アルティメット千早な僕が765プロのオーディションに落ちた件 作:やんや
円く太った月が中天にかかる頃、自主訓練を終えた僕は実家へと続く畦道を一人で歩いていた。
特に実家に寄るつもりはない。ただ自主訓練の後になんとなく近くを通りかかっただけである。
そりゃ実家には優が居るけどさ、この時間に会いに行って驚かれたり怖がられたりしたら心に消えない傷を負ってしまう。だからちょっと近くを通るだけに留めている。実は自主訓練を始めてから何度となくこうして近所を徘徊していたのは内緒だ。
日本の首都とは名ばかりの田舎道ではあるが、ここから少しでも横に逸れたら首都の名に相応しい近代的な空間へと戻る。明かるさも安全面もそちらの方が何倍も良い。それなのに、僕はこうして旧い道を選んだ。
歩く道先に見える光は、申し訳程度に設置された街灯のみ。時折、いつ補充しているのかも怪しい自動販売機が見えることで何とかここが現代日本なのだと認識できる。
暗い以上に寂れている。土を盛って均しただけの田んぼ道。
でも、僕はこの道を決して寂しい道だとは思わなかった。どこかノスタルジックな気分を感じるこの道は、僕と優の想い出の場所だから。
まだ僕達が幼い頃、二人で手を繋いでこの道を歩いた記憶がある。僕が自主訓練に夢中になって帰りが遅くなると、決まって優が迎えに来てくれた。両親が呼んだくらいでは僕は訓練を止めないから、もっぱら迎えに来るのは優の仕事だった。幼い優が一人で車の通りが激しい道を通るわけにもいかず、自然とこの道を通るようになったのが始まりだ。
日が暮れて、暗くなった空に見え始めた星の名前を言い合いながら、優と二人で歩いた思い出は僕の宝物だ。それを脳内で各々の場面を同時に再生させながら帰り道を歩くのが最近の僕のトレンドである。
大好きな弟と二人だけの時間。かけがえのない、大切な記憶。
でも、その時間も終わってしまったわ。
だって、その後すぐに優は……。
「っ……」
突然、言葉にできない喪失感が僕の胸に押し寄せて来た。
何だ、コレ。
知らない記憶とともに、これまで感じたことがないくらいの衝撃が僕の感情を揺れ動かす。
悲しい。苦しい。寂しい。悔しい。
覚えのない過去の感情の爆発に目の前が一瞬だけ暗くなる。
暗闇の先に薄っすらと見える血の海。
広がる赤色はあの子の命が流れ出ている証拠。
そして、動かない──。
「……ん?」
あれ?
今、僕は何を考えていたのだったっけ?
凄く嫌な記憶が頭を過ったような気がした。何か、とても大切なモノを突然失ったような……。
うーん、最近ろくに眠っていなかったから寝ぼけてしまったかな? でも、僕って別に脳を記憶媒体以外で使っていないから寝ぼけるなんてありえないんだけどなぁ。単純に脳にダメージが残っているだけかも。
ま、どちらにせよ、すぐに忘れてしまったというのなら大したことではないのだろう。それよりも優先すべきことがあるのだから、自分の体調のことなど気にしている暇はない。
「
そうそう、せっかくこれから優に会いに行くのに情けない姿は見せられないよねー。
ここは頭のクールダウンのためにも、最近会った人達のことでも考察してみようかな。一旦並列思考に割く力を抑えて、メインの思考に意識を向けた。
まずは、何かとお世話になっている千川さん。
あの人は第一印象こそ仕事人間というイメージだったけれど、よく話をしてみると柔らかな雰囲気の可愛いお姉さんだった。容姿も可愛い。声も可愛い。時折見せる暗黒微笑にヒェッとなるけど、それもまた可愛い。
つまり可愛い。
あんな人がこれからアシスタントプロデューサーとしてサポートしてくれるというのだから嬉しさ爆発である。
765プロで言うところの音無小鳥枠なのかな。となると、何かしら濃い趣味を持っている可能性もあるね。要チェックだ。
次はルーキートレーナーさん。
──は、よくわからん。
次は色々と僕に対して思うところがあるらしい城ヶ崎姉妹か。
姉の方は、何と言えば良いのか。敵意は……たぶん、あったと思う。悪意も少し感じた。でも、害意と言えば良いのか、こちらを具体的にどうにかしようという意思はまったくと言っていいほど感じなかった。
物理的にどうこうする気がない。それは、これまで出会ってきた悪人の傾向から考えるに、本来、城ヶ崎姉という人間は他人に負の感情を持つタイプではないのだろう。
これまでに遭遇した悪人達はこの世界でも珍しいくらいの悪人どもだった。それと比べると、少なくとも城ヶ崎姉に悪人の素養は無い。むしろ、悪人に利用されないかと心配になるレベルのお人好しに見えた。
ならば、何故僕は敵意を向けられることになったのか?
