和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦647年

周囲が全て反唐国となり追い詰められた新羅は、和国のウィジャ王の元へ金春秋を送りだした。新羅の金ユシンはイリに金春秋脱出の協力を求め、見返りにイリの実子である金法敏をいつかは新羅王にしようと誓う。

唐国は高句麗戦の作戦を変え、大軍で一気に攻めるのでなく小規模な局地戦を繰り返し徐々に弱らせる戦略とし、唐国一の勇将 李勣将軍に精鋭を率いらせ高句麗北方周辺の二つの城を落とさせた。
金春秋脱出の為、和国に渡ったイリは高向玄里のもとへも行き自分の生い立ちについてを知ることになる。

第1話 和国 皇太子弟イリ
第2話 金一族 王の血を引きし者
第3話 唐 高句麗侵攻 再び
第4話 金春秋 来和
第5話 唐 李勣将軍
第6話 イリ誕生秘話


第6章 金春秋 来和【新羅の危機】

【和国 皇太子弟イリ】

 

イリは、金ユシンからの会談の申し出の密書を受けとった。

 

一人、胡床に座り考えていた。

 

 

イリの望みは和国であり、内心、期待をしてウィジャ王に協力してきた。

 

(ウィジャ王が和国・百済の両国の王となるならば、吾は和国・高句麗両国の宰相になってやる)

 

というくらいの野心は常に持ち続けてきた。

 

ところが、ウィジャ王が和国で即位した後、イリには何の官位も与えられなかった。

大化の改新後の和国でのウィジャ王のやり方に、蘇我石川倉麻呂や那珂大兄王子らは憤りを感じていたが、最も激しかったのはイリだったかもしれない。

 

ウィジャ王にしてみれば、只でさえ強力な存在であるイリに和国での官位や権力を与えることなど、その影響力を考えれば脅威である。イリが不満であろうとも、額田文姫をイリに嫁したことだけでも、ウィジャ王には精一杯であった。

 

しかし、何と言っても先の唐・高句麗大戦でイリが撃退した張亮将軍は、隋末の風雲に身を起こし李勣将軍と共に大陸の戦乱で名を馳せた将軍であり、イリはその張亮将軍を撃ち破って和国にやってきてウィジャ王を擁護したのである。

 

唐軍を撃破したばかりのイリの気焔はおさまらず、その前では皆、逆らい難いものがあった。

 

まさか高句麗の宰相イリがその様に和国へ乗り込んでくるとは思いもよらず、突然のことに幽体が金縛りにあったかの様に凝る者が多く

 

刀を佩し兵を有していても、和国の部族達は誰一人としてウィジャ王の王位を

 

「否!」と、

 

阻む勇気はなかった。

 

 

高向とイリの協力によって親唐政権を倒し和国王となったウィジャ王は、二人に何もしないという訳には行かず、仕方なく「国博士」と「皇太子弟」という、名誉だけが高く実権の無い地位を与え和国の国政には関わらせなかった、、

 

イリも、最初はそのようにウィジャ王の意図を理解し不満を募らせていた。

 

が、もう少し読み込んでみれば、

 

 

(古人王の様に、吾も那珂大兄王子の「当て馬」に使われたか、)

 

とも思えるウィジャ王なりの計算が感じられた。

 

イリは「皇太子弟」ではあるが、イリが皇太子弟である為には常に那珂大兄王子を皇太子として立てておかなければ、その立場は無い。上宮法王の嫡流である那珂大兄王子や間人皇女と違い、イリの娶った額田文姫は継承権は皆無である。

 

ウィジャ王は、イリと那珂大兄王子とは相容れぬ関係であることと知り、対立的な二人を無理やり兄弟にしてしまう事で互いに牽制させようとしていると思われた。

 

即位後、那珂大兄王子を正式に皇太子とするとすぐにイリと那珂大兄王子の義妹・額田文姫との婚姻を決めたことからも、それが伺えた。

 

未だにウィジャ王のことを陰で「父の仇」等と呼んでいる煩わしい那珂大兄王子と、和国に野心のあるイリの存在を掛け合わせる。

二人は仲が悪く特にイリの自尊心を刺激すれば、その一石で二人の対立は更に深まることは容易に想像された。

そうした相剋を弱点として捉えられ手玉に取られたようである。

 

(和国の大臣や宰相など国政での実権は与えず、即位の見返りには「皇太子弟」にして和国王室へ繋げることで吾に報い、同時に目障りな那珂大兄王子の存在を目の上の瘤として吾と対立させて置くつもりか、、)

 

そう思うと、怒りのとらわれがおさまらない。

 

一方で、

 

(王位につくと、そこまで考えるものか)

 

と感嘆もしたが、

 

ウィジャ王に対するイリの気持ちは離れた。

 

イリは父・高向の様な権謀政治家は好きではないが、ここは改めてより政治的に身の処し方を考えなければならないと思い直していた。

 

 

(策略を図ろうにも、時局に追いつかぬ)と、

 

イリは、大化の改心後の和国への野心はとどめて、高句麗の執政に専念して時節を待つつもりでいた。

 

しかし高句麗でのイリは戦後処理で忙殺されのんびりはしていられなかった。

 

楊万春将軍(ヤン・マンチュ)の奮戦により、安市城こそ落ちなかったが、遼東での戦いで唐軍が連行していった捕虜は7万人であり、大きく力を削がれてしまった高句麗で兵の再編と配備に追われていた。

 

戦とは領土や王権を奪うよりもまず奴隷(浮囚)という労働力を確保する為の手段であり、より多くの奴隷を連行すればその国の産業力は高まり、民を奪われた国は例え領地が残っても生産力を失う。

 

唐が高向玄里を高句麗大臣につかせ極東工作を命じた時に、まず最初に中国人捕虜を解放させたのもそのためである。国民が減ってしまっていた唐は民を取り戻し、高句麗は強制労働をさせる労働力を失ってしまった。

 

築城や城の改修、食料の増産のために牛馬の如く死ぬまで使役する高句麗の防衛には欠かすことのできない貴重な強制労働者達である。高句麗の築城力は急激に低下してしまい、これを奪うことを、栄留王と共にやってのけた高向玄里は、この頃はまだ唐の手先として功があったと言える。

 

民も戦に負ければその様に奴隷にされてしまうことをわかっていて、その為、高句麗の民は戦になると山城に避難し女子供の一人一人まで、頑強に抵抗する。

 

しかしその民がいなくなってしまえば徴兵すらできず、高句麗は国外から募兵するしかなかった。

 

和国から高句麗へ兵を送り込んだだけでは足らず、北海道や沿海州(ロシア・ウラジオストク)にも範囲を広げて多くの人々を集めなければならなかった。

 

 

城の改修と食料の確保、新たな兵力の徴兵、唐に下ろうとする有力部族達の統制、嫡子・淵男生や息子達への差配や新たな将軍の配置など課題は山積していて、百済の様に積極的に新羅を攻めている状況でもなかった為、ここで、新羅の金ユシンからの会談の申し出は了承し、イリは胡床を立った。

 

イリほど、勝手気ままに三国を動きまわる者はいない。

 

