冬木市
――1994年 二月某日
寒空の下、手に持つトランクと肩にかけたボストンバッグの重量を感じながら、雑踏に紛れて街を歩いていた。
記憶の中にしかなかった冬木市の街並みは、ほとんどの場所や見える風景が一致しており、間違い探しとしては中々楽むことができる。……間違いなど、別にないのだが。
『――なるほど、ここが日本か。治安は悪くないな、むしろ良い。文化も着物、扇子、浮世絵と中々に面白い。そして何より――
霊体化したまま念話でそう評価を下す、機嫌が良いサーヴァントの声を聞きながら、
「お気に召しましたかー、先生?」
『想像よりはな。あの乳魔人めの故郷と聞いてどんなところかとは思っていたが。……だが、この国の人間も自我が薄い。俺が書くに値する人間は少ないだろうな』
「先生の基準じゃあ、そりゃそうでしょーよ。つか、どこ行ってもそればっかり言ってるじゃないですか」
そも、英雄なんてものは所詮、抑止力が動いた結果、それが大衆の目に止まった時に生まれるものだ。まぁ、いま現在もすぐ横の誰かの、些細な行動によって世界が救われていたりするなど、想像出来ない事ではあるが。
しかし、仮に全てのものが幸せになるという条件や、逆に全てが滅ぶという条件が揃うことは、それ以上の可能性が打ち切られるということだ。その軸、即ち
宇宙は無駄なことにエネルギーを使わない。可能性がより多くある軸にだけ、「史実」である
……事情が色々と込み入っている話をした。とにかく、私が今いるこの数多在る並行世界の一つ――ここは、“いずれ
いや、私が来た時点で剪定も何もないのだが。
『それで? マスター、我らの拠点はどこにある?』
「ここから……東の方かな。ひとまず後で荷物をそこに置いて、今日はずっと外を歩く。土地も把握しなきゃいけないし」
『なるほど。しかし昨夜遠坂邸にあったアレはおそらく芝居だぞ? うっかり敵の罠に嵌るハメにはならんようにな』
「分かってまーすよー。けど、師匠から送られたデータから推測するに、たとえアサシン陣営がまだ健在でも、指揮とってんの優雅で貴族な魔術師トーサカさんなんで、多分情報収集するだけですよ」
本格的な暗殺に転じるのは、もっと他陣営から動きが出たときだろう。それに、あんな強力な英霊を召喚しておいて、ただ侵入者を滅するだけに使うということは、まだ遠坂は静観に徹しているというこれ以上とない証拠だ。……まさか、ここでもあの黄金の英霊を見ることになろうとは思わなかったが――
「全くさぁ、何なんだろうなアイツ? 私がエルキドゥ呼んだのが悪いのか? 今回連れて来てないのに? それとも
縁があるのは自覚している。だが、こうも任務の途中で出て来られるとうんざりするのだ。あんな奴、顔を合わせるのは喫茶店で岸波と待ち合わせした時だけで十分である。
『お前が任務中に奴と会ったのは二年前が最後、と言っていたか。確かにそう考えるとエンカウント率は高い方だな』
二年前――月に開かれた
一番最初に参加した、月の聖杯戦争よりもう四年が経つ。
アレを乗り越えた後も相当ヤバい案件に叩き込まれたが……生きているのが、逆に奇跡なくらいだ。もう、何度思ったか知らないけれど。
――やがて辿り着いたのは、冬木市を分断するように流れる川の上に架けられた大橋だった。
車が通る道路の下、歩道橋から眼下に広がる公園の風景を眺める。そこでは数人の小学生チームがサッカーの試合を行っており、丁度キックオフされたところだった。
「どうだい先生、混じってきたら?」
「馬鹿を言え。運動も肉体労働の内だ」
それは流石に言い過ぎなのでは、と言いかけた時、外見年齢にそぐわぬ渋い声を発するサーヴァントが霊体化を解いた。
風に吹かれる水色の髪。装備しているのは、これまでの旅の途中のどこかで勝手に購入していた黒縁眼鏡。妙によく似合っている。
「進捗どう?」
「聞くな。……とはいえ、流石にそろそろ終わりが見えてきた。お前、俺のやる気の引き出し方を知っているのか?」
「一年間の猶予期間に加え、しかも世界旅行にまで行ったんだ。流石に書いて貰ってないと困るんだよ」
目の前にいる十歳ほどの少年――他でもない、ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、彼の自伝を読むと相当旅行好きなのが伺える。故に、それを活用しただけのことだ。
