アルティメット千早な僕が765プロのオーディションに落ちた件 作:やんや
昔の……、少しだけ過去の記憶。
『あの……』
初めて声を掛けられた時は、よくあるキャッチの類かと思った。
『──? ────?』
その時の自分は何と言葉を返しただろうか。今ではよく思い出せない。
あの子との待ち合わせの途中だというのに、邪魔をして来た相手を快く思わなかったのもあって邪険に扱った気がする。
相手の顔も見ずに断った。これまでの相手なら、それだけで脈なしだと理解して引き下がるのに、その相手は違った。引き下がらず、むしろもっと積極的な姿勢で声を掛けて来たのだった。
そこで初めて相手の顔を見て悲鳴を上げかけたのは内緒だ。だって、あんな顔で突然現れたら誰だって驚くって。
あんな強面に突然声を掛けられて、まともに応対できる人間なんているはずがない。
しかし、相手の何か切羽詰まったような、思いつめたような顔で一枚の名刺を差し出す相手の姿に無視するのも悪いと、つい名刺を受け取ってしまった。
──346プロダクション。
自分でも聞いたことがある名前のアイドル事務所の名前がかかれた
この目の前の強面とアイドルという単語が上手く結びつかない。
どう見てもその筋としか思えない顔の人間が、アイドルのプロダクションに所属しているという事実に頭が混乱する。
と言うかだ。
これを渡して来たということは、当然続く言葉はアレなのだろう。
『アイドルに興味はありませんか?』
ほら、やっぱり。
その言葉は聞き飽きている。
そこらを歩いていれば嫌というほど掛けられた言葉だ。
耳にタコができるくらいに聞いたセリフだった。
しかし、その時の自分は、なぜだか相手の話を聞いてみようという気になった。
不思議なことに。
アイドルに興味があった──それもあるだろう。
相手の態度が必死で見ていられなかった──それもあるだろう。
ああ、でも、やっぱり。どれも違うのだ。
我ながら女々しい──いや、乙女チックとでも呼べばいいのだろうか……。
この時の自分は、この出会いに柄にもなく運命というものを感じていたのだ。
そう気が付いたのは、全部終わった後だった。
自分の中で設定した起床時間に目が覚めた。
刹那のラグも無く、脳と体が覚醒する。パチリと開いた両の目が澱みも翳みも介さずに、いつも通りの天井を映す。
睡眠中ですら“如月千早”が回り続けている僕の身体は、朝目が覚めた瞬間から万全な状態に整っている。起き抜けの気怠さなんて無い。やろうと思えば起き抜けに全力ダッシュをすることも可能だ。オンとオフの間が存在しない機械の様な覚醒……。いや、機械にすら存在する暖機すらないのだから機械以上に機械的だ。
僕にとって、睡眠には脳と身体を休める以上の意味が無い。休憩はあっても休息は無い。僕の精神活動が続く限り休憩すら必要がないくらいだ。
それでも、優やプロデューサーから十分な休息をとるようにと言われているため、こうして欠かさず睡眠をとっている。
「おはよう、千早」
最近の僕の日課に、こうして千早に挨拶するというのが増えた。
この行為に自己満足以上の意味はない。
ベッドから身を起こし、枕元に置いてあったケータイの着信履歴を確認する。これも最近の日課だった。
春香からのメールが十四件。
優からのメールが一件。
プロデューサーからのメールが一件。
「……んー」
春香と優のメールを後回しにして、プロデューサーの仕事用スマホから送信されたメールを開く。
そこには今日の予定が簡潔に記載されていた。
今日は、先日決まった城ヶ崎姉のライブのバックダンサーをするにあたり、島村と本田とともにダンスレッスンを受けることになっている。
その集合時間や集合場所などの情報が、プロデューサーらしい几帳面な文面で綴られていた。
「合同練習か……」
初めての仕事の日、ライブへの参加が唐突に決まった。その話を持って来たのは、この間から何かと縁のある城ヶ崎姉だった。
どういう意図でこんな真似をしたのかわからない。アイドルになりたての僕達を自分のバックで踊らせるリスクなんて城ヶ崎姉ならわかっているはずだ。
当然それはプロデューサーも理解しているはずなのに……。
それが僕達を信頼しての決断だというのなら絶対に期待に応えたい。でも、それが周りのゴリ押しの結果だとしたらどうしよう。
明らかに力量が足りない中で初めてのライブに出る。新人の初ライブではないのだ。所属する事務所の大先輩のライブなのだから、失敗上等という気持ちでいたら火傷では済まない。
そこで失敗した時に果たして本田と島村は耐えられるだろうか?