吹きすさぶ風の中を、イリは1人

 

新羅と高句麗の国境地帯へと向かった。

 

 

【金一族 王の血を引きし者】

 

『月夜』の下、酒を注ぎつつ、イリと金ユシンが向かい合っている。

 

春宵一刻、値千金

 

 

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イリにとって金ユシンは義兄であり、少年時代に憧れた存在である。交戦中とはいえ新羅に残してきた実子・法敏のことも忘れたことはない。二人は久しく顔を合わせてなかったが、旧交を温め酒をくみ交わし、イリは昔と同様に金ユシンのことを「兄貴」と呼んだ。

 

「協力を頼む」と、

 

金ユシンは率直に切り出す。

 

「協力の見返りは?」、

 

イリは条件を求めた。心胆相照らす二人の壮の間には隠すものは何もない。

 

「新羅にいる実子・法敏を金一族の筆頭とする。見返りということではないが、共に協力して歩もうということだ。金一族はいずれ法敏を新羅の王位につけ、その時、新羅に反唐の旗を掲げる。その日まで共に法敏の進む道を切り開こうぞ。」

 

 

金ユシンの申し出を、イリは快く受け入れた。

 

 

唐との戦をひかえているイリにとって、後方の親唐国・新羅は捨てて置けない。今は唐と対戦しながら新羅を攻めとる余裕はなく、攻めるよりは味方にしてしまった方が有利なのである。

 

直情的だった弱壮の頃とは違い、今では政治的な配慮も腹芸もできるイリになっている。

 

唐や百済の手前、秘密裏な協力ではあるが、それでも二人の密約によって双方の被害を少なくし、イリの実子・法敏を王位につけることはこの上ない。

 

イリの息子であり、金ユシンにとっては甥である法敏を新羅王につけ新羅を反唐国にして、高句麗と共に唐と戦うまで協力は惜しまないと約束した。

 

「しかし、何故兄貴が、王にならぬのか?」

 

イリは、至極当然な問いかけをする。

 

「それはできぬ。あくまでも吾らは擁護する立場の者。それを武力まかせに王位を望めば、周囲の協力は得られん。大望の為には、武力だけでなく政治的な力も必要なのだ。」

 

「吾は幼き頃、洞穴で老翁に出会い秘伝を授けられた。大望を望むならば大局を見失うなと翁はいった。その時より、王位を望む闘いの覇道など、吾の進む道ではない。出世欲も富貴栄華も望みではなく、ただ金スロ王の血統を残し、誰にも侵されない強い国をつくることこそが大望であり、吾が道である。」

 

「それに、日暮れて道遠しだ。吾の歳で今から王位など望んでも時局に追いつかん。局面は、既に金春秋が皇太子なのだ。時局に逆らわず推していくのがよかろう。大事を成すには、天の時に逆らわず、時勢を味方につけねばならんのだ。私心など捨ててな、、」

 

「何より、吾の母は正妃でない故、吾は嫡子ではなく、鏡王など名乗れぬ。路傍の逢瀬でできた子よ。しかし、吾が王に成れぬからといって、誰にも侵されることのない強い国を造ろうという大望と、金スロ王の王統を王位につけるという志しは何ら変わらぬ」

 

イリは、金ユシンの変わらぬ壮気に触れ聞きいっていた。

 

金春秋は、百済との戦いで娘夫婦が殺されてしまった時、敵国の高句麗に助けを求めたように、ウィジャ王への復讐しか望んでなく、イリの実子・法敏を皇太子にしてでもイリの援護が欲しかった。自分が王位につき、法敏を皇太子にすることにも是非もなく、イリの息子法敏を実の息子のように大切にしている。

 

金ユシンは、庶子とはいえ滅ぼされてしまった任那の最後の王・金庭興の孫である。かつて新羅王室に吸収されてしまった金氏と違い、真の王族であるという自負心も強い。

 

金ユシンは一族の女を使い、なんとか王の血をひく者を即位させようと努力してきた。

 

王族に妹を嫁がせ、金一族の王統を絶させぬようにし、強い壮と結び、子をなす。金一族の女の生き方は、一族の王の血をひく者をこの世におくりだすことであり、血縁選択の使命は一族の1人1人が背負っていた。

 

このように男性が立たずに、女性が血統をついでゆくやり方は『神国』新羅に続く伝統的なやり方であり、新羅には脈々と受け継がれてきた『大元神統』や『真骨正統』という女性血統がある。

 

大元神統は、どのように王位が変わろうとも常に王に仕え交わり子を産み、また多くの権力者と交わり子をなし、姫が産まれればまた王に差し出してきた。

 

智証麻立カーン、法興王、真興王、王権が移っても、そのようにして代々血統を守り継いできた女性達であり、力のある者と交わり精を受け子を産み続けることが女たちの戦いだった。

 

中国的な、近親婚が野蛮であるとか、好色多婬であるといった道徳観とは一切無縁であり、只々ひたむきに冷徹なほど血統を残していく。

 

新しい権力者に交わるという事は、時には父母を殺め一族を皆殺しにした敵にも嫁がなければならない。

 

愛も憎しみも全て捨て果ててしまったかのように、全てを忍び、利己的なほどに血統保存が優先される。

 

自ら恋心を殺し心を裏切り王家に色を供える花として生き、身一つの我慢で王室を骨肉の争いという悲劇から守り、産まれた皇子を王にする為に後継者争いなどせず、誰が王になっても、また一族の姫を差しだし、女性血統を継ぐことだけを粛々と続けてきた。

 

中国的な宮廷にありがちな毒殺と冤罪にまみれたどろどろとした骨肉の争いなどではなく、全て血統保存に徹し全ての王に殉じる女性達の戦いである。

 

 

生きのびる為に、

 

相手と戦い殺すのでなく、

 

相手と交わり産むという、

 

平和的な方法で、女性達は婦道を貫いてきた。

 

男系王権主義の中国の様に、たった一人の男「王」の息子を産みその息子を次の王にする為の閨閥の争いが起きるという事もなく、逆に幾人もの王と交わり姫を産み、その姫をまた時の権力者に供えるという有り様が連面と続いてきたのだ。

 

ミシルだけでも、三代に渡る新羅王と、三代の風月主に交わりを保ってきたが、新羅においては、大元神統の様な血統聖母と結ぶことこそが、宗主たる象徴であった。

血統そのものがまるで、伝国の宝のように受け継がれていく。

 

そして宗主の証として、上宮法王を三人目の夫とした和国の推古王女の様に、例え子供を産める歳でなくなっても、次々と変わりゆく王と生涯を共にし、命が尽きるまで貴種としてその婦道を全うする。  

 

新羅が自ら『神国』と名乗れるのは、この様に神の血統「大元神統」の血統を大切に守り継いできたからに他ならない。

 

もしも、母系軸を手放し中国的な男王軸に代わってしまえば『神国』としての意味を失う。

 

こうしたレビラト婚(嫂婚制度)の様な一妻多夫制とも言える母系血統保存の習慣は、スキタイ族、ユダヤ氏族など西アジアや、遊牧民族のいる北アジアから東アジアにまで古代より広くアジア大陸に存在していた。

