面白くも無い戯言を聞いて目を覚ます。
うつ伏せの状態から起き上がろうと動かした身体は、思ったよりも軽く、まるで夢か電脳世界にでもいるような気分だった。
「――ん? いや、どこだここ」
視界に映った世界は薄青色。
やっぱり霊子世界か? と思ったものの、どうやってもウインドウが出て来ないので、夢か何かだと仮定しておくことにする。
「……誰もいない、か……」
周囲を見渡してみるも、自分以外の存在は何もない。
あの魔王の気配も、契約したサーヴァントの魔力も、協力していた連中の人影も。
景色は全て薄青だが、その光景は荒廃した大地のように何も残っていない。
まるで、何かの宝具に焼かれたように。
――待て。どうしてそう思った。
目覚める前の記憶を漁る。
思い出せるのは、大バビロンと戦い、アーチャーを失い、魔術王に救われ、再び妖婦が舞い戻り、そして閃光に呑まれて――
「うん?」
一瞬、頭に――いや、魂そのものに何かが走った。
声ではない、純然たる意思の塊。
心当たりのある気配。忘れようにも忘れられない強大な力。
人一人など容易に呑み込まれてしまいそうな――混沌としていて、シンプルな機能しか持たない世界の安全装置。
それの正体になんとなく思い当たり、ふと後ろに振り返ってみれば。
「――あ」
そこにあったものを見て、はっきりと記憶が蘇った。
地獄のような光景。絶望しか残らぬ蹂躙の跡の理由。
「……そうか。負けたのか」
光り輝く青い光帯が此方を覗き込んでいる。
世界を薄青に照らす光源であり、同時にこの世界を支配している主。
――即ち。
……冷たい空気が意識を起こす。
うつ伏せに倒れていた体勢からなんとか身を起こし、半ば無意識的に周りを見渡した。
周囲一帯を薙ぎ払うようにして振るわれた破壊の斬撃は、どうやら泥の波だけでなく、落下してきた隕石もろとも破壊し切っていたらしい。
大地が抉れたとか、空が裂かれたという規模ではなく。
空間――世界そのものを削り取ったかのように、そこには何も残っていなかった。
そんな死のみが在るような場所で――あの女だけは、立っていた。
「愚者め。全てを視る力を持ちながら、それを持て余すとはな。これが冠位の一角とは、世界も見下げ果てたものよ」
その手が握る剣の刃が突き刺しているのは、他ならぬ魔術王の心臓。
もはや魔術王自身に魔力は残っておらず、その現界を手助けするマスターもいない。
周囲のマナをかき集め、多少の抵抗くらい彼には可能だろうが――それももう、意味はなさないだろう。
「……不快だが、我の手でも我らの都でも貴様を殺しきることはできん。
故に溺死を命ずる。幾億と視た人間の悪に触れ、自壊でもしているがいい」
言い放った瞬間、剣の刀身から滲み出た泥がソロモンを包み込んだ。
泥という形で具現化した人の悪意。霊基の核ともいえる心臓部から侵蝕していくそれは、二度と治らない癌のようなもの。
十の指輪があろうと、聖杯に匹敵するもので核を破壊されたからにはもうどうしようもない。
「さて――」
一番の標的を始末した魔王が視線を動かす。
今の彼女なら、一思いに全員を抹殺することも可能である。それをあえて実行しないのは、やはり強者ゆえの慢心からだろう。
……或いは、ただこの状況を愉しむ、という己の性質に従っているだけか。
