにあったのは何かを決意した者の表情だった。その後ろから太陽が顔を出し、その光がシノンを照らす。

 呆然とするアキトを見つめたシノンは、深呼吸を一つして。

 小さく笑って、その言葉を告げた。

 

 

 

 

 「私、アキトが好き」

 

 

 

 

 突然の事で、頭が真っ白になった。

 予想だにしなかった言葉を耳にして、アキトは目を見開いたまま固まる。思考が追い付かず、何も言えず、ただシノンを見上げるだけしか出来ない。

 そんなアキトにしてやったりの表情だったシノンは、一瞬だけ顔を朱色に染めたが、やがて澄ました笑みに変わり、そのまま変わらず口を開いた。

 

 

 「無茶な私に付き合ってくれる貴方が好き。私を守ってくれる貴方が好き。誰よりも優しい貴方が好き。みんなの為に強がって見せる貴方が好き。一人で強くなる事に固執した私を追い掛けて、目を覚ましてくれた貴方が好き。全部背負って、抱えて生きていくと決めた貴方が好き。……いつだってヒーローみたいなアンタが、大好き」

 

 「シ、ノ……」

 

 

 シノンは一言一言ハッキリと、アキトに言い聞かせるように告げた。自分の気持ちを再確認するように、宝物を大事にするような優しい声で言葉を紡いだ。

 

 

 「傍にいて欲しいと思った。いなくなる事に恐怖した。……けど、何より怖かったのは、消えないで欲しいって思ったのは、きっとこの気持ちだった。それが、漸く分かったの」

 

 「なんで、俺なんか……」

 

 

 そんな、真っ直ぐな気持ちを向けられたアキトはただただ動揺していた。けれどシノンの声や表情はとても落ち着いていて。曲がりなりにも告白をしているはずなのに、女の子らしい照れる仕草なんてものは欠片も無くて。

 なのにその言葉は冗談なんかではなくて、決して嘘偽りは無いのだと、それを理解出来てしまって。

 

 

 「だから決めた。私は、いつまで経っても変わらないアンタの考えよりも、自分の気持ちに正直になろうって」

 

 「……何を」

 

 「私はアキトの望みなんて聞いてやらない。だって、アキトが仲間を大切に思うように、私も仲間が大切だもの。アンタには分からないだろうけど、それは……それだけは、誰かに頼らずに自分で守らなきゃいけないもの」

 

 

 シノンはただ、自分もアキトと同じ事をするだけだと、そう言っていた。誰にも頼らず、守らせるのではなく、守る側になるのだと。

 勝手なのはアキトの方だと、遠巻きにそう言い放ったのだ。何も言い返せる事などなくて。けれど驚きは持続したまま変わらなくて。平然と、淡々と、それでいて何処か晴れやかなシノンの表情には、もう迷いも躊躇も無かった。

 

 

 「もう傍観だってしない。アキトの身体にこれ以上異変が起こるようなら、私はみんなに相談する。これが今の私がする最大の、最後の譲歩」

 

 「なっ……!」

 

 

 それを聞いて漸く我に返ったアキトは、思わず立ち上がる。アキトを見上げる形になったシノンの表情は未だ変わらず、やがて目を伏せるとアキトの横を通り過ぎ、そのまま帰路に立った。日の出の景色を見る事も無く背を向けて、芝の丘を上り出す。

 

 

 「ま、待てよ、シノン!」

 

 

 焦ったように口から出た、咄嗟の呼び掛け。思わず荒れた口調と強気な声音。届かないと知っていながら手を伸ばし、されど足は固まって動かない。そして、その後にかけるべき言葉も思い付かない。

 この期に及んでまだ、シノンに『言わないでくれ』と頼むのは間違いのような気がした。彼女は自分の気持ちをこうして全て語ってまで決意を固めたのだから。

 何よりシノンは、こんなアキトだからこそ苛立ち、嘆き、決意したのだ。翻せるば彼女がこうなったのは、全てアキトの所為だった。だからこそ、申し訳無くて何も言葉が出て来ない。

 ────シノンが、どんな思いで告白してきたのか、それすらも聞いてしまったから。

 

 

(……どうして……)

 

 

 やがて路地へと姿を消したシノン。伸ばしたその手はダラリと下がり、項垂れるように俯いた。どうしてこうなってしまったのか、それを必死に考えて、それでもやはり答えは見つからなくて。

 シノンに、あんな事を言わせてしまった自分がとても憎かった。辛かったし、最低だとも思った。けれど何よりも辛いのはシノンだ。だからこそ、心底自分に嫌気がさした。

 何故シノンは、自分なんかを好きになったのだろう。

 分からない。そして、そんな思考の中で理解した。そんな彼女の気持ちに気付かずにいたのが、自分の都合ばかりを考えていたという証拠に他ならなかったのだと。シノンの言葉は、全て正しかった。

 

 何処で間違えたのだろうか。

 

 ただ、心配させたくなかっただけだった。

 不安にさせたくなかっただけだった。笑っていて欲しかっただけだった。何も怖がる事無く、この世界から脱出して欲しかった。

 ただ、みんなの為に。

 

 

 

 

 ────“みんなの為?自分の為だろう?”

 

 

 

 

 「っ!ぐぁっ……!」

 

 

 突如、そんな声が脳裏に響いた。同時に頭の痛みに襲われて、思わず目を瞑り、両の手で頭を押さえ付ける。あの日から全く聞こえなかったはずの声が、ねっとりと囁いてきた。

 膝を付き、蹲る。ズキズキと間断無く刺激し、脳が沸騰するかのように熱い。目まぐるしく細胞が流れ、瞳の色が血のような色へと変わる。

 嘘を吐くなと、誤魔化すなと、強がるなと。そう告げてくる。全てを見透かしたように言い放ってくる。

 

 

 ────“ホント、可哀想だよ。()()()()()()()()()ってのは”

 

 

 その一言が言えるなら、もっと違っていたのにと、そう呟く。

 黙れと、そう訴えた。必死になって握り潰すかのように強く押さえていた頭から、自然と痛みが引いていく。瞬間、溜め込んでいた息を一気に吐き出して、過呼吸気味になる。

 

 

 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……うっ、く……」

 

 

 心臓の音が五月蝿い。頭にまで響く程に。胸を掴んで、抑え込もうとして目を瞑る。目蓋の裏に映るのは、これまでの記憶だった。

 この世界に来てから今日までの日々。怯えて、戦って、笑って。そんな変わり映えのしない毎日の中で、大切な何かを求めていた。その為に立ち上がって、ここまで来た。数多の衝突があり、今の自分がいる。そして、仲間達がいる。

 キリトがいなくなってから、彼らは変わった。最初は悪い方へ。けれど、各々が立ち上がり、今はただゲームクリアを目標に過ごしているのだ。これ以上、懸念する問題を増やしたくないと願うのは、我儘なのか。

 問い掛けても、キリトは返事をしてくれない。

 

 

 

 

(……頼む……もってくれ……)

 

 

 

 

 一番変わってないのは、他ならぬ自分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ── Link 80% ──

 









想像していたような言葉も、雰囲気も出なくて。
どう伝えようかと考えていた台詞も、全て無駄になってしまった。



シノン 「……」

シノン 「……こんな形で、伝えるつもりなんて無かったのにな……」

シノン 「……っ、ホント、馬鹿……」




────シノンは、瞳から零れる涙を拭った。



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