 

 

レビラト婚(嫂婚制)は、父が死ぬと義理の息子がその母を妻とし、兄が死ぬと兄嫁を弟が妻とし、その者がなくなると更にその弟が妻とする。

 

どんなに男系軸の当主が代替わりしても、女性軸は代わらずに残していく母系中心の婚姻制度である。

 

男系軸を中心にし、当主の男権の強さを重んじる中国とは真逆の制度であり、「貞女は二夫にまみえず」などと、ことさら女性の貞操を強調される中国的な価値観の中では、女性が生涯何人もの同族の夫をもつということがどうしても理解できず受入れ難い。儒教において女性の再婚は罪なのである。

 

 

レビラト婚制は「兄死娶嫂、禽獣の俗」などと忌避されその差別は酷かった。

 

 

唐の勢力に周辺国が掃討され、中国的な道徳教と男系王統主義がアジア全体に広がっていく中で、やがてこれらの女性血統を中心に重んじる価値観は姿を消していく。

 

前時代的な完全な女王国というものは既に存在せず、ゆるやかな母系国家ももはや無くなりつつあり、男王国の中で微かな残しを残すのみの女性血統だったが、中国的な男権国家が中心となり、こうした女性血統の保存はアジアの歴史の中で抹殺されていくか、血統保存に徹し血統の象徴として婦道を貫いた烈女達は皆「淫乱」「好色」「娼婦」など侮蔑の烙印を押され、黒い歴史にかえられていった。

 

 

しかし、この様な女性血統を統べる姫は、血統を継ぐ女性としての誇りと、それに殉じるどこまでも寛容で深い原始自然の愛がなければ、個としては苦しい婚道との戦いとなる。

 

金スロ王の血統を継ぐ額田文姫や鏡宝姫達は、幼い頃よりその事を母から教えられてきて、既に相当な覚悟をしていた。

 

ウィジャ王が和国・百済に君臨し「任那と称しての使いは必要ない」とした後、

 

今は金ユシンの妹鏡宝姫が、自ら「鏡王」と名乗り任那の王統の存在を示している。

 

任那の地はなくとも、任那の王統が無くなった訳ではない。

 

 

しかし、

 

これ以上、代を重ねてしまえば王の血統はやがて埋没していってしまうだろう。

 

そうなる前に、なんとしても金ユシンは任那最後の王・金庭興の血をひく王を即位させたかった。

 

金庭興の四代目の子孫となる法敏や、イリに嫁いだ額田文姫は、金ユシンの希望だった。

 

 

金ユシンの妹鏡宝姫はイリの息子法敏を産んだが、今は新羅の王族である金春秋の妻となっていて息子の法敏もそのまま金春秋の養子(元子)にしてもらっている。

 

そして、今や新羅の王位継承権のある聖骨の血統は途絶えてしまった為、真徳女王の皇太子は金春秋であり、新羅王位は目前である。

 

次に新羅王に金春秋が即位した時に、

 

「法敏を皇太子にできるのなら」と、

 

イリは、今、新羅が置かれている立場と三国との力動的均衡を理解した上で、表向きはたとえ親唐であっても法敏を王位につける迄、金ユシンとの密約を続けることにする。

 

金ユシンがイリと交わしたこの密約は、金春秋を裏切るようなものであるが、内心、金ユシンは、反唐の気概の無い金春秋を既に見限っていた。

 

 

二人は、ここで

 

「天意であり共に剣を振るう。未だ時、至らずとも、吾ら二人志道を同じくして進む」と、

 

改めて反唐を誓いあい、

 

「尽未来、吾ら同心一体となることを契る」と、義兄弟の絆を深めた。

 

ウィジャ王とイリも、反唐で結びついてきたが、親唐派を取り除いた後の和国の覇権をめぐり亀裂が入りはじめている。

 

この日を境に、高句麗と新羅は裏でイリと金ユシンが強くつながり、やがてウィジャ王の「三国連合国」の夢は、次第に冷えていく。

 

 

そして、イリの中には、なんとしても自分が和国を制して、高句麗の義父・宝蔵王、新羅の実子・法敏と共に描く、親子三代の三国連合の夢がうっすらと浮かび上がった。

 

 

任那 【伽耶国】金一族の王統

 

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【唐 高句麗侵攻再び】

 

647年1月、

 

和国へは高句麗と新羅からの調使いが来朝した。和国のウィジャ王は、百済の王である為、当然、百済からの使いはない。

 

そして、一方で新羅は唐へも使節団を送る。

 

なんとか無事に彼らは、唐へとたどり着いた。

 

 

新羅使節団の

 

「高句麗攻めでなくまず、百済から攻めて欲しい」

 

という切なる願いは、

 

和国を狙うイリにとって、

 

「ウィジャ王を百済へ追い返したい」という企みにおいては、利害が一致していた。

 

高句麗だけが唐と戦って、その庇護のもと百済は悠々と新羅を攻め取っている。高句麗は、唐と新羅の挟撃を避ける為にも、百済から新羅を攻め足止めをして貰いたいのだが、今のところ高句麗と百済の反唐同盟は百済に有利な形で戦が展開している。高句麗にとってもこれ以上連戦が続くと矛先をかわしたいところである。

 

もしも唐が百済を攻めて、百済が安泰でなければ、ウィジャ王も和国の統治どころでなくなる。

 

高向玄里も、なんとしても唐から百済へ圧力をかけて貰いウィジャ王を和国から追い出したいと考えていた。しかし、自分自身は、高句麗の政変後、唐の信頼も情報伝達手段も失ってしまっていた為、新羅の使節団だけが頼りだった。

 

新羅の使節団は、真徳女王の冊封を願い出ると共に、唐に百済侵攻の請願をなんとしても聞き入れてもらわなければならないという大役を担っている。

 

使節団は入唐すると、新羅の善徳女王が崩御したことを報告し、真徳女王の王位冊封を願い出た。

 

太宗皇帝は、これを認め冊命し、真徳女王を楽浪郡王に封じ、善徳女王には光禄大夫を追贈した。

 

 

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そして、使節は百済出兵の請願を強く訴えでる。

 

「汝らの国は救援ばかり求め、高句麗攻めには功を成そうとしない。何故その様に弱いのか。」

 

と、太宗皇帝に問われると

 

唐の高句麗攻めに新羅が協力しようにも百済に阻まれ、新羅から思うように出兵できないことと、百済のウィジャ王は今や和国と百済を領有し、益々その勢いを強めていて容易ならざることを懸命に伝えた。

 

(これ以上、領土を切り取られたら新羅は消滅してしまう)という、

 

切実な出兵願いであり、顔を真っ青にして必死にこれを上奏する使者も命がかかっているということが、居並ぶ郡臣たちにも伝わってきた。

 

大宗皇帝は、

 

(くどいやつらだ、)と、

 

思いながらも、新羅の置かれている急迫した状況は理解はした。

 

しかし、新羅の訴えほどには、ウィジャ王のことはまだそれほど脅威と捉えずにいた。海洋国と大陸国の地政的な違いもさして問題ではない。

 

