和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦647年~648年
金春秋の和国出奔を知ったウィジャ王は怒り百済から新羅へ攻め入らせる。しかしピダムの乱後の金ユシン率いる新羅軍は強く、百済は今迄の様に勝利することが出来ず大敗を喫した。

イリは唐高句麗戦の処理の為、自ら唐へ謝罪に赴くいたが幽閉されそうになり唐国から西アジアへ脱出する。その後西アジア諸国を巡り反唐を説いて周り反唐同盟となる国を探しにいく。


第1話 新羅 百済を撃退する
第2話 イリ 唐へ向かう
第3話 イリ 西アジア遊説
第4話 唐 三度の高句麗侵攻



第7章 【反唐】イリ 西アジア遊説へ

【新羅 百済を撃退する】

 

647年10月、ウィジャ王より「容赦なく攻めよ」と厳命され百済から新羅へ攻めこんだ義直将軍は、金ユシンの激しい反撃に遭い苦戦していた。

 

国境地帯の3つの城を攻めたが、落ちない。

 

新羅が幾度も請願した百済攻めは太宗皇帝に聞き入れられず、唐の新羅救援は期待できない、、

 

「新羅だけで百済に勝利しなければならない」という現実が、新羅軍に重くのしかかり

 

(何が何でも負けられぬ)、、と

 

金ユシンらは死力を尽くして戦っていた。

 

 

【挿絵表示】

金ユシン

 

弱すぎれば、唐に救う価値もないと切り捨てられるか、内政に介入されるだけであり、絶対負けは許されない局面だった。

 

新羅軍の戦いぶりは激しく、百済軍はいつもの様に勝利をあげることができなかった。

 

豪胆機敏な金ユシンの用兵に加え、新羅のファラン達の凄壮な襲撃に混戦乱闘を極め、百済の義直将軍は危うい思いをした。

 

義直将軍も、ウィジャ王に

 

「容赦なく攻めよ!」と、

 

厳命されてる以上、容易に退く訳にはいかなかった。

 

決着のつかぬ激戦に、新羅軍も次第に気力は尽きかけてきた。

 

金ユシンは起死回生の打開を図り、部下の勇将・丕寧子将軍とその子・挙真を出撃させ、全軍の士気を託した。

 

丕寧子将軍と挙真親子は、金ユシンの命に応え、新羅烈士の戦ぶりを見よとばかりに、一目散に馬を走らせる。

 

「殺生は時を選べ!かかる時は今こそ!」

 

と、叫び敵陣に突撃した。

 

その瞬間に痛みも命も、全て捨て、

 

我が身が傷つくことなど顧みず、満身創痍のままに敵の剣戟を突破していった。

 

丕寧子将軍と挙真親子は、命が尽きるまで戦い抜き、新羅烈士の志魂を両軍に轟かせ散っていった。

 

あまりの壮烈さに百済軍は蒼白となり、新羅軍はこれをみて激しく奮い立った。全軍が決死の覚悟で突撃して、夕日が沈む頃には百済軍を撃退し、見事に百済義直将軍を大敗させた。

 

悽愴な戦を乗り越えて、新羅軍は一つとなった。

 

今まで、新羅の国境付近の地方部族らは戦うよりも旗色を見て、百済についた方が有利とみれば百済に降伏し、私兵を率いたまま本領安堵で、百済側の部族になってしまう者が多かった。

 

この為、金ユシンらは、有力部族らの私兵を率いる時は、常に部族長らの封じこめをしてから国境の戦いに望まなければならないという内憂外患の状態が続いてきた。

 

しかし今、ようやくこうしたことがなくなり、金ユシンの武力が全力で国外へ向けて発揮されるに至り、金ユシンの勢力伸長は群を抜いた。

 

 

新羅の真徳女王は金ユシン・金春秋らに擁立された傀儡(あやつり人形)であり、実際は金春秋が王の様なものである。しかし、その金春秋も金ユシンによって推された立場で、新羅の陰の力は金ユシンに依るところが大きかった。

 

金ユシンは、新羅に滅ぼされた伽耶国(任那地方)の王の子孫で、高句麗の宰相イリとも結び、なんとか伽耶王の血を引く者を新羅の王位につけようと望み続けている。

 

イリと金ユシンの妹鏡宝姫の間に生まれた法敏は伽耶の建国王~13代目の子孫にあたり、伽耶王の血をひく「法敏」を新羅の王につかせることはイリと共に、金ユシンと金一族の悲願で、