僕は……。
まあ、僕自身は絶対失敗しないからね。
だから、同じバックダンサーに選ばれた二人の方を心配するのだ。
「でも、プロデューサーが決めたことだから」
プロデューサーが最終的に僕達でも大丈夫だと判断したのならば、たとえそれがどう言う事情があったとしても、その判断を信じる。プロデューサーが信じてくれる限り、僕はプロデューサーの判断を信じよう。
だから、プロデューサーが信じた二人を信じる。
「……頑張ろう」
ライブへ向けて気合いを入れ直すと、他にも来ていたメールの確認をする。
やはり春香のメールはバラエティに富んでいていいね。ちょっと肌色成分が高すぎて困るけど。
寝起きの肌艶チェックとタイトル打ってきわどい写真が添付されていた。僕のケータイの画質が悪いのでよくわからないけど、着崩したパジャマの間から垣間見える下着が刺激的すぎて困る。
何と返せばいいのかわからないので、とりあえず『色っぽい』とだけ返しておいた。
優のメールを見ると、そちらは相変わらずお小言めいた内容だった。僕が仕事先でやらかしていないかと心配なのだろう。
優は心配性だなぁ。
『何も問題ないよ』と返しておいた。
今度家に遊びに行った時にでも僕の仕事ぶりを聞かせてあげよう。
時間を確認すると、まだ出勤時間まで余裕があった。
時間があるならば可能な限り趣味に使いたい。だから趣味の自主訓練をすることに決めた。
ちょっとだけFAQ2にログインしようかなとも思ったけれど、貴重な余暇をゲームに使う気にはならなかった。
できれば精神と時の部屋みたいな極端に時間の経過が遅い空間に日間で籠っていたいなぁ。
レッスン用ではないジャージを着て、中学時代から使い続けている運動靴を履いて部屋を出る。
まだ日の出前とあって外は暗かった。
円く太った月が時間的にはまだ夜なのだと告げるように家々の隙間から覗いているのが見える。
「ん~……!」
特に意味はないのだけれど、準備運動の代わりに背筋を思いっきり伸ばす。身体が凝り固まるなどの煩わしい現象とは無縁の身には、この動作すらそれっぽさを演出する以上の意味はない。
着実に人から外れて行っているという自覚はあった。所詮この身は、如月千早という外殻に僕と言う魂が入り込んでいるだけに過ぎない。だから人間らしく振る舞う意味は無い。それでも僕がそれらを行うのは、まだ僕が自分を人間だと思っているからなのだろう。
——と、数年ぶりに再発した
自主練から自宅へと戻って来たら予定していた出勤時間が迫っていた。
現在時刻は午前九時三十分を回ったところだ。予定では十時前には出るつもりだったけど、ついつい気合いを入れて自主練に勤しんだことで時間が心許なくなってしまった。
世の一般女性と違い、出掛ける前の化粧等が不要の僕であっても、さすがに朝から走り回った後にはシャワーのひとつでも浴びたくなる。やろうと思えば汗や汚れを綺麗に除去可能なのだけれど、服に付いた物まではその力も及ばないため着替えは必要だ。さすがに汗臭い服で出勤するのは良くないことくらい僕でもわかる。
汗や皮脂の分泌を止める方法もある。しかし、その場合の身体への影響を考えて生理現象はあまり切らずに生活している。ただし、排泄行為全般は引き篭もり時代から不要にしているのは、アイドル的には正しいと思うのだった。
しかし時間も無いことだし、今日のところは着替えだけして出るとしよう。
「ん?」
