ビフォア・ゴールド   作:Yuki_Mar12

8 / 8
【8】

 興奮とそれによる覚醒のため中々明けず長引いたわたしの夜が、とうとう明けた。闇が統べていた空には鮮明な朝日が差し、胸がすくような青色がその黒い面を覆って行った。

 わたしはアキヒトさんと会って朝の挨拶を交わすと、彼に事情を説明し、恐らく雨に流されたためになくなってしまったであろう小舟を探すのを手伝ってもらった。彼が寛大に頼まれてくれたので、わたしは大層ありがたく思った。

 湖まで向かい、二人で手分けして辺りを歩き回り、広い湖面のどこかに漂っているはずの一艘を求めた。湖の水面が初夏の陽光を燦々と反射してまばゆく、隅々まで見渡そうとする目がしょぼしょぼと痛み、そのせいで小舟探しは難航した。

 が、幸い小舟は見つかった。失っていた水の妖精(ウンディーネ)の必需品を見つけて取り戻し、そうして注意の浅かったうっかり者のわたしは、ようやくみずから潰してしまった面目を回復することが出来たわけだ。

「万事解決しましたね」、とアキヒトさんは言った。

 わたしと同じように安堵してくれているらしい彼に、「本当に」を付けて感謝を述べたわたしは、彼との別離をはっきり予覚し、物寂しい感じを覚えた。

 オールを携えて頭を下げているわたしは、別離を悟った瞬間急に、何かに身体を堅く拘束されたように、窮屈に、不如意に感じた。どうしようかという迷いが、わたしを拘束したのだった。アキヒトさんは間もなくわたしのもとを去ってしまうだろう。それは別に何も疑問に感じる必要のないことであり、そうなるのは自然の成り行きであった。わたしは昨晩迷子のような身柄を彼に助けられ、迷惑を掛け、世話になり、今朝も小舟を探し出すためその力を借りた。そうしてわたしは彼に対し、感謝を述べた。だが、述べるべきことは、感謝だけではないはずだ。他にも述べるべきことが、感謝と同じか、あるいはそれ以上に重要で、言い忘れてはいけない切なる何かがあったはずだ。それはわたしにとって、あえて言うまでもないくらい明白だ。わたしは自分の心中にある伝えるべきそれを――アキヒトさんへの好意を、把握しており、いつでもそれを明言出来る。帰りかけているアキヒトさんを引き留めて、その関心を寄せ、告げさえすれば、それでわたしが彼に対し負っている、感謝とそれ以外のものは、一切彼の前に打ち明けてしまえるわけだ。しかしわたしの喉は、詰まっていた。何か堅くて除けられそうにないものが、わたしの胸にわだかまる思いを喉でせきとめ、外に出ないようにしていた。わたしは知っている。それは怯懦であった。わたしがもし勇気という徳を養っていて、その徳でもって、今内面で行われている怯懦との戦いを制し、それを奮い起こせば、そんなものは乾いた空気の霧のように、簡単に消えてしまう。なのにわたしは、どうしても勇気が出せなかった。怯懦は頑なにわたしの思いの表出を阻んだ。わたしは好意の告白を拒んではいなかったが、怯懦は強力で、その実行を食い止めた。諦めの苦笑が、微かに漏れた。その苦笑は、怯懦との戦いにわたしが破れたことを意味した。

 わたしが頭を上げると、アキヒトさんはオートバイにまたがってエンジンをふかし、「それじゃ」とだけ短く言って、走り去って行ってしまった。エンジンの轟音は、彼が行く時に強くぶわっと吹いて来た朝の風の音と相殺し合って、余り大きくは聞こえなかった。その清爽な風は、わたしの胸に燃え、わたしに告白を推奨し、強いていた火を弱め、更に言えば、吹き消してしまった気がする。その後わたしは魂が抜けたように放心し、それまで何を思い考えていたのか、また望んでいたのか、ほとんど忘失してしまった。