「――人ならざるものが六つ。しかし、ふむ……? これはまた、珍しいモノがいるな?」
次にその目が止めたのは、微かに震える白い小動物。
獣としての本能か、素早く近くに転がっていたウェイバーの影に隠れていく。
「なんと、災厄の獣か。それに……こちらは人の身でありながら神秘を宿したか。哀れよな」
すると、おもむろに大剣を持ち上げていく妖婦。
それだけで全て悟った。あの女は少年の処刑を行おうとしているのだと。
「神秘を宿したままでは荷が重かろう。その枷、余が断ち切ってやる」
黄金の刃が振り下ろされる。
何の容赦もなく、数ある悲劇の一つとして淡々とそれは実行される。
無意識の内に周りを食い潰す――そう、彼女にとってあれは処刑ではなく
首を切り落とすことで彼の内にいる英霊の力を霧散させ、ただの人となった彼を取り込むための過程に過ぎない。
全ての行動は、ただ他者を
そういう悪として、彼女は望まれた。
「――冗談」
指先から、残りかすみたいな魔力を集約させて放った。
威力ではなく、速さだけに全てを乗せた一撃。
刃の起動を逸らす……とまではいかないが、狙いはそこじゃない。
「む?」
振り下ろそうとした腕を止め、子供みたいに呆けた声を出した彼女の視線が此方に突き刺さる。
……といっても、力が抜けて再び倒れこんだので、もう視線を交えることはない。
サファイアの無限魔力供給があろうと、肉体の疲労は既にピークだ。ただでさえ少ない魔術回路を無闇に動かして放てた今のガンドが、最大の攻撃だった。
「貴様は……あぁ、覚えているぞ。先ほど我を『悪』と罵った人間か。だが、
足音もなく、ただ近づいてくる気配があった。
その声、言葉は全て魔性のものだ。サファイアによる保護壁が功を奏しているのか、初見より受ける影響は少ないが――少しでも彼女を求める心を持つならば、一瞬で持っていかれるだろうという確信があった。
「……堕ちたか、ネロ・クラウディウス。いや大バビロン。お前の言う愛は人間世界でいうそれじゃない。お前の
「堕ちたも何も、これが余だ。言っただろう、我が根源は炎。激しく求め、激しく与え、激しく燃え尽きる。余は民を愛す。なにもかもを与える。それの一体何がいけないのだ」
ハ、と思わず笑い声を零した。
きっと目の前にいる彼女は、まだ黙示録の妖婦と素体である皇帝が混合された状態なのだろう。故にレプリカ。故に――
……反英雄として召喚され、なおも世界を救っていた彼女。
あの皇帝は紛れもなく英雄として在った。月で出逢った運命と共に、聖杯戦争を勝ち抜いただけでは留まらず、遂には新世界を拓いてしまったくらいには。
だが、今ここにいる女は違う。
第三者によって意図的に
――いや、目の前にいるのは、本当にただの少女なのだ。
「愛しの奏者がお前を見たら何て言うかね」
迫る終わりの気配を感じ取り、そんな言葉を呟いていた。
ただの捨て台詞。何も知らない、今の彼女から返答がくることなどない。
――のだが。
「……戯け。あの者にこの姿を見せる不手際など余は犯さぬわ」
形を変えた杯から、溢れる悪の泥が注がれる。
触れただけで肉体を、精神を壊す毒。
呑まれた後の末路など誰が想像できよう。泥の向こうにあるものは、本当に人間が望む理想郷なのだろうか?