 

「法敏を後継者に」と、

 

イリと金ユシンらに迫られていた金春秋は、彼らからの王位擁立を受けることと引替えならばと、長子・金仁門を廃嫡し、この頃は正式に養子の法敏を後継者にしていた。

 

 

【挿絵表示】

伽耶建国王・金スロ

 

 

この年、和国では、上宮法王の片腕として日本列島を感化し民の為に生きてきた秦河勝が82才でひっそりと亡くなった。

 

無常の風が吹き、晩年は播州赤穂の地で一人隠せいして、安部連らが行っている灌漑工事などを見守り、民の行く末を最後まで按じていた。

 

 

 

 

 

【イリ入唐】

百済と新羅が死闘を繰り広げていた頃、唐では海軍の増強が急展開で進められていた。

 

唐はいよいよ「海」より高句麗を攻め落としにかかる計画である。

 

高句麗の遼東半島の対岸にある萊州(中国山東省)に戦船を集結させ、渤海を廟島群島づたいに遼東へ向かうのでなく、黄海を渡って直接高句麗の首都平壌に攻め入ることも可能と思われた。

 

高句麗では、沿海州から和国まで兵を募り大急ぎで前線へと送りこんでいたが、まだ防備は整ってない。

 

新羅の金ユシンも危機感が高まった。

 

(今、唐に高句麗を攻め滅ぼされてしまっては新羅の未来もない。なんとか新羅が力をつけるまでは、、)

 

と、憂慮する。

 

朝鮮半島と中国の接するところ高句麗が強国であったからこそ、半島は隋や唐からの侵略を免れ支配されることはなかった。

 

その高句麗が唐の支配になってしまえば、新羅や百済など風前の灯火である。

 

新羅は、高句麗という強国があってこそ、敵対する唐の同盟国でいられるのだ。今は味方でも、もしも高句麗が無くなれば唐は野心を剥き出しにし、

 

(すぐにでも新羅は併呑されるに違いない)

 

と、金ユシンは危惧していた。

 

そうした点では、高句麗の反唐と新羅の親唐は裏表の関係の様なものであり、いずれも国の命運がかかっていた。

 

 

「イリ自身が唐に謝罪しに赴くしかない。それで一時でも、唐の攻撃を緩めるしかない。」

 

 

金ユシンはそう考えた。

 

 

それぐらいで、唐の野望が無くなるはずも無かったが、何もせずにいるよりは、謝罪した方が良い。

 

それも先の戦の時の様な「美人二人を献上」などというたわけた謝罪ではなく、

 

「今度こそ、イリ自身が誠実に謝罪しなければおさまりはつかないだろう」

 

と、みている。

 

 

唐の進撃をなんとか少しでも遅らせる為、イリに謝罪の使いに行くよう促した。

 

他の誰かではなく

 

「イリ自身が唐へ謝罪へ行け」と

 

イリの入唐を催促する。

 

今では若壮のイリとは違い立ち振る舞いも身についていたが、いざ入唐となればおそらく息を詰まらせ、その場で「反唐!」と、吐き出したくなるかもしれない。

 

 

金ユシンはイリに手紙をしたためた

 

今、問う

 

「天下に剣を振るうと誓ったのは誠であろう。 漢の高祖劉邦、金春秋でさえ敵地に乗り込み、身の潔さを示して死地より戻った。その度胸もなく天下が望めるであろうか。」

 

「王の血統でなければ王位につけない、貴種でない者が実力だけでは決して王にはなれないという継承制度を嫌うならば、その心意気を見せてみよ。漢の高祖劉邦が、浩門の会に赴いたような気概で唐へ赴き謝罪してこい。」

 

 

イリは、常々、意識していたのは漢の高祖 劉邦である。

 

秦の末期に百姓の家に生まれ、小役人になり、味方となる血族集団(部族)や一族は全くいなかったが、天下大乱に身を起こしてやがては中国皇帝にまで上りつめた。

 

「漢(おとこ)とは、この様にあるべき」と、

 

常に自分自身とその生き方を「劉邦」に重ね合わせ、乱世を生きるイリが最も近づきたいと思う憧れであった。

 

憧れていたその劉邦の「鴻門の会」や、金春秋の来和にまで話しをなぞられ、金ユシンの忌憚無い物言いにイリは自尊心に堪えた。

 

 