あの時の表情の変化と反応から、城ヶ崎は初対面の時点で僕に敵意を持っていたことがわかった。あのまま猫を被られていたら決して気付けない、本当に些細な綻びを目印に、これまでの言動を逆に追っていったらわかった。
出会ってすぐに悪印象を持たれるのはよくあることなので別に構わない。でも、城ヶ崎姉は出会った時点で僕に敵意を抱いていた。最初から僕を知っていた。
その理由は、プロデューサー関連のような気がするんだけど……。
いや、これ以上は判断材料が足りないか。下手に予想しても下衆の勘繰りになってしまう。
そういう意味では、高垣楓も似たようなものだ。同じくプロデューサーと面識があるという意味で。
しかし、こちらは城ヶ崎姉と違い僕への敵意は感じられない。これは未成年相手に本気で敵意を持つことに彼女が気後れしたというよりは、僕が相手にされていないという感じがする。
その代わり彼女は害意を持っている。
プロデューサー相手にだけど。
僕には直接的な感情を向けている様子はなかった。まあ、僕の出方次第ではどう転ぶかわからないけど。
高垣がプロデューサーとどういう関係だったのかは知らない。会話の様子から知り合いではあるのだろうけど、どこまで深いかは推し測れない距離感をお互いが持ってしまっている。
こういう大人が持つ暗黙の了解みたいな空気を両者から出されると、人間観察は得意でも人間関係が不得意な僕にはわからなくなってしまうのだ。もう少し二人とも感情の振れ幅を広く持って欲しいなぁ。
その点、城ヶ崎姉妹はわかりやすかった。
反応が過剰演出過ぎて逆に微笑ましく思えてしまう。
城ヶ崎妹とは姉の件を抜きにして仲良くしたいと思っている。同じプロジェクトメンバーだし。あと可愛いし。
あんな女の子が同じクラスにいたら、僕の学校生活も潤いが出たのかな。同級生だったら絶対関わらないタイプだけど。オシャレ戦士とは相性が悪い僕であった。
同じ垢抜けたタイプでも本田の方は相性が悪くないとは思うんだよね。
いかにも僕が苦手なタイプのクラスの中心人物って子だけど、何故か変なところで親近感を覚えてしまう。
案外豆腐メンタルだったりするのかもしれないね。そのあたりが滲み出る言動を僕が無意識に汲み取っている可能性もあった。
今のところ、プロジェクト内で唯一の仲間なので大切にしておきたい相手だ。
島村も本田と一緒に居ることが多いので付き合いが増えた気がする。
出会った当初は絶対に反りが合わないと思っていたのに、あの時の僕に島村とユニットを組んでバックダンサーとしてライブに出るなんて言っても絶対信じなかっただろうね。
あとは何かと構って来る三村についてだけど、その理由がさっぱりわからない。きっかけがあるはずなのだけど、今日のことを細かく思い返してもまったく正解に行きつかない。
出会った瞬間から僕を心配し気遣う素振りを見せる彼女の態度に初対面の人間と仲良くできた試しがない僕には戸惑いしか無い。まあ、悪意が無いのなら好きにさせておけばいいという感じだ。
その三村と一緒に居たツインテとみくにゃんはよくわからない。ツインテの方は自己主張が乏しいので個人として覚える段階にない。みくにゃんの方は期待していたものとは違うものの勝負をしてくれた子なので思ったよりも気になっている。
そして最後を飾るのは杏ちゃんだね。
あの子は最近出会った中でも別格だね。別格、いや格別に可愛い。
髪とか目とか頬とか唇とか肩とか手とか腹とか太腿とか足とかがイイと思う。
声も可愛くて耳に心地よい。服も良いセンスしている。ゲーム好きなのも好感が持てた。
少し他人との距離を取りがちに見えるけど、そこがまた猫っぽくて可愛いんだぁ。
つまり最強ってことだよ。
まだ少ししかお話しできていないけど、今度会えたらもっとお話できたらいいなぁ。邪険に扱われない程度に積極的に絡んで行こう。
まずは普段のスケジュールを把握するところからだね。
残りのプロジェクトメンバーは……ぶっちゃけ、よく覚えてない。なんか小学生の子供と背の高い人が居たような気がする。
まあ、覚えていないなら大したことではないんだろう。
さて、頭の整理も済んだことだし、優のことを考えながら実家へと帰ろう。
デュフフフ!
