車輪の下のC   作:一ノ原曲利

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 赤き星のゴッドマザー

 そして船は希望を乗せて





船出

 

 

 

 

 ギャラルホルンからの単騎出撃及び決闘、旧CGSからの脱退に伴う退職金の清算、CGS改め『鉄華団』への改名、オルクス商会との契約、MS(モビルスーツ)の積み込み等々、粗方の業務を終えたオルガは椅子の背凭れに背中を預け、小さく息を吐いた。

 多忙に積み重なる多忙。倍々ゲームよりも簡単で、鼠算式よりも早く、細菌よりも増殖する仕事に一区切りがつくまで、シンヤ特製のありとあらゆる覚醒剤を混入した違法ギリギリの麻薬まがいを服用して眠気を強制的に覚まし続けた。おかげでデクスター、オルガ以下二名の目の下に軽く隈が出来ていた。ビスケットも圧倒的暴力紛いの仕事量の煽りを受けて少し頰が凹んでいる。

 

「終わっ、た…」

「金がない…」

「休みたい…」

 

 シンヤに加え、ビスケットは中途半端に兵器運用に関する知識もあったため、ギャラルホルンが置いていったMW(モビルワーカー)MS(モビルスーツ)の残骸から使えるものを見繕ったり、売り払う値段の予測からこれからの予算への組み込み、編成、売買業者の選定、その他諸々も業務のうちに入っていた。絶えず執務室と格納庫を行き来してはあーだこーだと相談し、一先ず清算することはできた。

 

「やっぱマルバの野郎に資産を殆ど持ってかれたのが痛いな…もう、火星には居ないのか?」

「二日前に『方舟』で出ているのを監視カメラが捉えていたね、今頃宇宙の大海原で豪遊してるんじゃない?」

「ケッそうかよ」

「今、監視カメラって言いませんでした…?」

「…言ったな」

「…シンヤが、〝箱舟〟の宇宙港にある〝ウィル・オー・ザ・ウィスプ〟の名義変更手続きの予約を取った際に、記録を見たんだってさ…」

「ま、バレなきゃ問題ねぇか。それでシンヤはどうした?」

「ああ、それならこれから暫く火星を離れるとのことなので、例の小遣い稼ぎに―――」

 

 

 

 

 

「はい、これ例のお薬」

「わぁ、せんせぇありがとー!」

 

 薬が入った紙袋を抱えた、年端もいかない少女らはシンヤにそう言って火星貧民街のメインストリートを駆け抜け、そして裏路地にその姿は消えた。

 

「毎度毎度、すまないね」

「謝る姿勢があるなら自分で動かしな、どうせツナいだんだろ」

「おや、解るのかい」

「あぁ解るよ、解るね。アタシをバカにすんな」

 

 シンヤの車椅子を押しているのは細身の女だ。銀髪が覗く頭に民族衣装らしきカラフルなターバンを巻き付け、異性には中々刺激的なダメージジーンズを履き、薄い布切れとしか言いようのない上着を羽織り腰の辺りで余った丈の部分を一纏めに縛っている。そのおかげか元より大きな胸元の肉が強調されていた。

 女は唾を吐き、シンヤの車椅子をやや乱暴に押し進める。

 

「まさかアンタの阿頼耶識がちゃあんと使えたなんてな」

「ははは、私も吃驚だよ」

「ウソつけ、アンタに予想外の三文字なんかねーだろうに。さっきの女の子だって来ることぐらいわかってたんだろ」

「準備というのはやっていて損はない。たまたまその内の一つを渡したに過ぎないよ」

「ハッ」

 

 女は鼻で嘲笑った。

 

 火星の貧民街は回って来る物資も少なく限られた資材でどうにか成り立っている状態だった。昔は路地の至る所に糞尿が撒き散らされ、とてもではないが見ていられない生活環境であったことは確かだ。道端には飢餓に苦しみ抜いた果てに死んだ子供の死体が転がり、それを見て見ぬ振りをして放置する大人たちが人の目を避けるように皆歩く。ライフラインが殆ど閉鎖されていたこともあり、ある意味現世における地獄と呼んでも差し支えなかった。

 

「あのお姫さんの中途半端な手回しは、少なからず影響があったようだね」

「ハンッ。あのいけすかないお嬢様の働きかけで、ライフラインの一部が戻ったのは確かにありがたいけどな。特に水はいいぜ、全てを洗い流せる」

 

 物資が少ない火星において、水は貴重な資源であった。当然少しの量でさえ地球における価格とは比べ物にならないほと高騰している。故に、以前視察に来たというクーデリアの嘆願と尽力によりライフラインとして水道が戻ったとはいえ、安易に使える訳ではないのだが。