着替える前に、ポケットに入れていたケータイを取り出すと新着メールが来ていた。
プロデューサーのプライベートアドレスからだった。
中身を確認する。
件名:追伸。
本文:お昼に時間がとれたので昼食は一緒に食べましょう。
「……なんでさ」
最近、プロデューサーの食事管理がきっつい。
何かあると食事の話を振ってくるようになった。それまで自主練の内容について口を出して来ることはあっても、こういう事には何も言わなかったのに。やっぱり、この間の栄養管理の話が原因だよね。
彼が僕を心配するのはいいけれど、わざわざ一緒にお昼を食べようとしなくてもいいと思うんだ。ちゃんと食べろと言えば食べるのに……。
食べたことないけど。
「となると、今日はこの後プロデューサーに会うのか……」
先ほどのメールの内容を思い出す。時間の関係上、事務所へと着いたら、プロデューサーとお昼を一緒に食べることになるだろう。
プロデューサーに会うのか。
汗をかいた後の姿のままで?
「……」
普段なら絶対にしないであろう逡巡。
「……シャワーだけでも浴びておこう」
アイドルたるもの身嗜みは大切だよね。
誰とも知れない相手に言い訳を口にしながら、僕は浴室へと向かった。
「う~、事務所事務所」
今、事務所を目指して全力疾走している僕は、アイドル事務所に所属する、ごく一般的な男の子。
強いて違うところをあげるとすれば、神様チートTS転生をしたってことかな……。
名前は如月千早。
せっかくシャワーを浴びたのに、こうして全力で走っている僕である。
汗を流すことで時間をロスしたことで汗をかくだなんて、僕ってもしかしなくてもアホなのだろうか?
いやいや、それでも自主練でかいた汗に比べたらマシなはずだ。僕の自主練って汗で水溜りができるレベルだし。それに比べたら、ね?
……今度からはシャワーを浴びる時間も計算して起きる時間を調整しよう。
朝の時間の使い方を考えながら走り続け、もう直ぐ346プロの建物が見えてくるというところで、少し先に車道を挟んで反対側の歩道に本田と島村の姿を発見した。後ろ姿からでもわかるくらいに特別なオーラを二人とも放っているので遠目からでもすぐにわかった。
初対面の時から思っていたけど、二人ともモブポジにしては凄く可愛いんだよね。と言うか、シンデレラプロジェクトのメンバーが全員可愛い。シンデレラプロジェクトのメンバーが実はアイマス関連のキャラだと言われたら信じてしまうくらいだ。それくらい一般人と比べて容姿が整っていた。前世程の顔面格差こそ無いものの、この世界でもアイドルになれる人間とそうでない人間では顔の作りが違う。
アニメやゲームで語られなかっただけで、他のアイドル事務所は存在していたわけだし、安易に続編の舞台などと考えるつもりはないけれど……、346プロは“それっぽい”人間が多かった。
そんな際立った存在であるシンデレラプロジェクトのメンバー、その中でパッションとキュートを担うであろう二人は、今日のレッスンの話でもしているのだろうか、楽しそうにおしゃべりに興じながら並んで歩いていた。
初対面からそう経っていないはずなのに、二人はすごく良好な関係を築いているらしい。その証拠に、ここからでも二人の楽し気な雰囲気が見てとれる。
すでに二人行動が基本になりつつあるらしい。メールのやり取りの中でプロデューサーが教えてくれたことを思い出す。いや、それを聞かされたとして、僕にどうしろと?