実家へと着いた。
一戸建ての一般的な家を見上げ。懐かしさを感じる程度には久しぶりの帰省だった。
僕が自暴自棄になり一人暮らしを始めてから二年余り。一度は実家に戻ろうとも考えたこともある。でも、色々あって今も僕はあのアパートに住んだままだ。
いつかはここに戻って来るのだろうか。
……戻っても、良いのだろうか。
四月の風に流れる雲が月を陰らせる。
それまで僕を照らしていた月明かりが途絶えると、それに釣られるように僕の心も暗く沈んで行った。
僕はここに居ても良いのだろうか。
家の門に取り付いた如月と書かれた名札は暗さの所為でその輪郭をぼやかせている。
如月──僕の、名前だ。
「はぁ」
意を決して、家の扉へと手を掛ける。
家の側面、二階にある優の部屋の下側まで回り込む。
見上げた先に優の部屋がある。個人的な絶景スポットである。
「ほいっ、と」
左足に力を込めて垂直に跳び上がり、二階のベランダの梁に右足を掛ける。軽く足を引いて身体を前へと押し出し、ベランダに滑り込んだ。
このくらいの高さなら楽に侵入可能なのだった。
部屋の窓に手を掛ける。
「閉まってるか」
当然ながら窓には鍵が掛かっていた。横にスライドさせようとしてもビクともしない。もちろん力を込めれば開けられるけど、そうすると優の部屋が壊れるのでやらない。
ならば、どうやって部屋に入り込むかという話になる。実は結構なパターンが存在するのだけど、今回は安全なやつで行こうか。
拳を握り締め、息を吐きながら拳全体に力を込め続ける。
過剰に加わった力の所為で腕全体の筋肉が痙攣を起こし、小刻みに震え始めた。
そこからさらに力を込めながら振動を増幅、一定の法則を持たせる。そうやって力と振動が増して行くと、やがて拳の表面が黒く変色していった。振動により皮膚の組成が変わり始めた証拠だ。言うなれば運動エネルギーによる火傷である。
見る見るうちに黒く変質する拳に頓着することなく、僕は拳の振動を増幅させていった。
キイィィンという硬質な物体が奏でるような振動音が辺りに響き渡る。人の可聴領域から外れたそれは当然人間には聞こえないので部屋の中の優に聞こえることはない。せいぜい近所の犬が遠吠えをしたり、鳥がバサバサと飛び去っていくくらいだ。
そして、振動がこれ以上ないというところまで高まったところで増幅をやめ、今度は状態を安定させる。
これが僕が中二病発症時代に再現した必殺技の一つ。
「
「何やってるの」
今まさに窓枠へと打ち込もうとしたところで、優の声が聞こえたので拳を止めた。
部屋の明かりが点き、カーテンが引かれると優が姿を見せた。
慌てることなく手を修復してから拳を解く。優にこんなもの見せられない。
「あ、優だ。わーい」
少しでも早く優に会いたかった僕は、顔を出してくれた優の姿を見て嬉しくなってしまった。
本当はこっそり入って寝顔を見たかったのだけど。残念。
「とりあえず入りなよ」
「うん」
優が窓の鍵を開けてくれたので靴を脱いで部屋へと上り込む。
優の部屋は当然ながら優の匂いがした。
その事にひどく安堵する。
「今何時だと思ってるの」
「二十四時三分」
「真夜中だよね……」
自主訓練のためにアパートを出て、いつも使っている訓練場所から実家に歩いて来たら結構時間がかかってしまった。