【「鴻門の会」紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都・咸陽郊外で会見した故事。劉邦が関中王になろうとした事に項羽が怒り、劉邦自身が項羽のもとへ赴き謝罪する必要に迫られた。項羽には敵わなかったため直接項羽の陣に赴き謝罪したが、暗殺されそうになる。しかし、劉邦は虎口を脱し無事に項羽の陣より逃げ帰った。】

 

 

深く長いため息を吐き、イリは覚悟を決めた。

 

 

唐の首都・長安はイリの母の故郷である。母の国、唐国へ一度は行ってみたいとも思った。

 

イリの祖父を探し、存命ならば会えるかもしれない。

 

敵国に堂々と陳謝に行く機会などそうあるものではなく、こうして唐に行く機会がやってきたことも何かの縁であろうと考えた。

 

しかし、イリの股肱は少ない。

 

かかる時、自分の留守を誰に任せるかは重要であり、かなう者に任せなければ、かつての蘇我氏の様に権力の座に「とって変わろう」と、野心を出しかねない。

 

 

ウィジャ王には、股肱の臣サテク鎌足(中臣鎌足)がいて、フンス、ソンチュンら忠臣が留守を支えている。

百済・和国両国の王となっても、信頼して百済総督を鎌足に任せておけるからこそ、ウィジャ王は和国を統治することができている。

 

イリには、そうした信頼をおけ尚且つ高句麗の宰相の代理を任せられるほどの者がいなかった。

 

先の大戦では、楊万春将軍やテジュンサン将軍らに高句麗防衛を任せ、自身は徴兵と山背王暗殺のため和国へ向かうことができたが、将軍らに防衛線を離れさせ朝廷の宰相の座まで任せる訳にはいかない。

 

唐は遠く、容易に戻ることは困難であり、結局悩んだ末に父高向がそうした様に、イリもまだ若い息子達に任せるしかなかった。

 

金ユシンはイリの立場など考えもしないが、実のところイリの息子を巡り勢力が割れ、力関係も微妙に変化が生じはじめていた為、高句麗を任せるには不安が残る。

 

留守中、「新羅との戦は避け、決して高句麗から討って出てはならない」と、厳命した。

 

唐に謝罪している最中に、唐の臣国である新羅を攻めるなどしたら、イリは無事では済まないだろう。

 

 

イリは太宗皇帝へ謝罪するため直接、入唐する決心をしたが、ただ、無策で乗り込むということはしなかった。

 

イリ自身、今まで唐に対して行ってきた仕打ちを思えば、到底許されることではなく、入唐して無事でいられるとも思えなかった。

 

入唐にあたって、イリは正式に宝蔵王の養子(元子)となり、高句麗の第二王子として唐へ向かっていった。

 

もともとイリの妻ソヨン姫は、高句麗王族である高氏の娘であったが、宝蔵王は王族のソヨン姫を養女にしてイリを王子の地位にした。

 

この数年、乱世で重ねた年輪はイリの慎重さに厚みをつけている。

 

遁甲術(忍術)を学び、趙義府を設置して以来、細作は既に父・高向を凌ぐようになっていた。

 

唐宮廷の詳細な情報を探り、知りえる限り詳しく調べる為に、既に唐には大勢の密偵を送りこんでいた。

 

そして、渡りをつけた者には莫大な賄賂まき、流言を流させた。

 

 

「唐に許しを請いにやってきた一国の王子を処刑をしてしまうことは宜しからず。その様なことをすれば他の周辺国の帰服にも影響がでる」

 

という流説を吹聴させ続けた。

 

唐は高句麗の謝罪には疑心暗鬼であったが、

 

「謝罪に来たものをここで罰してしまったら皇帝陛下の徳にならず」と、

 

何人かの者は高句麗の使者の扱いを憂いはじめた。

 

 

 

イリは、万が一の覚悟を決め死の境地へと意識を高めていた。

 

といって

 

「壮士、一度行けば再び帰らず」などと言う気も微塵もない。

 

当然、金ユシンの言うように活路を開き生きて帰るつもりでいたし、そして手ぶらで帰るつもりもなく、金ユシンの思惑とは別に服案を企み唐へむかっていった。

 

 

 

 

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長安

 

12月、

 

イリは入唐した。

 

 

イリは、およそ宰相らしからぬ屈強な武人で権威を畏れず、覇気を払う。それが今は、高句麗宰相(マリキ)イリではなく、

 