あの中に僕の居場所は無いと自覚させられただけだ。
同期とも呼べる二人に対してですら、僕はどこか距離を置いてしまっている。それは言語化できないモノで、違和感が積み重った結果生じた心の隔たりと言えた。
でも、それを僕は寂しいとは感じていない。もしかしたら、ほんの瞬きの時間、悲しいと感じたのかもしれないけれど……。それ以上に僕は、これまでの人生で他人と仲良くなれることに期待しなくなっていた。
「……ふふ」
二人の関係に憧憬にも似た感情を覚えかけ……、それすら烏滸がましいものだと考え直す。この間の宣材写真の撮影時みたいに、時と場所が合った時に会話できるだけで満足しておくべきだろう。それ以上は高望みでしかない。下手に絡んで「うざい奴」と知られたくない。
二人に気付かれる前に通り過ぎてしまおう。幸い二人は僕に気付いていない様子。僕の方は事務所に行くために道路を渡る必要がないから、このまま僕が通り過ぎれば二人と合流せずに済む。こういうのを気遣いができるって言うんだよね。
僕は素知らぬふりをして二人を追い抜いた。
「あっ、如月さんだ! おーい、おはよー!」
「え? 本当ですか? どこに……あ!」
と思ったら、僕に気が付いた本田に声を掛けられてしまった。当然、本田の横を歩く島村にも気づかれてしまう。
おかしい、決して存在をアピールしていたわけではないのに……。
車道の反対側からでもよく通る声で呼ばれてしまっては無視もできないね。
車の音を越えて本田の声が届いたのは僕の耳の良さだけが理由ではないのだろう。声の感じからして、本田はボイトレをしていないみたいだ。それでも、これだけ通る声が出せるのは正直羨ましい。アレなら舞台の仕事もできそうな気がする。肺活量があるならば激しい振付けの曲だっていけるだろう。その場合の曲調は……。いや、僕はプロデューサーでもなんでもないんだから考えても仕方がないか。
それよりも、何か反応を返さなければ。挨拶ひとつで僕が他人の好感度を上げられるとはこれっぽっちも思わないけれど、無視をして悪印象を与えていいわけではない。しかし、声を張り上げて返事をするようなキャラではないと自覚しているので仕方なく本田に向けて会釈を返す。
我ながらそっけない態度だと思う。こういう時、世の中のコミュニケーション強者はどういった反応を返しているのだろうか。少なくとも今の僕みたいな塩対応ではないんだろうけど。
二人がイイ感じに消化してくれることを祈る。最悪、「愛想が悪い奴」くらいの印象ならセーフと思おう。
本田の反応を顔を上げて確認する。……なぜか、笑顔を浮かべている彼女と目が合った。
はて、僕は何か彼女を笑顔にするようなことをしただろうか?
まあ、今回は無事に挨拶を返せたのだから良しとしよう。珍しく他人とコミュニケーションがとれたことを喜んでおけばいい。これでも僕にしてはまともな終わり方だった。
満足した僕は本田から視線を外すと再び事務所に向かって歩き出した。ここで走り出すようなことはしない。さすがの僕でも、ここで走り出したら逃げるような態度に見られるくらいには客観性があるのだ。
しかし、少しだけ早足で歩くことも忘れない。このまま二人と同じペースで歩いたら次の横断歩道で合流することになるからだ。僕が二人より早く歩けばその心配もなくなるってわけ。
僕は気遣いができる男。
自分の対人能力の成長率に満足する僕であった。
……が、横断歩道に差し掛かったところで、本田が島村を伴い、こちら側へと渡って来るのが見えた。
せっかく気を遣ってペースをずらしたのに何で!?
二人も事務所に急いでいたとか?
ぐぐぐ、僕の方がペースを遅らせるべきだったか……。まだまだ相手への思いやり
今からでも歩く速度を落とすべきかと考えていると、二人がこちらに近寄って来た。
はて、何か用でもあるのだろうか?
本田の顔からは何を読み取ることができない。
島村もいるので、そちらの用事という可能性もある。島村の手を本田が掴んでいるのもそれっぽく見える。遠慮しがちな島村を本田が気にかけて、こうして僕の前に連れて来てあげたとかだろうか?