さすがにこの距離を疑似飛雷神の術で移動するのは辛いので徒歩移動である。
来年十八歳になったら車の免許でもとるかな。バイクでもいいかも。
「その時は真っ先に優を乗せてあげるね。初めてが優だなんて凄く嬉しい」
「……これは、車の免許の話とかかな」
よくわかるね。さすが優である。僕の弟は察しが良いのだ。
優が押入れからクッションを出してくれたので遠慮なく座る。丁度部屋の中央に座る形だ。
優の方はベッドに座った。
「免許を取れば移動が楽になるからね。長距離移動の時間短縮になるかなって」
「まさか、まだ徒歩移動がメインなの? そんなだから一度も関東から出たことがない、なんてことになるんだよ」
「それは誤解よ。私だって関東から出たことあるわ」
最近は家と訓練場所の往復しかしていなかったので行動範囲は狭いものの、引き篭もる前まではあちこちに遠征していた。ただ、家族には近場に作った秘密基地に泊まり込みで修行しに行ってると伝えているため、僕は関東地域から出たことがないと思われている。
実は瀬戸内海で泳いだことだってあるんだぜ?
「修学旅行ですら全部サボタージュした人が?」
「優の修学旅行の時に護衛として隠れて付いていったわ」
「修学旅行をなんだと思って……」
優が修学旅行先で何か事件に巻き込まれたら大変だと思いこっそり付いていったことがある。もちろんアイドルを目指していた時期なので電車や新幹線に乗れず走って京都まで向かった。
真冬の津軽海峡を越えて北海道の雪道を爆走した経験を持つ僕には陸続きの道を走るなんて造作もなく、結局は優より早く京都入りしたくらいである。
でも肝心の優がどこにいるのかわからずに京都中を捜すことになり、その際起きた諸々のハプニングは今も都市伝説として関西地方に残っているらしい。
「金閣寺ならぬ朱閣寺」
「それ……お姉ちゃんが犯人だったの?」
「私だけの血じゃないわ」
「一人で賄える量じゃなかったからね。何があったのさ?」
「この世には知らなくていいことがたくさんあるのよ。たとえば、ある日を境に京都奈良の治安が劇的に良くなったのだとしても、それは良識のある人が増えたのであって、良識の無い人達が減ったわけではないの。そう思い込むことが幸せ思考のコツよ」
「いつから日本はアメコミの世界になったんだ」
「今度のヒーローはダークヒーロー。青い光を両手に燈し、悪人どもを滅多打ち」
「いや、ほぼ答え言ってるじゃん」
なんてことだ。誘導尋問なんて、優は高度で知的な会話ができるんだね。感心しちゃう。
「あんまり危ないことはしないでね?」
「私を危険に陥らせたいなら、変身ヒーローを師団で連れて来なさい」
「真面目な話です」
「あい」
優に凄まれてしまった。それだけで怖くて反論できなくなる。面接の髭の人より怖いよー。
と、そこで優が眠そうに目でショボショボと瞬きをしていることに気付いた。
「もしかして……寝てた?」
起こさないように静かに行動したつもりだけど、完全に無音だったわけではないから起こしてしまったのなら申し訳ない。
「ううん。もうそろそろ眠るつもりではあったけど、まだ普通に起きてたよ」
「そうなの? 夜更かしは体に良くないよ?」
「何となく、お姉ちゃんが今夜あたり来そうだなって思ってたからね」
「え」
それって優が僕を待っていてくれたってこと?