宝蔵王の第二子の「任武」と名乗り、

 

謝罪の使者として平身低頭し参向していた。

 

太宗皇帝の慧眼で任武と名乗っている者がイリであることを見抜けぬはずはなかった。が、あくまで高句麗王子として謝罪に来ている王子任武であり、その様に扱った。覚悟の上で謝罪にきた者を斬るほどの狭量な器でもなかった。

 

 

畏怖堂々とした壮観なイリの風貌を、唐の宮廷の者達は注視したていた。千軍万馬、唐の太宗皇帝の前でも怯みもしないが、その前に膝を屈している。

 

目の奥にだけ異様な光を点じていた。

 

壮(おとこざかり)の魁塁の士であり、

 

「髭面の風貌が猛々しく、体躯は逞しく、壮(おとこざかり)で、堂々としていた。」と、

 

その居姿が評された。

 

 

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任武王子イリ

 

太宗皇帝は、高句麗王子任武の謝罪を容れ許し、唐高句麗戦は形だけは終戦となった。

 

 

高句麗王第二王子として、乃こう出でずんばと自らが謝罪に赴いたイリの行動は終戦という形にはなったが、

 

高句麗が謝罪したことによって、

 

「唐の勝利で決着した」という唐の体面を施す為の形式的な終戦がなされただけであり、

 

真に和平という戦後処理がなされた訳ではない。

 

すぐにでも次の戦に備えなければならなかった。

 

 

宮廷では、他国の王子たちと同様に留学で滞在させ、任武を唐に監禁してしまうべきだとの声があがっていた。

 

 

 

 

【イリ 西アジア遊説】

翌月、648年の新年が明け高句麗から唐へ、年賀使節がやってきた。

 

そしてこの年、和国には高句麗・新羅からの年賀の遣いがなかった。

 

ウィジャ王は二国の気配をいぶかしみ翌2月に、動静を探るため、半島に学問僧の使いを送って様子を伺わせた。

 

イリが高句麗からいなくなったことで、新羅と高句麗の緊張は高まり、イリの東部家門の実権を狙うヨンテスや、他の部族の首長らの暗躍が始まっていた。

 

 

イリがいないとの噂は、

 

「唐に人質としてとらえれたのでは?」

との見方が強かった。

 

 

しかし、唐への謝罪の後イリは行方をくらましていた。

 

高句麗からの年賀の使節らは入唐し改めて謝罪をしたが、太宗皇帝は任武(イリ)の出奔を烈火の如く怒っていてこれを受けず、すぐさま高句麗出征を号令した。

 

大将軍・薛万徹を青丘道行軍大総管とし、将軍・裴行方を副官として、三万余の兵と楼船戦艦を率い、莱州から海を渡って高麗を討つよう、詔が降りる。

 

東方の高句麗への出征であり、東へ行き来する者は詮議がことのほか厳しかったが、イリは逆に西方へと向かっていた。

 

西に騎首を向け馬腹を蹴り、時に砂嵐を抜け、野に伏し、雪山を越え、三蔵法師玄奘の西遊記さながらの西行を敢行する。

 

 

【挿絵表示】

 

 

20年前、

三蔵法師が脱国した頃に存在していたオアシス都市の高昌国は640年に唐に滅ぼされ既になく、唐の支配は西域(シロクロード)の深くまで及んでいた。正月の朝貢の使節団や貢納品を運ぶ隊商の往来が多く、イリはこの一団の帰路に紛れ込み西方への脱出を試みた。イリの風貌や体躯は西域の人々に溶けこんだ。高句麗に導師を招聘し、遁甲術(忍術)を学んで修行を積んできた成果もこの時に役に立った。

 

 

イリは唐から西へ抜けて、中央アジアや西アジアの国々を周り反唐の連携を謀ろうとしていた。

 

先の戦では、周辺国に使者を送り「反唐」の檄を飛ばしただけだったが、いよいよ唐との決戦を前にしてイリは自ら遊説する。

 

クチャ、石国「タスケンド」、活国「サマルカンド」、トカラ、スイヤブと中央アジアから西アジアの国々へ転々と周り、同行させていた通訳のペルシア人と共に高句麗と反唐の兵を挙げる国を求めていった。

 

 

西アジア、

 

ペルシア湾を臨むこのオリエントの地は、世界最古の文明シュメールに始まり、バビロニア、古代ペルシア、パルティア、そしてササン朝ペルシアと勃興してきたが、急激に勢力を伸ばしてきたイスラム教のアラブにとって代わられてしまい、アジア独特のオリエントの歴史を今、終えようとしていた。