こうして見ると、本田は島村のお姉さんポジになっているようだ。本田の方が島村より歳下なのにね。
近くまで来てくれたのならば改めて挨拶をしておこう。本田ほどテンションもコミュ力も高くない僕なので、せめて挨拶だけはしっかりしておこうという思いだ。
「おはようございます、本田さん」
「おおっ、これが世に聞く業界の挨拶ってやつ?」
僕が挨拶をすると、本田が大袈裟な態度で驚いている。いや、確かに
「よーし。ここは未央ちゃんも張り切って挨拶し返すしかないよね!」
しかも謎の気合を入れるのは何なんだ。
「おはようございます!」
しかも凄くイイ挨拶だし。何だ、この言い知れぬ敗北感は……。
「うん、やっぱり挨拶は大事だよね。気が引き締まるっていうの? そんな感じがする」
挨拶でそこまで感じ入る感性を羨ましく感じる。
と言うか、島村の用事はいいのだろうか。ほっぽり出している当人が言うのもアレだけど、放置されて島村が気分を害していないかと心配になり彼女の様子を窺う。
「いいなぁ……」
島村が物欲しそうな顔で僕達を見ていた。
その顔は何だ。何が欲しいって言うんだ。
島村は狙っていたお菓子を目の前で食べられた園児みたいな顔をしていた。嘘みたいだろ。これ、城ヶ崎姉と同い年なんだぜ……。
この子、本当に僕の一つ下なのだろうか。それにしては、その年下ムーブが滅茶苦茶に似合ってしいる。これは本田のお姉さんムーブも納得だね。
で、島村の用事についてなんだけども。これは僕の方から話を振った方が良い流れなのかな?
コミュ障の僕が話の流れを作るなんて難易度高いよ。でも、一応最年長という自負はあるので頑張るしかない。
「島村さん」
「あ、はいっ」
名前を呼ぶと、島村は少し慌てた様子で僕を見た。
その顔は何かを期待しているように見える。はて、僕はこの子に期待されるようなものを匂わせていただろうか?
自慢ではないが、僕は相手の期待に応える能力が低い。皆無と言っても過言では無い。それに基本的に貧乏なので物を期待されても困る。
中学時代のクリスマスイベントで、クラスメイト同士でプレゼント交換をするというのをやったことがある。授業の枠を一コマ潰してのレクリエーションだからか、クラスメイト達は大層張り切り各々のプレゼントを用意していた、らしい。
いつもイベント事はボイコットしていた僕も授業の一環ということで、この時ばかりは参加したのだった。
当時の僕はお小遣いを全て優のために使っていたのでお金が無く、他の皆のような、まともなプレゼントを用意できなかった。せめて手作りでもプレゼントを用意しようと思い、当時注力していたステージ衣装作りの応用で手作りのレース付きシュシュや刺繍を入れたハンカチを用意していた。
結論だけ言うと、僕のプレゼントは最終的に誰にも受け取られずに僕の手に戻って来た。プレゼントは一人一個ということもあり、クラスメイトからのプレゼントが僕に回ることもなく、僕は自分が用意したプレゼントを自分で貰うということになった。
当時の担任が気を利かせ僕と交換してくれる人を捜そうとしたが、僕はそれを止めた。せっかく盛り上がっているイベントを僕のせいで台無しにすることに罪悪感を抱いたからだ。
「おはようございます」
蘇ったトラウマによる精神的ダメージを無視して、とりあえず島村に挨拶をしておく。本田には挨拶して、島村にしないわけにもいくまい。
「お、おはようございます!」
何が嬉しいのか、島村は満面の笑みで挨拶を返して来るのだった。横目で本田を見ると、なぜかホッとした様子で胸を撫でおろしている。
どういう意味の反応だろうと心の中で首を傾げる。コミュ力オバケの本田のことだ、僕みたいに挨拶ができたこと自体にホッとしているわけではあるまい。
ちなみに、これまでの人生において、僕が挨拶をした場合、挨拶が返される確率は超低確率だ。三パーセントくらいかな?