僕が来るのを部屋で待っていてくれていたなんて嬉しいな!
「優は待っていてくれていたんだね」
僕にも帰る場所がある。こんなに嬉しいことはない。
「そりゃ……寝ている時に侵入されて、夜中にふと目が覚めたら目の前にお姉ちゃんが居るとか、軽く恐怖でしょ。それが嫌だっただけだよ」
「さすがに眠っている優を見続けるなんてしないよ。ちゃんとベッドに入るよ」
「それ、入るベッドは僕のだよね? 僕のベッドに入ることをセーフ扱いするのはやめて」
「じゃあ、押入れの中に待機は?」
「……なんで悪い方にシフトチェンジしたの」
部屋にそのまま居るよりはマシかなって思ったから。優の反応を見るに、あまり良い案ではなかったらしい。
青繋がりで某狸型万能ロボットをオマージュしたつもりなのだけど。
「大丈夫、優の私物を漁ったりなんかしないから」
「別に漁られて困るものはないけど」
「またまた。優も今年で十四歳。そろそろかなと私も思っているのよ」
「……何が?」
「私も今の優くらいだったかなー……ある日興味本位で」
「お、お姉ちゃん?」
「右手に包帯を巻いたり、眼帯着けたり」
「病気の方かぁ……」
炎殺拳を習得するために、まずは封印の仕方から勉強する。安全第一で必殺技の習得が僕のモットーだから。結局習得できなかったけど。代わりにできたのが先程の技である。
「優が突然、間違っているのは世界の方だ、とか言いながらカラコンで片目を赤くしはじめても私は一向に構わないわよ?」
「僕は構うよ。嫌だよ」
「そうね、私の後を継ぐ必要はないわよね」
「やってたんだ……」
げんなりとした顔をする優には二代目の重みが分かっているということだろう。
継ぐだけならともかく、実際に先代に成り代わろうとすると辛いことは僕も知っている。それを優に押し付けてしまうのは僕の望むものではない。
「優には優の人生がある。優が望む道を歩けるように、私は精一杯応援するわ。もちろん協力も惜しまない」
「中二病にならないという話を無駄に壮大にしないでくれるかな」
「如月優先生の今後の活躍を期待して——」
「打ち切り漫画風味」
それはいけない。
優の人生が打ち切られるなんて駄目だ。
「新連載、ユウの奇妙な冒険 スターライトステージ」
「人を能力者の巣窟に送り出そうとしないで」
「巣窟じゃないわよ。すくつ、よ」
「巣窟で合ってるよ」
「優がリズムに合わせて踊ったり歌ったりするのね。アプリダウンロード数一位は固いわね」
「まさかの音ゲー? 誰がやるの、そんなニッチなゲーム」
「私が」
「ダウンロード数一回じゃん」
「——優の声当てをするわ」
「途端に一位が現実味を帯び始める成りすまし宣言」
声変わりを迎えていない優は若干低い程度で僕と声質はほとんど同じである。僕が少し声を低くすれば優の声として十分通用するはずだ。
「逆に優が女装したら私になる……?」
「何で唐突に恐ろしいことを言い始めたのさ?」
「少し、お願いがあるんだけど……」
「嫌だ」
「まだ何も言っていないわ」
「言わなくてもわかるよ。どうせ僕に女装しろとか言うんでしょ?」
「……何を言うかと思えば。まったく」
「あれ、珍しく外れた?」
「わっっ私が優をじじじじ女装させたいだなんなんて、そん、そんなわけないじょないののの」
「だったら尋常じゃなく動揺しないでよ」
「……逆に考えてみて、優が女装するとするでしょ?」
「自分が女装しているところを想像する趣味はないよ」
「するとね?」
「あ、聞いてないやつだこれ」
「すごく可愛いのよ」
「……」
「ほら、ね?」
「何が!?」
優が女装する→可愛い→やったー!