 

「そりゃ、何事にもあって困ることはないさね」

「ママ」

「これはこれは、お久しぶりですマザー」

 

 貧民街の一角の、なんの変哲もない一軒家の奥で、ママと呼ばれた女はいた。

 肥満というレベルでは抑えられないほどでっぷりと肥えた腹。火星では珍しい金髪に色白と、この体型になる前はさぞかし美人であったであろう要素を兼ね備えている。鋭い碧眼は年齢による衰えを感じさせないギラギラしたものではあるが、それは凶暴という訳では無く理性と持った獣のそれに近いものだった。

 事務室にも似た間取りではあるが窓はない。代わりに護衛として屈強な体の女が数名、壁際に待機していた。当然皆、拳銃の携帯をしている。

 

「久しぶりだねセンセイ。話は聞いてるよ、ギャラルホルンに襲われたんだって? 大したもんじゃないか、末代まで自慢できるよ」

「私には、子が居ませんので自慢できないですね」

「それなら後ろのクリスとでもどうだい?ウチの一番の腕利きだ、処女じゃアないが技術は保証する」

「と、言ってますけど?」

「却下。こんなカイワレ男じゃ何一つ楽しめねぇ」

「ですって」

「クリスもセンセイも変わらないねぇ」

 

 げらげらとママが笑った。

 ママは、ここ火星の貧民街における一大組織としての統括に務めている。主に捨てられた女子供の保護や売春による金稼ぎ、麻薬の取り締まりなどだ。シンヤとは個人的な繋がりを持っているが、シンヤが医師でありママが組織の長とくれば、その関係性は極めてわかりやすい。

 

「ハイ、これが半年分の薬です」

 

 でん、とテーブルの上にぎっしり薬が詰まった紙袋を乗せる。ママはそれの内の一つを手に取り中身を確認した。あるのは主に、避妊薬だ。

 

「半年とはまた随分と沢山持ってきたネェ、旅行にでも行くつもりかい?」

「仕事で地球まで行くつもりです。暫く此方には来れないので、今のうちに」

「ははァ、地球に、暫くと」

「辿り着いて、また戻るより前に宇宙の藻屑になってしまうケースもありますけど」

「そいつぁ困る。アタシらの専属のお医者さんが居なくなっちまったら迂闊に商売も出来やしない」

「ですから、半年分です」

「アタシとしちゃ、一年分丸々貰ったって困りはしないんだがね」

「それは〝今〟〝ここで〟代金を支払えるということでしょうか?」

「シンヤ」

 

 頭上から鋭い声が突き刺さる。車椅子を押していたクリスの声だ。年中暑い火星で、雰囲気としては豪放磊落にして快活なクリスとは似ても似つかないほど冷たい声だが、此処でタガが外れかかっていることはシンヤにもわかっていた。

 つまりは、キレたのだ。

 

「ママをバカにするのは、赦さねぇ」

「バカにしてませんよ、これは商談です」

「ギャグかます余裕はあるンだな」

「えっギャグ…えっ? ギャグですか? もしかして商談と冗談を掛け合わせたんですか? ごめんなさい正直笑えませんしセンス疑います」

「覚悟は出来てんだな?」

「これ、おやめクリス」

 

 ガチャリとシンヤの後頭部に拳銃の銃口が押し当てられ、引き金に指を掛けたところでママによる待ったが掛かった。その言葉に思わずクリスも踏み止まり、再び引き金を引こうとして盛大に舌を打ったところで漸く銃を下ろす。

 その間、シンヤは避ける素振りも無ければ驚いたような素振りもない。だがこれは予想していた、という言葉では説明できない落ち着きであった。そのことが、クリスをより一層腹立たせる。

 

「金ならあるよ。それよりそっちの方が金が欲しくて欲しくて堪らないんじゃないかい? 鉄華団?」

「…その情報は、些か早過ぎる気もしますが」

「アタシの情報網を舐めるんじゃナイよ。マルバにも逃げられてるアンタ達じゃわからないか」

「返す言葉もありませんね」

 

 ママがパチンと指を打ち鳴らす。すると、顔を布で覆い隠している変わった民族衣装の女が別室から出てきて、布を被せた大皿をテーブルの上に置いた。シンヤはそこに積まれている金の多さよりも布で顔を隠したまま正確に皿を配置できる女に感心した。

 