「いやー。やっぱり? こういう挨拶すると、アイドルになったって感じがするよね!」
「はい! なんだか、アイドルになったって実感が湧きました」
どうやら僕が挨拶そのものに感動しているのに対し、二人はアイドルらしい挨拶ができたことにはしゃいでいたようだ。これでは挨拶できたことに感動していた僕がコミュ障みたいじゃないか。コミュ障だけども。
ここは他人とのズレをごまかすためにも二人の感性に乗っかるか。
「そうね、挨拶するだけでも変わるものね……」
口にしてみると、確かに二人の言う通りだと思えてくるから不思議だ。
前に春香が言っていたように、挨拶一つとっても意識というものは変わるらしい。待ち合わせの常套句然りアイドルとしての自覚然りだ。
自分がどの立場に居るのか言葉を発することで自覚する。
僕はアイドルだ、と。
これまで何度も噛み締めて来た、アイドルになったという事実。しかし、それは噛めば噛むほど味が無くなるガムの様に、僕の中で実感を薄れさせていった。
確かに残る、プロデューサーへの感謝と彼からの言葉だけが自分の中のアイドルを形作っていると思っていた。
でも、挨拶だけで再度認識を固められたのは驚きだった。
同期の二人との挨拶。
たったそれだけの行為が自分の中のあやふやな気持ちを固めてくれた。
これは僕にとって幸運な出来事だった。
幸運と言えば、小中学生時代は挨拶しても誰からも反応が返って来なかった僕が、こうして挨拶を返して貰えたことも幸せなことだ。挨拶にちゃんと挨拶を返してくれ、挨拶に新たな価値を見出してくれた二人は聖女であり哲学者なのではないかと思ってしまう。そんなことを真面目に考察するくらい僕は二人の反応に感動していた。
だから、二人に感謝の言葉でも送ろうかと思ったのだが……。
二人の視線が僕に向いていることに気付いて言葉を引っ込めた。
あれ、もしかして、またやってしまったかも。
「えっと、その……?」
自分の不用意な発言が相手を傷付けると自覚している僕は、先程の行為が二人の気に障ったのだと気付いた。
小学生の頃、クラスメイトが優の話をしていたので試しに会話に加わろうとした。その年に一年生として入学した優は、その愛くるしさと溢れ出るカリスマのおかげで教師や上級生から人気があったのでよく話題に挙がるのだ。
しかし、いざ僕が話しかけると、クラスメイト達はサッとどこかへと去ってしまったのだ。不思議に思った僕だったけど、その時クラスメイト同士が「なんで如月さんが入って来るんだろうね」「誰も話しかけてないのにね」と、僕が会話に参加したことに対して小声で非難しているのを聞いてしまった。
それ以来、僕は会話の輪に加わることを避けるようになった。
だから、今回のこれはきっと失敗だったのだ。
本田と島村が目の前で会話していたとしても、こちらに話が振られるまで口を出すべきではなかった。
失敗したなぁ。せっかく仲良くなれそうだと思ったのに、調子に乗った途端にこれだもん。
「ごめんなさい……。今のは聞かなかったことにして」
まずは謝罪をしておかなくては。せっかく盛り上がっていた会話をぶった切ってしまったのだ、謝らないわけにはいかない。
もし、まだ二人にその気があるなら適当に話を振ってくるだろうし、しばらく無視されるようなら、この場から立ち去ればいいだけだ。何も不安に思う必要は無い。いつも通りの人間関係を心掛ければいいのだから。
誰かと仲良くなれなかったことを残念だなんて思っちゃ駄目だ。
「どうして、謝るの?」
「……え?」
だが、本田から投げかけられた言葉は思っていたものと違った。
「いや、それは……」
「如月さんに謝られるようなこと、私はされてないよ?」
「……」
不思議そうな声音で訊いて来る本田の視線に言葉が詰まる。
何か、僕は間違ったのだろうか。
悪いことをしたから、謝った。許して欲しいとか、やり直したいとか、そういう下心があるわけじゃない。ただ、申し訳ないと思ったから謝った。それだけだ。
でも、本田は僕の謝罪を受け取らない。……受け取ってくれない。
「しまむーは何か思い当たること、ある?」
「いえ? 私も、思い当たるようなものはないです。……どうして、如月さんは謝ったんですか?」
本田が島村に問いかけると、彼女も不思議そうな目で訊いて来るのだった。
「だって……」
僕は二人からの問いかけに答えることができなかった。
これまで、誰かにこんなことを訊かれたことがないから。だって、皆、僕が話しかけたら察してくれたから。僕が駄目なんだと、わかってくれたから。
駄目なんだ、と──それすら理解されなくなったら。理解させてくれなくなったら。僕はどう他人と付き合っていけばいいんだ?