「ソクラテスもびっくりの三段論法ね」
「ソクラテスもそんな酷い話に使われるとは思ってなかっただろうし、自分の名前をそんなことで引き合いに出されるなんて思ってなかっただろうね」
「じゃあ、奴もまだまだね」
「どこ目線で言ってるの。上から目線だし」
「奴はクソ論法使い四天王の中でも最弱。四天王の面汚しよ」
「泥パックか何かを顔に塗ってるようなものだよね。たぶん顔が綺麗になってそう。て言うかクソと認めちゃってるし」
「我ら四天王に弱者は要らぬ」
「お姉ちゃんも四天王入りしちゃってるんだ」
「私の必殺論法。録音していないことを理由に言った言わないの水掛け論を展開して相手に諦めさせる攻撃は最強よ」
「最強かはともかく、最低ではあるかもね」
「え、一緒に寝てくれるって?」
「言ってない」
「いいえ、今確かに言ったわ。私は記憶力がいいのよ。録音してないなら言ってないって証明のしようがないわよ?」
「最強って言うか、セコ過ぎるよ……」
「え、一緒にお風呂入ってくれるって?」
「もう論法とか以前に難聴を疑われるやつだよそれ」
やはり優には効かないか。いけると思ったんだけどな。
「春香には効いたのに」
「あの人はお姉ちゃんに甘すぎると思うんだよね」
「代わりに何でも言うことを聞く約束をさせられたわ」
「見事にカウンター技キメられてるじゃん。対価が過分すぎるよ。その技は封印しよう。ね?」
呆れ顔から一転、優に本気で心配される僕であった。
必殺技には代償がつきものと相場は決まっている。それを心配してくれる優はとても優しい子だと思う。
気遣いができて、優しくて、頭の回転も良い。
「何でも言うことを聞くって、春香は何を言ってくるかしら」
春香のことだから、あまり無茶なお願いをしてくることはないだろうけど、いざ言われた時にできませんなんてなったら申し訳ない。僕の貧弱な想像力では想定を外される可能性があったので、頭の良い優にも考えて欲しいかな。
「あの人は、いざ相手を前にするとヘタレるから、それほど構える必要はないとは思うけど。土壇場で覚醒するタイプみたいだから気を付けた方がいいとは思うよ。具体的に言うと、精神的、肉体的な苦痛を伴う諸々の行為は禁止とかあらかじめ言っておくくらいはしないと」
「春香はそんな酷いことしないわよ」
「お姉ちゃんの信頼は、サンプル対象が少ないから過剰なのか誰にでもそうなのかわからないや」
別に信じられる人間が少ないわけではないんだけどなー。
ただ、相手が人間だと実感できる相手が少ないだけだし。
「私は誰のことも信じるような子供じゃないわ。この世界で信じているのは三人くらいよ」
「一人増えてるね」
「プロデューサーは信じられるわ」
「へぇ〜」
僕が信じられる相手にプロデューサーを挙げると、優は意外という表情を作っていた。
これまでの僕であったなら、信じられる対象として名前を出すのは優と春香だけだった。でも、この間の最終面接の一件──いや、これまでの時間全てで彼という人間を信頼するようになっていた。
だって、あの人は僕を如月千早にしてくれた人だから。
如月千早という名前。
僕のカラダの名前。
容れ物の名前。
先程家の表札を見た時に覚えた違和感を思い出す。
僕の身体を形作る全ての物は如月千早を元に作られている。そう僕を転生させた神が言っていた。だから僕の身体は如月千早であるのだ。
だったら、僕のこの心はなんて名前なのだろうか。
僕がなろうとした千早とは、果たしてどこまでを指す物だったのだろうか。
身体まで? 能力まで? それとも魂?