「一年分の金がここにある」

「毎度ながら、古風な持ち方ですよね。普通はバッグに詰め込んだりしておくものですし、そもそも電子マネーが一般的な現代では時代遅れ感が」

「五月蠅いね、アタシァ演出家なのさ。風情というものを大事にすることは間違いではないだろう? 懐の潤いは金で満たせる、喉の潤いは水で、腹は食い物で満たせる。だが心はそうもいかない、心の潤いは娯楽で満たしてナンボさね」

「至言ですね、受け取っておきます。ですが金は受け取れません、今手元に一年分の薬を持ち合わせておりませんから」

「おうおうおう、デカイ口叩いた割には手持ちが足りないってか? アンタの足元も見えたもんだなぁおい」

「クリス」

 

 再び嗜められて、クリスがゴクリと唾を飲む。流石に調子に乗り過ぎたのか、決まりが悪そうに靴を踏みならして踵を返し、部屋から出て行った。

 

「あの子なりの愛情表現というヤツさね。あまり気を悪くしないでおくれよ」

「毎回突っかかって来ますよね、しかし愛情表現というのはわからない。特に女性に関しては尚更ですね、彼女は正直に話しているのに何一つ満足していないご様子だ」

「気になるかい?」

「残念ながら、微塵も」

「いつもながらそっけないねぇ」

 

 げらげらと、下卑たというにしては澄み切った笑い声が響く。

 

「あの娘はね、まだ愛というものがわからないのさ」

「この火星の貧民街に、愛は生まれませんよ」

「いいや生まれる、そして育んでいくものなのサ。アタシァその間を繋いでいるだけさね、いつか本当の愛を見つければ、その間をね」

「成る程、ではピルは不要では?」

「望まぬ子に愛は見出せない。そりゃあ、アンタが一番よく知ってるんじゃないかい? エエ?」

「……よく、解りませんね。残念ですが」

「そうかい。愛を見つけるというのは、人生の半分を預ける相方を見つけ出すことサ。それは女だろうと男だろうと変わりはしないし別にどっちだっていい。そういう人生における〝半身〟を見つけ出し、共に生きていくことが大事なのサ」

「理想論ですね」

「叶えたい夢だから理想というのサ。センセイには解らないかい?」

 

 その問いに、シンヤは曖昧な笑みを返す。代わりに、車椅子の下から紙袋を一つ。

 

「追加の、半年分です」

「…これは、驚いた。多分クリスも度肝抜かすよ」

「それは重畳、尚更この場に居ないのは残念ですね。彼女が呆気にとられる顔はとても絵になる」

「…アンタ、お人好しと言われないかい? こんなの商売として破綻しているよ。アタシ達がこの場でぶん取って、金も渡さず追い出しちまったら大損だろう」

「でも、しないんでしょう?」

「……大した男だよ」

 

 呆れるようなママの言葉に、恐縮ですと形式通りの答えで応じる。

 

「…降参だ。これは、本来アンタが今までアタシのシマで配っていた〝これまでの取引に含まれない分〟の支払いだったんだよ」

「はぁ」

「はぁってアンタ…それなのに、冗談を本気で取っちまってアタシの面目丸潰れじゃないか。バカにしてんのかい」

「いえ、もし私が帰れなかったら足りなくなるでしょう。ですが一年…いえ、九ヶ月もあれば新しい取引相手が見つかる筈です、マザーの手腕であればそう難しいことでは――」

「冗談も大概にしろってんだ」

 

 ガタリと椅子を軋ませて立ち上がると、ママの巨体がドスドスと音を立てて歩み寄る。その姿はゴリアテに相応しい威容であり、迫るたびに室内の明かりが陰っていく様が他者へ恐怖を植え付ける。

 生憎と、シンヤに恐怖はないのだが。

 

「いいか、半年分と半年分合わせて一年分の薬は貰ってやる。そしてこの一年分の金はくれてやる。だがね、だーがーね! さっきも言ったけど〝これまでの取引に含まれない分〟をアタシ等は払っていないんだ! ソイツを払わせる為に意地でも帰ってきてもらうよ! これは顧客としてwin-winの関係を維持するために必要不可欠な契約だ! わかったね!」

「強引ですね…しかし契約ですか。確かに」

 

 ビシッとぶっとい指を突き出され、額を強かに打ち付けられながら、特に痛がる素振りもシンヤには見受けられることなく感慨深げに頷く。

 

「精々、宇宙の藻屑にならないように頑張りましょうか。私としても貴女達との関係を断つことは望ましくないですね。今後の鉄華団の資金運営に限り、ですが」

「フン、なんでお前さんは一言多いのかね。口は禍の元とは教わらなかったのかい」

「正直、貴女方の面子を維持するためでしょう? そんなプライドは犬に喰わせてしまっても宜しいのでは?」

「必ず帰って来いって〝命令〟なんだが、聞こえなかったかね? その耳剥いちまおうか?」

 

