「――かはっ」
気がつけば、肺から空気を吐き出していた。
目の前に広がっているのは満天の星空。背中に感じるのは冷たく固い石の床。
此処が柳洞寺前だと脳が認識するのに、数十秒ほど時間がかかった。
「はァ――ハ、はぁ……なんだ、あれ…………」
『敵の宝具かと思われます。精神保護壁の更新は常に行っていますが、それすらも溶かしていくモノのようです』
サファイアの声を聞きながら、呼吸を整えて直前までの記憶へ意識を向ける。――が、蘇ってきたのは圧倒的な喪失感だけだった。
「それで正解だよ。呑み込まれていたら、もうヒトとしての意識は戻ってこないからね」
ふと、視界の端に無機質な顔が映る。
魔術王ソロモン――十の指輪によって初めから結界に弾かれていた者。
あらゆる魔術は彼には通じない。なぜなら、彼はその全てを修めた王であるからだ。
「ええと……転移させてくれた、のか……?」
「少しキャスパリーグの力を借りたけれどね。間に合って何より――いや、耐えてくれて何よりだ」
「ハッ……この、確信犯が……」
少しでも気分を軽くしようとしても無駄だった。むしろ、未だ決着をつけられていないことに重圧さえ感じられてくる。
主力であったアーチャーとアルテラはどうなったのだろうか。やはり記憶が飛んでいてよく思い出すことができない。
「あいつは」
「あと五分ほどで此方の世界に来る。今は守護者が中で戦っているけど――」
手を振って先の言葉を遮る。
というか、流石は抑止力直属での召喚だ。もしかすると、魔力の面だけではなく精神面においても補正がかかっているのかもしれない。
それも、もう頼れないと宣告されたが。
「なんで――抑止の守護者が負ける? あの力は絶対的だ。星が、世界が滅亡することを看過するなんて、それこそあり得ないことだろう……!」
「あぁ、そうだね。君の生まれた世界の未来じゃあるまいし、この世界にはまだ先がある。
でも、元より彼はこの世界の君を殺害するために召喚された。ここが特異点にならなければ、
「――――」
……そうか。言われてみればその通り。
英霊としてここに在る魔術王を倒せる数値しか持ち合わせていなかった彼は、それを上回る大妖婦には勝てない……ということか?
「でも、あの権能とは――」
「ほぼ互角。あの神話礼装の存在が大きいだろうね。もっとも、アレは本来英霊の霊基ではとてもじゃないが耐えられない。正真正銘の奥の手だろう。私との戦闘ならともかく、聖杯のバックアップを受けている大バビロン相手では分が悪い」
時間制限つきの奥の手。
その時間で、魔術王は殺せるがあの妖婦は殺せない、というワケか。
「だから――」
と、淡々とした調子でソロモンが言葉を続ける。
珍しく攻略のヒントでもくれるのだろうか? と淡い期待を抱いて続きを待ったが、やはり彼が口にしたのは、斜め上の方向にぶっ飛んだ情報だった。
「
「――は?」
予想外に過ぎる言葉に理解が追いつかない。
いや待て。なんだそれは。聞いてない。月の再現はご免だぞ。
が、きちんと思考を纏める前に、冷水の如く浴びせるプレッシャーが我が身を襲った。
「そろそろ起きなさい。足に異常があるというのなら切断以外に方法はありませんが」
「……!」
ほとんど反射的に飛び起きた。
首筋にメスが掠るようなことはない。が、唐突に聞こえた威圧的な声には抵抗してはいけないと本能が感じ取っていた。
そうして見えたのは、石床の上にいる未だ意識の回復していないウェイバー、既に覚醒していたのか、座って黙々と本に物語を書き付けているアンデルセン、そして少し離れたところで転がっているアルテラに近づくフォウの姿。
――守護者であるアーチャー以外のメンバーは全員無事、という事実だった。
「……こりゃあ、また」
全滅でなかったことには喜ぶべきだろう――しかし、流石に無傷というわけにはいかない。
外傷はなくとも、精神面でのダメージが大きいのだ。私の場合は謎の喪失感が残っているし、依代にされているウェイバーだって元は子供だ。どんな影響があるか分からない。
アルテラに至っては……魔力がごっそり持っていかれている。軽く礼装の霊子譲渡をかけておくが、さして変化はない。
まぁ、いつもと一切ブレないナイチンゲールやアンデルセンの姿は心強いが。
「む、起きたかマスター。その様子だと流石に堪えたようだな。どうだ、あの人類悪というヤツの力は」
「次元違い過ぎてもう帰りたいッス。あんなんどうすりゃいいんだよ、月のお姫様でも呼んでこいよ。……っつーか、お前が割と元気そうなのが意外だったわ」
「馬鹿め。俺は作家だぞ? そして締切がここまで近づいているのに呆けている暇などあるものか。散策中でも戦闘中でも、僅かな隙間時間にペンを走らせて間に合わせる。それが作家というものだ」
と言いつつ、かなりの勢いで文章を綴っているのは焦っているのか、それとも珍しくノッているのか――どちらにせよ、絶賛仕事中らしい。ひとまず彼の方は放っておき、ウェイバーに向かってメスを構えている看護師を止めるべきだろう。
「おーい目を覚ませよ、未来のロンドンスター。早く起きないと切断系の治療が君を襲うぞー」
「ふぁ!?」
間抜けた声と共に飛び起きるウェイバー。