幸い、彼のマテリアルも四年前に取得していた。遅筆なことも知っていたからこその、一年にも及ぶ猶予期間――及び、締切までの期間である。
「前にも聞いた気がするけどさ。アンタ、月での記憶はどこまで憶えてるんだ?」
「最低なマスター、凡俗な王道系主人公のあいつだな。正直に言うと、お前のことは左程よく憶えておらん――あぁ、確か首を絞められた気がするが」
「しっかり憶えてんじゃねーか」
当時はお互い、立場が違ったのだ。打ち倒す者と打ち倒される者――けれど今は、こうして味方側について貰っている。
今回参加するのはトーナメント制ではない、真に「何が起こるか分からない」聖杯戦争。
だから最初から剪定事象になると伝えられてきたのだが……ぶっちゃけ、もう帰りたい気分だ。
唯一受けたのは“今回は特別厄介なモノがいるから気をつけろ”、というまっったく参考にならない師匠からの助言。それ、毎回どこもかしこも厄介な奴しかいねぇから。
それでも、自分でできる限りの対策や準備はしてきたが……はて、ここまでする必要のある脅威とは、一体なんだというのだろう。少なくとも、白い巨人よりはマシなものとは思うが。
1994年。「正史」では第四次聖杯戦争が行われた年代。
ここではない、別の世界で軽く調べた情報だが、第四次はビル爆破だの海魔出現だのとろくでもねー出来事があったという。まぁこの世界では「これから」の話になるのだが。
「よりにもよってなんで第四次なんだよ……嫌な予感しかしねーよ……」
『――いいえ、マイマスター。この軸での聖杯戦争は、
悲鳴を上げかけた。
パッと前触れなく視界に現れたのは、青い蝶のような羽を持つ、円形のヘッド部分に六芒星が飾られた特殊魔術礼装。
――そう、魔術礼装である。しかもA級らしい。
「…………サファイア」
『はい、
くるくると、否、グルグルと苛立ちを発散するように空中で高速回転しているハイスペッククレイジー礼装。
これこそ
「出たか残念礼装。しかし見れば見るほどキテレツな存在だな? いるだけで世の法則が乱れそうだぞ」
「そもそもマジカルなんて名前がついてる奴にろくなものいねぇよ。こんなの作った師匠の正気を疑うね。制作まで一体どういう経緯があったのやら」
知りたくもない。
すると、高速回転を続けていた精霊がビタッと空中で止まる。
『そこまで言われるのは心外ですね。私も大師父の命があるからこそ協力しているだけです。(魔法少女適性なしのマスターなど論外です。)それとも、お忘れになったのですかルツ様。私がいてこそ、貴方は英霊二騎の使役などという反則が可能になっているのですよ』
……ぼろっと本音が漏れている。しかし隠す必要あるのかその言葉。
「いや、
私の魔術回路はその9割が死滅状態にある。しかし、月の聖杯戦争の果てに獲得した霊子ハッカーとしての知識をフル活用し、
サファイアが行ってくれているのは並行世界からの干渉によって行われる、無制限の魔力供給。これが組み合わさって、初めて私は「魔術師」といえるレベルに至れる。
また、師匠の説明によると、魔力を変換すればAランクの魔術障壁や物理保護、治癒促進、身体能力強化、etc……とかいうこともできるらしい。
しかし当のサファイアはあくまでも基本、魔力供給のみに協力しており、それ以上の機能は魔法少女にならないと許可できないなどと言っている。何故そこまで、こいつが魔法少女に拘っているのかは未だ不明。
「んで、えーと……なんだっけ。あぁそうそう、今回の件についてだったか。第一回目の聖杯戦争は何か問題があるのか?」
『数多ある並行世界の中でも特殊例の内の一つに入るかと。無論、この軸ならず他世界でも“全く穢れのない、真っ当な聖杯”が賞品であることはありましたが――』
「所詮、それもロクなものではなかった、と。これだから『万能の願望器』などというキャッチコピーは信用できん! 眉唾ものにも程がある!」
そう考えると、ムーンセルは割と良心的な部類だったのかもしれない。
……無論、他の聖杯と比べればの話だ。あれは性能が良くても環境が鬼畜過ぎである。
「聖杯って……面倒くさいなぁ。本体見つけてさぱっと叩き壊すのが一番近道じゃね?」