 ガチャリと四方八方から銃の撃鉄を起こす音。流石にこれ以上のお遊びは度が過ぎるらしい。降参(ホールドアップ)の証拠として万歳して了承。ママも深く溜息ついて顎で、先のフードを被った女性に指示を送る。女はテーブルの上の金を全てバックに詰めると、シンヤの車椅子を押して退室する。

 

「ああ、代わりと言っては何ですが」

 

 その直前、何でもないようにシンヤがぼやく。

 

「実は先日旧CGSの壱番組の殆どが退職しておりましてね、申し訳程度の退職金は握らせたのですがどうにも」

「ソイツ等なら早速ウチの子数人見繕ってお楽しみだったよ、それが?」

「あの大人達は……ええ、まあウチの団長の方針で半ば脅しに近い形で辞めさせたんですよ。一応もう一切関係のない間柄でしてね、鉄華団(こちら)としてはあらぬ悪評で貶められては来る仕事も来なくなってしまいますし、即戦力となるメンバーは全員が地球行きですので、火星(こちら)のガードが薄くなってしまうんですよね」

「アタシ等としても将来有望な鉄華団が潰れちまうのは好かない。旧CGSの男共には見張りを付けているから安心しな」

「流石は手が早い…」

「良くも悪くも旧CGSは清濁併せ呑む組織だったからねぇ…普通だったら一発で死刑になるような重罪人も書類審査なしで入社させる。謂わば雇用の終着点だ。そんな組織が、社長がトンズラして壊滅しちまったとなりゃ、荒くれ者共が檻から出て行ったようなものさね」

「それは…」

「いいや、別にセンセイのせいじゃないさ。遅かれ早かれそうなることは目に見えていたさね…マルバの阿呆が、もっと組織の管理はしっかりしていりゃあこうはならなかった」

「お知り合いで?」

「昔馴染みさ、アンタんとこの雪之丞もな」

 

 

 

 

 

 火星にあったのは、貧富の格差に隔絶された醜悪な世界。

 

 弱者を虐げる暴力。

 

 這い寄る飢餓と渇き。

 

 息が詰まるほどの大気汚染。

 

 そして、身の毛もよだつ性産業。

 

 働かされるのは年端もいかない子ばかり、飢えを凌げることを無聊の慰めに、親が業者に売り渡し端金で幼子の未来と引き換えに数ヶ月の命を繋ぎ留める。

 物乞い、売春、◼️(じん)◼️(しん)売買による(しょく)(じん)の合法化。現世の混沌の坩堝と呼んでも差し支えない、実物を見なければ理解できない、人間の生存本能が生み出す獣性。ヒトの尊厳を踏み躙る現実。人類種が限界に達した醜い姿。

 だが見ただけでは伝わらない、その環境に身を委ね、巻き込まれなければ真の現実は理解できまい。そして知る、この世こそが地獄であることを。地獄とは、案外身近にあるものだと。

 

 

 

 

 

 一日、シンヤはマザーの管轄する地区の宿に泊まった。別に泊まる必要は無かったのだが時間が時間、既に商談が終わる頃には陽が落ちていたこともあって宿泊を勧められていたのである。

 宿はシノやユージンであれば鼻の下を伸ばすほどの美人揃いで一瞬娼館か何処かに連れてこられたのかと戦慄した。妙に女達がシンヤに対して甲斐甲斐しかったことが疑問に残る。単に車椅子患者として見られていたのか、それとも薬の提供者であることを知ってのことか。

 明らかに怪しげな手つきで近寄る女性に対しては、フードの女が気配で威嚇して徹底的に露払いをして貰っていたこともあり、特に一夜の過ちということはなかった。

 途中、酔っ払ったらしいクリスが全裸で窓から進入して銃をこちらに向けながら何やら戯言を抜かしていたとの話を聞くが、当時はその姿を確認する間も無く窓に投げられていた。元壱番組の後始末に追われていたのだろうか。

 

 そして現在。

 

「センセイは」

「ん?」

 

 貧民街のメインストリート。先日来た道を帰る中、車椅子を押すフードの女が声をかける。

 懐に抱えた金を虎視眈々と狙う輩に、威嚇代わりの銃をチラつかせながら、シンヤは女を仰ぎ見た。

 フードの奥で、窪んだ眼窩からエメラルドの瞳が覗く。静謐で、しかし気力を削がれるような―――所謂、聞く異性を堕落させるような魔性がその瞳にはあった。ママの髪よりも色素の薄い金髪、火星では滅多に見かけない色白肌。