どうやらナイチンゲールによる本気の殺気でも感じ取ったらしい。メスを投げられる直前に起きるとは、つくづく運に恵まれている。
「……っ、なんだ、これ――吐き気がする。凄く気持ち悪い……」
「肉体……ではなく精神の病気ですか。よろしい、患者というのなら治療します」
「ちょっ」
思わず揃って身構えてしまったが、その瞬間起きたのは不快感を消し飛ばすような、浄化に近い治療の術だった。
一瞬にして身体は軽くなり、精神を蝕んでいた喪失感が薄れ、消えていく。
――つまり、真っ当な治療法だった。
「……なるほど、こりゃあ『白衣の天使』だなんて言われるわけだ」
もう助からない、と絶望の淵に立たされた兵士をなんとしてでも救い出す。
それを実現していた彼女は、確かに彼らから見れば天使以外の何者でもない。
敵だろうと味方だろうと、患者であるならば彼女は人を救うのだろう。それが、絶対的な彼女の信念なのだから。
「ええと、ありがとう。ウェイバー、調子はどうだ?」
「信じられないくらいに快調だよ……バーサーカーだけど、ちゃんと看護師だったのにびっくりだ。……ところで、向こうのあいつは……?」
「既に処置しました。しかし霊基の損傷が激しいので後は患者次第でしょう」
「霊基……ってマジか。痛いところやられたなぁ……」
多少魔力は譲渡したが、霊基をやられていては元も子もない。まだ消えないのは、アルテラ自身が持つスキルによるものか。
だが、ひとまず出来るだけのことはやった。ソロモンによるとあと五分……いや、もう二分あるか分からない。この隙に何か戦略を立てたいところだが――
「なぁ軍師サマ。アレに勝てるビジョンってある?」
「生憎だけど思いつかないよ……実際、相手にして分かったけど、僕らじゃあいつには敵わない。アーチャーみたいに同等の力で対抗するってこと以外じゃ……やっぱり対軍、対城級の宝具が必要だろうな」
だよなぁ、と同意の頷きを返して考え込む。
ウェイバー……孔明の能力は完全に支援特化である。ナイチンゲールは宝具であの泥を浄化することはできるが、決定的な火力とはいえない。
「当面のところはアルテラに頼るしかない、か……せんせー、なんかアドバイスないっすか」
「観察力が足りないな。奴の装備をきちんと見たのか? いや直視すれば最悪死ぬが、それでも最低限のものはお前たちも見ただろう?」
「……金色の剣? あれが何だって――」
いうのか、と言いかけて今の発言を振り返る。
金の剣。金色の、武器。
英雄王の財宝で見慣れてしまったその特徴に首を傾げ、相手があの大バビロンだということを思い出し――
「――おい、馬鹿なのかあの皇帝は」
「馬鹿というより趣味の範疇だろうな。
絶句するウェイバーを尻目に、そういえば剣の刃から泥を出していたな、と思い出す。
妖婦が持つ金杯は聖杯ではない。が、偽聖杯であるからこそ、正邪を問わず人の欲望を叶える「本物の願望器」成り得るのだ。
……勘弁してほしい。趣味で杯を剣に変える奴に絶望を見ている自分たちの立場はどうなるんだ、一体。
「じゃあ、作戦としてはあの剣を取り上げることになるのか……いや待て。それじゃあ本物の聖杯はどこにある?」
「聖杯は彼女の心臓として働いているよ。彼女自身は、まだ気付いていないらしいけどね」
「もっと早くに言え!」
本当にこういう傍観者は答えに辿り着かないと情報を教えてくれない。だからクズニートだとか無能だのと言われるのだ。別に言った覚えはないが。
「目下の目標は定まったな――けど、戦力が追いついてない。いっそコイツを投げつけるか……?」
「フォッ!?」
「……ずっと気になってたんだけど、そいつ何なの? リスなの、ネコなの?」
『気になるのはそこなんですね……』
もふもふしているのでウサギっぽくもあるが。
……ま、流石にそれは究極の最終手段であろう。世界ごと全てを抹殺するようなモンである。
「冗談だよ、冗談。んなことしたら師匠に破門されるわ」
「結局何なんだコイツ……」
「フォーゥゥ……」
若干毛を逆立てて威嚇する辺り、当人は成長するつもりはないらしい。出会いの
――だが、やはり手札は圧倒的に足りない。
奴が現れた序盤は――序盤と呼べるほどの時間があればだが――とにかく時間を稼ぎ、そして金の大剣を手放させる。
運を頼りにするなら、荒野の結界内で戦っているエルキドゥとの合流を望みたいが……そう簡単にはいくまい。二体目の獣が顕現した時点で、全ての権能を持つ第三の獣の現界は確定されたようなものなのだから。
『――全く。やはり貴様の仕業か魔術王。折角の馳走を引っくり返されたかのような気分だったぞ。だが良い、許す。赤い騎士との戦いも暇つぶしにしては楽しめた』
その声は唐突だった。
虚構のものでありながら、現実を侵す唯一無二の絶対存在。
逃げようと思えば逃げられる。だがそれを善しとしない
「……ウェイバー、サポート頼む。婦長は泥の浄化に備えて。先生は筆を止めるな。フォウはアルテラについてやれ。サファイア、魔力のチャージを開始しろ」
了解、という各々の声が聞こえ、同時に魔力が一気に上昇していく。
狙うは初撃。現れた瞬間、大剣へ向かって魔力砲をぶちかます……!