 意気消沈したわたしは、仕方なく小舟に乗って水面を進み、グランマが待っている旅館へと帰って、彼女と再会した。彼女は無事なわたしの帰来に安心して喜び、いたわって、本来あるはずの今日の小舟漕ぎの研修を取りやめにしてくれた。そうしてくれて、わたしは助かった。もしも研修があったとしても、しょんぼりしているわたしは力が入らず、実力の半分さえ出すことは出来なかったと思う。

 その日のわたしは旅館に帰ると、部屋に閉じこもり、布団にずっと寝込んで、途切れ途切れの惰眠に、呆れかえってしまうくらい長い時間を費やした。その間、別にわたしは物思いに浸るということはしなかった。単純に気だるくて、何もかもが億劫で出来そうになかったので、そうしたのだ。

 そのお陰か、翌日わたしは少し元気に活発になった。研修の時、わたしは前の日々よりずっと高い速度で小舟を漕ぎ進め、まだ記憶に新しい、アキヒトさんに連れて行ってもらい、一晩だけ泊まった旅館へと向かった。そうしてそこで受付の人に彼の所在を尋ねたが、その人は、彼はもう宿泊を終え、朝出かけてしまったと教えた。わたしは彼との再会を断念せざるを得なかった。

 旅館を出て、わたしは虚脱感とか、喪失感というものを味わった。帰りの航路を進む時、わたしの小舟の速度は、行きは高かったのに、悄然としたわたしの感情により、その半分にも満たない牛歩の速度へと落ち込んでしまっていた。

 だが、グランマが待ち構えている岸へと付く前、遠くの山並みのそばに掛かる鮮やかな夕日の輝きを見て、わたしは何となく、これでよかったのだと感じた。何も問題はなく、全ては正しく起こり、済んだのだと感じた。何かを諦めるということを、14歳というまだ我意の強い年齢にも関わらず、その時のわたしはすんなりと出来た。ひょっとすると、アキヒトさんとの出逢いと、彼との間に起きた色々な出来事を通じて、わたしは成長出来たのかも知れない。そう思うと、何だか嬉しくなって来て、手でひさしを作って眺めているまるい夕日が、何だかわたしに微笑みかけてくれるように見えてくる。夕日が、しゃべるはずなどないのに、わたしの楽天的な思い込みに過ぎないかも知れない推測に対し、その通りだと言って頷いてくれているように見えてくる。わたしは安心し、円満な気持ちで岸に着き、その日の行程を終えた。

 旅館の部屋に帰ると発見があった。パソコンに晃ちゃんの返事が届いていた。彼女はわたしに、彼女にとっては日常茶飯のわたしの今回の恋愛も、いつものようにまた、実りなく終わってしまうだろうという予測を、いくぶんの嘲りと友情をこめて伝えた。実際わたしの恋はその通り、成就せずに半端なところで絶えたので、わたしは苦笑を禁じ得なかった。わたしはぶきっちょな馬鹿者であった。せっかく自分の気に入る男の人と親密になれ、しかも、彼との関係を進展させられる見込みがあったのに、あえなく別れてしまったのだ。実に虚しく悲しいことだ。しかしその結果に、不思議と涙は出なかった。涙が出ないどころか、むしろわたしは、満足に微笑むことが出来た。

 

 

「それ以来、アキヒトさんとは会ってないんですか?」

 灯里が尋ねた。アリシアは両手に載せるように持つカップの中身をすすると、「えぇ」と答えた。その後彼女は、まだ中身が残っており、その表面に自分の姿が揺らめいて映るカップの中を、遠くを見つめる時のように、目を細めて見つめた。

「彼が好きだったはずなのに」、と彼女は言った。「こんなに簡単に別れてしまうことがあるのね。わたしの話したのは、物悲しい話かも知れないけど、不思議と未練はないのよね」