 

西アジアで生まれた、世界最古の文明シュメールは、世界ではじめて文字を発明し、60進法12進法を発明し、暦を作った高度な文明である。王家の紋章には十六紋を使い、法律と議院を作り、都市国家を築き、数千年を経た世界でも受け継がれるほどの文明の基礎を残し、滅んでしまったが、一部のシュメール人達の末裔は東アジアへ移っていったという。

 

 

東アジアと西アジア、そして北アジア、常に中国を囲む様に敵対する周辺の国々の連携は古くから続いてきた。

 

特に西アジアのパルティアは、高句麗とは縁故浅からぬ国であり、高句麗の四十代目の王「広開土王」タムドクは、パルティア出身の王族である。

東アジアでは、パルティアの事を「安息国」と呼び、

高句麗の安蔵王や安原王なども安息国の系譜の王族だった。

 

隋軍100万を跳ね返し、唐の侵攻にも負けず、唐の太宗皇帝をも負傷させた高句麗の名は、アジア天下で知らぬ者はいない。

 

その東アジアの雄「高句麗」の宰相イリが乗り込んでくれば、どの国も丁重に迎える。が、唐の手前、イリのことを国賓として迎える訳にもいかなかった。

 

皆、イリを迎えつつ対応に苦心をしていた。イリもその雰囲気を肌で感じ、

 

(皆、かほどに唐を恐れるものか、、)

 

と、唐の鄒勢を目の当たりにしながらも、

 

逆に心中では、反唐の熱が高まる。

 

 

遊説では、

 

「ペルシアの王子であり、西突厥の偉大なカーンにして日出ル国の王、達頭カーンの反唐の志を嗣ぐ。」と、

 

上宮法王について東アジアにまでやって来ていたペルシアの職人らと共に、ペルシア出身の上宮法王の志を継ぐことを旗頭に上げて反唐を語った。

 

唐の北西にある西突厥は上宮法王の治めた国である。

 

上宮法王(達頭カーン)が東方に去った後、西突厥で勢力を伸ばしていた、上宮法王の孫たちシャキ・カーンやジペル・カーンは既になく、玄孫のガロ(上宮法王の孫の孫)の時代になっていたが、西方では上宮法王は今も崇められている。

 

上宮王家の誇りは失われることなく、ガロは唐に反乱を起こし戦いを続けていた。

 

唐と戦う中央アジアの国にとって、西突厥や高句麗の反唐同盟は心強い味方となるはずであった。

 

 

「吾は高句麗の宰相イリ。この地に、吾が高句麗と共に唐と戦う同志を探しにきた。」

 

「偉大なるシュメールの末裔たち。天下を唐のものにしてしまってはいけない。吾らと共に唐を討ち天下蒼生を守るべきであろう。」

 

イリは中央アジア~西アジアにかけて、北西アジアのウイグル族を始め、周辺の国々を周り縦横家の様に熱誠を込めて反唐を説いてまわった。

 

時には、戦乱に遭遇しクチャの大臣と共に反唐の剣をふるうこともあった。

 

大国唐は一国で戦うには強大すぎる。

 

唐の侵略を拒む国々にとって、個々に撃破されてしまう事態は避けなければならず、各国が連盟して一斉に唐と戦うしかないと言うことは分かっていた。

 

中央アジア諸国にとって唐は、連盟して戦おうにも強大すぎたが、

 

それでも尚イリは、反唐の国との間で、合従連衡を説き

 

「唐と貴国が戦う時、高句麗は東に兵を起こす、唐と高句麗が戦う時、貴国は西に兵を挙げる」と、

 

盟約を結んでいった。

 

 

 

しかし、実際のところイリが遭遇した中央アジア諸国の状況は、東アジアよりもかなり深刻だった。

 

クチャは唐に攻め込まれ首都は陥落してしまい、唐軍は中央アジアへ食い込んだ。

 

唐だけでなく、そこへきてイスラム教のアラブが西アジアにまで勢力を広げ東漸してきていて、残った国々は、唐とアラブの大国に挟まれ両難の苦境に陥いりはじめていた。

 

630年にイスラム教の開祖ムハマンドがメッカを占領し、633年から聖戦ジハードが開始され周辺諸国を攻め取り、

 