(東方の安定の為に、高句麗だけはなんとかしなければならない)

 

と、太宗皇帝は考えている。

 

ウィジャ王は、高句麗の様に露骨に反発してくる訳でもなく、唐の冊封を受けて、表面的には帰服の態度を示してきている。

唐の太宗にとって辺境の安定とは、諸王らに帰服の態度を示させ朝貢させれば、まずはそれで良かった。

 

冊封に従わせることで、従わなければ何が何でも攻めるということはなく、

 

 

「異国が従わなければ、文徳をおさめてこれを来させよ。」

 

という、中国古来からの基本姿勢は変わらない。

 

ともかく百済などは、枝葉の問題であり、大木である高句麗という敵の「幹」を切り倒してしまえば、自然と枝葉の問題も解決するはずであった。

 

したがって、太宗皇帝は、ここでどんなに新羅が請願しようとも、矛先をかえるはずもない。

 

 

「高句麗を倒すまで、しばし堪えよ。救援を求めてばかりでなく、新羅も唐の臣国であるならば一度くらい汝らの力で百済に勝ってみせよ!」と、

 

新羅の使節は逆に強く叱咤され、しかたなく唐の救援を諦めて帰国して行った。

 

翌月、

 

太宗皇帝は高句麗攻めの準備を終え、高句麗出兵を号令する。

 

牛進達将軍を青丘道行軍大摠管、李勣将軍を遼東道行軍大摠管に任じ、唐軍は進撃を開始した。

 

高句麗は国境を固めこれを迎え討つ構えでいた。イリは遠くクチャ、活国(サマルカンド)やチベットなど周辺の反唐国へも使者を飛ばし、共闘し反唐軍を起こそうとした。

 

 

アジア最強軍団を率いる李勣将軍は、唐軍きっての豪壮な名将である。

 

 

【挿絵表示】

 

 

もとは徐世勣といい、曹州の富豪の生まれだったが、義侠心に厚く、若くして隋末の風雲に身を投じて唐の天下統一に参戦した。

 

唐の高祖皇帝に認められ、国姓である「李」姓を賜わり李世勣となったが、その後、李世民が太皇宗帝として即位したため、李世を憚って「李勣」と名乗っていた。李勣は太宗皇帝の信頼も厚く、唐帝国の北方「并州」を任され都督となり、突厥族を掃討し、やがては老将・李靖将軍と共に国境北方の塞外にいた突厥族を壊滅させてしまった。

 

太宗皇帝はこれを喜び、

 

「隋の煬帝は、賢良な者を用いることが出来ず、万里の長城を修築して、ただ突厥に備えるだけだった。100万人の民を強制労働させてなど、迷惑この上ないことだ。朕は李勣に并州を任せ、彼はついに突厥を遁走させ恐れさせた。北の辺境を安定させるのに、長城などよりよほど優れている。」

 

と、周囲の者に自慢していたほどだった。

 

李勣が治めた、并州の16年間は厳粛で全く乱れることはなく、唐帝国北方の安定化が図られた。

 

その後、李勣は太宗皇帝の皇太子を任され太子庁府の最高責任者に任命されるなどして、太宗皇帝の信頼の厚い股肱の臣となった。

 

そして、李勣は戦闘力が高いだけでなく、戦略にも長けている。

 

先の高句麗戦で唐は、大軍で一気に攻め滅ぼす短期決戦で臨んでいたが、安市城を抜くことができず、戦が長引き撤退せざるを得なくなった。これを反省し、期間的な戦略を視野に入れることのできるのは太宗皇帝以外では、おそらく李勣しかいなかった。

 

一線を退いていたが共に突厥を掃討した老将軍・李靖などは、他にも周辺の敵を撃ち破ってきて、

「兵は神速を尊ぶ!」と号し、洪水と共に突撃して敵を殲滅するなど、その戦闘力は唐軍の中で郡を抜き尋常でなかったが、独断専攻で動くきらいがあり、知勇を兼ね備え国軍を率いる大将軍としては、李勣こそが唐軍最強の将軍といえた。

 

その李勣が攻める高句麗は、寒冷地であることが最大の防壁である。

 

先の戦でも行軍都督を任されていた李勣は、その敗戦から学び高句麗への戦略を見直さなければならなかった。

 

高句麗の年間平均気温は9度程度であり、10月にもなれば氷点下になる。ずっとこの地で生きてきた高句麗の者と違い、寒さに慣れていない唐軍は、冷気にさらされ続けると、思考も鈍り行動もあやふやになり戦どころではなく、兵達は倒れてゆく。その上、高句麗は飢えと寒さで追いつめる戦術に敲けていたし、当然唐も充分それを心得ていた。

 

天が人間同士の戦いを別つように冬将軍を遣わしてくる為、唐軍は冬が来るまでに撤退せざるをえず、限られた戦期の中で、撤退時期までに戦果をあけなければならない。

 

唐の太宗皇帝の抜きんでているところは、自尊心を損なうことがあっても、皇帝としての面子や意地にとらわれず、

 

「反省から学び改めるべきところは改める」、という柔軟さがあった。

 

先の戦では、

 

(高句麗は、なんと負けない戦をするものか、、)

 

と、思い知らされたが、

 

(大軍で一気に攻め滅ぼそうとすると、攻めた大軍の方が打撃をうけるのだ)と

 

隋が何度攻めても勝てなかった理由を改めて理解した。

 

 

高句麗は、

 

「天・地・人」、寒さという天の時と、地形を利用した戦術に長け、人海戦術を用い、優れた防衛力を持つ。

 

李勣将軍もその様に理解し、大軍による短期決戦でなく、少数精鋭だけで徐々に高句麗をよわらせていく戦略を模索していた。

 

遼河を渡った李勣将軍は、

 

「北へ向かう」と、号令し、

 

安市城を背に400里以上離れた北方の新城方面へと向かった。

 

高句麗の防衛線は、高句麗の北を囲む城壁の様な長白山脈が横たわり、西側の遼河手前で折れ南西へ千山山脈が遼東半島まで伸びている峨々とした天然の要害である。

 

高句麗の「千里の長城」とは、この高句麗を縁取る千山山脈・長白山脈に沿って連なる様に築城された山城のことであり、唐軍は手前の遼東城は落としたものの、北方の要の「新城」、南側の「安市城」はまだ抜くことができない。

中国と高句麗を分かつように流れる遼河を越えてきた軍は、まずこの目の前にそびえる千山山脈に連なる「千里の長城」を突破しなければ高句麗へと侵攻することができなかった。

 

ところが、北へ向かった李勣将軍は、新城攻めよりも更にその奥にある南蘇城への攻撃をはじめた。

 

李勣将軍は、安市城は放っておいて、遼東城より北方の「新城」より奥にある「南蘇城」と、更にその先の「木底城」から攻めることにしていた。

 

「落ち栗ひろい」でもするかの様に、敵の外れの弱そうな所から拾って攻めていく戦法は、一見、弱腰なやり方に見えるが、戦の流れを変える手段ともなる。一気に致命的な打撃を与えるということはできないが、李勣将軍は徐々に戦の流れを変えていこうとしていた。