『身も蓋もないことを言わないで下さい。私個人としては賛同してもいい意見ですが、大師父がわざわざ聖杯戦争開始一年前に貴方をこの世界に送り込んだ意味を考えなくては』
……はて。てっきりそれは、作家を呼び出そうと決めた私に対しての、師匠にしては珍しい粋な計らいだとばかり思っていたが。
しかし指摘されてみると、確かに準備に関係すること以外で、あの爺が“こちらを思って”行動するなど嵐の前触れに他ならない。基本的に、あの魔法使いに良心など期待してはいけないのだ。
「なら話は簡単だ。我がマスターがこの世に降り立ち、そして俺を召喚した時には既に事態は動いていたのだろう。心当たりはなくもないしな」
作家先生は話が早い。いっそ探偵になれそうなくらいに。
「えぇー……でもちょっと待てよ。それなら去年、世界旅行なんかせずにさっさと冬木に来れば良かったんじゃ……」
「その時の俺達が行ってもどうにもできない相手なのだろう。或いは条件が整っていなかった、という説もあるが。なんにせよ、どうせこの世界の聖杯戦争もろくでもないことになるのだろうさ」
結局なにも分かっていない。だが、情報不足である以上はこれが限界だ。あとは、他の陣営の動きを見て判断するしかないだろう。
『――洞察力には優れているようですが、何故ルツ様はこの英霊を選んだのですか? ランサーが使えない今、より強力な英霊を召喚した方が効率的だったのでは……』
「ハハハ、何を言いやがる。いくらお前からの無限魔力供給があっても、宝具解放時に私が死ぬわ。体内の魔術回路数なんかもう片手の指で足りるんだぞ。電脳世界使ってもなぁ、結局私を通じてサーヴァントに魔力が送られるんだから宝具解放なんかできるワケねーっつの」
強力な英霊は、即ち強力な宝具を持ちうるだろう。
だがしかし、ただでさえ魔術師という体を成すのに精一杯な自分が、施しの英雄やら光の御子なんか呼んだら、それは完全に自爆覚悟の召喚である。いや、確かに通常戦闘でならこれ以上とない味方だが、
今回で師匠からの課題は4件目だが、毎回毎回常軌を逸したものばっかりなのである。
しかもそれら全て、元凶が
「ま、俺も初めは真っ当な聖杯戦争で、こんなハズレサーヴァントを呼ぶとは一体どこの三流かと思ったが。しかしきっちり締切期限を確保していた点は評価しよう。その間、俺のやる気を出させる手腕も見事だった! ――記憶にある姿より、幾分か魂は腐ったようだが」
『その点については同意します。全く魔法少女に相応しくありません。一昨日来やがってください』
「うるせぇよこの毒舌コンビ! 変なところで気ィ合ってんじゃねぇ!!」
今回はまた、別の意味で難儀しそうなパーティである。いや、どちらもまともに意思疎通ができるだけマシな方か。
「――さて、と。サファイア、聖杯戦争参加者の目処はついてるのか?」
『大方は。先ずは遠坂、アインツベルン、間桐の御三家は確定でしょう。あとは、時計塔から一名。残り二名はおそらく他魔術師からランダムに。なお、アインツベルンは代役として名のある魔術使いを外部から引き込んだ模様です。そして遠坂家の当主には弟子がおり、聖堂教会に属する者ですが、師弟関係という点から高確率で同盟を張っているでしょう。間桐の家系は今回、長く家から離れていた素人をマスターに仕立て上げた様子です』
……ということは、既に私を含めて五人のマスターの情報が判明しているということか。
いや、向こうからしてみれば私こそがイレギュラーなのだろうが――それはそれ、聖杯戦争に例外は必ずあるものだ。
『以上です。それでは、今日はいかがなさいますか』
「昨日動きがあったってことは、本格的な開戦は多分今夜からだろう。先生は私への透明化魔術を続行。サファイアはナビゲーター役として冬木を案内してくれ」
何はともあれ、数日間は街一つが丸々戦場と化す。
魔術師たちの時間までまだ猶予はあるし、それまでは――ひとまず、地区の把握を含め、この冬木という街を存分に観光巡りしていくことにした。
クール系毒舌ナビゲーター役もといギャグ担当、マジカルサファイア登場。ルビーちゃん? アレは性格的に手がつけられなくなりそうだからナシの方向で。お帰り下さいまし。
ちなみに魔法少女展開はない。