アジア、アフリカ、ヨーロッパ、三大陸にまたがる「大アラブ帝国」が興りはじめていた。

 

 

637年に、ペルシアはカーディシーヤの戦いでアラブに敗れ首都クテシフォン(イラクバクダット)を占領されてしまった。642年にはペルシア軍はニハーヴァンドの戦いで三倍の兵力でありながらもイスラム軍によって壊滅させられてしまい、ペルシアのヤズゲルト王は他国へ亡命していた。

 

ローマ帝国やエフタルにも滅ぼされることなく、アラビア半島のイエメンをも占領し、アラビア海貿易で繁栄したペルシアだったが、西アジアの覇権はアラブにとって替わられてしまった。

 

ペルシアが唐に帰順しようにも、唐はアラブと接触することを避け、彼らを助けようとはしない。一方で、唐は亡命してきたペルシア兵達を全て傭兵として雇い入れていたので、ペルシア軍人は戦いを諦めて東方へ逃げる者が続いた。

 

中央アジアと西アジアの国は

 

アラブと唐、二つの大国に挟まれた存亡の危機にあって、

 

東方の高句麗の様な、唐と戦う味方の存在は有難かった。

 

しかし、、アラブを背後に共に唐と戦うという状況でもなく、かといって、唐に臣従してしまえば貢納と兵役で国力は奪われていく。

 

 

 

「アラブとは、、」

 

イリは、耳馴染みの無い西アジアの大国の存在を知るにつれて、

 

「同盟の向背も、この先の存亡もわからぬ、、」

 

と、思った。

 

イリにとっては、中央アジアまでがアラブとなって直接唐の背後を脅かしてくれた方がまだ有難かったかもしれない。

 

イリが同行させていたペルシア人らは、消滅する祖国を目の前にして

 

「どうか落ちのびたペルシア王を助けて欲しい」とイリに願った。

 

西アジアを追われた王族が東アジアにまで逃げ、高句麗がこれを助けたのは過去一度や二度ではない。

 

「吾、これを捨て去れば死に到らん」と、

 

イリはペルシア王の救援を強く約束した。

 

アジアに世界最古の文明シュメールが誕生して以来4000年、アジア大陸はかつてないほどの大乱の時代を迎えていた。

 

アジア帝国を夢みる唐の太宗皇帝は、中国史上類い稀なほど版図を広げ周辺国を制し、三大陸にまたがる大アラブ帝国はアジアへと東慚してきていて、アジア大陸の覇権は大膨張している。

 

 

【挿絵表示】

 

 

アジア大陸の東の果て、古代より

 

アジアの民の亡命地だった和国も

 

もはや「 東海を渡った別天地」ではいられなかった。

 

大国の戦から逃れ、安全な地を求めるアジア北東の辺境にいた小部族達の中には、更に北東へと移動し、そのままアリューシャン列島からアラスカへと渡っていった部族もいた。

 

無くなることのない乱世の劫火に巻き込まれることを厭い、アジア大陸の人間同士の戦いから離れて、別世界へ踏破する自然との戦いを選んだ勇敢な部族達である。

 

極寒の大移動で凍傷になり手足や命を失う者も多かったが、生き延びた者達は北米のネイティブアメリカン部族の祖となった。

 

 

反唐の大壮図を夢に抱き、

 

アジアを抜いたイリだったが、

 

思った以上にその期待は空しくそがれた。

 

唐やアラブに国が滅ぼされてしまった国々の惨状を目の当たりにした後、イリは遊説を終えて、年老いた上宮法王の元部下だったペルシア人たちと共に南アジアへと向かっていった。

 

 

 

 

 

【唐 高句麗侵攻三度】

 

648年、1月

 

3度目の高句麗出征は開始された。

 

青丘道行軍大摠管の薛万徹は、兵三万余人及び楼船・戦艦を従えて高句麗へ出征していった。

 

薛万徹は、李靖将軍や李勣将軍らと共に、突厥や吐谷琿を討った唐きっての名将軍で、丹陽公主(太宗皇帝の妹)を妻にしていた。

 

太宗皇帝は、

 

「今、唐の名将というのは、李勣・李道宗・薛万徹しかいない。李勣と李道宗は大勝できなくても、まだ大敗したことはない。しかし薛万徹は大勝でなければ大敗と同じだ」

 

と評していたほど、戦えば必ず大勝する常勝将軍だった。

 

 

3月には、烏胡の鎮将古神感も海路から高句麗侵攻を開始した。

 