 

そこには、

 

「攻めなくともよい城と、攻める城がある」

 

という太宗皇帝の考えもあったが、戦略的に、攻める城と攻めなくともよい城を見極めるのは難しく誰にでもできるということではない。

 

李勣は太宗皇帝の信頼にこたえて、見事にそれを実行しようとた。

 

 

 

【金春秋・来和】

 

647年3月、新羅

 

唐の持節使と共に新羅使節団が無事に帰国してくると、真徳女王と新羅宮廷は冊命を拝受し、金春秋らは饗応した。

 

そして、唐の太宗皇帝の言葉と百済ではなく高句麗攻めの指令が伝えられた。

 

唐の返礼使が帰国するなり、新羅に進駐していた中臣鎌足はこれを遺憾であるとして、

 

「唐との二面外交など卑怯は許されない。今、赤心明らかにして和国と百済との和平を望むのであれば、その証しとして和国のウィジャ王様のもとへ金春秋が参れ」と、新羅宮廷に詰め寄った。

 

人質である。が、表向きは和平の使者だ。

 

真徳女王は、

 

「今、戦をする気がなければ、和平の為に金春秋をただちに和国へ遣わせよ」

 

という中臣鎌足の言葉を、是非もなく受け入れた。

 

しかし、当の金春秋は拝命を受けても遅々として出立しようとしなかった。中臣鎌足がどんなに催促しても、のらりくらりと言い逃れを続ける。金春秋は以前、高句麗に監禁された苦い経験があり、敵国に身を置くことにはまだ恐れが強かった為、

 

「唐の百済攻めの確約もないままに今、和国へ行くのは危険である。ここで死んでしまったら新羅の未来もない。」などと、二の足を踏んでいた。

 

しかし、金ユシンや高向玄理は、

 

「唐の援護は期待できない。今は危険を冒してでも和国のウィジャ王の元へ行かねば、すぐにでも戦が始まってしまうだろう。選択支は無い。和国に潜入しているイリの配下と、和国の金一族が必ず命を守る」と、約束し、

 

とうとうと説得を受けた後に、金春秋はようやく決心をした。

 

イリが手下の者を和国に配置するのを待ち、万全を期して和国へと向かう準備を整えた。イリの配下の間諜は優秀であり、和国にもその手の者共が配置されていて、大海の里より新羅へも和国の動静がすぐに伝わるようにした。

 

 

647年4月、

 

金春秋は、高向玄里・中臣鎌足を伴って新羅から和国へと渡った。

 

イリは金ユシンらとの約束どおり、あらかじめ金春秋を守るための配下の者を和国へ送って配置し、秘かに布陣を終えていた。ところが、高向玄里と金春秋は、中臣鎌足とは別の船で渡航していて、港につくなりいきなり襲撃を受けてしまった。直ぐにイリの配下の者が駆けつけ難を逃れたが、血なまぐさい和国入りとなった。

 

 

金春秋が和国に渡るのは、初めてではない。

 

和国が親唐国だった蘇我王朝の頃、和国の金一族の里へ来たことがあった。

 

(あの頃はまだ良かった)と、

 

金春秋はしみじみ思う。

 

親唐派の蘇我氏の為に、新羅が唐と和国の橋渡し役となって、和国の山背王を金春秋らが擁護し、親唐派の武王がいた百済からは「額田文姫」を迎え、百済とも和平を結んでいた。今の様に反唐三国「百済・和国・高句麗」に包囲され戦火に追われる毎日ではなく、束の間でも新羅には平和な日々があった。

 

金春秋にとって、娘夫婦を殺した憎い仇であるウィジャ王に対し、頭を下げにいく事はこの上ない屈辱だったが、そのウィジャ王のいる和国へ、和平を請う為に自分が上洛することになるとは夢にも思ってなかった。

 

(それにしても和国も変わったものだ)

 

ウィジャ王の大化の改新後、和国は変わったと聞き及んでいたが、金春秋にはその変貌ぶりが目につく。

 

まず人々は、冠を用いて凄然としている。その各々の言動や所作からも序列が感じられ、和国という国の秩序が確かなものになりつつあるのを肌で感じていた。

 

古来より、東洋では加冠というものが身分の上下をあらわしていて、冠は官人の象徴であった。髪を左右に束ね輪を作るように横留めする和国独特の所謂「みずら結」をしている者の姿は見られず、旧態然とした和国の印象は薄れていた。

 

海を渡った別天地という観はもう全くというほどなく、かつては未開であった和国も三韓諸国(百済・新羅・高句麗)とさほど変わらなくなっていた。

 

今まで、金春秋が新羅でやってこれたのも金ユシンあってのことであり、今1人で和国に立ってみた金春秋は、その金ユシンの居ない心細さに、改めて身のつまされる様な思いを感じていた。金春秋は王室の血統ということで、金ユシンと義兄弟になり、共に新羅での勢力を伸ばしてきたが、元々、反唐派の金ユシンの様な気骨はない。王位と復讐しか望んでいなく、その復讐さえも最初から他人の力を当てにしているほどだった。

 

「乱世なのだ」と、励ますように

 

金春秋は自分に言い聞かせ、ウィジャ王のもとへ向かった。

 

金春秋には敵ではあるが、ここまで来た以上和国のウィジャ王に頭を下げ帰順の意を表して、ウィジャ王からも次期新羅王・皇太子の金春秋を認めて貰わなければならない立場だった。

 

中臣鎌足、高向玄理らと伴に参内して、ウィジャ王の前に深く頭を垂れ、礼を尽くして拝謁し、孔雀と鸚鵡を献じた。

 

そして、

 

「何卒、王徳を賜りますように」と、

 

更に深く、金春秋はへりくだった。

 

目の前には、憎い娘夫婦の敵ウィジャ王が座っている。

 

内心、恨みは沸騰していたが、裏腹な自分の卑屈な態度により一層腹が立ち、更なる屈辱となって恨みの感情にからみついていく。

 

が、それはおくびにも見せない。

 

ウィジャ王は、金春秋を見据え、

 

「和国と新羅の通好は途絶えてしまっていた、この度は和平の証として和国にしばらく滞在していかれよ。」と、

 

(否とは言わせない)というほどの、

 

強い語気を込めて言い放った。

 

実質的な人質である。人質にならねば和平はなく、すぐにでも新羅を攻めるとの威嚇が、言外に含まれている。

 

金春秋もまた、

 

「有難いお言葉ですが賜りますれば、唐が高句麗へ攻め寄せおだやかならざるとのこと。長くはおられませぬ故。」と、

 

反唐の立ち言いをしつつも、言外に唐の圧力を匂わせた。

 

ウィジャ王はその二重の意味を含む様な声明に腹を立てたが、

 

不気味な目つきで睨み返すのみで、しばし言葉を発しなかった。

 

宮内の空気が緊迫してくると金春秋は慌てて、

 

「王様!」と、大きな声を震わせ沈黙を割った。

 