――そうして確実に近付いてくる気配の主は、文字通り、空間を
「あぁ、まだその瞳には生があるのか。
「お前が悪以外の何物でもないからさ」
最大火力の砲撃は、簡潔な答えと共に。
狙うは剣の柄を握る彼女の右手。
バビロンの妖婦は元から持つ、己の金杯だけを頼りにする。あれを、あの
だから今の内に――彼女自身が心臓の正体に気付く前にケリを付ける他ない――!
「悪――――」
結果は一秒の後。
その瞬間、確かに全魔力を込めた砲撃は黄金の大剣に直撃した。
……だが次の瞬間、
なかったことにされた。
それが、彼女が持つ無敵の権能――「
「は――ははは、はははははは!! そうか、悪か!
栄華繁栄を誘う薔薇、熱く盛る原初の炎こそ我が根源! なるほど確かに、魔王となった
酷く冷め切った笑い声、ただの童女のように泣きそうな顔。
自嘲している……のだろうか。だが、そうなるとあの女には――――
そこまで考えた瞬間、全てが砕けたような哄笑が特異点に響き渡り、
「――――は……?」
声が出たのは、空の光をそう認識できた時だった。
流星。もしくは
突如上空に「発生」したその輝きに気を取られた瞬間、どこからか聞こえる獣の咆哮が世界を揺らす。
……黙示録によれば。
第三の獣は、第二の赤獣が持つ全ての権力を有し、また火を天から地へと降らせたという。
つまりこの光景は――結界内に顕現した獣による力の行使。
「――ここまでだ」
「ざけんな」
傍観者の言葉を一蹴し、思考を巡らせる。
魔力はとうに枯れた。流星の直撃に耐えられるような手段もない。
終わりは間近。敗北は目に見えている。
だが、まだ生きている――その事実が、勝利への可能性の証拠。
獣の咆哮を皮切りに、流星が重力という物理法則に従って流れ始める。
妖婦の権能が行使される限り、この円蔵山が地形を変えることはないだろう。そしてそれは、既に獣の支配領域と化している荒野の方も。
「さぁ、宴の時よ。華麗に舞うとしよう。
繁栄の時は今ここに! 新世界を支配せし我が獣よ。我が声に応えるのならば、共に大いなる印を以って、地上世界に我らが黄金郷を打ち立てようぞ!!」
高らかに宣言された言葉に反応したのか、再び地響きと咆哮が世界に轟く。
降り注がれる流星の勢いは加速し、妖婦は
「ナイチンゲール……!」
「言われなくとも」
――天使の大剣が地面に突き刺され、大地を覆い尽くす黒い波が浄化されていく。
だが間に合わない。質量が桁違いで全く相殺が間に合わない。
ナイチンゲールも全ての魔力を、霊基を使って宝具を発動させているだろう。ウェイバーによる支援は続いているが、それでも――到底勝ちがないことは解っていた。
「破壊……する……ッ!」
「――!?」
虹の刀身を持つ剣を支えに、意識の回復したアルテラが立ち上がる。
その霊基は既に崩壊直前。動くどころか、戦闘などすれば消滅は免れないだろう。
「……患者は安静にしていなさい。抵抗するのなら貴方を先に倒しますが」
「私は――私は、破壊である。星より降りて、蹂躙を果たさんとする者。
「待っ――」
ナイチンゲールの声は届かず、破壊の大王は剣を振るう。
衛星軌道上からの砲撃ではない。そこまでの大技をできるほどの力は、もう残っていない。
「“
光の一撃。
視界が真白に染まり、音すらも消失する。
――その瞬間、確かに終末のような静寂が世界を包んでいた。