高句麗軍はこれを易山にて迎え撃つも、敗退してしまう。

 

夜になり高句麗軍は再び古神感の船に夜襲をしかけた。

 

しかし、古神感は抜かりなく伏兵を配しこれを待ち受けていて、逆に撃退されてしまった。

 

 

百済と新羅も戟を交えた。

 

新羅軍は百済へ出兵し、百済軍が反撃に出ると金ユシンは、わざと負けて撤退し百済軍を引き込む作戦に出た。

 

百済の将軍義直は、腰車城など次々と10余城を奪い取ると、勝利に酔って見事に金ユシンの罠に落ちた。

 

新羅軍を軽くみはじめた百済軍は、勝ち乗じて大軍で一気に侵攻し金ユシンが伏兵を配していた「玉門谷」まで進軍してしまい、隘路に封じ込められ、金ユシンの伏兵に襲撃され百済軍は大敗してしまった。

 

金ユシンは、この戦いで8人の百済将軍を生け捕りにする。

 

そして返す刀で、国境を越え百済へ侵攻し12の城を落とし百済兵2万人を斬り9千人を生け捕りにする勝利を上げた。

 

更に金ユシンは、8人の百済将軍捕虜と、ウィジャ王によって大耶城が攻め取られた時に殺された、城主で金春秋の娘婿の品釈と、金春秋の娘・古陀昭妃の遺骨の交換を提案し、これを取り戻した。

 

復讐に執念を燃やす金春秋は、金ユシンの勝利と遺骨を取り戻せたことに大いに感謝した。

 

6月になり、唐軍の薛万徹が高句麗の泊灼城を攻め落とすと、太宗皇帝は、いよいよ高句麗を詰めるのは今と見た。

 

一気に攻め滅ぼそうと、来年三十万の軍をもって高句麗を攻める事を臣下らに議論させた。

 

「歳月不待」

 

人間は、時間の前では平等である。どんな人間でも限られた寿命という時間の中で生きなくてはならない。高句麗攻めは反対者も多かったが、太宗皇帝は自分の命が短いことを悟り、命のあるうちに高句麗をなんとかしようと思っていた。

 

 

 

高句麗に大軍で攻め入るならば、その兵糧輸送の為の軍船を造らなければならなかったが、

 

「隋末の動乱期、剣南だけは乱がなく、隋の高句麗遠征の軍役も免れた。その為、剣南は豊かで剣南に造船を命じ大量に軍船をつくらせてはどうか、、」

 

との提言があり、

 

太宗皇帝はこれを採用した。

 

 

7月、領左右府長史強偉を剣南道へ派遣し、造船に着手した。大きいものは、長さ百尺、広さ五十尺にもなった。

 

 

戦船の出航路となる剣南から菜州へと、長江から黄河に渡る長大な水路を水先案内の使者が水行していった。

 

巫峽から江・揚を通って莱州へ向かう。

 

かつて隋の煬帝は、国中の人民を多数動員し「通済渠」という運河を造り、中国大陸を流れる大河川「黄河」と「長江」を繋いでいた。また高句麗遠征に備え永済渠という軍用運河も造っていた。

 

中国を流れる二大河川が運河で結ばれていた事で、中国奥地で造船した船を黄海まで出征させることが可能になった。

 

中国の奥地、長江千里の上流の「剣南道」で造船された戦船は、アジア最長の河を越える史上最長の進水式を待っていた。

 

 

一方、

 

これとは別に、

 

唐の南方の越州都督と務ムソウという者が、洪等州で戦船を造らせていた。

 

この戦船が造船されていた杭州湾(上海)は、東シナ海を挟んで望むのは、耽羅(済州島)である。

 

耽羅までは、難波から大宰府くらいの距離もなく、百済は目とはなの先だった。

 

 

高句麗戦の北方の黄海側でなく、

南方の東シナ海側での戦船の造船は、高句麗攻めの為のそれではなく、明らかに百済を攻める為の軍船だと思われた。この情報が百済に伝わると、

 

「唐が、百済に攻めてくる、、!」

 

と、誰もが懸念した。

 

ウィジャ王にとって、改新後の和国統治は駆虎の勢いであり、途中で止めて百済に帰国することなどあり得なかったが、

 

新羅との戦では大勢の百済兵を失ったばかりで、ここへきていよいよウィジャ王は、和国で落ち着いていられなくなってしまった。

 


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