「長旅の疲れが出てしまい、どうかこれで下がらせて頂きたいと思います。王様のお言葉を有難く頂戴し、和国でゆっくりと体を休めさせて頂きとうございます。」と、

 

遜って追従姿勢を取り、おどおどと引き下がっていった。

 

金春秋は金ユシンの様な気骨や武勇はないが、それだけに身を返すのは早い。

 

迎賓館に戻った金春秋は、仕方なくウィジャ王の要求に従って和国へ滞在することにした。

 

しかし、和国に滞在する我が身への不安は消えない。和国に着き、港で襲撃してきたのは、ウィジャ王に不満を持つ勢力の手の者であろうかと推察された。新羅を服属させ、ウイジャ王が日本列島と朝鮮半島に「覇」を唱えるのをなんとかして阻止したいと思う輩には、新羅の金春秋の来和を喜ばない過激な者もいた。

 

不安に慄く金春秋は更に疑心暗鬼になり、港で襲撃されたのはイリの自作自演の襲撃事件ではないかとも疑い始めた。もちろん、イリはその様な手の込んだことなどする訳もなく、「助ける」と約束すれば助けるし、「助けない」と決めれば堂々と正面から斬りかかるはずである。

 

一方、ウィジャ王はこれで体面は立ち、(たとえ新羅の二重外交であろうが)表面的には新羅を従わせたことになり、金春秋の来和を喜び、高向玄里らの手柄を称賛した。

 

そして、迎賓館の金春秋のもとへ高向玄里を使わし、更に厳命を伝える。

 

 

「金春秋は和国に留まり、帰国するには許可を得なければならない。新羅の王は、唐の冊封でなく和国王の承認を受け、以て百済・和国は新羅を侵すことなく和平の証とする」

 

喜色満面、

 

ウィジャ王は、和韓諸国の覇権を握ったつもりであり、もはや、東アジアの覇者気取りである。

 

金春秋はこれには堪らず、高向玄里に助力を願い、なんとか大海の里から新羅へ向けて脱出させて貰えるようにと救援を求めた。

 

すると、この頃より和国内では、ウィジャ王が、

 

(まさか、、)と、

 

耳を疑いたくなる様な噂が流れ始めた。

 

 

「唐が百済に攻めてくる」という。

 

ウィジャ王は愕然とし、すぐに噂の出所を探るよう命じたが、穏やかではいられなかった。

 

 

ウィジャ王は、百済・和国を領有し、高句麗の息子に唐と戦わせておいて、自分は和韓統一の野望を果たそうとしている。新羅をも従わせようとしている今、太宗皇帝が、高句麗より百済を先にと矛先を変えてくることは充分あり得ることの様に思えた。

 

任那を切り取っただけでなく、唐の臣国である新羅ごと従わせようとするウィジャ王のことを太宗皇帝が捨てて置くとも思えず、

 

任那を餌に金一族を使って、新羅を我が物にしようとする企みを躊躇せざるを得なかった。

 

 

 

 

【唐国・李勣将軍】

高句麗では、攻め込んだ李勣将軍が南蘇城を攻め落とし、その先の木底城を攻めていた。

 

 

【挿絵表示】

李勣将軍

 

李勣将軍は、唐の最強軍団から選び抜かれた精鋭を率い、少数精鋭ならではの機動力に優れた局地戦を展開していく。それは、碁石で地目を一手一手囲んでいく様に、難航不落の城だけを孤立させ、周囲の弱い所から徐々に攻め落とし、唐の陣地で囲んでいくという戦略だった。高句麗は焦土作戦で、隋軍を孤立させたことがあったが、まるでその逆をいく様な手である。

 

平壌城にいたイリは、兵を率いてこれを迎撃しに向かった。

 

李勣将軍とイリはここで対峙するが、李勣将軍の動きは早く、イリが着く頃には既に木底城を攻め落とした後で、激突を避け直ぐに兵を引き挙げていったので、イリは、平壌へ戻っていった。

 

 

李勣は敵わず、

 

「イリを破ることができず、すぐに撤退した」、、

 

ように見えなくなかったが、攻め際も引き際もあまりに鮮やかであった。

 

城の攻略に、李勣が率いたのはたった三千人の精鋭兵で、奥地にあり戦慣れしていない両城を錐のような鋭さで襲撃しあっという間に攻め落としてしまった。

そして、他の城やイリの軍など強敵とは当たらずに、疾風のように去っていった。

 

先年の大戦とはうって変った小規模戦であったが、その極端に変貌した戦いぶりに高句麗の者は驚きを感じていた。

 

「唐軍は何故、こんなに山岳戦がうまいのだ。まるで以前からその城にいるようではないか、」と、

 

高句麗軍を呆れさせたほどだった。

 

 

647年7月、

 

二城を落とし、早々に唐へ引き上げてきた李勣将軍は、太宗皇帝に戦果を報告した。そして、少ない精鋭兵で少しづつ戦果をつみあげてく戦略に確かな手応えがあったことを上奏する。

 

李勣将軍の兵はたんなる精鋭兵というより、特殊強襲部隊、所謂『忍者部隊』と言った方が良いかもしれない。錐を刺すように侵入して、大混乱を起こし、風のように去る。一度、城を手にいれれば、煙幕をはり丸太を落とし火矢を浴びせ一切敵を近づけることがない。

 

 

「私はその昔、青雲の志を立て瓦崗寨という砦に立て籠もり隋軍と戦い撃ち破ったことがありましたので、高句麗の長白山脈の様な山岳戦の防衛は逆に得意でした。さればこそ、やはりここは大軍で攻めるに能わず、少数で少なく攻めやすい所から少しづつ切り崩していくしかないと思います。」

 

「山城は大軍で責めることができない上、大軍になればなるほど移動が困難となります。のろのろと進軍してくる敵に上から大木や岩石を落し、挙句の果てには峡谷や隘路の入り口と出口を塞ぎ火矢をかけ、敵は面白い様にみんな焼け死んでいきます。逆にこちらが攻める時は本当に少数の方が有利です。切り立つがけや、切通しなど、見た目の城は一つですが敵の防衛拠点はそこら中にあります。それを見極め走り抜け、こちらは獣道など見えない道を探して敵の裏をかき、一点に集中し錐のように差し込んで責めるのです」

 

、、「平地のように面で戦うのではなく、山岳戦は点と線だけで戦うというのだな。」

 

「さようでございます。しかし、こちらが線になって兵站が伸びると、たちまち高句麗の連中は山城から討って出てきます。逆に、高句麗の山城は線上に連続的に築かれていて戦略的な配置になっていますから、この線をたち切っていくしかありません。」

 

 

「そして、堅固な城は落ちないからといってむきになって攻めてはなりません。その城を取り囲むように周りの拠点をどんどん切り崩して行って孤立させるのです。その昔、漢の高祖劉邦でさえ強すぎる項羽には敵いませんでした。しかし、項羽の周囲りだけを切り崩して行って孤立させ四面楚歌に追い込み、最終的には項羽を射ち取りました。周りの奴らから殲滅していくのは時間がかかりますが、このやり方の方が確実かと思います。」

 