誰かに教えて貰えなければ、僕は自分が駄目なことに気付けない。
今は、それを伝える方法すらわからない。
「それは……」
上手く言葉にできない。
「如月さん……それって」
島村が気遣わしげな声音で口を開く。
「ああっと! もう、こんな時間じゃん!?」
だが、それは本田の声に遮られた。
凄くわざとらしい声のため、それがこの場の空気を変えるために空気を読んだ本田の捨て身のフォローだと僕は解釈した。
「午後のレッスン前にお昼一緒に食べようって話をしてたんだよね。ね、しまむー?」
「えっ、あっ! はい! お昼ですね! 食べますっ」
二人は昼食の約束をしていたようだ。一緒にご飯とか、それ友達みたいじゃん。僕も交ぜてよ。……なんて、言えたらぼっちやってない。
二人の関係に嫉妬するほど身の丈知らずではない。僕だって春香とご飯を一緒に食べたことあるもんね。ただ、ちょっと同じ事務所の人とご飯を食べるってシチュエーションに心ときめいただけだし。
プロデューサーはノーカウントで。アイドルじゃないし。
「如月さんも……どう?」
おっと、気を遣わせてしまったぞ。そんなに羨ましそうな顔をしていたかな……。
社交辞令だろうけど、誘ってくれるのは純粋に嬉しかった。お礼の代りに今度は僕が空気を読んで、こちらから断ってあげよう。僕だって空気を読むくらいできるんだ。
まあ、僕はこの後プロデューサーと約束があるから断らざるを得ないのだけど。
理由なく断るならともかく、きちんとした理由があれば断ることに気後れする必要はないよね。
「ごめんなさい、この後プロデューサーのところに顔を出さないといけなくて……」
「あ……そ、そっか。それじゃ、仕方ないね……」
上手く断れたことに満足する。
社交辞令とはいえ、せっかくのお誘いを断るのはもったいなかった。いや、建前ではなく、僕は本心から二人とお昼を食べたいと思ったんだ。
それでも、お昼をプロデューサーと食べると先約がある以上、そちらを優先する。プロデューサーとの約束は守らなくてはならないから。
こう言うと、まるで僕がプロデューサー第一主義に聞こえるかもしれないけど、実際のところは少し違う。
ただ、僕は、それがプロデューサーではなかったのだとしても約束したことは守りたいだけだ。
約束を破られた者が深く傷つくことを知っているから。
だから、僕は約束は絶対に守る。
「また、今度……誘ってくれたら、その……嬉しいわ」
せっかく誘ってくれたのに即お断りを入れることが申し訳なかった。
そして、断った側だというのに、こうして誘って欲しいと言ってしまえる己の厚かましさが嫌だった。
もし断られたらどうしようという思いで本田を直視できず俯いてしまう。
緊張からか手汗一つかかず、手がカサカサする。無意識に両手を擦り合わせる。
「もちろん。次も誘うよ! じゃんじゃん誘うよ!」
「っ、そ、そう? ……そう、嬉しいわ」
「むしろ誘っちゃって大丈夫? 気遣わせてない?」
「そんなことないわ。私は自分から誘うのが苦手だから、本田さんに誘って貰えたら助かるし、何より嬉しいことだわ」
「本当? よかったー。私ってグイグイいっちゃうタイプだから、それで引かれることもあってさ、今回も如月さんに引かれちゃったかなって心配してたんだよね。でも、引かれてないって聞いて凄く安心した」
少し眉を下げた本田が言った言葉に僕は衝撃を受けた。