何をどこまで近付けてみても、僕が千早に成ることはできない。僕は千早ではあるけれど、僕である限り千早には成りきれない。
千早を演じる役者に成るのが精一杯だ。演者というよりも道化かな。
ピエロみたいに笑われることすら許されない。憐れで寂しい、偽物の人間。
それでも良いと、胸を張って生きられる何かが欲しくて……。
それを手に入れるためにいつも虚空へと手を伸ばし続けた。
それは、赤子が親を──自分を守ってくれる何かを求めて、泣き声を上げ、手を振り回すような、感情的で身勝手で無意味な行為だった。
誰もが赤子がやることだから仕方ないと許しはしても、決してその手を取ることはない。
承認欲求にも似たそれには名前は無いけれど、僕はずっとそれに飢餓感を覚えて来た。
生まれてから、ずっと。
これまでの人生の全てに。
名前のないその生き物を、僕は心の奥の、さらに奥底に飼っていた。
常に飢えた獣のように、そいつはお腹が空いたと訴えていた。
日に日にその声は大きくなり、無視することすらできなくなった。
いつか、それが我慢の限界を超えた時、それは自らに名前を付けて自分の意志で生まれるはずだった。
でも、その生き物をプロデューサーが見つけてくれた。
名前を付けてくれた。
存在しても良いと教えてくれた。
だから、その生き物は今だけは空腹を忘れていられるのだ。
「僕も少しだけ話す機会があったけれど、あの人は真面目で良い人そうだったね」
「少し口下手なところはあるけれど、その分行動が誠実なのよ。口下手だけど」
「お姉ちゃんにそこまで口下手と言われると、それはそれで心配になるんだけど。……プロデューサーなんだから口下手で仕事できるの?」
「それができるらしいのよ。この業界でもかなりのウデマエね。腕前じゃなくてウデマエ」
「ニュアンスは何となくわかるけど……」
いつもの僕との会話とか今日の城ヶ崎との会話とか思い出すと、あの人どうやって仕事しているのだろうと疑問に思う。あれでプロデューサーとして業界でぶっちぎりに優秀なのだから不思議だ。表に大々的に出て来るタイプではないので一般人には知られていないのだが、芸能界の関係者にとっては知る人ぞ知るってレベルの有名人らしい。
そんな凄い人にプロデュースされているのだから僕も頑張らないわけにはいけない。
ちなみに765プロのプロデューサーも新進気鋭の凄腕プロデューサーとして有名だ。現在は海外研修中で、向こうでは無名の新人のはずなのに、すでに色々な重鎮の注目を集めているらしいと春香が教えてくれた。……化物かな?
「そっか。お姉ちゃんが僕以外で信頼できる人ができて安心したよ……これなら僕が居なくてもお姉ちゃんも大丈夫そうだね」
「え?」
え、何その不穏なセリフは。
どういうこと?
「いや、別に何って話じゃないけど、お姉ちゃんだってこれからアイドルとして忙しくなるわけだし。業界の人達との付き合いが増えたら今みたいに僕と会う時間ないんじゃないかなって。僕以外にも信頼できる人ができたんだし、僕が居なくても大丈夫かなって思って」
「そんなわけないでしょ!」
思わず声を荒げてしまった。優相手に駄目だとわかっていても、優の言葉に冷静を保つことができなかった。
「お姉ちゃん……」
「優が居なくて大丈夫なわけないでしょ。優が居なくなっていい理由なんてどこにもない。アイドルの仕事が忙しいとか、新しい人間関係とか、そんな物で優が一番大事なことには変わりはないんだから!」
優が居なくなるのは嫌だ。アイドルを続ける上で優との時間が減るのはわかっていたことなのに。覚悟していたはずなのに……。
赤い血溜まりが脳裏にちらつく。
見たこともない絶望が自分のことのように思い出される。僕が見たこともない絶望がまるで僕の記憶であるかのように鮮明に思い出される。
地獄のような光景。”如月千早”が持ち込んだ優の居ない世界の記憶が僕の記憶を侵していることに気付く。
いつの間にこんな……。
意識した瞬間、自分の中に”如月千早”が存在することを自覚した。いつもなら軽く流せた優の言葉をその”如月千早”は看過できなかったらしい。
「優が居ない世界はもう嫌なの……ごめん。本当に私にとっても、嫌だから」