「そして、この場合の周りの奴らとは、新羅の者共が言う様に百済も含めた方が良いかもしれません。何卒、御一考願います。」

 

「・・・・」 太宗皇帝はしばらく無言でいた。

 

「百済も含め、」との、李勣の最後の言葉を考えている。

 

李勣は更に続け、

 

「陸戦は大軍で攻めるに能わず。天下の『壮』の様な険阻な千里の長城は、少数精鋭で機動力を活かして弱いところから刈り取るとして、一方で、海軍を増強し、制海権を握り、兵食料の輸送と確保を進めるべきです。」と

 

海軍増強を提案した。

 

「高句麗は長白山脈が横たわることによって、大陸から切り離された海洋国の如き国であれば、海に明るい者を用いて制海権を奪い海岸線から攻めとっていくのがよろしかろうと、、」

 

 

太宗皇帝は(海洋国の如きとは)との言い回しに呆れ、

 

「なるほど」と笑う、、

 

が、太宗皇帝は、なおも無言で考えこんでいた。

 

(李勣将軍は、万が一のことがあれば脅威となる)

 

 

太宗皇帝は、李勣将軍の懸案よりも、李勣将軍の自身の優れた洞察力や戦闘力に脅威を感じてしまっていた。

 

 

李勣将軍は隋末の反乱時、瓦崗寨で戦っていた頃も首領を凌ぎ軍を動かしていたが首領にとって代わろうとすることはせず、また瓦崗寨に魏公・李密が逃げてきた時も李密を立てて首領とし、李密が戦いの末唐に下るまで李密に従って戦い、共に唐に帰順してきた。

 

戦に強くとも、力任せに軍閥化しなかった勇者である。

 

太宗皇帝もその忠義心を認めて信頼してきた。しかし、

 

(李勣将軍は過ぎている)

 

忠義心だけでなく、民に対する心づかい、侠義心というよりも王者の君徳の様な慈愛も、李勣将軍は持ち合わせていることを太宗はしっている。

 

年老いて、自分の寿命が長くないことを悟り、太宗皇帝は李勣将軍の才を怖れはじめていた。

 

 

(李勣将軍は朕には忠義を尽くして従っているが、皇太子李治にも同様に忠誠を誓うだろうか、、)と、

 

李勣を太子府の最高責任者としながらもまだ、自分の死後の不安を払拭することはできなかった。危惧した太宗皇帝は、李勣を試すことにする。

 

突然、李勣を呼び出し

 

「畳州都督へ就け」と命じて、地方へ左遷した。

 

太宗は太子李治に対し、

 

「もし李勣がこの左遷に不満を持ち、任地へ行くことを渋るようであれば即座に殺せ。もし任地へと素直に赴くようであれば、お前が即位した後に中央に呼び戻してやれ。左遷者を登用する事は大恩であり、それにより恩に感じてお前に対して忠誠を尽くしてくれるだろう。」と言った。

 

李勣は太宗の疑いを察知して、この詔勅が出た後、家にも帰らずにその足で任地へと赴いていった。

 

後に、李治が即位すると李勣は直ぐに呼び戻され、宰相となった。

 

 

 

 

【イリ誕生秘話】

新羅は再度、唐へ使節を派遣した。表面上は冊封の礼使としてだが、もう一度百済への出兵を請う使節だった。

 

金春秋が、自ら人質となって和国を押さえている間に、なんとかして唐軍に動いて貰わなければならない。

 

新羅は、暦を唐の暦にし、元号を太和に改元するなど、更に深く唐への臣従の意をあらわしたが、唐の太宗皇帝の戦略には、新羅がどんなに請願してこようとも、百済攻めの選択肢はない。

 

勿論、和国との二面外交であろうことも伺え、新羅がへつらってきたところで、太宗皇帝はまだその出方を見据えていた。

 

調度この頃、李蹟とは別に高句麗に侵攻し南側を攻めていた唐軍、牛進達将軍(ウジン)が、遼東半島南の石城を攻め、ついで積利城を攻めとり凱旋してきた。

 

高句麗の表面を刈り取ったようなもので、決して大きな戦果ではないが、太宗皇帝はウジンの報告をきくと、李蹟将軍の勧める少数精鋭で枝葉を刈り取っていくような戦略に確信を持ち、李蹟の懸案を入れて海軍の増強にかかることにした。

 

軍船350艘の造船を命じて、新羅使節には

 

「共に高句麗攻めに参じろ」

と、命じる。

 

仕方なく、新羅の礼使らは、唐の百済出兵懇願をを諦め大人しく新羅へと帰国していった。

 

唐の援助が得られない事は更に決定的となり、独力で和国から金春秋を脱出させなければならなくなった。

 

困った金ユシンらは、いよいよ救援をイリに頼む。

 

唐軍の牛進達将軍(ウジン)も撤退した後であり、イリは後顧の憂いなく平壌から和国へと救出に向かった。

 

相変わらず、三国を好き勝手に出入りする。頃良く季節風も吹きはじめていた。

 

 

 

 

イリは和国に渡ると父・高向玄里を密かに尋ねた。

 

金春秋を入朝させるという手柄をたてた高向玄里だが、イリの激しい豪気の前で、高向はやや委縮している。老獪な政治家も老いはじめていた。

 

イリは挨拶などせずに、

 

おもむろに剣を抜き、母のことを問う。

 

「宝妃は、母ではないと言った。では、母は誰なのだ?」

 

高向玄里はたじろぎもせずに、

 

「父に刃を向けるのか」と、

 

視線だけをイリに向ける。

 

「お前は吾の父か。父というほどのことが記憶にはない。勝手に父親と名乗っているだけの男だろう」

 

とたたみかける。

 

「お前が父だと言うのならば、問う! 何故、俺は産まれた。俺の母親は誰なのだ」

 

高向は眉を少し動かし力なく答える。

 

「もう昔しのことだ。今更知らなくともよいこと。」

「ふざけるな! 牛や馬でも、母がいて、自分の母を知っている。知らなく良いはずがない」と怒気を放つイリ。

 

一瞬、イリの目を見据えた後、

 

高向は短い溜息をついて話し出した。

 

「母は、お前を産んですぐに亡くなった、その時に近くに居たのが宝妃であり、亡くなった妻に代わりお前の面倒をみて貰ったのだ。」

 

すると、「お前の妻は母と、もう一人宝妃だったということか」

 

「そうだ、お前の母は長安の門閥貴族の娘だった。私達が和国から留学生として派遣され隋の文化を学んでいた頃に知り合った。しかし隋が滅んでしまい唐の支配となると、私達留学生は拘留されてしまった。彼女の一族らは関隴集団という門閥勢力の中では傍系だったが、李淵の起兵に協力した武将と繋がり、唐建国に役立った存在であり、そんな私達を助けだして唐の世で生きる機会を与えてくれたのだった。その様な縁で私は彼女と頻回に会うようになり結ばれた。」

 