まさか、本田のようなポジティブの権化のような人間が、そんなことで不安を抱くとは思っていなかったからだ。
「あの! わ、私も!」
「島村さん……?」
突然、島村が意気込んだ様子で身を乗りだして来た。
話に割り込む……と言うのは、三人で会話していたので正しくないが、こうして話半ばで話題を振ってくるイメージが無かったので少し驚く。
むしろ、その後の彼女の言葉に驚いた。
「私も、如月さんのこと誘っていいですか?」
「え? ええ、もちろん。本田さんがよくて島村さんが駄目なんて理由は無いわ」
「本当ですか!」
「本当に、本心から嬉しいわ。ありがとう」
「良かったです!」
僕が答えると、何が嬉しいのか島村は小躍りしそうな雰囲気で喜んでみせるのだった。
二人からすれば僕なんてほぼ他人みたいなものだろうに。そんな僕に積極的に絡もうとするなんて……!
本田と島村が見せる優しさに心が温かくなるのを感じる。
その後、僕達は事務所まで一緒に向かった。何気に優以外と通学(通勤)した気がする。春香とは時間が合わないので未だ一緒になったことがなかった。
食堂へと向かう二人の後ろ姿を見送りながら僕は考える。
二人は仲間であっても、友達ではない。
そこを勘違いしてはいけない。
それでも、僕は、仲間である本田と島村と仲良くなりたいと思っていた。せめて仲間として不足が無いと認めて貰いたかった。
「頑張ろう」
まずは、合同レッスンで良いところを見せなくては。歌に比べてダンスは苦手だけれど、精一杯やって二人の足を引っ張らないようにしよう。
この後プロデューサーと会うのだから、その時に二人の
そんな風に予定を立てていると、ケータイの着信が届いた。
プロデューサーからだった。
件名:申しわ
本文:会議が長引いているので昼食はご一緒できなくなりました。
……。
「お昼抜き、決定」
本田、島村、千早の同期三人のうち、仲良くなりたいと思っているのは千早だけ。
今回は初ライブ編の導入部ということで短めになりました。
このくらいの文量を適度に投下する方が投稿ペースが安定するかもしれません。
今回は同期三人組が通勤途中にばったり出会うだけのお話。
それをここまでややこしくできる千早。まるでナメック星が破壊される寸前のような引き延ばしである。
本田と島村からしたら千早の言動は宇宙人にしか見えなかったはずです。二人からの視点があるならば、ここの会話はホラー要素に見えるかもしれません。
ですが、その困難を超えてでも二人には千早と関わろうとする意思と理由があります。
千早は小中学生時代にぼっちをこじらせたせいでネームドキャラ(アイマスキャラ)以外からの好意を信じていません。
モブキャラ(デレマスキャラ)がどれだけ好意を示してもそれに気が付きにくい精神状態です。
さらにネームドキャラが好いてくれたと自覚しても、それは千早が好きなのであって自分を好きになったわけではないと無意識にフィルタをかけてしまいます。
ギャルゲーなどでヒロインとハッピーエンドを迎えても、それは主人公の話であり、プレイヤーである自分には関係がないという感覚が近いでしょうか。
まだまだ千早=自分という自覚を持てない千早が最終的にどうそこに決着をつけるのか……。その辺も本作千早の成長要素ですね。
次回はライブの練習回。完璧であるがゆえの千早の弱点が露呈します。
次回予告
前川みく、死す。