千早。やっぱり貴女は強い人だ。
こんなもの、僕には絶対に耐えられない。優が居ない世界で、それでも歌い続けようだなんて思えない。ほんの少し想像しただけで体の震えが止まらなくなる。
こんな、砂を口いっぱいに詰め込んだような、不快で苦くて渇きを覚えるくらいの酷い世界で希望なんて持てないよ……。
その世界に居たら、きっと僕の中の怪物は目覚めていた。世界に人間は自分だけだと、周りは全てニセモノだと思って、何も考えずに敵意と悪意をバラ撒いていた。
優が居たから僕は人でいられた。
如月千早と同調して、その半生を垣間見て、今の自分がどれだけ恵まれているのかがわかった。
生きるだけで死にたくなるような世界を一人で生きるのは人間の僕には耐えられない。
「優が生きていてくれるなら、私は何でもするから。優がして欲しいことがあれば、何でもするから。どんなことだってするから。だから居なくても大丈夫なんて絶対に言わないで……お願いだから」
優は何も一生居なくなると言ったわけではない。でも、今の僕にはその言葉だけでも震えるほどの恐怖を覚えてしまう。
きっと明日になれば大丈夫のはずだ。明日になれば”如月千早”の発狂も治る。駄目でも無理やり鎮静化させる。
でも、今は無理だ。今この時は優のことだけしか考えられない。
優のことになると僕は冷静でいられない。千早を構成する上で優は絶対だから。僕の魂ではなく体が優の死を覚えているから。
優の死を見た眼が覚えている。
優の血を嗅いだ鼻が覚えている。
優の事切れる音が聞いた耳が覚えている。
僕の身体を構成するパーツが、優が死んだ当時の記録を各々持ち越して来たせいで、あらゆる角度からその瞬間を鮮明に思い出させて来る。
この先も僕の身体は新しい優の死を覚えていくのだろう。その時の絶望を僕に押し付けて来るのだろう。
そんな地獄を僕はこれからも生き続けるのだ。
「ごめんね、お姉ちゃん。僕はただ……お姉ちゃんが忙しくなった時に僕のことを負担に思わないで欲しいって言いたかっただけなんだ」
「優が負担になるなんてことない! ……そんなの負担じゃない。私は全部背負えるから。優のことなら全部」
「そうだね。……ありがとう」
気遣うように優が頭を撫でて来る。その手の温もりが凍てつきそうな心に染み渡る。優の心の温かさがそのまま僕の心に伝わって来るようだった……。
「これからも僕はお姉ちゃんの傍に居るから。お姉ちゃんがどんなに大変なことに遭っても、どれだけ辛い思いをしたとしても。だから泣かないで?」
「……泣いてないし」
「鼻声で言っても説得力ないよ」
兄としての威厳を保とうと僕が強がりを言うと、優は笑って頭をなで続けてくれた。
その手の動きが先程までと違い、幼子をあやす様な柔らかさになっているのがわかる。たまに優は僕のことを子ども扱いするよね?
「子供扱いして欲しくないならもう少し自重してね。……色々と」
「大人の魅力を身につけろ的なやーつ?」
「いや、それを備えられたらいよいよどうしようもなくなるから止めてね?」
ただの記憶の逆流だとしても、僕は優が居ない人生を体験してしまった。それでわかったことは、僕にはこの子を失う覚悟は持てそうにないということだ。
良かった。あの時、この子を諦めなくて良かった。
「優……」
「何? お姉ちゃん」
「ありがとう。生きていてくれて……」
僕の優は生きている。それだけで、僕は他の千早よりも幸せなんだ。
……そうやって綺麗に終われば良かったんだけどね。
その後すぐに両親が優の部屋から話し声が聞こえるというので何事かと様子を見に来たのだ。
こんな夜更けに弟の部屋に忍び込んだことバレたら叱られると思った僕は慌てて部屋から逃げることにした。
その日、夜の街をビルからビルへと跳び移る謎の人影がネット界隈を騒がせたとかなんとか。
完璧であることが正しいのか。
綻びがあってこそ人たらしめるのか。
個で完結していた千早に混ざりこむ千早達がどう影響を与えていくのか。
長らく優との触れ合いを禁じていた千早でしたが、プロデューサーから家族と同性は触れ合いOKと言われたので自重しなくなりました。夜中に弟の部屋に謎の技術で侵入しようとするヤベー姉です。