「それではようこそ、我らが都へ」
たった一体の人間に浴びせるには多すぎるほどの量。
今の私には、それらを甘受し、諦める他に選択肢はなかった。
「そなたの終焉は今ここに為った。歓迎しようぞ、最後のマスターよ」
――そうして、闇に埋め尽くされた。
「筈なんだけどなぁ……」
どうやら、思わぬところで不手際があったらしい。
負けはしたが死んではいない――これはそういう状態なのだろう。
過去の因縁て面倒くさい。いや、私にとっては未来での因縁とも言うべきなのか。
抑止力。人類の無意識願望の集合体である世界の安全装置。
遥か遠い未来では、もう働くことのない力。
遥か遠い過去では、多くの英雄を生み出した張本人。
多くの英霊たちは
もう
だから、現代で更なる力を求めた者たちは多くの場合、アラヤ側の力と契約する。
「……確かに月で目をつけられたとは思ったけど。そんなに私を引き入れたいのか、お前」
抑止力が干渉してきたのは今回が初めてというワケではない。
二年前の月旅行。その事件での終盤が初対面だった。
全能者の自分による策略だったにせよ、それが切っ掛けで世界に見つかったのだ。
魔術の世界に属しているにも関わらず、世界を破滅に導かない。それどころか並行世界の運営者の弟子として、世界に火種を蒔いている自分の排除を自ら行っている。
……ま、師匠の弟子になった例は私が初めて、というだけだ。
別の
一生続く自分殺しの旅。大変ではあるが、退屈はしない。
「……」
さて、どうしよう、と考え込む。
ぶっちゃけた話、今のままでは絶対にあの妖婦には勝てない。というか人間じゃムリだ。
人類悪のレプリカだなんだと言っても、悪の塊にどう立ち向かえっていうのか。噂の――別世界の話だが、そこの冬木にいた「この世全ての悪」とかいう怪物を討伐した奴だって、何らかの裏技を持っていたに違いない。
いや、切り札はある。ただ、それだけじゃまだ足りないという話だ。
「アルテラでも壊せないってーのがな……つかアレ、神話再現系じゃ駄目なのか。ってことは
全てを引っくり返しての切り札である。少なくとも、初めに私はそう注文しておいた。
「エルキドゥ呼ぶのは論外だし、向こうの領域で戦うのも狂気の沙汰だな。だとしたら、まず権能停止させて、あの
「うるせーっ! こちとらずっと考えてんだよ、邪魔すんな!!」
頭の片隅でずっと響いている意思がとてもうるさい。
アラヤの抑止? よせよせ、碌なものじゃあないぞ、と苦笑いを浮かべている弓兵の姿が目に浮かぶ。嗚呼エミヤよ、どうして先に逝った……!
「嘘つけ」
バーカ、と付け加える。
確かに契約すれば人間を超越した力を振るうことができる。神秘の薄い現代、その方法以外に英霊となる術を私は知らない。
だが奇跡に代償はつきものだ。
生前に連中と契約を交わせば、死んだ後も世界の救済という名目で連中に酷使され続ける。
終わらない闘争の日々。人類のあらゆる醜さを突きつけられる地獄。
つまり私は死後に渡ってまで働きたくない、と言いたいのだ。そこまでお人好しではないし、酔狂でもない。
大体、起源覚醒で暴走したとはいえ、他の並行世界で
「……抑止、ね。こんなモンに頼らねぇ未来の人類ってすっごいわ……」
抑止に頼らない、というよりは抑止が働かないほど星が死んでしまった可能性。
枯れ果てた星。どう足掻いても救いようの無いあの世界。
一目、赤い空と死んだ土地を見て全てを悟った。
――ああ、私はきっと、この未来を回避するために動く筈だったんだろう、と。
後悔したってもう遅い。過ぎ去った過去は二度と戻って来ない。
並行世界を自由に歩く。それは、元いた世界を捨てることと同義である。
荒廃しきった鋼の大地。そこにも確かに、人の歩いた跡があった。
「さて、と。立ち止まってる暇はなさそうだし――」
あんな未来が訪れていても、人間はちゃんとやっていた。
あの世界にとって、既に過去の残滓である自分ではあるが、与えられた仕事はこなさないといけない。あの人の弟子であるのなら尚更だ。
光が、砕ける。
停止していた時は動き出し、待っていた運命がやってくる。
薄青の景色は瞼を閉じ、あるべきモノへと還っていく。
おそらく、これからも死にかける度にああいう勧誘はやってくるだろう。世界はいつでも人材不足なのだ。その度に、老衰で死ぬまで私は断り続けるが。
……ふと、倒れ込む前に視界に映した己のサーヴァントを思い出す。
あれほど大事に握っていた羽ペンは、もう彼の手からは離れていた。
まだ自分が死んでいないのなら、逆転の目は十分にある。
「さぁ、締切の時間がやってきたぞアンデルセン。準備はいいな――!」