 

「もう、火星には帰ってこないんですか」

「いや? まぁこれは私の悪い癖でね、常に最悪のケースを予測して動いているに過ぎないよ」

「その最悪のケースとは、貴方のですか? 私達のですか?」

「…少なくとも、私ではないかなぁ」

 

 思わず正直に答えてしまい、失言かと思い暴力の類を覚悟する。良くも悪くもママの護衛に着いている女達は屈強だ。幾人もの男を抱え込んだ体力は勿論のこと、鉄華団にいる昭弘と勝るとも劣らないゴリラ系女子がいる。最初は信じていなかったが、以前目の前で通り魔に襲われた際に腹部の筋肉で内臓への到達を防ぎ、その重厚な筋肉によってナイフを引き抜くことも押すこともできなかった現状を目の当たりにしてリアルアマゾネスの存在を確信した。

 

 しかし、後ろの女はその類ではない。

 

 だが、外見ではとてもではないが考察できない力を感じる。昨晩クリスを投げ飛ばしたということから、少なくともなんらかの訓練を受けていることは容易に知れた。

 

「帰って来てください」

「え?」

「帰って来てください、必ず」

 

 そう言って、女は一枚のカードを差し出した。シンヤはそれを受け取り拝見する。

 黒塗りで文字は読めないが、恐らく透かしやなんらかの機器を用いた読み込み式のカードキーらしきものであることはわかった。勿論、これがカードキーとしての役割を果たすかどうかは別だが。

 

「これは?」

「役に立つものです」

「必ず?」

「…数日前、私の昔の同僚が火星に来てました。貴方の前の上司はその同僚らと共に、この火星を離れた可能性があります」

「…そうでしたか。これはマザーからの指示ですか?」

「………」

 

 帰って来たのは無言だった。恐らく、彼女個人として言えない事情があるのだと察し、受け取ったカードを懐に仕舞う。

 そのままメインストリートの終わり、一直線に行けば鉄華団に辿り着く道へ突き当たり、彼女の手は離れた。

 

「似てたからです」

「ん?」

 

 阿頼耶識の力によりゆっくり回り出した車輪の音に紛れて、フードの女の声が響いた。

 早朝だというのに、周囲は喧騒に塗れて喧しい筈なのに、その声だけはシンヤの耳に突き刺さるように入ってくる。くるりと反転し、後ろ向きになり彼女と向き合う。

 エメラルドの輝きが瞳に飛び込む。それは即ち互いが互いの姿を捉えているということに他ならない。

 

「誰に?」

「私が前に見た、あの人に」

「あの人?」

「貴方は本当にあの人にそっくり。もしあの人と出会うのがもっと早ければ、貴方みたいなこの世を知ったかぶったような偉そうで、達観した性格だったのかも」

「なんだかとても奇妙な誤解をされていませんか」

「でもあの人とは似ても似つかない。だって貴方はあの人より優秀過ぎる」

 

 優秀、という言葉に首をひねる。一体彼女はシンヤという像を通して誰を見ているのだろうか。少なくとも、シンヤは今まで一度として貧民街を訪れた際にこのフードの女に出会ったことは愚か、見かけたこともない。

 それはシンヤに見られないように遠巻きに監視されていたのでは、と仮説を打ち立てた。

 

「そういえば、貴女の名前を伺っておりませんでしたね」

「ビーチェ」

 

 それは、久遠の女性の象徴とも言える名であった。

 

 それは、至高天に至った女性の名であった。

 

 ほんの僅かに目を丸くしたシンヤを見て、悪戯っ子のようにビーチェは口元に弧を描く。長い金髪が風に巻かれては引き、次の瞬間には火星の大地から影も形も断ち消えた。

 

 運命は感じない。偶然を信じない。必然を疑わない。だが後に、シンヤは己が至る未来の確定が此処であったことを確信する。

 それはCGSに就いたことでも、阿頼耶識の手術を行ったことでも、鉄華団に名を改めたことでもない。

 この日この時この時点が、一つの極地であった。

 

 

 

 

 

 同日、火星の空を飛び立つ一隻の船が確認された。人々は様々な思いを抱き、それを仰ぎ見る。

 

 

 

 

 

 

 

 






クリス:ツンデレ。巨乳。銃やロケットランチャー大好きガンマニア。トリガーハッピー。ツンデレ。非処女。

マザー:姉御肌。肥満体質。年齢不詳。火星の影の首領。商売上手。お金好き。

ビーチェ:金髪碧眼。標準より上。二十歳手前。謎。

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