 アリシアはそう言うと、「ふふ」、と目で優雅な曲線を二本作って微笑んだ。14歳の時の面影が、19歳である今の彼女の表情に潜んでいるようだった。灯里はその表情を不思議がるように、見惚れるように見つめた。

「でもね」、とアリシアは言った「その話はまだ終わっていないと、わたしは思ってるの。ひょっとするとアキヒトさんは、いつかネオ・ヴェネツィアを訪れて、ARIAカンパニーに、水先案内を頼みに来てくれるかも知れない」

 そこまで言うと、アリシアは目を開き、淡い青色をたたえる瞳を見せた。

「もし本当にそうなったら、わたしの話は、長いブランクを閉じて、その続きを始めるのよ」

 未来を楽しみに夢見る彼女の姿に、灯里は柔和に微笑みかけ、しみじみする様子で「素敵ですね」と答えた。「アキヒトさん、早くアリシアさんに会いに来てくれるといいですね。」

 後輩の言に、アリシアは嬉しげに頷いた。

 灯里は小首を傾げ、「でもアリシアさん」、と彼女に呼び掛けた。「もしアキヒトさんとまた会えたら、その時はどうするんですか?」

 そこまで言って、灯里は「あっ」と何かを思い出したように発した。「先に言って置きますけど、水先案内という答えはなしですよ。それは当然することなので。問題はその他です。アリシアさんにとってアキヒトさんは、水先案内だけで済むお客様じゃないですよね?」

 恋の話となると、男もそうだが、特に女は、好奇心が高じるゆえ、核心に迫るような突っ込んだことを聞きたがるものである。灯里はまったくのうぶではなく、ある程度事に通じており、彼女が聞いたのは、そのような鋭い問いであった。しかしアリシアの方がうわてのようで、彼女は「それはあんまり分からないわね。寝る時に考えてみるわ」、と、後輩の追及をいなすように答えた。期待していたものと違う答えを聞いて、灯里はがっかりするような顔を見せた。

「さぁ灯里ちゃん」とアリシアは言った。「そろそろ寝ることにしましょう。もうずいぶん遅くなってしまったわ」

 そう言われ、話を締めくくられそうになると、灯里は「エ~」と発し、露骨に幻滅を示した。「アリシアさんずるいです。今考えて教えて下さい~!」

 しかしアリシアは「ふふ」、とふくよかに笑うのみで、答えてはくれなかった。

 彼女は軽食で用いた食器類を片すと、寝間着に着替えた、まだ不服そうな様子の灯里に就寝の挨拶と別れを告げた。アリシアは灯里が、寝るまでにしばらくは自分の真意について、悶々と考えあぐねるだろうと予測し、彼女に対し、いくぶん意地悪な満足と、小動物や健気な子どもに対して感じるような、信頼感や愛着を含んだ好意とを覚えた。

 ARIAカンパニーの外に出たアリシアは、夜更けの空を見上げた。曇っていて、星が一粒もなく、まったく暗かった。そして、辺りの空気がじっとり湿っていた。もしかすると雨が降るかも知れないと彼女は考えた。傘は持って来ていなかった。彼女はARIAカンパニーに戻って傘を持って来ようかと思ったが、少し考えて、結局そうはしなかった。雨に降られても別によいという安心めいた思いを抱いて、彼女は家への道のりを歩き出した。

 アリシアは思っていた――もし雨が降って来て濡れてしまったとしても、別によいのだ。わたしはきっと、雨に降られることを受け入れることが出来る。なぜと言うに今は、さっき思い出したばかりの、甘くもあり苦くもある、かつて焦がれた彼との思い出が――その内の、雨にそぼ濡れ、さまよい、彼に救われた日の記憶が、わたしの雨への嫌悪と懸念とをすっかり打ち消し、懐かしいあの日の、まだ若く恋にまみれていた青臭い自分へと、かりそめに返るすべとなってくれているのだから。

 

(完)


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。