「私は彼女のおかげで、唐の実力者・長孫無忌氏とも知り合うことができて、やがて唐の極東政策に関わるようになり、高句麗の大臣になる為に唐を離れ、彼女と共に高句麗へと向かった。高句麗では榮耀王が没し、唐の擁立した栄留王が即位したばかりで、まだ政情は不安だった為、私は暫くの間政庁を収束させる為に必死だった。彼女はそんな時にお前を身ごもった、しかしその後、和国の上宮法王の暗殺で私は和国へ向かわなければならなかった。逆に私たちは、常に反唐派勢力から暗殺される危険があった為、私は身ごもった妻をそのまま高句麗に置いてゆく訳にはゆかずに共に和国へ向かうことにしたのだ。そして、旅立ちの日、港でお前を産み死んだのだ。」

 

イリは暫く、黙っていた。

 

自分を生んでくれた母に想いをたむけて、イリが心静かに祈っていると、不思議とどこからともなく香の馨りが流れてきた。

 

 

高向玄里は、イリの黙祷が終わるのをゆっくりと待って、金春秋がイリの息子法敏の面倒をみている様子を伝えた。

 

それを聞いたイリは、今後も息子・法敏(ボムミン)のことを頼みたいと言い、金春秋を必ず無事に新羅に脱出させることを約束した。そして、剣を収めて立ち去ろうとしたが、ふと、立ち止まり、

 

振り向きざまにもう一度剣を抜いた、、

 

 

 

「迎賓館の隠し通路があるはずだ。教えろ!」

 

「何故、それを、、?」

 

「迎賓館を建てた頃は、まだお前が和国の外交顧問をしていたはずだ。当たり前だろう、、金春秋を助けたければ今すぐ教えろ、、」

 

高向は躊躇うことなく隠し扉と逃げ道をイリに教えると、イリはその場を立った。

 

背を向けて歩き出したまま、

 

「吾が母の姓はなんと言う?」と最後に問うた。

 

 

 

「張氏、、」

 

 

内心、イリはもう高向の事を父とは思わなくなってきた。

 

時が経つにつれて、イリの風貌と体躯は高向のそれとはみるみる違ってきて、誰が見ても「親子」とは思わないほどかけ離れたものになってきている。高向に会う度に、イリはそれを感じて、

 

ホトトギスが、卵を別の鳥に託すように、

 

(吾は預けられたのか、、)と、

 

思うようになっていた。

 

それだけに、母のことが分かり、張氏という氏姓が確かにあったということだけでも有難たかった。

 

 

 

 

その後、

 

イリは全力をあげて、金春秋の救出に臨んだ。イリの配下、諜義府の間諜は和国に広がり、迎賓館の中にも手引きする者がいたので、イリは迎賓館に行き金春秋と会った。和国で身を守ることと無事に新羅に戻す手助けはするが、

 

「必ず法敏を後継者にするように」と金春秋に強く迫った。

 

金春秋は、是非もなくこれを受け入れ、

 

「必ず」と約束しイリとの脱出計画を図った。

 

イリは、金春秋に風邪の様な症状になる薬草を渡して、

 

「これで、病を装い伏せっているように」と、指示した。

 

金春秋は訝しんで、まず侍従に試してみた。汗が大量に出て発熱したよう見えたが、二日もすると汗はひき何事もなかったかの様になった。

翌日、金春秋が病に倒れたとの知らせがウィジャ王に伝えられ、薬師と見舞いが迎賓館にやってきた。金春秋もこれで暫くは和国滞在を続けるだろうと判断したウィジャ王は、ひとまず監視を緩めた。

 

その間、イリは大和から大海の里までの逃走路を確保し、また高向を通じ宝妃を動かして、ウィジャ王の意識を他へ向けた。

 

 

 

準備を終えると、イリは密かに和国の義弟に命じ、また北方の蝦夷兵の徴兵を行った。

 

以前、高向玄里が唐の手先として来和した折り、阿部氏は「親唐」の時勢に乗って、高向へ姫を嫁がせていた。そして高向との間には一男一女が生まれた。これより代々、和国の高向の子孫は「阿部姓」を名乗るようになっていく。

 

イリの義弟は阿部比羅夫(比羅夫=外交・外征を行うもの)といい、この頃は東北地方への備えである越国渟足柵を任されていた。イリは、この阿部比羅夫を越国渟足柵から北方へ使わして、高句麗の援軍集めに行かせ、集めた兵を越の国から高句麗の防衛戦線へと送りこませた。

 

イリはまだ面と向かって、ウィジャ王に盾突くことはないが、陰ではやりたい放題である。

 

もともと越国以東の裏日本、特に信濃(長野県)は、エフタルが渡来する以前から高句麗から日本列島に渡海した時の上陸後の拠点である。

 

高句麗・越国の航路には、既に数百年の歴史があり、イリが度々和国と高句麗を往来できるのもこの為である。

 

古くから高句麗人が多く住んでいて、大室(長野県長野市)には数百年前からの高句麗式古墳が並び、まるで高句麗の分国のようだった。

 

 

信濃は和国であって和国ではない。

 

 

更に、陸奥以北にはエフタル族の残党が住み、和国の者どもらは容易に北方に近づこうとはしない。

 

イリには、部族と呼べるほどの帰属集団がなかった為、エフタル族であるとか、和族であるとか、部族としての自意識がなく、その点、エフタル族にも何ら垣根意識は持っていない。

 

陸奥以北のエフタル族に、

 

「汝は何処の民であるか?」と問われれば、

 

 

「アジア人」と、だけ答えるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

金春秋は迎賓館でしばらく寝込んでいたが、

 

 

ある朝、

 

 

「金春秋が居なくなった!」

 

迎賓館の者が気付いた頃には跡形もない。

 

 

「王様!金春秋の姿が見えません!」

 

ウィジャ王が知ることになったのは、金春秋が無事に逃げた後で、いつ居なくなったのかさえ誰も分からなかった。すぐに追っ手を出すが、

 

この裏切りに激怒したウィジャ王は、

 

百済の義直将軍(ウィジェク)に

 

「いささかも容赦するな!」と、命じ

 

新羅に出撃させた。

 

 

 

647年10月、

 

束の間の和平は終わり、百済の義直将軍と、新羅の金ユシンが激突する。

 

 




あとがき…

『中国王朝も日本と朝鮮半島の関係を封印しようとしていた?』


全くの余談ですが、、


大陸側でも朝鮮半島と日本列島の 関係があったことが、好ましくはなかったというエピソードの一つに、李氏朝鮮の建国の逸話があるらしい。

1392年、

日本では足利尊氏が室町幕府を開き、中国では元が滅び明が建国された頃、

朝鮮半島も新しい時代へと変わった。

後三国時代、高句麗・新羅・百済三国に分裂していた朝鮮半島を李氏が統一して、李氏【朝鮮】が建国された。

この時、中国の冊封を受けた李氏が国号として願い出たのは

【朝鮮】と【和寧】

の二つだった。

しかし、【和寧】という国号は和国との繋がりを想起させる為宜しからずと却下されてしまい、【朝鮮】という国号になったという。

李氏朝鮮はその後、日清戦争で日本が勝利し大日本帝国に併合されるまで600年程続いた朝鮮半島最後の王朝となった。

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